第18話 エリの責任

「聖女様、ご無事でございましたか!?」

 大神官ヨハネスは、エリのもとに慌てて駆けつけた。エリは、スカーレットの治療室で、彼女の傷を癒そうと、力を使っているところだった。

 最初は恐ろしい場面に遭遇した聖女を休ませようと、神官戦士が彼女を別室へ運ぼうとしたのだが、ハロルドがスカーレットに駆け寄る姿が見えたときに、自分が何とかしなくてはと立ち上がり、スカーレットの治癒に取り掛かったのだという。

 内心、ヨハネスは驚いていた。異世界からやってきた子どもに、そこまでの精神力をヨハネスはちっとも期待してはいなかったのだ。

「私は大丈夫です。それよりもスカーレットが……スカーレットは、まっすぐ家に帰ろうとしていたんです。それを私が引き止めて、一緒にお茶に誘ったりしたからいけなかったんです……私がスカーレットを誘わなければ、刺されるのは私だけでした。なんの関係もない彼女をひどい目に合わせてしまいました。あの子が恨んでいたのは私だけだったのに。私のせいです、だから、だから……」

 ヨハネスは眉をひそめる。聖女はかなり消耗しているようだが、スカーレットの刺し傷はなかなか治らない。聖女とともに治癒の現場にいた神官戦士いわく、何か、異教徒の呪いが込められているらしい。しかし、スカーレットの負傷は正直なところヨハネスにはどうでもいい。それよりも、だ。

「聖女様、あまりスカーレット様お一人のために力を使いすぎては、お勤めに差し障りが出てしまいます」

 万人のためにあるべき聖女が、令嬢一人の治癒にかまけているなど由々しき事態である。

 ヨハネスの言葉にエリは憤って反論した。

「じゃあ、放っておけって言うんですか!?」

「……ここからは、フェトラ王国よりすぐりの医師たちにお任せしましょう。スカーレット様は十分治療費を払えるお方ですから」

「でも、スカーレットは私のせいで、怪我をしたんです……だから、私がやらなくちゃ……」

 まだ逡巡している様子のエリにヨハネスは肩に手を置いて言った。

「罪のない無力な民をお見捨てになるおつもりですか?」

 言われて、エリはぐっと言葉に詰まる。ヨハネスの手は重かった。お前の肩にかかっている命はもっと重いのだと、言われているようだった。

 そうか、自分ひとりに多くの民の命がかかっているということは、自分の想いを通せないということなのだ、とエリは初めて気がついた。

「……脈はあります。幸い、致命傷は免れております。あとは医師に任せましょう。そうご心配なさらずともよろしい。……しかし、スカーレット様が生死の境を彷徨うのは、これで二度目でございますな。お気の毒に。宰相殿も気が気でないでしょう」

「2度目……?」

 エリが尋ねるとヨハネスは顎を撫でながらうなずいた。

「ええ。1か月前に、乗馬の稽古中に馬が暴れて落馬されたことがありましてね。頭を打って意識を喪ってしまわれ、3日ほどお目覚めにならなかったのです。医師たちの尽力あってか、奇跡的に回復いたしまして。ご無事で何よりだったのですが……やはり頭を打ったせいか、記憶が混濁されてしまったようでしてね。どうも精神的に幼くなってしまったようで、一度はご了承された婚約破棄の件を、やはり納得できないと話を蒸し返したり、ご家族ご友人に対して急によそよそしくなされたり……まあ何はともあれ、スカーレット様は運の強いお方でいらっしゃる! きっと大丈夫でございますよ。聖女様にはより多くの民を救うことを考えていただきたい!」

 ヨハネスは笑顔でエリを鼓舞する。エリはその言葉に少し考えて、尋ねた。

「ヨハネスさん……もしも、私がこの先たとえば病気になって寝込んでしまったりしたら、その日のお勤めはどうやって」

「ご心配には及びませぬ。女神の器たる聖女様は、奇跡の力がある限り、病にかかることはございません。もっとも、力を消耗しているとその間は元気がなくなるようですが。少し休んで体力を回復すれば何の問題もありません」

