初秋と出会いと山の恵み 2
どんなに疲れていても玲の朝は早かった。鳥が鳴くでも、朝日が窓から差し込むでもなんでも良い。体内時計ともわからないが、日が昇ると彼の身体は覚醒した。しかしこの日の目覚めは悪い。それもこれも全て見知らぬ他人が同じ屋根の下で寝ているからであり、昨日のことが夢で、寝床から台所を抜けた先にある角の部屋、扉を塞いである箪笥の先に誰もいないでくれと願った。
しかし夢であってくれと願う時は大抵現実であることを知っている玲は、箪笥を退けて、鍵をかけたままその扉越しに声をかけた。
「おはよう、起きてるか」
「うん」
静かで淡々とした無機質な声音だった。
「優里も大丈夫そうか?」
「久しぶりにぐっすり眠れたみたい」
「それなら良かった」
全くと言っていいほど良いとは思っていない。ただの悩みの種に過ぎない彼らは一人が女で一人が子供だ。こんな世界で子供なんて足手纏いでしかないから、玲は今まで子供がいるコミュニティに身を置いたことはなかった。採集に行くにも、家に置いておきたくはないし、連れていくのも邪魔になるだろうと悩んでいるところで絵里香から声を掛けられた。
「もう出ても良い?」
「ああ。すまない」
掛けていた南京錠を外して、扉を開く。この瞬間玲は少し警戒していた。恐らく彼女は何も持ってはいなかったが、この扉を開けたら武器を持った悪魔が潜んでいる可能性だってある。ここまで生き延びた玲が女一人の力に負けるとは思わなかったが、警戒を怠るほど平和に甘えない。
しかし彼女は静かに何をすることもなく部屋から現れた。後ろ手に恥ずかしそうにバケツを抱えていたので、玲はあまり絵里香を見ないように、外へと促した。
それから昨晩と同じメニューの朝食を取り始める。
「味、大丈夫か?」
玲はなんとか二人と打ち解けようとそんなことを口にした。
「美味しい。優里もそう思うでしょ?」
絵里香がそう優里に尋ねると、その少年は年相応の笑顔を浮かべながら玲を見た。
「その子口が?」
「目の前で両親を――」
「すまない、それ以上はいい」
昨晩の食卓でもそうであったが、ここまで生き残ってきた者たちの過去なんてものは須らく凄惨で、絶望的で、救いようのない話だ。未来への路が拓けているからこそ、過去に目を向けるべきなのであろうが、それにはまだ時間が足りなかった。だからこそ玲は今日やるべきことを二人に伝える。
「今日はどんぐりやカヤの実、クルミやそう言った食べることの出来る秋の味覚を山から収穫する。先に二人には植物図鑑や野草図鑑を渡しておくから、それを参考に食べられそうなものを持ってきてほしい」
絵里香はどんぐりパンを口に放り込みながら、うんうんと頷いている。優里は食事に夢中だった。玲は食事をさっさと終わらせ、準備に入る。
愛用しているバックパックにいくつかのビニール袋を入れ、その他にいくつかの予備弾倉を入れた。採集の時は基本的に持ち帰ることの出来る物資をより多くするために持っていく物資は少なくなるようにしたい。だからナイフや剣鉈は腰のベルトから提げ、銃は肩から背負う形で持つ。
玲は先に外に出て二人が出てくるのを待った。
穏やかな朝だった。外では雀が鳴き、そこまで冷たくもない風が吹きつける。その風には少しの砂ぼこりと、かすかな金木犀の香りが乗っている気がする。本当であれば何も考えず変わらずに木の実を取るだけで良かったはずなのに今日は違う。
がらがらと音のなる引き戸を開けて、二人が出てきた。家に余っていた衣服を適当に渡したので、不格好ではあるが、来た当初よりかはまともな格好をしている。
「お待たせ、いい朝だね」
絵里香が気を使って話題を投げかける。
「いつもと変わらないよ」
交流を深めたくない玲はいつもと変わらず冷たく返した。
「ずっとそんな感じでいくの?」
玲の態度に少し腹を立てたのか語気を強め絵里香は指摘した。
「君の弟が話せないように、こっちにだって事情はある。俺が嫌なら今すぐに去ってもらっても構わない」
「ごめん――。でも少しは仲良くしたいな」
と、玲の顔を覗き込むように笑う絵里香は可愛げがあった。それこそ、か弱そうな彼女がここまで生き残れたのはこの底抜けの明るさだったり、女としての武器の扱いのうまさだったりするのだろう。
しかし極度の
「家族でも友人でもないのに仲良くする意味はない」
「でも一緒に生きてる」
「それは――」
未だ笑う彼女に対し、もう何を言っても無駄だと思った玲は何も言わず山へ向かって歩き出した。
「ちょっと待ってよ!」
そんな声も無視して。
