四年目 霜降 霜始降【しもはじめてふる】

晩秋と休暇とボウリング 1

 晩秋。辺りの空気は明らかに、この山に来た頃と比べ、変わってきていた。風が冷たくなってきたのも、もちろんそうだが空気が乾き始めているのを感じる。寒いからといって火を起こすと、顔が乾燥していくのがとてもよくわかるほどだ。

 この移ろいゆく季節の中で、玲自身も少しずつではあるが変わっていっており、それを自分が一番良くわかっていた。

 彼を変えたのは、言うまでもないだろう。

 絵里香はいつも変わらない笑顔で、優里はその小さな逞しさで、確かに玲を支えていた。それこそ当初こそは彼らに対し、ちゃんとした不信感を持ち、彼らとの生活をなるべく早く、どういう形であれど二人と別れ、違う道を行こうと思っていたのだが、今となってはもう共に未来を望んでいる。

 そんなことを思ってしまう自分に呆れながら、弱くなっていく自分を受け入れていたのも事実だ。三年もの孤独の先に得た、仮初の家族と言うのは確かに玲の胸の奥深くで眠る心をゆっくりと溶かしていく。

 しかし玲の感情は人と人との愛と言うよりかは、物に対する愛着のようなそんな感情であった。絵里香とキスをして、命を育みたいとか、優里と兄弟の様に競い、遊んで過ごしたいとか、そう言った感情ではなく、ただこの日常を奪われたくない。

 もちろん人の愛という物自体、形を成さない不確かな電気信号に過ぎないから、玲の心が壊れているから人を愛することが出来ないどうこうというより、愛と言う感情が生まれたそれ自体に価値があった。

 しかしそれでもまだ埋められない壁として、絵里香と優里の眠る部屋の扉には箪笥が立てかけられている。

 だから玲の一番の朝は、この箪笥を外すところから始まる。


 流石に寒くなり始めているから布団から出るのは躊躇われるが、この寒さは冬が近づいてきている証拠だ。この気候にかまけてだらだらとしていたら、食料を確保できず、冬に餓死に至ることになる。と、言っても玲とて、もう三回もこの世界で越冬しているから大抵のアクシデントがあったとしても、死ぬようなことはない。

 しかしそう言った経験があったとしても抜かりなく準備をする。それが玲だ。

「もうこれ無くしてくれてもいいんじゃないかな?」

 不便そうに、向きを変えられた箪笥で半分近くを塞がれている廊下をゆっくりと通り抜けてきたのは絵里香だった。

 普段の変わらない軽口を交えた文句のようなもので、玲こそ普段からその軽口を軽く受け流していたが、なぜか今日はその文句をまともに受け取ってしまっていた。

「二人に対して信用がないわけじゃない。いやもう家族の様に信頼しきっている。でもこの箪笥を外したら今までの様に生きられなくなる気がして」

「何言ってんの。早く朝ごはん食べよ」

「そうだな」

 絵里香の後ろからは、優里が眠たそうに部屋から出てくる。

「おはよう、優里」

 玲がそう言うと、優里は変わらず無邪気な笑顔を向けた。


 絵里香はもう手慣れたもので、玲が朝食を準備するまでもなく、三人分のパンとスープをさっと作り上げていく。最近は食べ物の収集を三人で行えるようになったこともあり、木の実の種類も増えてきていた。それどころか二人がかつていたシェルターで、優里が収集可能なキノコを大人から教えてもらっていたらしく、最近の食卓にはキノコが登場し始めていた。

 玲は最初こそキノコを食べることを躊躇していたが、普通の山菜なども毒草に似たものがあるという事実を絵里香に突き付けられてから、だんだんとキノコを口にするようになっている。

「ありがとう」

 一言だけ告げて、食卓に座る玲は「どういたしまして」と笑う絵里香と優里が席に着いたのを見て、食事を始める。

 それこそ食卓にキノコが増えたとしても、パンとスープと、と質素な食事であることには変わりなく、肉や魚などのタンパク質は長い間口にしていなかった。

 明らかに体力が落ちているのはそれが影響しているというのをわかっていた玲だが、猪や鹿、鳥などを撃つ気にはなれなかった。

 ゾンビパンデミックの渦中で動きを予測できない人間を長距離射撃で仕留めた経験がある玲にとって、獲物を撃つということ自体は簡単なことだろうが、何よりも獲物の追跡術や、獣道の歩き方などの知見は全くない。それ以上に、人間と言うタガが外れ、解放された動物たちを罪を負いすぎた自分が生きるためにという理由で殺すことが出来なかった。