「そうなんですか……あの、この先もし、私が元の世界に帰ることになったら、どうなるのでしょうか」

「聖女エリーゼさま」

 ヨハネスは、大きな手でエリの手を包み込んだ。

「……どうか、悪く思わないでいただきたい。あなたの力はこの国の希望。あなたがいなければ民は再び苦しみ死ぬことになります。あなたの、故郷に帰りたいという気持ちと無数の民の命……どちらを優先するべきか、わからぬお方ではありませんよね?」

 ヨハネスは笑顔を貼り付けたまま、ギュウギュウとエリの手を握る力を強める。エリは逃れようと身体を捻っても、ヨハネスの手を振りほどくことができなかった。

「それに結婚すれば生家に帰れないのはあなた様だけではございません。嫁入りした女は、実家のことは忘れ、嫁ぎ先のために身を尽くす。結婚するということはそういうことでございます」

「わ、わかりました、わかりましたから離してください」

 エリが言うと、ヨハネスはようやく手を離した。握られていた手がまだじんじんと痺れて痛い。恐怖を感じるエリに、ヨハネスはにこりと微笑んだ。

「わかりますよ、聖女様はスカーレット様に力を使いすぎて少しお疲れになっただけなのですよね。誰しも、疲れているときには妙な考えを起こしてしまうもの。どうぞ、お気になさらずに。おつとめを始める前に少しお休みになるのがよろしいかと思います」

「……はい、わかりました…………」

 エリはもうそれ以上ヨハネスに何か言うのがおそろしくなって、逃げるように治癒室をあとにした。眠っているスカーレットの方を、何度も振り返りながら。


「……おいおい、聖女さまァ。集中してくれよ」

 治癒していた男に言われてエリはハッと顔をあげた。階段から落ちて怪我をしたと言ってきた赤ら顔の男だ。酒臭く、今も少し酔っ払っているように見える。確かに男の指摘通り、エリの治癒は途中で止まってしまっていた。

「ごめんなさい、すぐやりなおします」

「はぁ……まったくよぉ、いいご身分だよなあ聖女様ってのはよお!」

 男がいきなりダン、と足を踏み鳴らしたのでエリは怯えた。

「いいか? あんたみたいなよそ者の小娘を聖女様と奉ってるのも、アンタの生活を維持するために税金をとられるのを我慢しているのも、あんたが奇跡の力で治癒ができるからだよ。おつとめをきちんと果たしてくれなきゃあ困るよなぁ!? ええ!?」

「だ、だからごめんなさい、もう一度やります、から……」

 しかし男の威嚇に怯えてしまったエリは、うまく力を使うことができなかった。

 男はイライラして、もういいよ、と投げやりに言った。

「あーあ! 聖女さまがおつとめをきちんとやってくれなかったせいで俺の手は痛いままだ! 明日からの仕事に困るなぁ。なんのために税金おさめてやってんだかなぁ?」

「す、すみません、ごめんなさい……」

「ごめんで済んだら神官戦士団は要らねえんだよ!」

「聖女様、そろそろ次の者をお呼びしても……おい、何をしているんだ、お前!」

 エリの様子を見に来た男性神官が、エリににじり寄っている男を見咎め、声を荒らげた。

 男は、チッと舌打ちをすると、すごすごと出ていく。わざとらしく、ああ痛い痛いとぶつくさ言って手を押さえながら、部屋をあとにした。

「聖女様、もう今日はお休みになられますか? 今待っている者達も、緊急を要するような怪我や病気の者はおりませんから」

「……じゃあ最初から重症な人だけにしてよ……」

「はっ? 何かおっしゃいましたか?」

「……すみません、何でもないです。今日はもう休ませてください……」

 エリの言葉に彼はうなずき、外で待っている民たちに、今日の聖女のおつとめは終わりにすることを告げる。

 不平不満の声は部屋の中にいるエリの耳にまで届いた。「せっかく並んでたのに」「何だよ聖女の都合でおしまいって」「治癒ができなきゃあんな小娘ただの税金泥棒じゃねえか」「あ~あ、この痛む手で家事と育児をしなきゃならないのかね」などなど……。

