グリーンスリーブス:願いの代償

瀬場拓郎

第1話 願いの代償

「助けて下さい、呪われてしまったのです」

「呪われた?」


 その女、ブラックバローのコヨーテは椅子に座った目の前の娘を見た。年齢は十代後半から二十代前半だろうか。美しく艶やかな金色の長髪、美しい顔立ち、白い肌、豊かな胸、自分が男だったらこんな娘はまず放ってはおかない。彼女のために二、三人の血が流されたとしても「まぁ、そうだろうな」と納得してしまうだろう。


「あなたはバラミア王国に名だたる高名なグリーンスリーブスだと存じます。どうか私を助けて頂けませんか?」


 確かにコヨーテはグリーンスリーブスだった。報酬と引き換えに薬を処方して病気を治す薬師。その病気の範疇には『呪い』も含まれている。


「高名かどうかは分からんがね」


 コヨーテはパイプ煙草を吹かして言った。娘は煙の臭いに思わず顔をしかめる。


「それで、お前さんの名前は?」

「鹿です」

「あん?」


 カン、とコヨーテはパイプ煙草の灰を壺の中へ落とした。


「鹿がどうした? まさかそれが名前ってわけじゃないだろう。グリーンスリーブスじゃあるまいし、アッシュフォルデンのオオジカは一人で十分だ」

「私に名前はありません。私は鹿です。呪いで人間の姿に変えられてしまったのです。コヨーテ様、森の貴婦人が眷属たるグリーンスリーブス様、どうか私を元に戻してはくれませんか?」

「はーん……」


 コヨーテはため息をついて天井を仰いだ。


 娘がコヨーテの家に現れたのは、彼女が朝食を終えて治療目録の複写に取り掛かろうとした時だった。玄関がノックされ、開けて見ると娘がいたのだ。

 若い娘がブラックバローの森の中へ一人で入って来るとは思えない。この森には既に忘れられかけている妖精や怪物が、奥深くでまだ息づいているのだ。

 コヨーテは娘の付き人を探したが、娘は一人で来たという。


 そういうわけで話は冒頭へ戻る。

 コヨーテはまず娘の精神状態を疑った。だが見る限り娘の健康状態に問題は無かった。顔色はいいし、姿勢もしっかりしている。酒を飲んでいる様子も無いし、薬物を使用している様子も無かった。麦角菌による中毒も考えられたが、痙攣は見られなかったし指先に変色もない。


 あるいは統合失調症かもしれん。そうなると厄介だな……。


「何か自分を鹿だと証明する根拠はあるか? 鹿と話せるとか、鹿の知り合いを連れてくるとか」

「証明ですか?」


 娘は困ったような顔をしたが、すぐに首を横に振った。


「わかりません」


 そのときコヨーテは娘の異常に気が付いた。娘には上顎の前歯が無かったのだ。


「待て、口を開けろ」


 娘の歯を見る。上顎は門歯がなく歯の合計は三十四本。人間ならば親知らずを含めても三十二本程度しかない。

 診断に早合点は禁物だ。先天的な奇形の症状かも知れない。

 コヨーテは自室へ入って、古い動物図鑑に鹿の歯式に関する記述を当たった。項目はすぐに見つかった。鹿の歯式は上0・1・3・3・、下3・1・3・3の三十四本。これは娘の歯式とぴったり符合する。

 コヨーテは娘のもとへ戻る。


「お前さんは鹿かも知れん」と、コヨーテは言った。「だがそうなると難しいな。魔女にカエルに変えられたという話は単なるおとぎ話として、俺は実際に石像になる呪いをかけられた男や、姿を怪物に変えられた女は診たことがある。だが人間に変えられた鹿は初めてだ」


