歌う器

増田朋美

歌う器

朝から、よく晴れた天気で、いつまでもこんな天気が続いてくれればいいなと思われる、天気だった。まあ、いずれにしても、パリの郊外は、気ぜわしい日本の大都市に比べると、どこかのんびりしていて、もしかすると、杉ちゃんみたいな人には、暮らしやすいのかもしれない。

杉ちゃんは、せんぽくんと勝手にあだ名を付けているチボー君と一緒に、まちなかにある百貨店に買い物に行った。こういうまちなかであっても、日本の大都会のような、忙しそうに無表情で歩く人がどこにもおらず、みんな、喋ったり、鼻歌歌ったりしているところが、違うんだと思う。この百貨店、中には欧米人向きに、変えてある食品も有るが、日本食を専門的に扱っているコーナーが有るところが、杉ちゃんたちにはありがたいのだった。納豆も豆腐もあるし、つまみ用の枝豆も売っている。そういう日本ではかげのうすい食べ物と言われるものが、大々的に売られているのが、やっぱりここは外国だなと感じさせるところでも有る。とりあえず、日本食のコーナーに行って、水穂さんに食べさせるためのそば粉と納豆を買って、最後にパン屋さんに行って、バゲットを一本買って、杉ちゃんたちは、百貨店をあとにした。帰りの道中、杉ちゃんは、いい匂いがするなあと食いしん坊なセリフを言っていた。

それと同時に、モー厶家では、客用寝室で水穂さんが静かに眠っている。ちなみに薬の成分も有るのか、こっちへ来ると水穂さんは、日本にいる以上によく眠るのであり、倒れるということは少なかった。マークさんもトラーも、それは良かったと納得していた。その日、杉ちゃんが買い物に出ている間、マークさんたちは、新しい雇用形態の打ち合わせをしていた。

「いやあ、シズさんがうちを手伝ってくれるなんて、ほっといたしました。僕も、仕事が忙しいので、水穂さんのことをちゃんと世話してくれる人がいないのは、不安になっていました。」

と、マークさんはにこやかに笑った。シズさんと呼ばれた髪の白くなったおばあさんは、よろしくおねがいしますと言って、頭を下げた。

「いいえ、この歳で、人の役に立てるなんて、思いもしませんでしたよ。よろしくおねがいします。」

と、シズさんがいう。確かに、シズさんの年齢では、どこかの企業で働くのは難しいだろうが、それだけではなくもう一つ理由があった。それは、水穂さんにも共通するかもしれないが、いずれにしても、人前ではなかなかいえない理由でもあった。

「じゃあ、今日から早速、家を手伝ってもらいましょうか。僕も、今日は朝から予定がありましてね。水穂さん、今眠っていますけど、ご飯を食べさせてやってください。」

マークさんは、シズさんに行った。

「あたしも、シズさんのお手伝いしていいかしら。」

妹のトラーがそういうことを言い出した。今までずっと外出しないで閉じこもっていたトラーも、最近は水穂さんの世話をするようになったので、少し良かったとマークさんは思うのだった。

「じゃあ、早速、朝ごはん作って、食べてもらいましょうか。」

シズさんは、椅子から立ち上がって、台所に行った。からだを強調させたデザインのシャツに足首まで有る長いスカートを履いたシズさんは、明らかに、トラーたちとは、服装が違っていた。もし、シズさんが白いフリル付きのエプロンをつけたら、本当にテレビゲームに出てきそうなメイドさんの格好になるかもしれない。トラーも立ち上がって、シズさんを手伝うようになった。包丁を持った経験のなかった彼女は、杉ちゃんに切り方が違うとか怒られていたこともあったが、最近はシズさんの指導の元、だいぶ、包丁さばきがうまくなっている。シズさんたちはシチューを作っていた。マークさんは、時間になったので行ってくるよ、と言って仕事にでかけていった。

シチューができると、シズさんはバゲットと一緒に器にもり、水穂さんのいる客用寝室に行った。それと同時にトラーもついていく。水穂さんは、まだ眠っていたが、トラーがそっと、揺すって起こすと、静かに目を覚ました。

「おはよう水穂。」

「お、おはようございます。」

トラーに言われて、水穂さんは布団に起きようとしたが、そのままでいいわとトラーはそれを止めた。

「どうしたんですか。なんでシズさんまで?」

と、水穂さんがきくと、

「今日から、シズさんがうちの手伝いをすることになったの。日本語で言ったら、なんていうのかな。食事作ったり、掃除したり、あと、お洗濯も。」

と、トラーは答えた。

「詰まるところの家政婦さんですね。」

水穂さんがそう言うと、シズさんはにこやかに笑って頷いた。そして手早くベッド脇にあったサイドテーブルにシチューの器を乗せる。トラーは、直ぐにスプーンをとって、シズさんが作ったシチューをかき回して、水穂さんの口元に持っていった。水穂さんもシズさんが作ったとわかったのか、静かに口にした。

