第32話 後藤絵里、帰還(?)

「……り、エリ!! 起きなさい!」

 ドアの向こうから聞こえてくる母の声に、エリは目を覚ました。

 月のように丸い電灯がついた白い天井に、カレンダーやポストカードを飾った壁。教科書や参考書が並んだ本棚に机。とても懐かしく、親しみがある……そう、ここは、日本にある後藤ごとう絵里えりの部屋だ。

「絵里、入るわよ〜」

 ノック音がして、母が入ってきた。

「あら、な〜んだ、起きてるじゃない。早く着替えて朝ご飯を食べなさい。学校に遅れるわよ」 

 母は、この場に絵里がいることなど、当たり前のように言った。

「え……私、今まで何してたんだっけ?」

 絵里えりが母に尋ねると、呆れたように言った。

「何言ってるの、いつもどおり昨日も学校から帰ってきて普通に寝ていたでしょ。……変な夢でも見たの?」

 夢、か…………。

 絵里は、壁のハンガーにかかった高校の制服を不思議な気分で眺めた。

 ずいぶんと長い夢を見ていたようだ。自分が車に轢かれて、異世界へ聖女として召喚されて、崇められたと思ったらピンチに陥って。まるであの子の好きな小説のような……。

 ――あの子、って誰?

 絵里は部屋を見回す。部屋には、学習机やベッドはひとつだけ。教科書や私物も、自分のものしか置いていない。自分の部屋だから当たり前のはずなのに、どうも部屋が広くなったような気がする。

「……ねえ。うち、もう一人いなかったっけ?」

「何言ってるのよ、絵里は一人っ子でしょう?」

 母は不思議そうに首を傾げる。

「え……? あっ、そうだよね……?」

「絵里、本当に大丈夫? 今日は学校休んだら?」

 母は心配そうに絵里の顔を覗き込んだ。

「……ううん、大丈夫だよ。どこも悪くないから……」

 制服に着替えてからリビングに行くと、父は、のんびりとコーヒーを飲んでいた。

「お父さん、急がなくていいの?」

 思わず口をついた言葉に、父は不思議そうに応えた。

「いや、まだ会社に行くまでに時間はあるよ?」

「えっ、大学病院に行くんじゃ」

「何年前の話をしてるんだ? 父さんはもう医者は辞めて、ゆったりできるサラリーマンになったじゃないか」

 毎朝、もっとバタバタと忙しく、父がこんなにのんびりしている姿を、絵里はずっと見ていないような気がしたのだが。……そういえば、母がエプロンをつけて朝ご飯を並べているのも珍しい気がする。

「お母さんは今日の仕事は?」

「何言ってるの、母さんはずっと家にいるじゃないの」

 絵里は面食らってしまった。……なんだか、変だ。

「どうしたんだい、絵里は」

「朝からずっとこんな調子なのよ」

「遊びすぎて疲れたんじゃないのか〜? 友達と遊ぶのは良いけど、ほどほどにね」

 どうにも違和感が拭えないが、笑う両親をこれ以上問い詰める気持ちになれず、絵里はそのままおとなしく温かい朝食を食べ、学校へと向かうことにした。

 

 学校までの道は足が自然と覚えていて、難なくたどり着くと、友達がいつもどおりに接してきた。

「絵里、おはよ〜!」

「昨日のムカキンの動画見た〜?」

 昨日の話をされると、絵里は言葉に詰まってしまった。

「……なんか、昨日ずっと寝てたみたいであんまり覚えてないんだよね……」

「え、何それ〜やば〜」

 友達はおかしそうに笑った。

 そのまま朝のホームルームから授業、昼休みに午後の授業、と学校での1日は滞りなく過ぎてゆき、あっという間に放課後になった。

「ねえ、みんなで買い物行こーよ!」

「あー、あたし今日は部活のミーティングあるから行けないわ……」

「え、そーなの? 絵里は?」

 友達からの誘いに、絵里の口からぽろりと言葉がこぼれる。

「ごめん、私は病院に……」

 病院、という単語に友達は目を丸くした。

「え? 絵里、どっか悪いの?」

「……? あれ、なんで病院行こうと思ったんだっけ……」

 絵里は至って健康だった。病院に用事など無いはずだ。それなのに、放課後のチャイムが鳴った瞬間に真っ先に頭に浮かんだのは、大東亜病院の病室だった。……何故、大学病院に行こうと思ったのだろう?

「もう何言ってんの? 用事ないなら遊びに行こ!」

「う、うん」

 友達に誘われるまま、絵里はショッピングモールへ向かった。

 巨大で明るくて新しいショッピングモール。

 賑わう店に楽しそうな人々を見ながら、絵里は、ふとルームウェア売り場に目を留めた。

「あ、これモデルのマキちゃんが着てたやつだ、かわいい〜」

 雑誌でも人気のブランドのルームウェアが並ぶ。その中で、絵里はひとつの商品に目が釘付けになっていた。

 それは、シンプルながらリボンやちいさなレースがあしらわれた、可愛らしい、ピンクと水色のパジャマだった。

「……ピンクじゃなくて、水色の、パジャマ」

 立ち止まってしまった絵里に、友達が不思議そうに声を掛ける。

「え、絵里、パジャマほしいの?」

「ううん、欲しがっていたのは私じゃなくて……」

 絵里の頭の中に、ひとりの少女の姿が浮かぶ。

「……アスカ? アスカはどこに行ったの!?」

 絵里が、妹の名前を読んだ途端。一陣の風が吹き、友達の姿も、ショッピングモールの光景も一気に搔き消えてしまった。

 

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