ペトリコール

睡眠中毒

第1話

 雨が降り始めてからの数分間だけ、辺りから漂う土埃とか植物とかそういうのを全部引っくるめたようなあの匂い。

 あの匂いに名前がついていることを知ったとき、私は世界に失望した。

 確か中学三年のときだったと思う。あの匂いはもしかして自分しか分かっていないんじゃないかと思ってネットで調べてしまったのが運のつきだった。私と同じような匂いを感じている人が沢山いた。もうその時点であの匂いは私だけのものではなくなってしまった。

 それに加え、画面にはご丁寧にも「ペトリコール」なんていうあの匂いの名前まで乗っかっていた。そんなことで普通落ち込むかという人もいるだろうが、あの頃のメルヘンな私にとっては失望するのに十分な出来事だったのだ。

 私にとって、あの匂いに名前をつけることは感性とか自然とかに対する冒涜のように感じたのだ。自然という無秩序な状態の中で我々人間が生かさせてもらっているからには我々は自然の息吹を無抵抗に享受すべきだ。もっと漠然とした形ではあったが、あの頃の私はそう考えていたのだった。

 


 

 私は十歳くらいの頃から油絵教室に通っていた。

 今となってはどのような経緯で通っていたのかは覚えていないが、私は自分から何かをやりたいと思うタイプではないから多分親に無理矢理連れていかされたのだと思う。

 両親はどうせすぐやめることになるだろうと思っていたらしいが、その予想に反して私は油絵にのめり込んでいった。

 既にこの世に存在する物体だけでなく、私の心の中にあるぼんやりとした思いでさえもキャンバスは明確に映し出してくれた。私は油絵を描くとき、世界を自分の手の中に収めている気分になれた。キャンバスの中には自分が創造主として支配している世界が広がっている。その快感は他のものでは味わえないほどのものだった。

  

 彼と出会ったのは高一の時だった。

 私はその頃も油絵教室に入り浸って絵を描いていた。油絵教室には自分より上手い人なんていなかったし、これからもいないと思っていたから、新しくこの油絵教室にきた彼のことを最初は気づかなかった。しかも私は油絵を描きはじめると周りが見えなくなるタイプだったからなおさらだった。

 それ故に私が彼のことを知ったのは、帰り道での友達との会話からだった。

 ねえ、あの子かっこよくない?ほら、最近来た中三くらいの男の子。肌が白くて二重で顔が超小さくてさあ、と彼女は熱を帯びて喋っていた。

 私は油絵教室に来てまで男子を観察しているという事実にぎょっとしながらも、いや、むしろその方が普通かと納得した。

 わかる、あの子格好いいよね、LINEとか交換したいよね、ほんとモデルみたいだったよね、と私は出来るだけ自然に会話を続けた。

 勿論、私は彼のことなんて知るはずもなかった。それでもそんなことで会話に水を差すのは面倒くさかったし、知ってるふりをする方がうまくいくと、賢明な私はすでに心得ていたのだった。

 

 次の日、油絵教室の扉を開け、油絵特有の鼻につく匂いを思いっきり吸い込んで教室の中を見ると、その男の子と思われる子がすでにキャンバスの前に座っていた。確かに、綺麗な顔をしている。睫毛も私より長そうだ。モテるだろうなあ、と思いつつちょっとした好奇心で彼のキャンバスをちらりと見て、私はぎょっとした。

 キャンバスの一面に広がっているのは無秩序な世界だった。

 明確な意思を持たない、色。

 それが積み重なって世界を作り上げていた。人の手を越えて、まるで色そのものが蠢いて作り上げたような世界だった。

 私が今まで描いてきたものは所詮、この世の秩序を描いたに過ぎなかったのだ、私が無我の境地で世界の姿を映し出したと思ったものも自分の中にあるぼんやりとした感覚を描いたと思ったものも、結局それはキャンバスへの発露の際に自覚なしに秩序化されたものだったのだ。

 あの雨降りの匂いに名前をつけるにことに憤りを覚えた自分が恥ずかしくなった。私はそんなやつらと何も変わらないじゃないか。彼らは、言葉で世界を秩序化していたのに対して、私は絵を通して世界を秩序化していただけだ。私の胸にそんな思いが突き刺さった。


 私はその日、何も描くことができなかった。自分の今までの傲慢さを恥じ、それでも彼の作品のようなものを描けない自分を恥じた。それと共に私の心は彼のことで一杯になった。恋のようなものではなく、羨望にも似た好意が私の胸を蝕んでいった。


