晩秋と感染と人殺し

 ガラスが割れる際の弾けるような甲高い音ではなく、破砕音が爆発音と聞き取れたのはその強化ガラスの分厚さが故だろう。しかしそれを意図も容易くのは――否ぶち破れたのは長い間この施設が放置されていたことの経年劣化だろうか。しかしいくら感染者だとしても人間の筋力を超えるような力はないはずだ。若しくは破るために日々破壊行動を続けていたのか。

 玲は目の前に浮かぶ非現実的現実に、そんな考えても仕方のない答えのない疑問を自問していた。事実目の前に感染者に襲われかけている絵里香がいるというのに。

 そのせいで玲は遅れた。

「絵里香! 拳銃を――」

 拳銃は絵里香の無謀さに怒り自分が取り上げてしまっていた。この距離で感染者を散弾銃によって狙えば絵里香に弾が当たる可能性がある。だから手にかけていた散弾銃から咄嗟に手を離し、腰のホルスターに仕舞っていた拳銃の安全装置を解除したうえで三発、無我夢中で弾丸を放った。

 痛烈な射撃に至るまで、玲は遅れはしたものの数秒もかからなかった。しかし感染者がその絵里香の柔肌を傷つけるのも数秒もいらない。

「絵里香!」

 幸か不幸か頭部を撃ち抜かれた感染者の体液や脳髄は絵里香の目や口に入ることはなかった。既に動かなくなっている感染者を玲は蹴り飛ばし、追加で二発、頭部に弾丸を打ち込んだ後、絵里香の容態を確認するが、言葉で尋ねるよりもそれは明確だった。

 痛々しい歯形がついた左腕からは、血が溢れ、指先へと轍を作っている。噛まれた。

「噛まれちゃった――」

 まるでただ小石に躓いて転んだかのように、自分の失敗を笑いでごまかすように絵里香は目に涙を溜めながら、玲に笑った。

「おい、嘘だろ。嘘だ嘘だ」

 茫然とする優里に目もくれず玲は絵里香の腕を強く掴み、鞄から取り出した水をおもむろにかけた。水が掛かれば一瞬、血はその姿を消え失せさせるが、すぐに際限なくわき続ける泉の様にそれは溢れてくる。

「大丈夫だ、大丈夫。ここは感染者を研究してた場所なんだ。どこか探せばワクチンとか薬とか、感染を止める何かがある筈なんだ」

 なるべく絵里香を落ち着かせようと紡いだ言葉であるが、それは玲の意思とはまるで違う形で言い放たれていた。どうしようもない焦りと不安。寧ろ玲が噛まれたのではないかと思うほどに、玲は焦り、絵里香は落ち着いていた。

「いつかはこうなるってわかってたでしょ?」

 涙を堪えているが故に声は震えてはいるが、涙は零れていなかった。

「うるさい! 黙ってお前も薬を探せ!」

 激昂だった。今さっき噛まれた人間に対して。玲は本来あるはずの冷静さを異常なほどに欠いていた。それは何よりも、誰よりも玲の中で最愛となりつつあった絵里香が噛まれたから。

「フ、普通ノ感染なラ数時間は意識を維持していラレるけド、ド、こノ菌は研究されてたかラカな……」

 ものの数秒で目に見える変異が始まっている絵里香の身体は明らかに異様を成しており、既に玲や優里を餌として認識しているのか、涎が垂れ始め、目は血走っていた。

 かつて一時的に行動を共にしていた男に感染者の動向を研究していた者がいたが、彼曰く、感染源であろう寄生植物はハリガネムシのように植物の必要な物質である水が豊富にある水辺に感染者の脳を操ることで、誘導する程度のことしかしなかったという。しかし何らかのきっかけで人の血液を吸収した感染者は川や池の水より圧倒的に養分になる人間の血液を求めて、人を襲い始めたと言う。

 だから絵里香の血を求める動きは必然で、彼女の感染を止められなかった以上、誰も彼女を責めることはできない。

「撃っテ」

 もうすでにイントネーションすらもおかしくなったその一言が、玲の頭をゆっくりと侵食し始める。このままでは意識を保てずに、あなたたちを襲ってしまうから、そうなってしまう前に撃って、終わらせて欲しい。本来はそういう言葉を紡ぐはずだった絵里香も、血を欲する衝動を抑えきれず、ただ一言玲にそう告げた。

