月曜日
朝から雨が降っているせいで、全校集会は広い校庭では行われなかった。そのため二千人近い生徒が、体育館に押し込められることになる。暑苦しい、息苦しい、狭苦しい、週明けから気が滅入ることこの上ない。
いつもの学校。いつもの月曜日。
「私はですね、若い君たちが今何を考え、どのようにして生きているのか知りたいと常々思っているのであります」
校長の演説はいつものごとく、世界の終わりが来るまでよりも長い。
「最近の流行の歌を聴いているとですね。自分らしく、とか、ありのままでいい、とか、生きたいように生きろ、そういう歌詞が多いように感じます」
誰かは欠伸をした。
「自分らしく、ありのままに。大いに結構なことです。しかし君たちには今一度それを冷静に考えて欲しい。こういった歌は、自らの存在意義に悩み、義務と望みの相克に葛藤し、それでも尚頑張ろうとする人のための歌なのです」
誰かはこっそり携帯電話をいじりはじめた。
「他人を理解しようとせず、心を閉ざして自分勝手に振る舞うことを称揚する歌では、断じてないのです。君たちひとりひとりが、この社会で生きる一員であることを忘れてはなりません」
真面目に聴いている生徒は、多分ひとりもいなかっただろう。
教室に戻って最初の授業が始まる直前、俺は視界の片隅で、相川志保を捉えていた。
切れ長の美しい目を細めながら、クラスメイト数人と談笑している。鈴の音のような笑い声が教室にこだました。
際だった美女ではない。しかし出会った男子はだいたい好感を抱くだろう。隣の席の佐々木曰く、「このくそみたいなクラスで唯一かわいい子」らしい。
「おっす」佐々木がやって来た。「眠い。昨日遅くまでサッカーの試合観てたからよ」
「ああ、おはよう」
「梅雨ってあとどれくらいで終わるの? まじうざくね」
「知らない」
遠くの席から、再び相川たちの笑い声が聞こえた。
彼女の席の周りには、いつも人が集まってくる。その女子たちの集まりの中に、ひとりだけ山崎君という男子が混じっていた。かなり陽気なやつで、男女関係なく様々な連中と話を弾ませるタイプだ。
この距離ではよく聞こえないが、山崎君が何か冗談を言ったらしく、相川は脚を組み替えながら、にこにこしている。
雨降りの月曜日。あの席の周りだけ陽光が照っているみたいだ。
「あいつ、うざくね」佐々木が山崎君を指さしながら、俺に同意を求めてきた。「いっつも女子とべたべたしてるよな」
「ああ、うん」
「あいつ、これからシカトしようぜ」佐々木の声はいつも大きい。「みんなで、なあ」
陽の当たるあの場所を、俺は遠くから見ることしかできない。
「おい、あれ」
男子のひとりが、教室の入り口を見て言った。
真っ黒な髪の女が立っていた。談笑していた女子生徒は泣き、どこからともなく異教の呪文が聞こえはじめ、遙か遠くの住宅街で老婆が心臓発作を起こして死んだ。
栗山冴子の登場だ。
相川志保に常に陽光が照っているならば、冴子の頭上には常に暗雲とスモッグがたちこめている。
肌が雪のように白く滑らかだが、どう贔屓目に見てもこの女の美点はそれしかない。マジだぜ、マジで褒められるのはそれだけだ。
ギョロッとした大きな目が、教室中を睨め付けた。
「貞子じゃん」佐々木が言った。「あいつ、お前の知り合いだったよな」
「小学校から一緒だった。それだけだよ」
俺は学友たちの輪を抜け出すと、彼女の前へと歩み寄った。
「なんだよ」
「まあ聞きなさい」冴子は言う。「すごいものを見つけたわ。昼休みに例の場所へ来てちょうだい」
「はあ?」
「待ってるわ」
彼女は自分の教室のある方向へ戻っていった。遠くからでは、本当に幽霊が空中浮遊しているように見える。昔から陰気な女だ。彼女と較べれば墓場がパーティ会場に見える。
