植物人間の救い方
九詰文登/クランチ
本章
四年目 大暑 桐始結花【きりはじめてはなをむすぶ】
盛夏と孤独とカップラーメン 1
『二〇二〇年七月二四日(曇)。
先日知ったのだが、ちょうど今日は本来なら東京五輪が行われる日、所謂開催日であったらしい。もちろん開催できるわけがないけど。上空を戦闘機が飛んで、スモークで五つの輪を描くこともなければ、多くの外国人が日本に流入することもな――』
「ああ、やってらんねえよ」
「あーあ。また投げ出すんだ。いっつもそれだよ。自分で始めた日課の癖に。イヒヒヒヒ」
別に過去に書いた自分の日記を読み返したいから始めたわけではない。なんと無しに落ち着いた今、世界の現状を鑑みて「記録」を残さなければならないかもしれないという使命感に襲われたからであった。
「どれもこれも食事記録。それもほとんどかわり映えしないし。インスタ映えなんだっけそれ? イヒヒヒヒ」
しかし今まで書いてきた日記帳は、最初の一冊のそれまた最初の方の数ページを除いて、食料の記録表になっている。
「社会が戻ったら、貰った分の金を返すためって言ってたけどどうなの? 社会は戻りそうなの? イヒヒヒヒ」
籠った室内に薄っすらと霧がかかったように見えるほどに、感じる湿度は気分が悪く、外に出るつもりがなかった玲は仕方なしに住処の扉を開け、外に出る。今日は真夏日だった。朝のニュース番組も天気予報もないが、体感で真夏日だと玲は思う。真夏日でもなければ室内に霧が出てたまるかと、イライラしながら出たもの結局外も暑いことに変わりはない。
煌々と照らす太陽はじんわりと肌を焼いているのを感じる。玲はこんな状況で上着を着るなんてことしたくはなかったが、流石にこの日差しでは痛い目を見るだろうと思い、手に持っていた上着を着て、日差しから体を守る。それから使い古した鞄――バックパックと言われるタイプ――を背負い、アジトを出た。
ビルの間から吹き抜ける風は清々しく、微かに植物の青臭さを孕んでいる。それもそうだろうほとんどの建物は倒壊し、ビルも傾き、その壁面には留まることを知らない植物たちが侵略しているのだから。
人の文明は滅んでいた。
実に簡単な話だった。今思えば、ゾンビパンデミックものなどを描いていた者たちは予言者なのではないかと思うほどに、突然日常を破壊された世界は、簡単な世界だった。皆慌てふためいて、突然変異した人間に襲われ、自らもその突然変異したものへと成り下がっていった。悪の組織がばら撒いた新型ウイルスでも、人間に寄生するように変異した冬虫夏草でも、宇宙から飛来した謎の生物でも何でも良い。感染した者の体液を体内に取り込んでしまうと自分も感染する。そのありふれた方程式の元、人類は新たな体へと昇華していき、旧世界の人類は数か月の間で一割ほどにその数を減らした。
滅び切った世界を見ると、この現実世界で起きたパンデミックの原因は何かしらの植物が原因なのだろうと思う。そこら中に生えている植物の元は、皮膚などが樹のように変化し、既に意識があるかどうかもわからない姿に成り下がった人間であった。例えるならば、お盆に祖父母の家へと帰り、夜寝るときに見た天井が人の顔に見える。そんな程度に、微かに樹にかつての人の面影を感じる。樹なのか人間なのか判断がつかないほどに、彼らは植物だった。
人間が多くの植物を殺したからか故の結果なのかは、もう研究者と名乗ることができる人間がいないのでわからない。しかしゾンビパンデミックに包まれた人類の行く末は植物であった。
そんな中で生きる玲は残念ながら、感染者が発見された街の警官や、パンデミック後に愛する子を殺された憎しみを抱える父親や、人類の希望となり得る感染に抗体のある英雄でもなかった。ただ先ほども言ったように、玲は簡単に生き延びて見せた。それは先人が漫画や、ゲームや、映画という形で生き延びる術を残していてくれたからであった。この世界の教本は、バイオハザードで、ラストオブアスで、アイアムアヒーローで、アイアムレジェンドで、ウォーキングデッドで――。
大きな音を鳴らさない。人を信用しない。倫理観を捨てる。食糧より水。まず向かう先は銃砲店。銃の撃ち方、食料の確保の仕方、人の殺し方、いざというときは人すらも食べる勇気。