 コヨーテは安楽椅子へ腰かける。


「インデックス(治療目録)を漁ってはみるが、あれは基本的に人間用だからな」

「呪いを解けますか?」

「わからん。ところでこれは個人的な質問なんだが、どうして鹿に戻りたいんだ?」

「それは私が鹿だからです」と、娘は答えた。

「あなただって鹿に変えられたら人間に戻りたいと思うでしょう?」

「ふーん、まぁ、そんなもんかもしれんな」


 コヨーテは顎をさすって鹿を見た。さっきまで普通の娘と思っていた生き物だが、もしかすると先ほどの歯を始め、細かいところで変異が及んでいない箇所があるのかもしれない。まずはその辺りを手掛かりに呪いを解く手掛かりを探ろう。


「ところでお前さん、グリーンスリーブスに依頼するからには金は持って来たか?」


 グリーンスリーブスは慈善事業ではない。治療に見合う対価が無ければ、基本的に仕事はしない。とはいえ、それは人間に限った話だ。妖精や動物相手に金をとろうなどとは思わなかったし、コヨーテ自身も期待していなかった。

 だが予想に反して娘は鞄からはち切れんばかりの、ずっしりと重い布袋を差し出した。受け取って検めると、袋の中には銀貨と銅貨がぎっしりと詰まっていた。机の上に出して数えてみると銀貨と銅貨、合わせて五ポンド七十シリング、ちょっとした財産だ。


「おいおい! どうしたんだ、こんな大金! 強盗でもやったのか!」


 コヨーテが驚いてたずねると、娘を巡って争った男から貰ったという。


「もう少し詳しく話せ」


 コヨーテは窓の外を覗く。今頃この金を取り戻しに誰かが追って来ているかもしれない。


 娘が語るところによれば人間になった娘は近くの村で保護され、そこでしばらく畑仕事や雑用をやりながら暮らしていたのだが、娘の美しい容姿に見ほれた男が一人二人三人四人、同時に結婚を申し出た。

 家族をも巻き込んだ侃々諤々の話し合いはついには決闘沙汰になって、二人が殺され、残る二人の男が相打ちになって全滅した。各々が決闘の際に持ち寄った持参金は全て娘の物となり、この不吉な結末に娘は村を追い出されたのだという。


「まぁ、そうだろうな」と、コヨーテは納得した。

「その村の年老いたお婆さんに、ブラックバローのコヨーテの話を聞いたのです」

「ふむ」


 コヨーテは娘の金を元の袋に収めた。呪われている、謝礼の金もある。断る理由がない。ここに契約は成立した。


「いいだろう。ベッドは右側の部屋だ。二つあるが好きなのを使え」

「あの……できれば納屋で寝かせて欲しいのですが」

「だめだ。ここにいる限りは俺の指示に従ってもらう。それとこいつに着替えろ。臭うぞ」


 入院患者用の部屋着を娘に渡し、部屋へと追いやる。



「それで呪いをかけられたのはいつの話だ?」


 コヨーテは再び娘を椅子に座らせ、自分は安楽椅子に腰かけながら質問した。


「わかりません」娘は首を傾げた。「その、そもそも時間というものが分かってきたのは近くの話で」

「最近か」

「ええ」

「だいたいでいい。答えられるか?」

「昨日の昨日の昨日の昨日の……」

「もういい、わかった」


 コヨーテは右手を上げて娘を制止する。


「それじゃ呪いをかけられた場所は分かるか?」

「はい」


 娘が自信たっぷりに答えた。


「あっちです!」と、娘は南の方向を指さす。

「はぁ」


 コヨーテは頭を抱えた。


 結局、あれこれと質問してみたが娘にかけられた呪いについてそれ以上の情報は得られなかった。自室に引っ込んだコヨーテは、暑さ六インチ(約十四センチ)にも達するインデックスから呪いに関する項目を引く。


「声を失う……じゃない。体が臭くなる? でもない……」


 日が沈むまで手当たり次第にページを捲ったところ、体の一部が怪物になってしまうケースはままあっても、全身が別な動物に変えられたケースは見当たらないという事実だった。

 インデックスは各種病変の代表的な症例を編纂した書物だ。グリーンスリーブスが人生をかけて編纂し、受け継がれるそれは千年以上の重みがある。

 そのインデックスをして、症例が無い。


「うーん、カエルに変えられた王子の話はよく聞くが所詮は童話の中の話か?」


 それともやはり精神病を疑うべきなのだろうか?

