寒月と焚火と火酒 3
変わらず時間は過ぎ、酒を初めて飲んだ日から三日経っていた。手持ちのカップラーメンはとうとう二日目の前食を最後に全て無くなってしまった。今ではいざというときに干物にしていた牛蛙の脚を一日に一本大切にしゃぶっている。しかし体温を維持するのに多くのカロリーを消費する冬という季節を前に、いくらサイズの大きい牛蛙だとしても、脚一本では到底賄えるはずもなく、目に見えて体力、気力共に低迷してきていることが自覚できた。鹿を仕留めなければならないという目的は性急に解決しなければならない課題となり、ただでさえ消耗している玲の焦燥感を掻き立てた。だからこそ玲はカップラーメンが無くなった日から、焚き火を絶やさず、寒風に
この寒さで眠りこけたら、凍死は免れないかもしれない。しかし背に腹は代えられない。今までは日中に鹿が通ることを期待していたが、玲が眠っている間に鹿がこの下の道を通っていた可能性は十二分にある。だから夜通し見張るということは単純に確率を上げることが出来る。しかし既に気力という気力を失っている玲が、ここから新たな場所を散策し、食料を取って来るというのは困難で、後数日で鹿を撃つことが出来なければ、無気力による怠惰な死が玲を待っている。
体を動かすのは、待機による腰の痛みに耐えかねての少しのストレッチと、薪をくべるための動作だけであり、ほとんど動いていないに等しいと言うのに、腹は見る見るうちに減っていく。なんと皮肉なことだろうか。人は食わなければ死ぬどころか、最後の人間かと思われる玲の前に、この冬を生きる理由となった鹿は一度、それも足跡しかその姿を見せていない。
朦朧とする意識の中で玲は様々なことを思い出していた。しかしそれは夢想の様に近く、現実にあったであろう過去に様々な脚色が追加されており、思い出すと言うより思い描くといった方が正しいだろう。本来はあの場で殺してしまった彼と、彼女と仲間として酒と飯を囲む夢。本当ならば人殺しなどせず大学に進学し、至って普通という道を歩むはずだった幻。そんなありもしない日々を思いながら
もし気怠さにかまけて、薪をくべることを怠っていたら、玲の望み、望まない死に至っていたのだろうが、生憎玲の隣で火は煌々と燃えていた。
「――起きて」
そんな声が聞こえたような気がして、目を覚ました玲はその声とは別に、雪を踏みしめるあの独特な足音を捉えた。今自分のいるところの恐らく真下の道路を何かが歩いている。不規則で明らかに二足歩行ではない足音の正体は生存者でもはぐれの感染者でもなく、鹿の群れだ。
火は消えかかっているが、まだ温かい。手は少し
玲は音を鳴らさないようゆっくりと体を起こし、これまた音を鳴らさないようにライフルの安全装置を外したうえで、しっかりと銃を構えた。
「いた」
声とは程遠い、母音を含ませた呼気というのにふさわしいほどの声量でそう告げた玲の視線の先には鹿がいた。
ダークブラウンの毛並みでありながら、尻の部分は雪に尻もちをついたように真っ白な毛に覆われている。大きな角を携えた頭部には漆黒の眼が備わっており、玲の存在に気付いたのかその首を上げて辺りをきょろきょろと見渡している。彼が群れのリーダーだろうか。一際大きい肉体を持ち、その肉体は四階部分でキャンプを張っている玲が見ても十分に大きいことが理解できた。何かで感じた気配を確かめるためか耳を小刻みに震わしている。それと同時に鼻から吹き出る荒っぽい呼気によって彼らが強く生きていることを玲は認識した。
――生きている。そう彼らは生きている。
ここにきて当たり前であることに気付いた玲の引き金に添えられていた人差し指は、寒さとは関係なくその動きを止めた。
美しい。雄々しい角を持つ牡鹿を先頭に一つの群れとして餌を探し、街を巡っているのだろう。人とは違う。ただ生きるために生きている。欲など持たず、ただ生き、子を残し、種を繁栄させるために。これほどまでに無垢な生き物たちを自分はこの手で殺そうとしているのか。今まで食べるために人を殺し、生きるために人を殺し、時には怪しいという理由だけで人を殺した。そんな自分がこれほどまでに美しい者たちを殺していいのか。自分が生きるためにこの者たちを死なせていいのか。恐怖だろうか、違う。悲しみ、違う。哀れみ、違う。
これは……わからなかった。感じたことのない思いであった。初めて人を殺した時とも。
畏怖。一番近いのは畏怖の念だろう。圧倒的な畏れ。自然という人とは違う別の何かに相対した畏れは一瞬のうちに玲のことを呑み込んでしまった。その玲が抱いた畏怖に気付いたのかその角を主張しながら玲を見つめたと思われるその瞳は、底抜けのようで、玲の頭を真っ白にさせてしまうのには十分すぎる深さだった。
玲はそのまま鹿の群れが通りを抜けてしまうまで、何もできずにそれらを見つめるしかなかった。
「もう、俺には撃てない……」
そう弱音を吐いた玲の耳が確かに捉えたのは声だった。鹿の鳴き声などではなく確かな人の言葉を成す声。
「玲……」
そんな彼の名前を呼んだのは酒の酔いで姿を消すイマジナリーフレンドなどではなく、かつてパンデミックが始まった最初の年、玲が何としても生き残ることを覚悟させた人間の声だった。
玲の最初の殺人。かつて同じ学校に通い、共に笑った最愛の友――
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