一年目 白露 玄鳥去【つばめさる】

冬暁と最初の殺人と最後の殺人 1

「ここは寒い。場所を移そう」

 そう告げたサトルは四階から階段へと歩いていき、三階へと降りていく。のように視界の端にではなく、眼前にはっきりと見える悟に玲は呆気に取られていたが、姿が見えなくなった瞬間我に返り、駆け足で彼の後を追った。

 そして三階に先についていた悟が椅子に座り、こちらを待っていたかのような表情を浮かべた姿を見て、不意に言葉が口から溢れ出した。

「俺もとうとう狂っちまったみたいだな」

 目の前にはっきりと見える学生服を着た青年へ、溜息と共に吐き捨てるようにその言葉を放った玲の瞳からは一筋の光すらも消え失せる。

「狂っちまったって、まるで今まで自分がまともだったみたいなこと言うじゃねぇか」

 悟は玲を嘲笑する。自己保身の先に作り出した正当化の惨めさに悟は怒りすらも超越した哀れみを浮かべている。

「全部言わなきゃわかんねえか? 狂っちまったってのはそういう意味じゃねえよ。そりゃ狂ってたさ。人を何人も殺したし、イマジナリーフレンドなんて設定を作って、会話形式の独り言を一年以上話続けていたんだ。でもとうとうそのイマジナリーフレンドは俺が最初に殺してしまったお前の姿をかたどって、俺の想像だにしない言葉を発し続けている。これが狂ったと言わないでなんて言えばいいんだ」

 そこまで声を荒げてはいないというのに、確かに怒りを感じる言葉であった。それは誰に向けられるわけでもない矛先のない怒りであった。強いて言えばこんな寄生菌を作り出したであろう、研究所の関係者に対して向けるべきなのだろう。しかし既にその研究所は滅んでおり、関係者が生きているとは到底思えない。だからこの怒りはもう存在しないはずの友人にぶつけるしかなかった。

「殺してしまった……? 共に生き延びる約束をした俺をショットガンなんかでぐちゃぐちゃにしたってのに『してしまった』なんて言い方するのか?」

 悟がその言葉を告げると同時に、今まで綺麗であった頭部が弾け飛び、空中に肉片が舞った。彼のこの姿はよく覚えている。感染者に噛まれ、生存が絶望的となった悟をショットガンで撃った際に出来た傷を負った姿だ。この姿へと変わった悟は何をするでもなく、ただ地面に倒れて行ったのだが、今目の前にいる悟は頭部の大部分を欠損していると言うのに話を続けている。

 気味の悪い姿だった。それでも玲の思考は気持ちの悪いその姿には見向きもせず、悟の言葉尻を捕らえることに夢中になっている。

「それはお前が噛まれて」

 撃ってくれと頼まれたから。そう言いかけたところでその言葉を悟が遮る。

「そりゃあ親友があんなに悲壮感漂う表情してたらそうも言うさ。でも本当なら打開策だったりなんなり探すはずだ。本当の友達だったのなら。だって感染から数時間は正気を保っていられるんだ。俺が噛まれたのは手だった。切り落とすなりなんなりしていたら助かったんじゃないのか? だというのにお前はすぐにわかったと言って俺に銃を向けた。わかるか? たった数センチにも満たない小さい穴から自分を殺す弾丸が飛び出してくるとわかっているのに、お前の覚悟を待つあの時間の恐怖が」

 悟はまるで玲を責めることを楽しんでいるかのように言葉を続ける。本来の彼はこんなことを言わない。それは玲が一番わかっていた。

 しかし彼の言葉も的を射ていることは確かだ。現実主義者リアリストで合理的な玲の性格を知っていたからこそ悟は自らを撃つことを頼んだ。本当はもっと助ける手立てなどを探して欲しかったのかもしれない。しかし感染者が蔓延り始めた世界で、驚異的とも言えるスピードで銃やその他の装備を整え、世界に順応した玲がそんなリスクを背負わないことを悟はわかっていた。

 互いに互いを想っていたからこそ決断された同意殺人は、殺人を頼んだ悟に対して、殺人を実行した玲が不利すぎた。いくら彼が自分の妄想だとしても、こう言われてしまうともう言い返す手立てがない。

「すまなかった……ごめん」

 泣き崩れるように地面に座り込んだ玲の口から出たのは、何の思惑もない、ただの許しを求めた謝罪だった。その姿を見た悟は高らかに笑う。

「ここまで無茶苦茶やってきて、結局責任は負おうとはせずに謝罪かよ。お前ならお前の分も全力で生きて見せるなんてことくらい言ってくれるかと思ったよ」

 先ほどまで怒りを見せていなかった悟は、突然その声音を変化させ、怒りを悟らせるようにそう吐き捨てた。

「もう、生きられない。生きるのが辛いんだ」

 玲の瞳からは涙が溢れ始める。

「悟の言う通り俺は無茶苦茶にやりすぎた。罪だらけの人間だ。だから人間なんかより全然怖くないはずのあんな生き物に尻込みしちまう。保存食ももう尽きる。こんな体力で雪深い道を通って、拠点まで戻るのは無理だ。だからあと数日で俺の命も終わるだろう。この俺の命一つで、罪をあがなえるとは思えないけど、俺の死で許してくれないか」

 心から溢れ出してくる感情によって小刻みに震える喉を抑えながら、吐き出した玲の言葉は冴えない。

 その姿を見た悟は、暗い眼差しで玲を睨んだ後、耳元に口を近づけ「救いようのない馬鹿だな、お前は」と吐き捨ててその姿を消した。

「うぅ。ぐっ」

 止まらない涙を堪えることが出来ず、玲は冷たいコンクリートに顔を埋めながらその感情を吐き出し続けた。そして最後の最後に流れ落ちたであろう涙と共に「絵里香、君もこう思っていたのか」と告げ、玲は深い眠りについた。

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