 その方が話は簡単だが、するとあの歯式の一致の説明がつかない。

 他のグリーンスリーブスにセカンド・オピニオンを求めるべきか。

 コヨーテの持っているインデックスが、グリーンスリーブスの知識の全てではない。七カ国で構成されるスケルタール連邦には、コヨーテのようなグリーンスリーブスがあちこちの森に隠れ住んでいる。

 土地が異なれば、そこで発生する病や呪いも異なる。もしかすると、全身を別な動物に変異させられた呪いの症例も見つかるかもしれなかった。

 いや、安易に人に頼るのはよくない。幸い娘の呪いは命に関わるものでは無さそうだし、同胞に頼るのは最後の手段でいいだろう。

 コヨーテは目頭を軽く揉んだ。外はもう夕暮れだ。そろそろ夕食の準備をしよう。

 あの娘はどうしているだろうか。部屋の物に触らなければ好きにしててくれとはいったものの……そもそも娘では呼びにくいな。かといって自称する通り鹿と言うのもな。何か適当な名前を考えるか。

 そう考えつつ自室のドアを開けると、娘は玄関の向こうで地面に顔を近づけていた。

 何をやっているのかと近づくと、娘は地面に青々と生えている草をもしゃもしゃと食べていた。


 翌日。

 馬車がゴトゴトと小気味よい音を立てて街道を進む。馬車には天蓋が無かったが、幸いにして今日の天気は快晴だった。降り注ぐ日光が気持ちよい。

 コヨーテは、グリーンスリーブス(緑の袖)の名の通り、薬草で染めた緑色のコートを着て馬車に揺られていた。

 娘が本当に呪いで人間の姿に変えられたのなら、娘に呪いをかけた相手がいるはずだ。その動機は何だろう? 何か恨みでもあったのだろうか。

鹿を人間に変えて召使にでもするつもりだったのかもしれない。そうすると、娘をそのまま放っておくのは変だ。実験にしたって事後処理が甘すぎる。鹿を人間に変えられる呪術者がいると知れたら、政府を始め黙っていない連中も多い。

 現にコヨーテが追跡を始めている。


「ディアラ」


 コヨーテは一緒に荷馬車で揺られる娘に呼びかけた。取り合えず鹿(ディア)の後ろに女性っぽくAを付けてディアラと呼ぶことにしたのだ。

 ディアラは荷馬車の後ろから、去り行く景色をじっと不思議そうに眺めるばかりで、コヨーテの方を向かない。


「おい」


 足で小突いてようやくディアラは気付く。


「本当にこの道で合ってるんだろうな?」


 コヨーテがたずねると「間違いありません!」とディアラは自信満々に声を張り上げる。


 結局、呪いを解く目途の立たなかったコヨーテは、ディアラが呪いをかけられた場所を知っているという一点に望みをかけて、駄賃を払って馬車に飛び乗ったのだ。


「お前、本当に呪いをかけられた場所を知ってるんだよな?」

「あっち!」


 ディアラは南を元気よく指さした。しかし馬車は東へ向かっているのだ。それを指摘すると「でも私、この道を通って来たんです」と言い張る。


 まぁいい。金はたっぷりとあるんだ。無駄骨に終わっても赤字にはなるまい。


 コヨーテは場所の角に肘をついて、しばし眠りを貪ることにした。

 その後、二人はバラミア王国中央の要所、ブラウン・レイへ到着し、馬車を乗り換えて南へ伸びるデルシア街道をひた走った。

 一行は途中で馬車を止めて食事とトイレ休憩を挟み、ディアラは文字通り道草を食べていた。唖然とする馬車の主に「あいつは病気なんだ」と言い訳しつつ、東へ伸びる街道で別れを告げた。川辺で一晩野営を行い、朝になると橋を渡ってリナーフォロー地方へと足を踏み入れた。


