第4話

 二ヵ月も経つとここの居方もわかってきた。

朝食は起きてすぐ、カウンターの中だったりキッチンだったりだ。

パンだったり米だったり色々だ。

昼食は休憩中のお客がいない時を見計らってテーブルだったりもする。

パスタだったりスープだったりアルジは色んな料理を作れると知った。

夜は遅く、風呂やらが終わってからだった。


「──アルジ?」


 濡れた髪のまま二階から階段を下りている時、けたたましい音が耳に入った。

割れる音はキッチンからで、覗くとアルジがしゃがんでいた。

割れたガラスの欠片が見えた。


「……ああ、ごめん。落としちゃった」


 女に化けているアルジは浮かない顔をしていて、ふと俺はその額に触れた。


「……ふふっ、人間だね」


 しまったと後悔する。

男でも女でもアルジは化けているだけの化け物だ。


 俺はまだアルジの本当の姿を見た事はない。


「……片付けるから座ってて」


 外は大雨、どしゃ降りの音が『Doe』を包む。

足を組んだアルジが俺を見ていた。


 アルジはお喋りだ。

でも語らない。

だから俺は知らない。


「……昨日の夜、あんたの種類だったな」


 夜中になる前に来た客で、何かはわからなかったが俺のナニカがそれを知らせた。


「ああ、終わりの挨拶に来ただけよ」


 いわば常連というそれ──客は、季節の変わり目に跋扈ばっこするのだという。

春から夏になる今、人間じゃないものが蔓延はびこるらしい。

人間の隙を突きにだ。

グラスの欠片を集める。


「あのさ──」


 俺はずっと聞きたかった事がある。


「──化け物って、何食うの?」


 全身に寒気が走った。

アルジが俺の後ろ首を掴んだからだ。

背中を向けるんじゃなかった。

しかし、痛くはない。


「……人を食った事もあるよ」


 狩って、殺して、食う。

アルジの声は極々静かだった。

読み聞かせのように音を語る。


「百からは数えていないが僕はそうして保ってきた。でもねグレイ、人は美味しくないんだ。美味しい物を食べてるはずなのにねぇ」


 どんな顔なのか見えない。

でもその影は見えた。

ゆらりと揺れて形を変えていく。

人間ではない形は冷や汗を呼んだ。


 化け物──獣。


「食べる事に飽き飽きしてた頃にね、力を持った人間に殺されそうになった事があったの。ああ、私ってそういう存在なんだあって涙も出なかった。逆を言えば僕も人間はそういう存在だからお互い様だね」


 化け物にとって人間は、化け物。


「……アルジは俺が、怖い?」


 俺はグラスの欠片を見たまま問う。


「……ええ、怖いわ」


 アルジの声が男、女と代わり変わる。


「怖がらないのが、怖いよ」


 ばれていた。

俺は怖がってなんかいなかった。

ただ、やっとで本物のアルジが見れると好奇心の方が勝っていた。

俺は何の力もない。

あるのは腕力くらいだ。


 俺はアルジの腕を掴んで振り向いた。

グラスの欠片がまた床にりんりんと落ちる。

黒い色はそのままで、クリームソーダみたいな瞳もそのままのアルジは人間の形をしていなかった。


「……でっかぁ」


 掴んでいた腕もそれに化わっていく。

アルジは俺を見つめたまま語る。

アルジとこの店と今は亡き先代の話──怪我を負った化け物は最期に人間の美味しいを食べようと思った。

そしてこの店の人間は化け物と知った上で迎えたのだという。

アルジが化け物と知った上で、先代は助けたのだという。


「……猫?」


 うんと言うようにアルジはにゃあと鳴く。

俺よりも大きい黒い体は猫そのもので、二本の尻尾がゆっくりと動いている。

お互いしゃがんだ状態で見つめ合う。


「……俺、嬉しかったよ。あんたがここに居ていいって言った時」


 未だに素性も名前もアルジは聞かない。

どこかの『Doe』──グレイの呼び名はもう落ち着いていた。


「アルジの事、怖くねぇよ」


 おそらくこの時期、季節の変わり目にアルジの種類はこうなるのだと思う。

化け物の力が抑えきれずに化けの皮が剥がれてしまうのではないかと俺は仮説を立てた。


「まぁ……たまには被り物、外せば?」


 化け物の姿でいていいよ。

誰も見てない。

誰も、俺と先代以外は見てない。

だから休んでくれ。


 誰かも誰かも、この店で休むように、休んでくれ。


「……お?」


 頭にのっしりと太い前足が乗せられた。

グレイアッシュの髪をわしゃりと撫でてきた。

ここに居た分、アルジと一緒に過ごした分、俺の髪の根本は黒くなってきた。

俺もアルジの毛を撫でた。

猫のそれのように柔らかく、顎の下を撫でるとごろろと鳴いた。


 外のどしゃ降りの雨はまだ続く。

一瞬の雷の光に目を閉じた時、アルジは戻った。

いや、また化けた。

見慣れた人間の男のアルジの顔が至近距離にある。

まだ頭は撫でられたままだった。


「グレイは良い子だね」


「……餌付け成功なだけだろ」


 先代から続く方法。

先代からアルジ、アルジから俺に。

俺の次は、まだいない。


「それとグレイ、僕の嫌いなものを教えておくね」


「は?」


 僕は雨と雷が嫌いなんだ、とまた一撃落ちた雷に驚いたアルジはひいと俺にしがみついてきたのだった。

どうやら化けの皮は意外と簡単に剥げるらしい。

そんな事より俺は腹が減った飯、とアルジを引き剥がした。

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