 エリはそれらの声を聞かないように、耳を塞いで眼をつむった。

 聖女とは一体何なのだろう。最初は自分の力で多くの人が救えることに喜びと誇りを感じていたが、自分が一番気にかかる人を集中して治癒してやることはできず、少し調子が悪いとこんなふうに責め立てられる。身に覚えのない恨みを、外国の子供から向けられる。エリは暗澹たる思いだった。

「……聖女殿、大丈夫か」

 ふと、声をかけられて、エリが顔をあげると、ハロルドが眉根を寄せてこちらを見下ろしている。彼なりに心配してくれている表情なのだとエリにはわかった。

「……すみません、わたしがちゃんと治癒できなかったから、みんなを怒らせてしまいました……」

「恩知らずな奴らだな。……だが、民とは身勝手で、時に残酷なものだ。いちいち気にしていたら身がもたないぞ。……とにかく、今日は無理せずにもう休んだほうがいい。あなたも大変だっただろう」

 不器用ながらエリを気遣うハロルドの言葉は、今のエリには染みた。視界がぼやけて頬に温かいものが流れる。数秒後、エリは自分が涙を流していたことに気がついた。

「ハロルド様……わたし、もう無理です……最初は、みんなのために頑張るつもりでした。いきなりの結婚話も、たぶんあなたは自分のことよりもみんなを守るためにするんだ、ってことだけはわかったから、協力するつもりでした……でも、等しくみんなを守るなんて神様みたいなこと、私にはできない……聖女をやるのも、あなたと結婚するのも、もう怖い……こんなことだったら、前のほうがまだマシだった……」

「前?」

「え? あ……?」

『違う!カラメルが入ったプリンはイヤだって言ったじゃん! 前は食べてたのにって? 今日はそういう気分じゃないの!』

『ねえ、早く身体起こしてくれない?』

『えーこのパジャマの色イヤだ〜。水色に変えてきてよ』

 突如、脳裏に蘇る、小さな女の子の声。

 エリは、ズキンと頭がいたんで、こめかみを手で抑えた。

 今のは、元の世界の記憶だろうか?

 あの子が、カシムが言っていたエリの妹なのだろうか?

「どうされたのだ聖女殿」

「前の世界のこと、思い出しそうな気がして……すみません、前の世界のこと思い出したら、迷惑ですよね」

「……いや、忘れなくていい」

「えっ……」 エリは思わずハロルドの顔を見上げた。

「大切な家族や友人のことだろう。忘れなくて、全然いい」

 ハロルドの言葉に、エリは胸が熱くなった。

「ありがとうございます、ハロルド様……」

「……とにかく、今日はゆっくり休んでくれ。部屋の前まで送ろう。立てるか?」

「……はい、立てます。大丈夫です」

 ハロルドとエリが歩きはじめる。

 歩きながら、エリとハロルドはぽつぽつと話し始めた。

「聖女殿。恐ろしい思いをさせてすまなかったな」

 ハロルドはエリを労るように言った。

「いえ、ハロルド様のせいではありません。……あの子、わたしを狙ったって言っていました」

「ああ、聞いている。本人がそう話していたらしい」

「あの子はどうなるんですか?」

「聖女暗殺を企てたのだ。死刑にするほかあるまい。本人も覚悟の上だそうだからな」

「え……」

「とうに捨てた命だ、フェトラの魔女……あ、いや、聖女殿は彼らからすれば、神聖フェトラの力を与える『魔女』らしい……とにかくあなたを倒すためなら自分の命など惜しくはないと言ってな」

