盛夏と孤独とカップラーメン 2

「ここは入ったことがないな」

 そう告げながら玲が見ているのは、旧世界では有名な大手デパートであった。しかしこういったデパートやショッピングモールは大抵入り口が封鎖されている。

 パンデミック当初は皆家に引き篭もり怯えていたが、いつかは家の物資だって尽きてくる。そして飢えた者たちは新たな食糧を求め、物資が集まるデパートやショッピングモールへ集まった。するとそこはある種のコミュニティが形成されるようになり、新たな人間が入ってこないように入り口を塞いでしまう。感染者や襲撃者を防ぐためなら申し分ない。しかし混乱に陥っている世の中で初対面の人間が大人数集まって、まともに生活していくなんて不可能であり、大抵は崩壊する。その崩壊が速いところであればまだ物資が残っている可能性があるということだ。

玲はメインの玄関を試そうと瓦礫を片付け、扉を露出させた。ノブを掴んで何度か揺らしたが、びくともしない。扉の裏側に机や椅子が積まれているのだろう。そこで玲は入れる場所がないかと、一度デパートの外縁がいえんを歩いて回った。

 このデパートも同じく多くの植物に侵されており、かつては建築士が工夫を凝らしていたであろう外壁も今ではすべて蔓性の植物で隠され、屋上からは木が生えているようだった。

「まあここはだめか。入れるところとしてはどこだろうな。地上に続いている入り口はダメだろうから、上か……」

「早く入れよ、大安売りだろ? あ、全部無料だけど、入れないのか。イヒヒヒヒ」

「五月蠅いな。今それを探してるんだろ」

 玲は口にして推理した。孤独の弊害、そのうちの一つがこの独り言であった。人と話すことが無いという状況が生み出す言葉の欠如を、玲は独り言とイマジナリーフレンドで誤魔化していた。

 常に玲の周りで浮遊している黒毬藻みたいな形をした、悪魔のような妖精のようなものこそ、イマジナリーフレンドの一匹であった。玲の気分によって姿や口調が変わる彼らは、玲が狂っているから見えるのか、狂わないように姿を現しているのか、もうわからなくなっていた。イヒヒヒヒと語尾に付け、皮肉を絶えず言い続けるのが特徴のイヒ郎は、玲がイラついている時に良く現れる奴だった。文句や皮肉を言わせることで自分の冷静さを保つためなのだろう。しかしその五月蠅さは異常だった。

 玲はデパートの外縁を回り、見つけた路地裏から梯子を登った。室外機の点検用か非常階段への通路だろう。しかし、こんなわかりやすい出入口が無防備なわけがない。玲は警戒しながら慎重に梯子を登っていく。

 梯子を登りきると、非常階段の踊り場に出た。金属製で吹き曝しの場所だ。上を見ると、階段が崩落しているのがわかる。下から見たときは、九十九折式の構造で錯覚を起こしていたようだ。

「通りで、梯子を残しているわけだ」

「落ちるなよ。落ちたらぐちゃぐちゃだぞ。イヒヒヒヒ」

 梯子で既に五メートルは昇ってきていた玲はふと下を見て固唾を飲む。先ほど周りを見た限り、地上からデパート内に入れる隙はない。そうするとやはりこの中に入るにはこの崩落しかけている非常階段を昇っていくしかない。身を乗り出して上を覗けばすぐ頭上に一段上の踊場があるので、手すりにしっかりと掴まりながら、外へと身を出し、手すりの上へ昇りつつ、踊場の床へ手をかける。片手でも踊場の縁を掴むことが出来れば、ゆっくりと身体を起こし、両手で掴む。

 足は直径三センチほどの手すりに乗っているだけで、少しでも足を滑らせれば、五メートルを真っ逆さまだ。慎重だが大胆に、一段上の踊場へ向かって、玲は跳躍する。根性上がりの要領で何とか体を引き付け、手すりを掴み、踊場へ上がる。

 高さを自覚していたからか、無事昇り切った玲はどっと疲れを感じ、その場に座り込んだ。

「今回は落ちなかったな。今回は。イヒヒヒヒ」

「油断はしない」

 息を整えた玲は、目の前に聳える非常階段を一段一段確かめながらゆっくりと昇っていった。それから恐らく五階分くらいは昇っただろうかという時に、やっと扉を見つけ、ノブに手をかけた。

「まあ開かないよな」とつぶやき、再度扉を強く押すと、わずかに手ごたえがあった。玲は思い切って体をぶつけた。金属製の扉がドンッと響き、非常階段がギシッと音を立てる。嫌な予感を感じつつ、さらに二度扉に体を打ち付けた。三度目の衝撃でバキッと音がし、勢いよく扉が開いた。それと同時に、ベキベキという音を鳴らしながら、非常階段は重力に逆らわない自由落下をはじめ、地面に到達すると同時に粉々に砕け散っていった。もしあと数秒遅かったらと、見るも無残に崩れ去った非常階段を見て、玲は息を呑む。

