四年目 大雪 熊蟄穴【くまあなにこもる】

鹿と銃と雪明り 1

 防寒具や水、焚き火台などの準備を整えた玲は四階への階段を上り、改めて鹿を待つ。もちろん多くの思うことはあったが、思いの外、心は今日の空の様に晴れやかだった。本を多く読む玲は、主人公の気分に合わせて天気が変わるという小説の技法を懐疑的に見る節があったが、こうも晴れて見せられるとそれは小説の中だけだとは言い難いと思う。しかし晴れていると言うことは周囲が明るく照らされているために、自分の姿を鹿に見つけられてしまう可能性が出てくる。だからなるべく体を動かさず、自分はこのビルの瓦礫の一部であると、自分すらも勘違いさせるように静かに鹿を待った。

 ビルの間を吹き抜ける痛いほど冷たい強風をもろともせず、太陽からの照りによって溶け始めて滴り落ちてくる雪の雫で肩が濡らされようとも動かず、冷たく硬いコンクリートで尻や腰が痛んでもただひたすらに鹿を待ち続けた。

 この瞬間に来るであろう全ての苦しみに耐えることが出来るのはひとえに「絵里香のため」という言葉が玲の心の中で何よりも堅い支柱として彼を支えているからである。しかしその絵里香に全ての責任を任せるというのはある種、過去や現実から逃避した結果であり、本来の玲が抱えた問題が解決できたわけではないが、この冬を乗り切る――生き抜くには十分すぎる理由だった。


 起床してから数時間。当初こそ日が照らしていたビルとビルの間の道にも陰が差し、朝とは違う寒さが世界を包み始めていたころ、玲の耳が改めてあの音を捉えた。雪を踏みしめる足音と、今日は彼らの鳴き声すらも聞こえる。山羊や羊の鳴き声を、耳を塞ぎたくなるような甲高い音にしたような声はまるで互いに会話を楽しんでいるようだった。しかし今日彼らの内の一匹は玲が仕留める。彼らはまだまだ数を増やすことが出来るだろう。それに対し玲はもうこの世界で一人しか存在していない人間かもしれない。だからこそ玲は鹿を獲って食う必要がある。

 ライフルの安全装置を外し、スコープも何もつけられていない照準器で鹿の左前脚を狙う。これが四足歩行動物の急所の位置で、そこには心臓がある。猟犬などを飼っているならば、それが手負いの獲物を追いかけ体力を減らし、どこで死んだか吠えることで教えてくれるのだが、そんなものを飼っていない玲は確実に直径十センチほどの枠に弾丸を撃ちこまなければならなかった。

 狙う鹿は昨日魅入られたあの大きな角を持っている牡鹿だ。すぅーと息を吐き出し、苦しくなる直前くらいで吐くのを止め、呼吸を止めた。

「どうせ今日も撃てないよ。イヒヒヒヒ」

 数日現れていなかったイヒ郎の声を聴いて、玲は逆に安心を覚える。皮肉を言い続けるような奴が現れてくると言うことはそれだけ心に余裕があると言うことと同義だ。だからこそこの鬱陶しいヤツが背後でぶつぶつと何かを言っている状態でも確実に仕留めることが出来るだろう。


「撃つ」

 その言葉と同時に、引き金にかけられていた人差し指に力を込める。その瞬間耳を劈くほどの破裂音と共に猛烈な勢いでライフルの弾丸が飛び出していく。静寂に包まれた街に響き渡る銃声は、まるで月夜に吼える狼のように獲物目がけて一直線にその弾丸を走らせる。

 弾丸は玲の全ての思いを込めて、空気を切り裂き、牡鹿の心臓に対し一直線で、その軌道を描いて見せた。ライフルの弾丸は音速を超えているために、鹿は音に気付く前に撃たれているが、銃器の調整が甘かったのだろう。その弾丸は心臓に命中せず、多少軌道をずらし、牡鹿の背中に着弾した。しかし運よく脊髄――胸椎か腰椎に命中したようで、牡鹿は痛みか衝撃か、体を一度大きく跳ね上げた後、後ろ脚を力なく地面に着く。

 野生動物はしぶとい。後ろ脚は既に不随になっているというのに、前脚のみで体を引きずりながら逃げようとしている。彼についてきていた群れの多くは銃声に驚き、その四つ足をふんだんに使い、街の奥へと逃げて行ってしまったが、まずは一頭を確実に捕えたい。

「外した。でも仕留める!」

 玲はライフルのボルトを引くことで次弾装填を行い、改めて心臓を狙う。先程の一発で銃器のずれを想定し、心臓とは少しずれたところを狙い引き金を引く。もう一度凄まじい銃声と共にその銃口から吐き出された弾丸は、牡鹿に新たな傷を作った。遠くからでは心臓に命中したかは定かではないが、逃げようとしていた牡鹿が力なく項垂れたのを見て、バイタルには命中したのだろう。それを見た玲はライフルの安全装置をかけ、ライフルを担ぎ、ナイフと共にその鹿の元へと駆け出した。

 四階から階段を一気に駆け下り、バリケードを退けておいた扉を蹴り開け、街の外へと飛び出す。四階から見ていた位置を見渡し、白い雪の中に埋まる茶色い塊を見た玲はその塊へ改めて走り出す。

 走ると冷たい空気が肺に噛みつき、鋭い痛みをもたらしたが、そんなことを気にしている暇も余裕も玲にはなかった。ただ本当に鹿を獲ることが出来たのか。その結果を確認することだけが頭にあり、昨日あった鹿への罪悪感も全て忘れ、ただただ鹿の元へ走った。

 それほど激しい運動をしたわけではないのに、玲の口からは多くの呼気が溢れ出ており、それらは寒さによって空気を白く染め上げていく。それはこれから死に絶えるであろう鹿も同じであり、鼻や口から血と共に、ゆっくりと沈んでいくような呼吸の中で白い空気が溢れ出ていた。それを目にした瞬間に、玲の身体に発砲の衝撃や、今日一日の疲れが遅れてやってきた。

 終わったと言う思いと、これからこいつを解体しなければならないという失念していた重労働への気付きに苛まれるほど、鹿への罪悪感は消え失せている。しかしまずは鹿を獲れたという事実に浸るべく「狩った。やった」と肺に溜まった空気と共に言葉を吐き出した。


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