四年目 大雪 閉塞成冬【そらさむくふゆとなる】

厳冬と飢餓と新雪 1

「燃やすもの……もうこれもいいか」

 そう言って焚き火台の中に放り込んだのは、夏まで地道に付けていた食料記録もとい玲の日記だった。焚き火台に放り込まれた日記は、ビニールコーティングされた表紙以外、煌々と炎を灯し、コーティングされた表紙はゆっくりとじわじわと焦げが広がっていった。

 薪置き場から薪が無くなってもう数日たっており、手近な燃えそうなものを焚き火台に放り込む生活が続いていた。だから焚き火台からは薪が爆ぜるぱちぱちという軽快な音は聞こえてこず、静かな街の、静かな住処の中、たまに発せられる玲の言葉と衣擦れの音だけが地面へと沈んでいく。

「これは今冬で死ぬな。イヒヒヒヒ」

 イヒ郎は、人としての玲の姿は既に失っており、変わらず愛らしさを持った黒毬藻のような姿で気味の悪い笑い声を漏らしている。失ったと言っても、玲の姿が顕在化していたのは数日も無く、あの研究施設のあの瞬間だけ、その姿を維持していた。

 その様子は他人から見れば本当にそこに人が居るかのような振る舞いで、まるで一人芝居をしているようだったが、既にその姿を気味悪がる他人ヒトすらいなかった。

「それでもいいんじゃないか。飢えてか凍えてか」

 消え入りそうな声でそう呟いた玲は脚が腐りかけたローチェアの上で、静かに眠りについた。


 次に目が覚めたのは、辺りの空気が、目を覚ますほどの冷気に包まれていることに気付いたからだった。

 蝋燭についた鈍い灯りでも玲の呼気は白く染まり、空気へ溶けて行く。これはやられたと思い、慌てて拠点の扉を開けた瞬間、言葉通り身を凍り憑かせるほどの冷気が風と共に拠点の中へと入り込んできた。人樹は既に葉を落とし、冬の様相と言ったところであったが、それとは比べ物にならないほどの白が玲の視界全てを覆うように広がっていた。

「雪だ……」

 パンデミックが起きてから四度目の冬。その冬の中で雪を見たのは今回が初めてだった。雪が降る冬と降らない冬では、生きるうえでの大変さも雲泥の差になって来るのは言わずもがなで、ただでさえ生きるのが大変な世界になってから、神の気遣いを感じるほどに、雪が降ることは今までになかった。

 しかし全ての事象に対し、無気力となった玲に今、止めを刺しに来たかのように、冬最大の脅威が襲い掛かってきている。

「くそくそくそ。最悪だ。こんなこんな」

「犬は喜び庭駆け回り、玲は一人で死んでいくー。イヒヒヒヒ」

 生きる気力がないということと、死への願望は同じではなく、精力的に生きるつもりはなくとも、死ぬつもりは毛頭ない玲にとってこの雪は、駆け回り、雪だるまを作ったりする娯楽にはなりえない。感染者以上の脅威である自然が、まざまざと立ち塞がる。

 もし玲が自殺をすることの出来る度胸の有る男であれば、こんな雪なんてもろともせずに、ゆっくりと凍死へと近づいていくのだろう。しかし玲は生憎臆病者で腰抜けだった。だからこそ、ここまで生きてこれたのは確かで、「臆病なくらいが丁度良い」とはよく言ったものだった。

 人を殺すことへの恐怖は既に抱かない。しかし自分が死ぬことは出来ない。最低最悪の矛盾のようなものを抱えた男は、防寒具も、食料も、寒さを耐えることの出来る寝床もないことに気付き、焦り拠点に戻り準備を始める。

「服と、寝袋と、食べ物。そうだ薪もないんだった」

 集めなければならないのは沢山ある。それこそこれからの長い冬を生き抜くための防寒具に、隙間風だらけの拠点で寒い夜をやり過ごすための寝袋など。そして一人だからと置いてきてしまった食料。

 今から山の拠点へ戻ることを考えたが、都心でこれだけの雪を見る限り、山近くの地域の積雪の量は計り知れない。カップラーメンは未だ少量ではあるが食糧庫に残っていた。だから今必要なのは防寒対策のためのあらゆるものと、薪だった。

「都心、そうだ都心だ。そんな焦る必要はない。まず順番を決めよう」

 空気が乾燥している冬だが、雪が降っている時点で木を樵ってきたしても、燃やせるように乾燥しきるまで時間がかかるから後回しだ。まずは防寒対策のために服や雪対策の靴などを調達したい。

 そう思い、玲は夏に訪れたあのデパートを目指す。当時こそあの家族の安寧のために近づかないつもりではあったが、背に腹は代えられない。あそこには登山グッズなどを取りそろえたアウトドア用品店が入っていたはずなので、万全とはいかないまでもある程度の物資は揃うだろう。その道中で食料を探せれば、ほぼ問題はないはずだ。


 そう思いながらもう一度アジトから出ると、先程より足元の雪が深くなっているのがわかる。積もる。まだ世界が生きていた頃、雪が積もって欲しいが、この雪の粒では積もらないだろうなと肩を落としていたことを思い出す。しかし今日しんしんと降り積もる雪は確実に積もり、明日以降の行動を制限されるということが確信できる勢いだった。

 少し外にいただけで頭と肩には雪が乗り、それを払おうとした手にこびり付いては、体温で溶け、体を冷やしていく。今までの様に家に入れば暖房と、すぐに風呂を沸かすことの出来る環境であれば、この程度の寒さもどうと言うことはなかったが、火すらも長く維持が出来ない現状、身の危険を感じざるを得ない。

 急ぎ向かおうとしても、足元が滑り、転びそうになるので、多少の早歩き程度でしか歩くことが出来なかった。地下に張り巡らされた地下道を歩くこともできたが、三年の月日で地下道には水が溢れ、その水によって壁や天井は腐り、あらゆる場所が崩落の危険性に苛まれている。ただでさえ寒い冬に水に浸かるような場所を歩くリスクも、瓦礫に押しつぶされるようなリスクも取るわけにはいかない。

 だから玲は口から吐く息が唯一の暖房器具となったこの街で、雪に濡らされながらゆっくりとデパートへの道を歩く。


 そんな時だった。何の因果かはわからない。しかしまるで世界が、玲に生きることを促しているかのように、生きろと言っているかのように、自らの恵みを玲へと差し出した。

 それは足跡だった。細長い桃のような跡が雪に一定間隔で道に沿って続いているのを見つけた玲は、驚き辺りを見渡した。その姿は獲物を探す肉食獣の様に、でも肉食獣の様な冷酷な狩りの姿勢ではなく、お菓子をお預けされた子供のような姿でもあった。

「鹿がいる――」

 かつては眠らない街として謳われ、自然の「し」文字も見られなかったこの街に鹿がいる。しかも一匹ではなく何匹も――群れで。

「鹿が獲れれば肉が食えるのか」

 食料を必要としている玲にとってそれほど嬉しいことはなかった。人は生きなければならない。そのうえで食事という行為は第一と言っていいほどに必要なものだった。だからこそ玲は自らの肩から下げた散弾銃を握りしめ、覚悟を決めた。

 その準備として、最初の目的であったデパートへの道を歩く。本当に目先でしかないが、生きる目的が決まった瞬間だった。

 雪が降りしきるこの大都市で、生きるために鹿を獲る。また新たな玲の戦いが始まる。

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