感染者が蔓延る世界で生き延びる術を知っていた玲は恐らく唯一この世界でそれらを全て体現して見せた人間だった。だからこそ今ここで生きている――パンデミックが終息した世界で。
パンデミックが始まってから約三年、三回も夏を迎えてしまえば旧世界で生産されていた食料は腐り果て、もう食べられる物は缶詰やカップ麺などの保存食ばかりであった。それらの保存食であってもカップ麺やレトルトカレーは既に賞味期限が過ぎ、翌日の腹痛を心配しながら食べるという毎日が続いていた。カップ麺はまだ見た感じ大丈夫そうだと安心できるものも多かったが、レトルトカレーに至ってはダメになってしているものを最近よく見るようになっていた。だからこそまだ保存が効いているレトルトカレーを作った会社に対しては、もう遅いのだろうが、感謝した。
食料といえば、たまに鳥や鹿などの野生動物を見ることがあるが、現状の装備ではそれらを狩ることは不可能であった。かつて使っていた散弾銃や猟銃、拳銃などは弾の枯渇でモデルガンと変わりがないだろう。
パンデミックが起きた当初こそは、銃砲店に駆け込んだタイミングが早かったため、いくつかの武器と多くの弾を手にすることができたが、約二年もの間戦い生きるには少なかった。弾が枯渇し、住処に置いているものの銃の手入れなんて、もう数か月は行っていない。今使えば暴発して玲の手が吹き飛ぶかもしれない。
しかし、もう敵も味方もいなくなった世界で敵を殺すための武器は必要ない。強いて言うなら野生動物を狩るための道具が欲しいため、図書館へ赴き、弓の使い方を学んでみたものの、本を読んだだけで獲物を狩れるほどの技術が手に入るわけでもなく挫折した経験を持っていた玲はやはり銃を手放すことができなかった。本来一生のうちに一度味わうか、味わないかの火事場を何度も潜り抜けてきた玲の射撃の腕は本人の意図しないところで着実に上がっていっていたが、今ではもうただの宝の持ち腐れだ。
漫画や映画では、大きな戦いが終わればストーリーもそこで終了して観客は絶大なカタルシスを得るのだろうが、現実はそうもいかない。玲はゾンビパンデミックという世界で生き残るという最高ともいえる偉業を成し遂げたかもしれない。しかし彼は生き残ってしまったが故に、エンドロールは未だ流れず、生きなければならない。生きるために食料を探さなければならない。
孤独に耐えかねて、自らの命を絶とうとしたこともあったが、自らを殺すことは人を殺すより恐ろしく、結局今も惰性で生きている。
ここらのスーパーやデパートは既に探索しつくしていたために、今日は遠出することにした。もちろん感染者を見なくなってから随分と時が経つためそこまで警戒する必要もないのだろうが、そう言った油断をしたときに命を落とすということを玲は良く知っている。だからこそこれだけ暑い日ではあるが、長袖長ズボンに手袋を鞄に入れ、スキー用ゴーグルと顔を隠すためのバンダナも所持していた。
「ここら辺に感染者なんてもういないって。弱虫だから格好もださいぞ。イヒヒヒヒ」
生存者と会う時も玲は顔を隠していた。一時的に協力する者たちだとしても自らの顔を覚えられると後々リスクになると考えた結果であった。
この街も世界が崩壊する前に歩いたことがあった玲だが、もうその面影はほとんどなく、道のアスファルトは粉々に砕かれ、ひび割れたアスファルトからたんぽぽが顔を覗かせているのを見て植物の強さに思いを巡らせるなんてことはなく、辺り一面草原とはいかないまでも緑に侵されている街をただ呆然と眺めるだけ。水道管破裂でどこからか流れ出ている水によって、街の地面はいつも薄らとぬかるんでいるせいで、いくつもの靴や靴下を無駄にした。
「今日もべちゃべちゃ、明日もべちゃべちゃ。イヒヒヒヒ」
感染者や生存者との戦いが落ち着き始め、心に余裕が出始めた頃ではこの崩壊した世界を美しいと思える気持ちもあったのだが、今となってはただ歩きにくいとか、歩きにくいとかそれだけだった。寧ろこの景色を見て歩きにくいという感想が出てくるくらいには玲はこの世界に慣れており、住めば都ともよく言ったものだった。
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