「あっ! あそこです!」


 ディアラが遠くの森を指した。


「私、あそこで暮らしてたんです! それで呪いをかけられたんです!」

「やれやれ、ようやくたどり着いたか」


 その森はコヨーテの住むブラックバローよりも小さかったが、古い原生林のようだった。手前の方は近くに住んでいるらしい村人たちが薪や山菜を物色した痕跡が見て取れたが、ディアラに連れられてブナやオークが茂る中へ足を踏み入れると、空気が変わるのを感じた。

 昼間だというのに薄暗く、木々の発する青々強い香りに混じって、古い木材が腐ったような臭いがする。シダ類の茂った地面の土は、焼け焦げたように黒く肥沃さを感じさせた。


 コヨーテは静かに気を引き締める。確証はないが、強い力を持つ何かが潜んでいても不思議では無かった。

 そんな中を、ディアラは無警戒に、むしろ楽し気に森の奥へ進み、ついには「ここです!」森のある一点を指し示した。


 それは石で出来た小さな祠だった。四角錐の屋根に四つの柱と土台からなっている。誰も手入れをしていないのか、表面を苔が這い、その上を蔦が覆っていた。


「ここで私は呪いをかけられたんです」


 コヨーテは祠に近づき、近くから見る。


「何かを祀っていたようだが………」

「あの」


 突然、低い男の声が後ろから聞こえた。

 コヨーテは素早く懐から散弾銃を抜いて後ろへ向けた。そこには一頭の鹿がいた。頭に立派な角を付けた牡鹿だった。

 素早く周囲を見回す。この近くにいる生き物は、コヨーテとディアラ以外はこの牡鹿しかいなかった。


「驚かないで話を聞いて下さい」


 牡鹿がしゃべった。


「驚くな? そいつはちょっと無理ってもんだ。だが話なら聞いてやるぜ。お前は何者だ?」

「僕は、僕は人間だったのです」

「名前は?」

「エドワード」

「いい名前だ。エドって呼んでやるぜ。さーて、エド。お前さんはどうしてそんなナリになったんだ?」


 エドはこの森の近くに住むしがない農民であった。

 あるとき彼が森へ薪へ取りに行ったところ、彼の目に何とも美しい女鹿が飛び込んできたではないか。

 それは彼が見たものの中で一番美しい生き物だった。女鹿は彼が見ている前で華麗に身をひるがえして森の奥へと消えていった。森の奥には恐ろしい精霊がいると言い伝えられていたし、事実、誰も足を踏み入れようとしなかったので彼はしばらく立ち尽くした後で薪を拾って家に帰るしかなかった。


 だが彼の脳裏には、あの美しい女鹿の影が付いて回った。それでとうとう女鹿を探して森の奥へ踏み込んでしまったのだ。

 だが結局、女鹿には会えずに日も暮れてしまい、エドは森を出て行こうとしたが歩いても歩いても森を抜けることが出来ない。


 どうした人間。


 そこへ声が聞こえた。男の声とも女の声ともつかず、子供とも大人とも老人ともつかなかった。エドは腰を抜かして近くのオークにしがみ付き、ただ震えていた。


 怖がるな怖がるな、私はお前の願いを叶えようとしているのだ。


「ね、願いだって?」


 そうさ……お前はあの女鹿が欲しいのだろう?


 エドの脳裏に、あの美しく森を駆ける女鹿が閃いた。すると体に勇気が湧いてきて、オークから体を離し、空へ向かって叫んだ。


「そうだ! 僕はあの女鹿にもう一度会いたい! 彼女を人間にして欲しい!」


 ふふふ、よかろう、よかろう。



「それで気が付いたらこの姿に………」


 エドはしょんぼりとして座り込んだ。既にコヨーテは警戒を解いて散弾銃を仕舞い彼の横にある木の幹に座り込んでいる。その隣にはディアラが立っていた。


「精霊に遊ばれたな。奴らの叶える願いは等価交換、ディアラを人間にした代わりにお前さんを鹿の姿に変えたんだ。そうやって、人間の運命を翻弄してからかうのが奴らの楽しみなのさ」