「例の場所」とは、学校における冴子の唯一の居場所だ。この高校には、滅多に使われない旧校舎がある。狭い階段を降りていくと、そこには誰も知らない地下室があるのだ。どういうわけか冴子はそこの鍵を手に入れており、昼休みなどの避難場所として使っている。
結局昼休みになった。初めは行かないつもりだったが、「すごいもの」と言われると気になってしまうのが性である。俺は弁当を食べ終わると、旧校舎へ向かった。
途中、雨宿りできるベンチにて、数人の女子たちが仲睦まじくにこやかに会話を弾ませている。
「英語の鈴木先生、シャツの首あたりに、肌色の粉が付いてたんだけど。あれって絶対ファンデーションだよね」
「自分で塗ってるのかな。キモくない?」
「絶対そうだよ。あんな臭いオヤジに抱きつく人なんかいるわけないじゃん」
旧校舎に入り、暗く狭い階段を降りると、元は白かったはずが茶色に変色したドアがある。以前彼女から伝えられたとおり、特殊なリズムでノックする。しばらくするとガチャリと音がして、扉が開いた。扉の向こうは薄暗く、闇の中から白い顔が浮かび上がってきた。
「待ってたわ」
「怖ええよ。もっと明るく出迎えろよ」
「入って」
俺が中へ入ると、冴子は扉をそっと閉めて鍵をかけた。照明は天井から吊られた剥き出しの電球のみ、コンクリートで周囲を固められた殺風景な部屋だ。埃を被ったダンボールの山、何に使うかわからない古い機材などが山ほど置かれている。用済みになったものが放り込まれ、そのまま忘れ去られた部屋なのだ。
今が雨季だと考慮しても、この地下室の湿気は異常だ。老朽化のせいか知らないが、壁の一部が壊れて水漏れしており、床の一部にはいつもちょろちょろと小さい水流ができていた。おそらく近くの川の水が入り込んでいる。
部屋の一番奥に、ダンボールや古いキャビネットなどのがらくたを積み上げた巨大な山がある。それは意図せずして塀となって、囲いをかたち作っていた。
「あの囲いの中、見てちょうだい」
「何があるんだよ?」
「ミミズよ」
「なんでわざわざそんなものを」
「ただのミミズじゃないわ」冴子は俺を見た。「こんな生き物見たことある?」
俺はがらくたに足を引っかけながら塀をよじ登った。頂上に着くと四つん這いになって、囲いを見下ろす。そして思わず、「あっ」と声を上げてしまった。
囲いの中にいるのは異様な生物だった。
冴子はミミズと言ったが、果たしてそう呼ぶべきか疑わしい。手足がなく、身体中が体節で分かれている以外、ミミズとの共通点はない。なにしろ大きさが人間の腕くらいはある。黒ずんだ茶色の体表には、緑色の血管がいくつも浮き上がり、しっとりとぬめ光って、びくびくと脈打っている。
ゆっくりと蠕動して動くと、床には透明な跡が残った。全身から何かの粘液を分泌し、それがこびりついているのだ。
見ているだけで悪寒を呼ぶ生き物だが、さらに気持ち悪いのは頭だ。全身が均等に細長い身体だが、頭部だけ逞しくえらが張り出している。眼はなく、頭部の中心に細長い割れ目があった。それは大きな口だった。ねちゃりと音をたてながら開かれた裂け目の中には、針のような鋭い歯が何十本も生えそろっている。
こんなのがミミズなわけがない。茶色の体表とコントラストをなすように、口の中だけが鮮やかなピンク色だった。なぜかそれが言いようもなくおぞましかった。
冴子もいつの間にか登ってきており、俺と同じくミミズを見下ろしていた。
「エイリアンの生まれたてにそっくりだと思わない?」
彼女が言っているのは、映画の『エイリアン』ことだ。あの映画の前半、人間に寄生した怪物が胸を突き破って生まれるシーンを、冴子は愛しているのだった。
「おい、こんなのどうするつもりだよ」
「飼うわ」冴子は爛々と眼を輝かせた。「ここで私が育てる」
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