 もし、一人で山に暮らしていたらこの気持ちは多少変わっていたかもしれない。しかし絵里香と優里と共に過ごし始めた玲にとって何かを殺めるという行為は、悪しき行為であるという認識が強くなってきていた。

 それが罪滅ぼしのためなのか、彼らに対して正直でいるためなのかはわからないが、玲にとって殺害と言う行為は強い嫌悪の対象だった。

 言うなれば木の実は植物たちの命の結晶だと言うのに。


「今日も採集に行くの?」

 少し不満そうに絵里香が言った。

「そのつもりだったけど、何で?」

 玲の言葉もどこか棘の取れたものになってきていた。

「今日何曜日か知ってる?」

 そういう絵里香に玲は驚いていた。何よりも玲にとって曜日と言う存在は既に失われたものだった。

 月曜から金曜まで働いて土日に休む。全員がこのサイクルで回っていたわけではないが、ほとんどの就労者はこのサイクルで仕事を続けられるように土日と言う二連休で心身を休ませていた。

 しかしパンデミックによって崩壊した世界ではただ一日がそこにあるだけだ。明日は待ちに待った休みだとか、来週は友人たちと遊びに行けるとか、月末は旅行だとかそんな胸躍らせるような予定なんてものはある筈もなく、ただ一日を生き抜く。それだけで精一杯な三年間だったのは、絵里香も同じはずだ。

 でも絵里香はスケジュール帳のような小さなノートを見ながら、今日は日曜日だと、休みをくれと目で訴えている。

「その様子だと土曜か日曜のどっちかなんだろうけど、二〇二〇年のスケジュール帳なんて存在するのか? 二〇一七年に世界は滅亡してるのに」

「え、そんなの簡単じゃん。二〇一七年の曜日から三つずれた曜日が今日の曜日だよ」

 そんな計算を小学校だか中学校でやらされたなと思った玲は、そう言ったことのみに発揮される絵里香の頭の速さに嘆息を漏らしながら、続ける。

「じゃあ今日くらいは休みにしようか。でも何がしたいんだ?」

「うーん、ここら辺の街でも散策してみない?」

 言われてみれば、この家と山を往復していただけで、このあたりの街を散策したことはなかったと思った玲は、絵里香の案に賛成する。それこそ絵里香は息抜きにという意味での提案だったのだが、玲は使えそうな物資の収集と頭を切り替えている。しかしそれを言うと絵里香に文句を言われるだろうと思った玲は、それを口に出さず、食事を続けた。


「え? なんでいつもより鞄大きいの?」

 玲と優里二人揃って山に行く時より大きなリュックサックを背負っているのを見た絵里香は抜けた声を漏らした。

「いや必要なものがあるかと思って」

「優里も同じ考えってこと?」

 優里は頭を横に振る。

「優里はおもちゃとかそういうものがあるかもしれないからって俺が言ったんだ」

「優里は良いけど、玲はダメじゃない? 休みだよ? 休みを謳歌しなきゃ!」

 と、無理やりにも鞄を引きはがそうとする絵里香を横目に玲は溜息をつく。

「わかった。でも護身用とかで普段持っているようなものは持っていくからな」

 玲は普段から愛用しているある程度の薬やいくらかの弾丸が入った小さめのリュックサックを背負い、肩から銃を提げた。

「銃も持っていくのぉ?」

「何があるかわからない」

「そうかなぁ、もう生存者も感染者もいないでしょ」

 楽観的に笑う絵里香に対して、玲は悲観主義とでも言おうか。

「そういう気が抜けた時に殺された人を沢山見てきた。二人を守るためでもあるんだ」

 なんてことのない玲の一言に、不意を突かれたのか絵里香は顔を少し赤くした。自らの頬が紅潮したのがわかったのか絵里香は恥ずかしそうに玄関から飛び出し、「早くいくよ!」と笑った。


 玲はやれやれと首を振りながら、優里の手を取って、玄関から出る。

 三年ぶりの休日だ――。

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