四年目 処暑 禾乃登【こくものすなわちみのる】

初秋と出会いと山の恵み 1

 朝目が覚めても、身体が寝汗によって不快に濡れていることはだんだんと少なくなり始め、衣服も薄い長袖からいくらか厚手の上着を着る日も多くなってきている。

 かつては青々と茂っていた人樹も、秋を感じ始めたのか赤々と紅葉しており、気温だけでなく、景色からも季節が移ろっていくのがわかった。しかしまだ寒いと感じる日は多くなく、日が低くなりつつも、寒いほどではなく、日中も過ごしやすくなってきたため活動範囲は夏より広くなっていた。

 最近は日射病や熱中症を気にして回っていた建造物の中ではなく、森や山など自然に近い環境を探索することが多く、彼らが実らせた多くの恵みを収穫し、それを食べることが多くなってきていた。

 日本で取れる木の実といえば銀杏やどんぐり、カヤの実で、銀杏は世界が崩壊する前から見知った食べ物であったため、母が行っていた調理を思い出し、手順通りに料理して食べた。他のどんぐりやカヤの実、そのほか多くの山の恵みは図書館から持ってきた野草図鑑やキノコ図鑑なりで食べられるものを選別する。流石にここまで来て食中毒で死ぬなんてことは目も当てられないので、念には念をと、絶対に大丈夫だと確信できるものしか口にしない。

 そんなことを繰り返してきて早一か月、片手にあった植物図鑑は既に姿を消し、継ぎ接ぎだらけの衣服で玲は鉈を振り回し歩いていた。


 柔らかな土、香る青臭さ、たまにする腐敗臭は動物の死体だろうか。都市も既にこんな匂いに包まれ始めてはいたが、未だ堅いアスファルトや崩壊したビルなどの人工物が目に入るためこれほどまでに洗練された感覚を味わうことはなかった。

 車や多くの人々。店や彩るネオン。様々なもので喧騒と謳われた都会に対し、自然は静寂に例えられていた。

 静か、穏やか。しかし本当の森に足を踏み入れてしまえばそんなことは都会に慣れ過ぎた者たちの妄言だとわかる。風によって葉と葉が擦れ合う音や、自らが踏むことで音を鳴らす枝木に、かすかに遠くで聞こえてくる動物の鳴き声。それ以外にも小川のせせらぎや何か土が蠢くような音。そこでは人間が想像できないほどに多くの生が息づいている。


 都心からこの山林地帯へ毎日歩いてくるのも骨が折れるため、玲は山の麓にある小さな家を一つ借りて過ごしていた。都心にある本拠地とは違い、ちゃんとした家である体裁を保っているこちらは玲のことを確かに癒している。しかしパンデミック前の生活とは明らかに違い、靴は家の中だろうと脱ごうとはしない。危機に対し咄嗟に反応できるようにと日本人としての仕来りをグッと押し殺してはいるが、古民家の畳が靴と泥によってボロボロになっていくのはとても玲に罪悪感を覚えさせた。

 

 大抵の者たちは国の支援という本来絶対的安心を覚えられるものに縋り、貴重品と呼ばれたいくらかの金品と最低限の着替えなどを持って避難していった。だから案外こういった家々には多くの使えそうな物資が残っており、今どんぐりの調理に扱っている多くの鍋もほとんどがこの家に残っていたものだった。

 玲は水を張った鍋に全体がつかるように採ってきたどんぐりと一緒に重曹を入れてぐつぐつと煮て、灰汁を抜き、また水を張り重曹と共に煮てというのを繰り返している。何回かどころではなく十数回繰り返さないと、嫌な渋みが残る。だから玲は採集日と加工日を交互に行い、冬に向けての備蓄を増やしていた。

 そんなあくびをしながら果てしないほどのどんぐりの灰汁抜きを続けていた時だった。家の中にあった箪笥などで封じていた扉がどんどんと叩かれた音を聞いた玲は手元にあった銃を手に取り、足音を立てないように出入口に使っている裏手から外へ出た。