今日の山の中はいつもと違う意味で五月蠅い。後ろでは山道に慣れていない女が「疲れた」だの「わからない」だの文句を垂れているからだった。それに対して喋ることの出来ない少年は、喋ることが出来ないからかはわからないが静かに黙々と目についた木の実などを収穫している。
普段とは違うにぎやかな登山道。もちろん効率で考えればかなり落ちるが、これはこれで楽しいかもしれないと思ってしまう自分に玲は静かに溜息をついていた。何よりも一生の孤独と割り切っていた自分がこれほどまでに他人を求めていたのかという事実に呆れざるを得ない。
玲の中には二人を受け入れるべきだという考えと、一人が安全だという考えが背反を起こし、いつものように淡々と作業することが出来なかった。
「ピクニック、ピクニック。イヒヒヒヒ」
でも頭はイヒ郎が出てくるくらいには冷静だった。いやイヒ郎が出てきているから冷静ではないのかもしれないが、確かにこの五月蠅い奴の言葉を聞きながらでも作業が出来ていると、思わないとやっていけない。
それから日が一番高くなるまで作業したところで、とうとう絵里香が音を上げた。遠くで聞こえる文句に耳を澄ませてみると「喉が渇いた」と言っているらしい。
一リットル一キロもする水を山へ運ぶことの労力と貴重な水を節約していた経験を踏まえて玲はいつも喉が渇くまでに採集を行い、家に戻り、成果を置いて、また山に戻るというルーティンを続けていた。
だから二人にも水を渡しておくのを忘れていた。
「すまない。一度休憩しに戻ろうか」
「喉渇いちゃったかな。優里も座りっぱなしになっちゃってるし」
そして何を思ったか玲は優里を背負い、山を下り始める。
「俺の気が至らなかった。疲れたよな。すまない」
「じこちゅー、じこちゅー。イヒヒヒヒ」
ただでさえ地獄とも言えるような世の中を、小さな体で生き抜いてきた優里だとしても、それは運が良かっただけで、明確に誰よりも身体能力に優れているとかではない。
現実は非情だった。
それこそ優里がウイルスや寄生菌に対する抗体を持っている子供だったり、ウイルスや寄生菌を元に人並外れた力を覚醒させていたり、なんてことはない。
優里はただの子供で、子供らしく疲れている。しかしそれでも文句や弱音を吐かない彼の姿はどこか玲の胸を締め付ける。本来であれば、母親の胸の中でわがままを言いたい年頃であろう。それでも彼が確かな眼差しの元、口を固く結んでいるのは、やはり優里も「この世界の」子供なのだ。
一度家に戻り、水を煮沸して貯めておいたものをカップに注ぎ、それを二人に渡した。少し前まで玲が拠点にしていた場所とは違い、この山奥では清廉な水をいくらでも得ることが出来た。
都心の拠点でも水道管破裂によって、街の至る所で水を得ることは出来たが、その水が上水か下水かもわからない上に、純粋なH2Oとも言い切れない。何か変な薬品が混ざっている可能性だってある。
だから玲はその水を飲料として使うことは無かった。何よりも食器を洗ったり、衣服を洗ったりといったことに使うことはあったが。
そんな生活を続けていたからこそ、この山で取れる水の美味さたるや、感情の起伏が減った玲を唸らせるほど。
この二人にその美味さがわかるかはわからないが、喉が渇いたという状況があるからこそ、ごくごくと喉を鳴らして水を飲む二人の姿は清々しさすら感じた。
絵里香は「もう一杯頂戴!」というのに対し、優里はこの水も濾過して煮沸してと、ある程度の苦労があることを知っているかのように遠慮している。
「お前も飲め」
と、先に遠慮している優里のカップへ水を注いだ後、絵里香のカップへ水を注ぐ。
優里は嬉しそうに笑った後に、絵里香は一瞬で、その水を飲んだ。
それから玲は改めて木の実の収穫を始めるに際して、辺りの家屋をある程度散策し、水筒の代わりになりそうな容器を見繕い、それを満たして二人に渡した。
その水筒を首から下げて、楽しそうに山を登る優里はまるで遠足に来た小学生の様で、世界がこんな風にならなければと考えかけた玲は拳を握りしめ、考えるのを辞めた。
本当になんて事のない日々だった。無難と称される日々のはずだった。いや、二十代になったばかりの青年と、二十歳にも満たない少女に十歳くらいの少年の三人で暮らすなんてことは難が無いとは言えないだろう。
でも孤独に慣れすぎた玲にとって、この滅んだ世界で繰り広げられる穏やかな日常は確かに望んだ温かなものだった。
孤独は人をダメにする。既に玲の周りに現れなくなっていたイマジナリーフレンドの面影を見ながらも玲は笑う二人に対して、同じような笑みを浮かべた。
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