第14話 邪神との戦い2
真一の足元はアリジゴクの黒い背だった。
生け花の剣山のような短い剛毛が、薄い上靴の底に突き刺さっている。
「剣士殿、剣の輝く時間には限りがあります。お急ぎを!」
真一の隣に降りた守護獅子は、綾乃を乗せたまま校庭の端に飛び移った。
『けど、心の導く先に剣を突き立てるなんて』
剣を高く構えたまま、真一は動けなかった。
『剣士や。背中にいるのか。ちとかゆいぞ』
細かく震えた黒い背が斜めに傾き、思わず片手をついた。皮ふを突き破った鋭い毛から、電流のようなものが伝わってきた。
ドッ ドッ ドッ ・・
大きな脈打ちが響いている。それは真一の背丈ほどもある巨大な鋏のついた頭の真下から聞こえてくる。
『急所は、そこだ!』
剣を持ち替えた真一は、切っ先を下に構えた。
「待って、平田君!」
笛の調べが止まり、綾乃の声が響いた。
「何を」
顔を上げた真一の目には、信じられないことが映っていた。巣の端から、綾乃が滑り降りてきたのだ。
『ほう、これは。巫女が自らやってくるとは』
邪神は、綾乃がやってくる方に体を向け、巨大な鋏を打ち鳴らした。
「危ない!」
真一は邪神の口の前に飛び降り、剣を
『グゥ、我が鋏を。許せぬ!』
真一を噛み砕こうと、ギラギラ光る牙が剥き出された。
「平田君、邪神の口の上のあの赤い玉を切って!」
間近に迫る邪神の口の上に、ゴルフボールほどの大きさの玉があった。再び、流れ始めた調べを背後に、真一は土に滑る足を強く蹴り込んで切りかかった。
ガシャ!
輝く剣の切っ先を受けた赤い玉が、ガラス玉のような音をたてて割れた。
『未熟者、それでわしを退治したつもりか』
赤い玉を切った反動で、すり鉢の傾斜を転がり落ちた真一は、土に剣を突き立て、邪神の腹の下に滑り込むのをおさえた。そして隣によろめく綾乃の体をしっかりと抱きとめた。
グッグシャック グッグシャック・・
目の前で、邪神の牙が火花を散らして鳴っている。ついで、洞穴のような口がかっぽりと開いた。
間一髪・・
白い輝きが横切った。
守護獅子だ。綾乃を口にくわえ、真一のベルトを鉤爪で掴んで、巣の端に飛びすさった。
二人を地面に降ろした守護獅子は、再び跳び上がり、斜面を駆け登ってこようとする邪神の頭を強く蹴り、元の位置に戻った。黒い巨体は裏返りながら、穴の底に滑り落ちていった。
「どうして、あんな無茶を」
真一は綾乃に振り返った。
「私、聞こえたの。笛の調べの中に、【怖い。引きずり込まないで。ここから出して】って声が混じってきたの。その声の出所を探すために・・」
「お二人様、ご覧下さい」
守護獅子の声に、二人は巣の下に目を向けた。
裏返った体を元に戻そうともがく邪神の口の上から、赤い煙が流れ出ていた。黒い巨体をなめるように覆っていく。
『クワッー、剣士め、何をしたぁー』
鼓膜が裂けるような高い声とともに邪神の体が変形しはじめた。アリジゴクは恐ろしい鷲の形となり、やがて巨大な蜘蛛となり、大ナメクジ、竜となり・・変形するたびに輪郭がぼやけていった。
「剣士殿、あれらは、これまで我らが戦ってきた邪神の姿。奴がその時々に現した人々の怖れの形です。あなたは巫女殿とともに、邪神の姿を形作った人々の怖れに、
「人々の怖れが、邪神の姿を形作った?それがアリジコクの化け物?邪神は、正たちが校庭に置いたアリジゴクに宿ったのでは」
「確かに。今回、邪神があれほどに明確な形をしていたのは、まさにその虫の性質が、人々の怖れと一致したからに違いありません。
人々の怖れ・・それは、我知れず道に迷い、何者かに足を
そのような怖れこそが、人々が自然界の大いなる秩序と共にあることを見失う原因の一つともなっているのです」
「それで、環境を壊してまで、不必要な工事をしたりしてしまっているのね」
「そして、巫女殿は、人々の救いを求める叫びを聞かれたのです。これまでの戦いでは、邪神とともに
守護獅子の説明に、二人は頷いた。
