鹿と銃と雪明り 2

 と言っても、悦に入っていられるほど時間に余裕はない。灯りが太陽と月程度になったこの世界でナイフを主に扱う解体を日が没してから行うことは不可能だ。だから日没が訪れるであろう数時間である程度の解体を済ませなければならない。

 そこで玲はすぐさま腰に差していたナイフを手に取り、鹿の心臓へ、そのナイフを滑りこませた。鹿を獲ると決めてからしっかりと研いでいたので、ナイフはするりと肉をかき分けていき、軽々とその刃を心臓に到達させた。

 それを引き抜くと、どろりと赤黒い血液が溢れ出す。文明が破壊された世界では水道管が破裂し、あらゆるところが水で溢れていた。その水により建物の倒壊が促進されてしまっているのは確かであるのだが、獲物を解体するうえで血抜きをしなければならない現状、その惨状は有難かった。玲はその水道管破裂によって出来た川に、鹿をつけた状態で鹿の心臓の当たりを手でぐっと押し込むことで、鹿の血流を疑似的に復活させ、体外へ血を排出する。

 冬の水は冷たかった。そんな当たり前なことは、触らずともわかっていたが、触ることでより鮮明に痛烈にその事実を痛感する。まるで無数の小さな虫に皮膚を噛まれているかのような感覚に襲われるが、それを堪えないと解体は行えない。何度も心臓マッサージの要領で血を体外へ流出させ、傷口から血が出なくなったあたりで、一度その体を地面へと引き上げる。

 鹿を解体する場所にブルーシートを敷き、その外に焚き火台を置くことで多少なりとも暖を取れるようにしてから、解体に入る。

 まずは内臓を切り裂かないように腹を割いていく。最初に感じるのは皮の感触であるため、結構力が必要であるが、そこで力を入れ過ぎて内臓を傷つけてしまっては元も子もないので大胆でありながら繊細に、皮のみを裂くように腹を開いていく。するとまだ血色の良い内臓と共に白い湯気が立ち上った。

 ある程度の幅が取れたら一気に腹の中に腕を突っ込む。まだ体内は温かかった。それこそこの牡鹿は先ほどまで生きていた。川で冷え切った玲の手をその温みでゆっくりと溶かしていくように、温める牡鹿の体温は死しても尚生きることの美しさを伝えているようだった。

 体内に張り付いている筋膜をゆっくりと切り裂きながら、喉と肛門を切除し、一気に内臓を外へと引きずり出した。その時点で玲の腕は鹿の血で赤く染まり、自らの身体を触るのをためらうほどであったが、額から流れ、垂れてくる汗を受け止めるために、その腕で玲は顔を拭った。

 暑いから汗が出ているが、それと同時に寒さにやられている鼻からは鼻水が垂れてくる。それをすすりながら、玲は黙々と作業を続ける。

 外に出した内臓の内、肝臓と心臓を切り離し、近くの雪の中に一度埋めておくことにする。他の内臓は食べるのにいくらかの下処理が必要であるため、数日物を食べられていない玲には必要ないと判断し、今回は土に返すことにした。

 次に頭を鉈で落とすが、これも後々トロフィーとして加工しようと思ったため、舌を切り落としてから、肝臓と心臓を埋めたところとは少し離れたところに、角を外に露出させた形で雪の中に埋めた。

 ここからが本当に大変な作業であるのだが、この時点で既に宵の明星が見え始めていたのと、もう体力が限界であったことを考慮して、残りの部分は一旦頭部と同じく雪の中に埋め、明日捌くことにする。

 ふと空を見上げた玲は、街を煌々と照らす月が雪を照らしていることに気付いた。月明かりが明るいと言うのは、街灯や照明が無くなった今もう既に見知ったことであったが、その月明かりが雪を照らすことでこれほどまでに世界が明るくなると言うことは知らなかった。恐らく月から降り注ぐ光がそこここに降り積もった雪に乱反射することでじんわりと明るさを醸し出しているのだろう。

 月光はまるで今死した鹿の旅路を祝福しているかのように、既に肉となりかけている体を照らしており、その鹿の命を奪った玲のことも平等に照らしていた。

 玲は先んじて埋めておいた肝臓と心臓を雪の中から取り出し、火が消えかかった焚き火台と共にビルの三階に戻る。


 居住フロアにある薪を焚き火台にくべ、火が大きくなったところでその上に網を置き、手頃な大きさに切り分けた肝臓レバー心臓ハツを網の上に置いていった。外にある雪で冷凍が出来る冬には適用されないが、本来は新鮮なうちに食べないとだめになってしまうこの部位は、狩った者のみが食すことのできる役得部位と言えるだろう。少しの塩と香りづけの胡椒。貴重な胡椒を使うのは勿体ないということはわかっていたが、こんな機会はもう訪れないかもしれない。だが、素材本来の味を失うのももったいない。最小限の調味料で最大限の贅沢を。

「いただきます」

 焼きあがったのを確認したレバーを先に口に運ぶ。薄っすらと香る胡椒はその肉のおいしさを引き立たせる。レバー独特のとろりとした舌触りに強い血の香り。栄養を蓄える器官だというのを強く舌の上で実感する味わいだった。何よりも、旧世界で食べていた家畜動物のレバーとは打って変わって野性味あふれる香りがガツンと鼻腔を刺激する。今まで、もう美味しいとも言えないカップラーメンやレトルトカレーを食べていた玲にとって新鮮な動物質は有難くて堪らなかった。

 その時だった。ふと、頭にあの鮮やかに生き生きとしていたあの牡鹿の黒い瞳を思い出す。

「ありがとう」

 ごちそうさま、ではなくありがとう。あの牡鹿が自分に命をくれたという実感と共に、鹿への罪を共に背負ってくれた絵里香への感謝。それを途轍もないほど、それこそ滝のようにその感謝が心の中に流れ込み、玲の中で溢れていっていた。鹿は玲に命を上げる気なんて毛頭なかったであろう。だからこそ、ありがとう。謝罪ではなく感謝を捧げた。その感謝はその一言で終わることはなく、耐えなく涙として玲の瞳から溢れ出していた。久しぶりの食事への喜びと、自らが殺してしまったというのにそんな自分を救ってくれた絵里香への愛と、命をくれた鹿への感謝。

 レバーの次に食したのはハツだった。鹿を生かすために、巨大なポンプとして血液を鹿の体中に送っていた器官であり、その筋肉の塊はそれこそ弾むような食感で玲の歯を押し返す。活力を感じた。生を感じた。力強くあの大きな体を持っていた鹿の肉体を司っていた鹿の肉が、ゆっくりと玲に消化されて行き、玲の鼓動の救けへとなる。

 他の命を自らの肉体へと宿していく感覚だった。社会がまだしっかりとあった時には気づけなかったこのおいしさを噛み締めながら、玲は泣きながら食事を進めていった。

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