厳冬と飢餓と新雪 4
その声の先にあったのは、中で探索していた最中に降り始めたであろう雪が舞い込む一つのフロアであり、そのフロアには常緑樹ではないが故に、その寒々しい茶色を彩るように雪が積もる人樹が食い込むように生えていた。
かつてコンピューターゲームの中に見た滅びた世界の美しさが今眼前に広がっていることへの感動は、玲が殺めてきた多くの人間たちに不謹慎だと罵られるかもしれないが、玲はその感情を抑えることが出来なかった。開いた口が塞がらないとはよく言ったもので、玲はその景色を前に、鹿を獲ると言う目的すら忘れ、茫然と立ち尽くす。
「そうだ。俺は鹿を獲りに来たんだった」
ふと吹いた突風によって自我を取り戻すまで何分呆けていたのだろう。恐らく数秒、長くても数十秒なのだろうが、まるで時間が止まったかのように玲はその景色に縛られていた。
それから地上から見たこのフロアの一角を見ると、降雪のおかげで、多少の雪が吹き込んできているものの、五階層が屋根になっているため、そこまで雪が積もっているわけではない。玲は鞄に仕舞っていた厚手の毛布を取り出し、それを床に敷き、その上に鞄や銃をおろして、一度肩をぐるりと回す。本来であればその上に寝そべり、照準や肉眼を駆使して鹿を狙うつもりなのだが、生憎玲の体、主に下半身が地下水によって濡れているため、この状態で外に長い間いると確実に風邪をひいてしまう。そこで玲は先ほど見た生活感の残る三階に着替えやそれの代わりになるものがないかと思い、一度三階を探索することにした。
「いらっしゃいましたー。いたら殺しますよー。イヒヒヒヒ」
改めて三階に戻るとやはりその奇妙なまでの人の気配に、気分が悪くなる。放り出された玩具や、衣服、蓋を開ければまだ中にスープが入っていそうな鍋など。今となっては他人が使っていたものを拝借することが当たり前となっている世界だが、これほどまでに人がいた形跡がまざまざと残っていると、人のものを明らかに盗んでいるように錯覚せざるを得ない。既に多くの人間の命を奪ってきた玲にとって、物の一つや二つを取っていくようなこと、造作もないはずだが、こういった変なところで罪悪感が沸いてくるのはもう人間の愚かな性としか言いようがない。
目についた衣装ダンスを漁ってみると、少しかび臭さはあるものの、丁度良さそうな作業着のようなズボンを見つけることが出来た。その使い勝手の良さと丈夫さからジーンズをよく履いていた玲だが、これを機にこんな素材もいいかもしれないと、そのズボンを拝借し、新たに自らのベルトを通した。
「結構いろいろなもの置いていったんだな」
「どろぼー、どろぼー。イヒヒヒヒ」
衣装ダンスの下方にはおあつらえ向きなブーツも並べており、今までここを探索しなかったことを後悔する。ズボンも靴も、気に入っているもので
また三階に置いてあった焚き火台を手に取り、まばらに置いてあるボロ布と薪になりそうなものをいくつか手に、改めて四階へと昇って行った。
「やっぱり外は寒いな」
完全に外気から遮断されていた三階と比べると、風晒しになっている四階は寒い。これが冬の寒さであることは確かなのだが、この吹き荒ぶ風があるとないとでは、これほどまでに体感温度は変わるのかと、冬の勢いの恐ろしさを見せつけられる。そこで玲は急ぎ火を焚き、それを自らが主にいることになる毛布の脇に置いた。そこまで強くめらめらと火を立ててしまうと、鹿を警戒させてしまうと思い、小さな火で燻ぶらせる程度に留める。
ここからは待ちの戦いだ。それこそ足跡は二日連続であったから確率は高いはずだ。本来であれば、足跡や糞などの痕跡を探しながら、鹿の後を追うような狩りを行うはずだが、これほどまでの雪が降る街で歩き回るのは危険極まりない。多くの木が生えていて、地盤がしっかりしている山に比べて、地下道が張り巡らされたこの街では、地面が抜けた穴を雪が覆っているかもしれない、鋭利に尖った金属片を雪が隠しているかもしれない。普段であればそれらが目に入る環境であるというのに雪という環境のおかげで行動が制限されている以上、こちらは待ちに徹するしかない。
いつでも撃てるように、でも安全装置は外さず、祈るように、大きく体を動かさずに、辺りの景色を見渡す。息を潜めていると、隣で響く焚き火のぱちぱちという音すら聞こえてこなくなり、自らはこのビルの瓦礫の一部であると、自分が心の底から勘違いをし始める。ある種の自己催眠の一種なのだろうが、そうすることで生存者や感染者から免れることが出来た。
玲は絶体絶命の時、敵からばれてもおかしくないような位置でありながら、この技法を使うことで死線を何度も潜り抜けてきた。それこそ自然に生きる鹿をこの技で騙せるかはわからない。しかし視界は失われ、嗅覚か、聴覚で獲物を捕捉すると言われている感染者から発見されなかったという事実は変わらない。
だからゆっくりと呼吸をなだらかに細くしていき、頭や肩に雪が降り積もっても動じずに、まるで家の箪笥の上で埃が被っていく人形の様に、洞窟の奥の底で息を潜めるキノコの様に、自らを人から乖離させていく。
刻一刻と流れていく時を忘れ、その膨大な時の河に身を委ね、そしてその時を待つ。
どれくらいの長さを待ったかはわからないが、恐らくてっぺんにあったであろう陽が傾き、雪は止み、うっすらと空が赤みがかり始めている。今日は来なかった。そんな落胆を胸に玲は一度、三階に戻ることにした。外の寒さで体が冷え切ってしまったようで、指先はかじかみ、足先はもう感覚がない。これほどまでに集中していたのかと自分でも驚くほどで、三階に着いたらすぐに、持ち運んでいた焚き火台に火を付けて、体を暖めることにする。
収穫がない日は、食事を摂らないというのが玲の中での決まりであったが、今日食事を摂らないと、体温が出来ずにこの場で死を迎えるだろう。だから致し方なく、今日はいつもの通りカップラーメンを食べることにした。
鞄に入れていたカップ麺を開き、焚き火台の火で温めた雪をカップ麺へと注ぎ入れ、蓋を改めて閉じる。
この三分を待っている間に、このフロアの戸締りや見回りを改めてすることにした玲は、手当たり次第に物資を求めて探す。
「食材とか、何かないか」
「どろぼー、どろぼー、またどろぼー。イヒヒヒヒ」
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