「そんな……あんな小さな子が?」

エリは困惑してしまう。まだ幼い彼女が何故そこまで駆り立てられるのか。

「調べたところ、彼女はトルキアの民ではなかったらしい」

「えっ」

「あの子どもは、トルキアと神聖フェトラ王国の間にある、聖地イェラルの民だった。前【さき】の戦で捕虜を連れ帰る折りに、ドサクサに紛れて捕虜のふりをしてこの国に潜伏して、じっと機会を伺っていたらしい……私の落ち度なんだ。あなたに恐ろしい思いをさせたのも、スカーレットに怪我をさせてしまったのも、元をたとれば私が悪いのだ」

 申し訳ない、とハロルドが頭を下げる。エリは慌てて、顔を上げてくれるようハロルドに頼んだ。

「しかし妙ですねぇ」

 突然、ぬっとヨハネスが廊下の影から現れて、エリは飛び上がりそうになった。

「何が妙なのだ、ヨハネス」

 対してハロルドは落ち着き払った声で尋ねる。ヨハネスがいきなり現れるのは、どうやらハロルドにとっては日常茶飯事のようだ。

「いえ……ただの戯れ言にございますれば、捨て置きください、殿下」

「なんだ、言いたいことがあるならはっきり言え」

「ははっ、これはあくまで一つの疑問ですが……なぜ、スカーレット様は聖女様の暗殺を未然に防ぐことができたのでしょう? なぜ幸いにも、致命傷を免れることができたのでしょうね? 偉大なるユーフェリア処女神のご加護、で片付けて良いものかどうか……」

 ヨハネスの大仰な態度に、エリとハロルドは眉根を寄せた。

「あの、何が言いたいんですか……? まさか、スカーレットがわざと私を庇ったとでも? そんなわけ無いでしょう」

「くだらんな」

 一蹴されて、ヨハネスは肩をすくめてフフフと笑った。

「ええ、ええ。わたくしも馬鹿げた考えだとは思います。……ただ、聖女様。今後スカーレット様がご回復されたおり、命の恩人だからと彼女の意見を聞き入れすぎると、要らぬ憶測をしてくるものが、少なくはないかと思われます。どうかお気をつけなさいませ……」

「こんなところで油を売っている暇があるなら、スカーレットの回復のために尽力してくれないか、ヨハネス。お前だって回復魔法がまったく使えないわけではないのだろう」

「それが、宰相殿に、娘に近づくなと脅されてしまいましてね。医師たちに治療をさせるから神官は手を出すなと……しかし、たしかに私にできることが残っていることも事実。か弱き令嬢のご回復を女神に祈ることと致しましょう。ハロルド様と聖女様に置かれましてはどうぞ仲睦まじくしていただきますよう……」

「くどい。さっさと行け」

 ハロルドがそう言うとヨハネスは大人しくなって、スタスタと教会に向かっていった。

「……悪いな、聖女殿。あの者はあの者で、一応国のことを考えてはいるのだ。宰相と対立しているのは頭が痛いが……」

「あ、はい……」

 正直なところ、エリはヨハネスのことが少し怖くなっている。しかし、ハロルドの言葉を聞いて、あまり避けすぎてはいけないのかな、と思うほどには、エリはハロルドを信頼するようになっていた。

 スカーレットがわざと刺されたなど、馬鹿らしいにも程がある。……けれど、たしかに自分はスカーレットに恨まれていてもおかしくはない、という思いが、エリの胸中にはあった。仲良くなりたいと思っているのは自分だけ。スカーレットはもしかしたら本当は、自分を殺したいほど憎んでいるのかもしれない……そんな不穏な考えが止まらなくなってしまう。

「聖女殿」

 ハロルドの澄んだ声が聞こえて、エリははっとした。

「寝付くのは難しいだろうが、今日はどうか心と身体を休めていただきたい。疲れると、ふと嫌な考えが鎌首をもたげてくるものだ。だから今夜は考え事をしない方がいい。……では、おやすみ。女神ユーフェリアの加護があらんことを」

 そう言ってハロルドは、エリの部屋の前で一礼すると、帰っていった。もっと一緒にいてほしい、とエリは少し思ったが、言い出せずに「おやすみなさい」と返したのだった。

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