 それはまるで玲にとって、絵里香が生きることを放棄したかのような、心許ない言葉に聞こえた。だからこそ未だに打開策を、絵里香の気を持たせるような言葉を探そうとしたが、頭では既に遅いことであることは理解している。

「わかった」

 絵里香と同じくただ一言そう返して、玲は銃を構えた。この時二人は大切なことを一つ忘れていた。絵里香を大切に思っている存在はもう一人いる。彼がどれだけ今の状況を理解できていたかわからない。絵里香を守ろうとしたのか、共に道を歩もうとしたのか、彼女がいない未来が見えなかったのか。

 どの考えだったとしても、行動は一つで、玲が引き金を引いた瞬間に、優里はその弾丸と絵里香の間に割って入って見せた。しかし小さな体の子供で散弾銃の弾丸を全て受け止めきれるはずもなく、優里と絵里香二人へ均等に散弾のペレットが食い込んでいく。

 その小さな頭部と、既に面影をなくしつつある頭部を貫いた弾丸は、いとも簡単に二つの生命体の活動を停止させて見せる。


 絵里香の思いを継ぎ、この小さな少年をせめても自らの歳くらいまでは守り切るつもりだった。それをこれからの生きる糧として、目的として、使命として生きていくつもりだった。

 だというのに、その小さな頭の中で考えつくされたはずの答えは、簡単に玲という男を絶望のどん底に突き落として見せた。両親を失った少年にとって絵里香はたった一人の家族であり、かけがえのないものであるということは十分玲も理解していた。

 かけがえのないもの。それを小さな少年から取り上げるにはいささか「かけがえ」という言葉に対する認識が甘かったのかもしれない。その認識がたった一人の少年の命を奪うことになるなんて、誰が予想できただろうか。もし絵里香を撃つということをちゃんと優里に説明したのならこんな結果にならなかっただろうか。いやそんな暇はなかった。そこまでかかっていない時間の中で、膨大と言えるほどの後悔と、もしもが頭の中に浮かんでは消えていく。

 絵里香の感染という一つの出来事で玲の抱えていた生への望みが全て瓦解し、まさに望みは絶たれたという状況だった。ここでありとあらゆるものを投げ打った廃人になっても良かったのかもしれない。しかし既に青年は壊れており、最愛に成り得た少女の亡骸を目の前に悲しみに暮れ、涙を流していたとしてもどこか客観的にこの出来事を見つめる自分がいた。

 だから数週間の時を経て、アイツがまた姿を現す。

「イヒヒヒヒ。結局お前は全員殺すんだよ。一人の方が楽だからな」

「違う! 仕方なかったから!」

「仕方なかった? もし本当に二人が大切な存在だったなら、トンネルに入る前で引き返していたはずさ。俺の危機管理能力はそんな薄っぺらいもんじゃない。そうだろ?」

 黒い毬藻はゆっくりと形を変え、一人の青年の姿を模して、話始める。もう既にイヒヒヒヒという奇妙な笑い方はしていなかった。

「どこか二人を邪魔に感じていたんだよ。だからお前はトンネルを進んだんだ。好奇心にかまけて、あわよくばお荷物を置いてこれればって」

「違う!」

「もしかしたらこのトンネルも、研究施設もお前がゴミ捨て場を望んだから現れたのかもしれないぞ! 世界は都合良く出来ているんだ。なんてったって二人を殺しちまったから、世界の生き残りはもうお前だけなんだから。お前が主人公なんだよ。この世界では」

「ちが――――っ!」

 と、否定する前に、死んでいる二人への思いより、心の底から発せられているだろう自分の声に従うことにした青年の瞳からは光が消える。

「そうだ。これで身軽になったじゃないか。沢山の備蓄は、一人だしもう要らないか」

「山の景色にも飽きたことだし」

「そろそろ本拠地に戻ることにしよう」

「やっぱりあそこに思い入れがあるし」

「未来を生きるより」

「過去に生きた方が」

『気が楽だ』


 あれだけ収集した備蓄も捨て、自らの荷物だけを手にトンネルを出た玲は、都心の拠点への道を歩き始める。辺りには背筋を気味悪くなでる冷えた風が吹き始めていた。


 冬が来る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る