「惜しい、惜しい。これでまた死ぬ機会を無くしたな。イヒヒヒヒ」

「落ちて欲しいのか落ちて欲しくないのかどっちなんだ」

 そんなイヒ郎――自分――の言葉を無視して、玲はデパートの中へ足を踏み入れた。入った先はデパートによくある階段であり、踊場にはトイレと少し進むとエレベーターホールがあった。中は酷い暗闇に包まれているので、バックパックのベルトに括り付けたライトを点灯し、感染者対策として、バンダナで口を多い、スキー用ゴーグルをつけた。

 既に多くの感染者が木へと変化したこの世界で、パンデミックは終息したと言っても過言ではない。しかし稀に成長が遅いのか、活動を続けているはぐれが居り、肝を冷やさせることがあった。特にこういった立て籠もりで生存を図った場所で感染が起こった場合、日光が入らないため、感染源であろう植物の何かしらが活性化されずに、木とならず感染体として徘徊している可能性が高い。

 感染体は光に反応するから下手にライトを点けるのも気が引けるが、そこに関しては致し方ない。暗視ゴーグルナイトビジョンがあればいいのだが、アジトの照明すらランタンである玲の手元にそんな代物あるはずもなく、感染体に怯えながらもライトを点けるしかなかった。

 デパートの中は意外と整頓されていた。もし襲撃者か何かに襲われていたら、様々なものが散乱しているのだろうから、このデパートは確実に中に死体若しくは感染体がいる。玲が入ったフロアはデパートの中でも紳士服のフロアであったらしく、革靴やスーツなど、明らかに崩壊した世界では使い物にならなそうな服装がそこには放置されていた。しかし鞄やワイシャツなどはこぞって無くなっている。

 大抵のデパートには階層の中心にエスカレーターがあり、その乗り口には各階のマップ及び、各階層に何があるかの掲示があるはずだ。それを求めて玲は歩き始める。玲の手には大きな包丁――ナイフが握られていた。


 地下一階に食品売り場があることを知った玲は淡々と停止したエスカレーターを降りていた。なるべく音が立たないように静かに。七階の紳士服売り場から下に降りていき三階についた時だった。酸っぱいとも違う異様な香りが玲の鼻を貫いた。バンダナ越しでも香ってくるこの匂いを玲は知っている。

 死臭。人の肉体が腐るが故にするその香りは全てを終えたはずの今でも忘れられない、忘れることの出来ない嫌な臭気だった。

「臭い臭い。玲が殺した奴もこんな匂いがしてたよなぁ。イヒヒヒヒ」

 死臭がするということはこのフロアで多くの人間が死んだということになる。だから感染体がいるとすればこのフロアだった。耳を澄まし、警戒を怠らないように行動するが、辺りを包む匂いが玲の集中力をかき乱す。ただでさえ暑いというのに、その湿り気に載って、死臭が自らの身体を包み込むような錯覚を覚えていた。

 果てしなく続いているように思える暗闇の中で一点しか照らすことの出来ないライトが心許なく、寧ろこの明るさが不安を掻き立てる。しかし研ぎ澄まされた玲の耳に何か特別な危険を感じさせる音は聞こえてこない。それよりもある地点に近づくにつれて、だんだんと悪臭の列度が激しくなっていた。

「一人じゃないな」

 吐き気を催すほどの激烈な臭気は一人の腐乱死体だけではないだろう。恐らく二人いやもっと大人数が死んでいるのだろう。玲はまずその死体を確認することにした。

「こいつらか……」

 玲の目線の先には首を折られた少女が二人と、首に裂傷が残る男、そして植物になりかけている女が一人いた。男の手に血の付いたナイフが握られているのを見るに、男の首に傷をつけたのは、自分自身なのだろう。

「家族か」

「心中心中、無理心中~。イヒヒヒヒ」

 女が感染したことを切っ掛けに絶望に苛まれた男は家族で自殺することを選んだのだろう。

「胸糞悪いところに入っちまった……」

 しかしこんな世界で一人生きる玲にとっては、この選択は良い選択とも言えるだろう。こんな世界で生き続けるのは苦しい――絶望だ。生きている玲の顔には苦悶の表情が浮かんでいる。しかし死んでいる彼らの顔には、まるで幸せに包まれているかのような、安らかな眠りの表情が浮かんでいた――。


 それから玲は食品売り場に残っていたカップラーメンや缶詰など、バックパックに入れることの出来る分の食料を詰め込んだ後、一階の正面ホールをこじ開け、デパートを後にした。

 未だ食品売り場に食べることの出来る食料は余っている。しかし玲はこのデパートに、このデパートがある地区に戻ってくることはないだろう。玲が彼らを、彼らが使っていたであろうベッドに寝かせてきたことを知る者は誰一人として現れることはないし、それを知ってしっかりと埋葬してやるべきだと玲を咎める者もいない。だがもう二度と玲はこのデパートには戻らない。

 あそこには彼らの家族団欒がこの世界が終わるまであり続けるべきだと思ったから。

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