「ああ良かった。やっぱり、経験が多い人は違うわね。亀の甲よりなんとかって、日本語には面白い言葉があったわね。あれ、なんていうのかしら?」

「年の功ですね。」

水穂さんは静かに言った。

「あたしもね、頑張って料理をシズさんに習うから、これからはね、毎日ごちそう攻めよ。10時過ぎにはベーカー先生が来るから、そのときには眠らないで起きていてね。」

トラーに言われて、水穂さんは申し訳無さそうに頷いた。

「いいのよ。どうせ、日本で行き届いた世話をしてもらえないんだったら、こっちで思いっきり羽を伸ばしてくれればいいの。そのために、あたしたちいるんだから。」

「本当にすみません。わざわざ来てくださるなんて。」

水穂さんがそう言うと、

「まあ、日本人は謝るのが好きね。」

と、トラーは、呆れた顔つきで言った。そのまま朝食のシチューを食べて、10時ぴったりにベーカー先生が診察にやって来る。ベーカー先生は、水穂さんにいくつか問診をして、しっかり聴診もして、容態は安定していると言った。トラーも、シズさんも喜んだ。

ベーカー先生が、薬を渡して帰っていった数分後に、杉ちゃんとチボー君が帰ってきた。トラーが、シズさんが予定通り、うちを手伝ってくれることになったというと、杉ちゃんはそれは良かった、手伝い人は多ければ多いほどいい、と言っていたが、チボーくんはちょっと不安でもあった。例えば、シズさんが、自分たちと同じ民族であれば、いいのかもしれないけれど、シズさんはそうではなかった。こういう偏見は持ってはいけないとチボー君も言われた事もあったが、ちょっと、不安な気持ちが出てしまうのは、なぜだろう。

「まあいいじゃないの。どんなやつだって、家の中で暮らしている以上、料理したり、掃除したりすることは、必要なことだからな。とらちゃんが、家事を習うんだったら、なおさら年長者のほうがいい。そうだろう?」

杉ちゃんに言われてチボーくんは、そうなんですけどね、と言って、ちょっとため息を付いた。

「まあ、大丈夫だよ。おまえさんのそういう心配事が、それこそ偏見じゃないの?」

杉ちゃんに言われてチボーくんはそうだねというのだが、どこか不安で仕方なかったのだった。

診察の後も、水穂さんはよく眠った。ベーカー先生が、薬の副作用で眠気を催すからと説明してあったから、トラーも杉ちゃんも平気だった。シズさんは、大変な働き者で、ご飯をつくったと思ったら、手早く家の掃除をし、洗濯物を乾燥機に入れ、昼食の用意をするなど、休むまもなく働いた。杉ちゃんが、腰でも痛くならないかと心配したが、シズさんは全く平気だといった。そういうところも、チボーくんは不安になってしまうのである。働くのが好きだからとか、からだを動かしている方がいいとか、そういう言葉は、同じ民族の間ならよくやっているで通じるのかもしれないが、シズさんであれば、むしろ不安になるのだった。

その次の日。チボーくんは、やっぱり不安で、チーズをもらったので、トラーに渡したいという口実を作って、モー厶家に行った。インターフォンを鳴らすと、応答したのは杉ちゃんだった。一体何かあったのかとチボーくんは聞いてみると、いや、久しぶりに水穂さんが咳き込んだのでと杉ちゃんはぶっきらぼうに返す。チボーくんは、心配になって、客用寝室に行った。やっぱり、水穂さんが咳き込んでいるのが、よく響いていた。隣で、シズさんが背中を擦ってやっているのも見える。トラーが、おかしいわね、安定しているって言ったのに、と、つぶやいたので、

「おい、昨日、なにか悪い食品でも食べさせたりしなかっただろうね?」

と、チボーくんは思わず聞いてみた。

「いやあ、大丈夫だ。昨日だって、野菜ばっかり食べてた。」

「そうよ、それに、シズさん、食べさせたものは忘れないように、ちゃんとまとめてくれてあるのよ。」

杉ちゃんとトラーがそう言って、シズさんは、一冊のノートブックを見せた。でも、チボー君に読めたのは、今日の日付の数字だけだった。あとは、全く違う言語。多分きっと、人参とか玉ねぎとか、じゃがいもとかちゃんと書いてくれてあるんだろうけど、チボーくんは、なんだかそれが、魔法文字の様に見えて、更に不安そうな顔をする。