「僕はどうしたら」

「パン食べるか?」


 コヨーテがパンを差し出すと、エドは歯を剥いて食べ始めた。前歯がある。人間の歯だ。


「ありがとうございます。鹿にはなったんですが、何でか草が食べられなくて」

「内臓の変異が不完全だったんだろ」


 とはいえ、生き物の姿をここまで変異させる時点で、この森の精霊は凄まじい力を持っていることが伺えた。正体はわからないが、準備も無しにまともにやり合っても無事では済まなそうだ。


「この近くの住人は森の奥へ踏み込まないと言ったな」

「はい」

「精霊はどんな奴か分かるか?」

「さぁ、言い伝えにはえらく力があって、気まぐれに悪さをする奴だとか聞きました。それにこの森の奥へ入って、無事に帰れる者もおりますが、中には帰ってこなかったりしたものもたくさんあって、結局は何か分かりませんが、おっかない何かがいるということだけしか分かりません」

「うーん」


 精霊は気まぐれだ。呼びかけたとして答えてくれるだろうか。


「それより試してみたいことがある」と、コヨーテは立ち上がった。「童話ではこうした変異は、二人の愛の力で治ると書いてある。伝承もあながち間違いではないかもしれん。二人ともキスしてみてくれ」

「キス?」


 ディアラが首を傾げる。


「唇と唇をくっつけることだ。いいからやってみろ」


 ディアラとエドの二人は、というより一人と一頭は恐る恐る顔を近づけて口づけをした。


「………」

「………」

「………」


 何も起こらない。


「いったいどうして」というエドに「愛が無かったからかな」と、コヨーテが言った。


 エドが項垂れる。


「まぁ、会ったばかりだ。仕方がない」


 しかし、こうなったら精霊に直談判するしかない。


 召喚魔術の類はさっぱりなんだが。


「ディアラ、この森に清浄な泉はあるか? 何かの本に、泉に硬貨を投げ入れて精霊を呼び出す話を読んだことがある。試してみよう」

「ん」


 ディアラは祠の隣、太いオークの木の向こうを指さした。コヨーテは気が付かなかったが、そこにはコヨーテが言った通りの丸く小さい、水の清浄な泉があって、そこには穏やかな日の光と水を飲む鳥たちがいた。

 森全体を覆う息苦しいまでの魔力も、泉の近くではどこか楽に感じた。


「さて、上手くいくだろうか」


 コヨーテは泉の縁に佇んで、一ペンス銅貨を投げ入れた。


 反応がない。


「ふん」


 鼻を鳴らして今度は一シリング銀貨を投げ入れた。


 反応がない。


「ちっ」


 舌打ちして一ポンド金貨を投げ入れる。


 すると一陣の風が吹き、泉に射していた太陽は薄暗く曇って、水鳥たちは空に飛び去った。

 泉の表面が渦を巻き、やがてそこから人間の子供のような大きさの、腐った材木を組み合わせて人の形に整えたような化け物が姿を現した。


 我を呼び出したのはお前か。


 空から声が降ってくる。


「そうだ。俺はグリーンスリーブス、ブラックバローのコヨーテ」


 グリーンスリーブス、森の貴婦人の眷属か。ふっふっふっ、会うのは六世紀ぶりだな。我はこの森の精霊、かつてこの地を呪われし獣が闊歩していた頃より住まうものなり。


「最近、人間を鹿に、鹿を人間に変えたな? どうかこの二人を戻して欲しい」


 否、否、それを望んだのはそこな人間なり。あらゆる願いには、常に代償が付きまとう。


 そう言って精霊はひぇっ、ひぇっ、ひぇっ、と笑った。


「誰もこんなことは望んでいない。二人を元に戻せ。それで等価交換は成立する。全ては元に戻る」


 精霊の好意を無下にする。それすなわち、我への冒涜なり。容易には承服できぬ。


 精霊は言った。しかしその言葉には、人をばかにしたような雰囲気もある。


 くそっ、完全に遊んでやがる。


 しかし筋を通せば交渉は可能なはずだ。

 何か、何か材料はないか?