「ぐつぐつどんどん。イヒヒヒヒ」

 緊張の糸が張り詰めているのが肌から伝わってくる。外は暗くなっており、灯りなんてものはとうの昔に消え去っていたため、本当の暗闇が続いている。それこそ夜に家から灯りが漏れて、居場所がばれるなんてことは絶対にあってはならない事であったために、灯りが漏れそうな窓には全て目張りやカバーがしてあるはずだった。だから後をつけられたということだろう。

 外に出て、目を瞑り三十を数える。そうすれば目は暗闇に慣れ、何も見えなかった黒の世界に形が現れ始める。

 そして足音を立てないように玄関を壁越しに伺う。そこには女と恐らく十にも満たない少年が立っていた。服はボロボロで、暗闇でわからないが恐らく身体も傷だらけなのだろう。

「殺す? また殺す? イヒヒヒヒ」

 ここで下手に物資を渡しても、潔く帰るとは思えないが、子供を殺すのも気が引ける。活動拠点がばれた以上、いなかったことにして逃げるのが最適解なのだろうが、逃げてしまうにはもったいないほどの備蓄がこの家の中にはあった。

 しかし彼女たちが二人だけとも限らない。こういった助けてやりたくなるような者たちを差し向けて、気を抜いた瞬間に辺りに隠れていた仲間が、なんて作戦はありふれている。

「お腹が空いているんです。怪しいと思うなら衣服を全て脱がされてもかまいません。この子だけでも」

 そして力なく扉を叩いたのを最後にその女性はゆっくりと項垂れるように地面へ倒れ込んだ。

「おいっ」

 立ったまま倒れるのは危ない。だからではない。ふと、彼女が倒れていくのを見て今までの自分の孤独が凄まじい勢いで彼の脳内でフラッシュバックしたのだ。もし今彼女を見捨てたら一生一人かもしれない、と。

 咄嗟に抱き抱えられた彼女は閉じかけていたその目をゆっくりと開き、消え入りそうな声で「ありがとう」と答えた。


 彼女の名前は絵里香エリカと言った。連れていた少年は優里ユウリと言い、弟らしい。腹が減っていた二人には腹に優しいものをと、どんぐりで作ったパンと、山菜のスープを振舞った。振舞ったと言ってもどちらも調味料などはほとんどなしで、素材を生かした味付けになっているので淡泊としか言いようのない味わいである。

 しかしそれを抜きにしても数日間も食べていないと言っていた二人にしては豪勢な食事であることに変わりはない。

「ありがとう。助かりました」

「敬語はいらない。敬われるような奴じゃない」

「そう、でも――ありがとう。今まで一人で?」

「今までの話は辞めよう。お互い良い思い出なんてないだろう?」

 目に光のない状態で、全ての言葉を冷たく返す玲に対して、絵里香は口を噤む。

「すまない。人と話をするのが久しぶりで」

「ううん。大丈夫。私こそごめんなさい、突然」

「大丈夫だ。俺はもう寝る。明日は山に冬のための備蓄を採集しに行く。だからゆっくり眠っておけ」

 そのまま二人をダイニングにおいて戻ろうとしたが、自分が警戒心を解き過ぎていることに気付き、戻る。

「すまない。二人ともボディチェックをさせてもらう」

 孤独は人をダメにする。それを痛感し、玲は敢えて二人に銃を見せながら彼女の身体をまさぐった。栄養が十分に取れていないからか絵里香は細い女性だった。でもしっかりと女性の柔らかさがあって、そのせいで彼女の身体を触ることが非常に躊躇われた。

「大丈夫。見ず知らずの私たちを受け入れてご飯までご馳走してくれたんだからこのくらい」

 彼女の言い方は玲を受け入れているようで、まるで玲を悪者扱いしているかのような言い方だった。

「――もういい。でも君たちが眠る部屋には鍵をさせてもらう。早朝には開けるから我慢してくれ。二人が寝る分にはちょうどいいはずだから」

「わかったわ。寝るところまでありがとう」

 二人を部屋へと案内して、その出入り口に「トイレしたくなったら」とバケツを置いた。そして鍵をかけ、その扉を箪笥で塞ぎ、普段の自分の寝床へ行き、眠りにつく。手には散弾銃を握りしめて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る