 愛や親切心が時には人を傷つけてしまうように、他人に向けた感情というのはそれがプラスの感情であろうともいつ逆流するか分からない。

 私の胸を巣喰う感情は次第に私を狂わせていった。彼への好意は次第に彼を支配してやりたい、彼の無秩序な世界を壊してやりたいという感情に変わっていった。彼のような人間を私の勝手で秩序化してしまうことは、一線を越えてしまっている。私の心には確かにそんな罪悪感があったものの、それは暴走しきった私の心のブレーキにはなり得なかった。


 私は彼の作品を見てから一週間ぶりに、油絵教室を訪れた。奇妙なほどに舞い上がっていた。鼓動が加速する。教室のいつものつんとした匂いでさえも私を昂らせた。

 私はキャンバスを張っている彼の姿を認めると、静かに彼に近づいていった。

 ちょっといいかな、と私は出来るだけ平静を装って彼に声をかけた。脈の音が頭の中に響き渡って自分が話している言葉でさえ定かではない。彼は少し怪訝な顔をしてその端正な顔を私に向けた。

 私をモデルに書いてほしいんだけど、と私は早口で言った。彼の顔が一気に曇るのがわかった。彼はその一言で、私が彼の絵を、というよりは彼自身を変えようとしているのがわかったのだった。人を描くという行為において、無我の境地で描くことは限りなく不可能だった。例え、自らがそう書こうと望んだとしても、他の物体と異なり、モデルの人からの自我ー視線のちょっとした動きであったり、緊張がもたらす身体のちょっとした変化ーというものが強烈に流入してくる。その流入によって描き手も無我ではいられなくなる。キャンバスに広がる世界は色そのものではなく、人間が作り出した世界に変化するのだ。それはもはや無秩序な世界ではない。

 彼は私に救いを求めるよう目を向けてきた。私は、そんな彼の目を見て身震いしそうになった。それは、彼にそんな目をさせてしまったという罪悪感に起因したものというよりも、彼の世界の生死を私が握っているような快感に起因したものだった。

 彼の無言の懇願に私は全く応じるつもりはなかった。彼は私の悪意が揺るぎないものだとわかると、静かに頷いたのだった。

 座って、と彼は華奢な声を振り絞るように発すると、私は近くにあった椅子を取って座った。あれだけ頭の中に鳴り響いていた脈の音はいつの間にか消え失せ、私は幸福感に包まれていた。

 

 彼が私を書き終わったあと、私は絵画教室をやめた。それは自分の才能のなさを認めたからでもあったが、私を書いてしまってから変わってしまったであろう彼の作品を見たくない気持ちもあったからだと思う。いや、見たくないというより興味がなくなったという言葉の方が正確かもしれない。いずれにせよ、私は最近まで彼が何をしているかなんて知らなかったのだった。

 私が彼について少し知る機会を得たのはつい最近のことだった。私が受験勉強にうんざりして外をぶらついていたとき、私に彼のことを教えてくれた例の友人にばったり出会ったのだ。彼女は私の姿を見つけると、懐かしそうに私に近づいてきた。

 久しぶり、なんか雰囲気変わったね、ちょっと大人っぽくなった?最近、例のあの子とはどうしてるの?、と彼女は言った。私は予想外の質問に咄嗟に反応できなかった。

 あの子?、と私が返すと、

 ほら、あなたが告白みたいなことしたイケメンのあの子よ、あなたがやめたあとにすぐあの子もやめちゃったから。折角私もあの子を狙おうと思ってたのに、と楽しそうに答えた。私はびっくりして何も返すことができなかった。

 彼が絵をやめてしまったということはあまり想像したくない出来事だった。私はその事実を飲み込んだ瞬間、猛烈な罪悪感に襲われた。自分の勝手で彼の人生を壊してしまった自分を恥じた。一体彼はいまどこにいるんだろう、私は彼に謝りたい気分になった。しかし勿論、そんなことはできるはずもないし、謝っても取り返しのつかないものだということはわかっていた。私の中には、彼のあの救いを求めるような顔が、鮮烈に刻まれた。

 雨がぽつぽつと降り始めていた。ペトリコールとかいうあの匂いが次第に辺りを包んでいった。

 

 

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ペトリコール 睡眠中毒 @houstonastros

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