巣の下の邪神は薄くぼやけ、やがて姿を消した。後には、赤い光が静かに漂っているだけだった。
間近に寄り添う守護獅子の毛並みがごわついていた。真一の手に握られていた剣は、にわかに重みを増して地面に落ちた。
「お二人様・・」
守護獅子が話した。声には、岩を擦り合わせるような、ギリギリという音が混じっている。
「これまでの戦いでは、いずこかに去っていたワタシの魂が、この世界にほのかに広がっていきそうです。剣士殿、巫女殿、いつもならお別れの挨拶を述べるのですが・・・」
守護獅子の口が止まり、内部から青い光がこぼれ出た。それは、邪神の巣の坂を流れ下り、底にあった赤い光と混ざり合った。
次の瞬間、目がくらむほどの激しい光の渦が生まれ、突風を巻き起こしながら空に登っていった。
やがて、辺りに雪のように白いものが降り始めた。
それは、見た目は大粒の雪のようだが、肌に触れる感触はさらさらと軽く、ほんのりと温かいものだった。
「あれ?」
耳を澄ました真一の耳に、もはや、動物たちの歌声は聞こえてこなかった。
守護獅子は、石の狛犬に戻っていた。
地面に落ちた剣も、口を開けたままのおかしな狛犬の姿に戻っている。綾乃がそっと横笛を置くと、元の通りの口を閉ざした厳めしい顔になった。
「青い光と赤い光は、互いに求め合っているように見えたわ」
冷たい石の像を撫でながら綾乃が言った。
「うん、僕にもそう見えた。今、降っているこの雪みたいなものは、守護獅子と邪神が混じり合ったものなんだと思う」
「地上が生み出した正の力と、宇宙が生み出した負の力が一つになったのね。見て!」
綾乃が嬉しそうに叫んだ。
校庭の周囲に積み重なっていた土が、じりじりと移動し、穴に落ちていっている。校舎を見れば、邪神の毒液で溶けていた部分が元に戻りつつある。
凍りついたように立っていた人々が動き始めた。土の流れにすくわれまいと、足踏みをしながら、何が起こったのかと、あたりを見回している。
「おーい」
校庭の端から、園長が腰をさすりながら駆けてきた。
「ふー、二人とも大丈夫か。妙な白いものが降り始めたと思ったら、象の太郎がわしをおっぽりだしてな。そして皆、動物園の方に帰っていってしまったんだ。それで邪神は?あのライオンたちは?」
二人は、降り注ぐ白い結晶に手を伸ばし、にこりと頷いた。
「なんとまあ、これになってしまったということか。それにしても、これは何なんだ。白鳥の羽根の先のような・・でも、柔らかくはなくて、それによい香りがするような」
ゼイゼイと息を切らしていた園長の顔がほころんでいった。地面に落ちた時に打った腰の痛みは消えてしまったようだ。
「何だかわからんが、素敵なものじゃ」
「あら!」
綾乃が驚いたような声を出した。真一の首を見つめている。
真一が手をやると、これまであったライオンの形をした凹凸が消えていた。
「守護獅子とも、お別れなのかしら」
少し寂しそうな顔をした綾乃の手を、真一はしっかりと握った。
「僕たちが、大切なものを忘れない限り、彼はずっと一緒にいる」
あたりを白くおおった結晶は、やがて跡形もなく消えていった。
「よぉ、真一」
陽気な声が聞こえた。健太と正がこっそり後ろにきていた。肩をぶつけ合いながらニヤついている。
「俺たち、今、まずいもの見ちゃった気がするんだけど・・。お二人さんが、手を繋ぎながら見つめ合ってたっていうかさ」
「まずかったのは、おまえたちだろう!」
真一は怒鳴った。
「ひえー、何かわからんけど、真一が怒った。逃げろ!」
駆けだした二人を真一は追いかけた。
微笑みながら見守る綾乃の後ろで、園長が太い体を揺らしながら駆けていく。おそらく動物園に帰っていくのだろう。はたして動物たちがすんなり檻に入ってくれるかは、予想もできないことであるが・・・。
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