「何を書いてあるのか、よくわからないな。」

と、チボーくんはいうが、トラーは、ちゃんと野菜の名前を書いてあるのだと言った。でも、本当にそうなのか、チボーくんは不安になってしまうのだった。同時に水穂さんが咳き込んだ音が響いたので、急いでサイドテーブルにあったタオルをとって、水穂さんの口元に当てるが、今日は、タイミングが悪く、布団を汚してしまった。これでまた、布団を買い直さなきゃならないな、と思ったが、布団には、キルトのシーツが敷いてある。

「シズさんが作ってくれたのよ。これを変えれば、少しは布団を買う回数も減るかなと思って。」

トラーがそう言うので、杉ちゃんと二人でやったのかと思ったが、

「昔ながらの足踏みミシンが一番使いやすいってシズさんは言っていたよ。」

と、杉ちゃんが言った。確かに、足踏みミシンというものは、アンティークが好きな人なら、愛好者はいるのかもしれないが、ほんの数日で、これだけのシーツを作ることができるのだろうか?足踏みミシンとなると、電動ミシンに比べて、縫うスピードは格段に遅くなると思うのに、なんでこんなに早くシーツが作れるのだろうか?

「汚れたら、また作ればいいわ。心配しないで、うちに古いキルトはいっぱいあるのよ。どうせ、いらないから捨てようと思ってたから、こういうときに役に立てれば本望よ。」

シズさんが、変な発音でそういった。なんだか、それが、日本語というより、魔法の呪文の様に思えてしまった。

「まあいいや。じゃあ、シズさんにお願いするよ。とりあえず、今日の事はまたベーカー先生にも言っておかないとね。」

と杉ちゃんが言うと、トラーは、あたし電話するわと言った。こういうときに、いろんなことに敏感な彼女は、直ぐに行動ができる人である。早速、固定電話で、ベーカー先生に電話し始めた。ベーカー先生に報告するのは、同じ言語であるはずなのに、シズさんが先程書いた野菜の名前は、本当ではないのではないかと、疑ってしまうのはなぜだろう。

チボーくんは、杉ちゃんに促されて、水穂さんに薬を飲ませたり、先程吐いた内容物で赤く汚れてしまったシーツを取り外したりした。そのシーツは、大変精巧にできていて、とても素人が趣味で作ったとは思えなかった。

「いいじゃないかよ、せんぽくん。シズさんは、絶対悪い人じゃないから。そうでなければ、こんな上手に、作ってくれるわけがないじゃないかよ。」

と、杉ちゃんに言われるが、シズさんはやっぱり、と、チボーくんは思ってしまうのであった。

「日本でも、同じような事はあるけどさ、でも、最終的には信じてあげることが一番なんじゃないのかな?」

信じてあげることか。でも、今までの歴史の勉強などで、自分たちがシズさんのような人より優位に立つようにしなければならないと、さんざん教わってきたし、そうすることによって、チボー君たちは自分を保ってきたということも有る。ボヘミアンというと、かっこいい言葉のようであるが、実は、物乞いとか、盗人とか、そういう意味を持っていると、チボー君の家族も、学校の先生も、彼の音楽仲間も教えてくれたからだ。

「そうだねえ、杉ちゃん、それはそうなんだけど、でも、シズさんはね、、、。」

と、チボーくんは困惑した顔でいう。そうこうしているうちに、ベーカー先生が様子を見に来てくれた。すぐにトラーが、汚してしまったキルトを見せて、このとおりだと説明すると、ベーカー先生も困った顔をしている。何でしょうね、昨日は容態が良かったはずなんですけどね、、、と首をかしげているベーカー先生を眺めて、チボーくんはやっては行けないのかもしれないけれど、もしかしたらと思ってしまうのだった。結局、ベーカー先生は、精神的な理由だと結論づけた。トラーも、シズさんも、水穂がかわいそうねと顔を見合わせて言った。日本では、精神的な理由というと、嫌な顔をすることが多いが、こっちでは、そういう事はあまりないのである。

トラーと、杉ちゃんが、ベーカー先生を玄関先へ送り返している間、チボーくんは薬で眠っている水穂さんを眺めて、誰か他の人に見てもらえばいいのかと思ってしまった。とりあえず、その日は、マークさんが早く仕事を終了させて帰ってきてくれたので、チボーくんは自宅に帰ったが、自宅に帰っても、水穂さんたちが、あのロマのおばあさんに、乗っ取られてしまうのではないかと、怖くなってしまうという気持ちでいっぱいだった。