「おい精霊、お前が来たのは来たのは一ポンド金貨を投げ入れたからだな?」


 そうだ、欲深いグリーンスリーブス。


「なら、残り一シリング一ペンス分、交渉の余地があるはずだ」


 我の好意を一シリング一ペンス分の価値しかないとするか、グリーンスリーブス。だがその度胸に免じて条件を出そう。グリーンスリーブスにちなんだ条件だ。受けるかどうかはお前次第。


「言え」


 毒草をそこな娘か、鹿か、どちらかに飲ませろ。どちらか一方の魂をもって、貴様の願いを叶えてやろう。


「そんな、どちらかは死ぬってことじゃないですか!」


 エドが言葉をコヨーテが制する。


「毒草の種類は?」


 コヨーテがたずねる。


 ベラドンナ………。


「いいだろう」


 コヨーテは承諾した。


「ええ!」


 驚くエドをよそに、木々がざわめき、森のあちこちから大量のリスが現れて、コヨーテの足元に、森のあちこちから取ってきたのだろうベラドンナの黒い実を、山のように積んでいく。誰がどう見ても致死量だ。


 食え、食え。


 精霊がさも楽しそうに言った。

 コヨーテはベラドンナの実を両手ですくう。


「ぼ、僕が食べます!」


 健気に叫ぶエドを無視して、コヨーテはベラドンナをディアラの前に突き出す。


「ディアラ、食え」


 ディアラは一瞬、怪訝な顔をして、それから人に慣れた鹿がやるようにコヨーテの手から直接ベラドンナを食べ始めた。


「ああ………」


 エドがうずくまってしまった。


 やはり、やはり、選んだのは鹿か。


 嘲るように精霊が笑う。

 ベラドンナは中枢神経に作用する毒草だ。摂取すれば幻覚を見て、錯乱し、ついには呼吸困難を起こして昏睡状態となり、そのまま死亡する。


 しかしディアラには一向にそんな症状が出る様子は無くケロリとしている。


 どうした、どうした。何かしたか、グリーンスリーブス。


「俺は何もしていない。やったのはお前だ」と、コヨーテが言った。

「ベラドンナは鳥類、鹿、ウサギには作用しない。お前が起こした変異は外見を変化させたが消化器官までには変異が及んでいなかった。だからディアラは何ともないのだ」


 ぐおおお……ぐおおお……。


 精霊が悔し気にうなる。


「グリーンスリーブス相手に、毒と薬の勝負を持ちかけたお前の負けだ。さぁ、二人にかけた変異を解け!」


 コヨーテが精霊に言い放つと「あ、待ってください」と、エドが前に進み出た。


「変異を解くのは、ディアラだけにして下さい」

「何を」


 するとエドはコヨーテの方を向いて「私はディアラを人間にしようとして失敗しました。ならば私が鹿になればよいのです」と言う。


「馬鹿な。お前の消化器官は人間のものだ。森の中で暮らせば、長くはないぞ」

「承知の上です」


 コヨーテはディアラの方を向く。


「ディアラ、こいつはこんなことを言っているが」

「私は鹿に戻れれば言うことはありません。鹿に戻れれば、結婚でも何でもしてあげます」


 うーん……ま、俺の依頼人はディアラだしな。エドがそうしたいなら無理止める権利はない。


 コヨーテはそう考えて「エド、最後にもう一度聞く。本当にいいんだな?」と問う。


「はい」


 エドは迷いのない返事をする。


 人間はわからん。


 精霊は再び泉の中へ沈んで見えなくなり、直後にディアラは「うっ」と悶えだしたかと思えば、来ている衣服を引きちぎって、あっという間に女鹿の姿へと戻った。


 すらりとしたシルエット、輝くように美しい毛並み、なるほど、エドが熱を上げるだけある美しい鹿だった。


「それじゃあ」


 そう言ってエドはディアラと共に森の奥へと歩き去って行った。



その後、二人がどんな風に暮らしたかはコヨーテの知るところではない。ただ、コヨーテ自身はその近辺で狩猟された鹿を生涯、決して口にすることは無かったという。


グリーンスリーブス:願いの代償 END


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グリーンスリーブス:願いの代償 瀬場拓郎 @sebataku

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