その翌日、チボーくんは、またモー厶家に行った。応対したのはまた杉ちゃんで、何だと思ったら、シズさんが、面白い楽器をシズさんが聞かせてくれるぜ、と言って、チボーくんを客用寝室に連れて行った。そのとおりに、杉ちゃんについて行ってみると、客用寝室のサイドテーブルの上に、スープの器のようなものが7つ置かれている。

「何でも、歌う器という楽器らしいぜ。これを叩くと、からだが落ち着いて来るんだって。」

と、杉ちゃんが説明する。シズさんが持っていたマレットをとって、それを叩き始めると、なんとも言えない不思議な音色がなり始めた。きれいな音ね、と、トラーも杉ちゃんも感動しているようである。それは、日本語で訳すと、シンギングボウルという楽器に近いものであるが、そんなことを知らないチボーくんは、なんだか得体のしれない器を叩いたりこすったりして、本当になにかに使えるのか心配で仕方なくなってしまったのであった。

45分くらい演奏は続いて、シズさんは、それを叩くのを終了した。水穂さんが少し咳き込んだので、チボーくんは急いで水穂さんのもとへ駆け寄るが、幸いのところ、先日のような、大量ではなかった。シズさんは、ちょっと楽になれるんじゃないかと思ったけど、と言っている。なんだか、この金属製の器の音色といい、形といい、シズさんがなんだか魔術でもかけたのではないか、とチボーくんは思ってしまった。シズさんは、もしかしたら、自分はさほど童話のことは詳しくないと思っていたのであるが、ヘンゼルとグレーテルに出てくるような魔女ではないかと思ってしまうのであった。チボーくんがしばらくそんなことを考えていると、おい、ちょっと、と杉ちゃんに肩を叩かれてはっとする。気がついたときは、水穂さんは眠っていた。気がついたらもう新しいキルトのシーツが敷かれている。

「せんぽくん、外に出ようか。」

と、杉ちゃんに言われて、チボーくんはそれに従った。あとは女性である、トラーやシズさんが、水穂さんの世話をしていた。

この近くに、カフェでもなかったかなと言われて、チボーくんは杉ちゃんをカフェに連れて行った。とりあえず二人は席に座って、コーヒーを頼んだ。その間にも、チボーくんは、なにか心配なかおをしていたが、

「男らしく告白しろ。」

と、杉ちゃんに言われて、また、はっとして周りを見渡した。

「だから、男らしく告白するんだよ。とらちゃんに。」

杉ちゃんがコーヒーを飲みながらそういうことを言う。

「そうすることで、あのシズさんのことを信じてあげられる様になる、第一歩だと思うぞ。」

「いやあ、信じるとか、そういう問題じゃありません。僕たちは、過去にそうしろと教わったことを、取り除けないといいますか、そういう気持ちなんです。」

と、チボーくんは正直に言った。

「まあ、教わったって誰にだよ。」

杉ちゃんがきくと、

「ええ、具体的に、シズさんのような人を、信用するなと言われたわけではないんですけどね。でも、これまでに、シズさんのような人が、事件を起こしてきたのは、たくさん見たり聞いたりしているんで、シズさんが水穂さんのそばにいると、不安になっちゃうんですよ。」

と、チボーくんは今までのことを正直に言った。

「まあ、日本人の杉ちゃんには、わからないでしょうけどね。シズさんのような人は、万引とか、売春でよく捕まるんですよ。だから、どうしても、彼女をそう見てしまって。こういう事は、しょっちゅう有るので、、、。あの変な音がする楽器だって、本当に水穂さんに効いたのかわかりませんしね。」

「どこにいたって同じだよ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「日本でもそういうやつはちゃんといる。水穂さんだって、そういう偏見を押し付けられてきたんだ。だから、人間まずはじめに、いいやつばかりじゃないけど、悪いやつばかりでもないって、信じることが大事なんだ。」

「日本でも、いるんですか。シズさんと同じ、ロマと似たような人が。」

と、チボー君がきくと、

「まあ、具体的な名称が有るわけじゃないが、そういう奴らは、日本にもいるよ。だから、やっぱり、信じることなんじゃないのかなあ。」

杉ちゃんは、ちょっと意味深な表情でそういうことを言った。チボーくんは、そういう事もあるのかあと思って、ちょっとため息を付いた。






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歌う器 増田朋美 @masubuchi4996

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