第9話 逃げる二人
真一はなるべく人通りのない裏道や、畑の中を歩いていた。
途中で気づいたのだが、靴を履いて出るのを忘れていた。コンクリートやアスファルトの道はまだよかったのだが、砂利や枯れ草の上を進み、足裏は血だらけになっていた。
普段なら拷問のような痛みに、歩くことさえできなかっただろう。しかし、そんなことに構ってはいられなかった。たとえ這いつくばってでも、安全な場所に行かなければならなかった。
いつの間にか、中学校の裏門の前に来ていた。激痛に
「何か履かなくては」
校舎の西側にまわった真一は、男女共同トイレの地窓から中に入り込んだ。地窓は、普段は割れたガラスの代わりにガムテープで板が張られていたが、誰かが強く押し込んだように板は外れていた。少し疑問に思いながらも、中央玄関の下駄箱にまわり、非常灯の薄緑の光の下で自分の靴箱を探した。
「!」
不意に黒い影が目の前を横切った。彼から逃げようとするその影は、怪我をしているように足を引きずっている。
「村井さん?」
思い切って聞いた。
「平田君なの?」
暗がりから、綾乃の声が返ってきた。トイレの地窓の板を外したのは綾乃だったのだ。
「よかった。普通の人は、もう誰もいないのかと思ってた」
声を押さえて泣きじゃくる綾乃の荒い息が、淀んだ廊下の空気に消えていった。
「君の家族も、あの隕石に?」
綾乃が泣きやんだところで、真一は聞いた。
「ええ、寝る前にチャイムが鳴って、お父さんが出て」
「普通の人は誰もいないって言ったけど、健太と正は?」
「だめ。私を追いかけてきた人の中に、二人ともいたの」
「畜生!サングラスまでは、うまくいっていたのに」
真一は近くにあったスリッパを壁に投げつけた。
「ねえ、落ち着いて」
綾乃が優しく真一の肩に手を置いた。
「私、あの隕石を、サングラスもかけずに目の前で見たの。でも、何も変わっていない。おかしくない?」
「そういえば、僕もそうだ。ちらりとだけど、父さんの手の上に載っているのを見た」
「あのライオンの言っていた通り、私たちが巫女と剣士の魂を宿しているからかしら」
「そうなのかもしれない」
真一は小さくつぶやいた。
「まずはお互いの傷の手当てをしなくちゃ」
傷ついた足をそっと伸ばした真一を見て綾乃が言った。
綾乃も裸足で家を飛び出してきたらしく、歩く度に痛そうに息を吸っていた。二人は綾乃のクラスに忍び込み、先生の机の引き出しを引いた。
「あったわ」
綾乃が救急箱を見つけ出した。
「さすが、巫女様だ」
「こんな時にちゃかさないで。うちの担任、頭痛持ちだから・・もしかしたら薬も」
綾乃の推測のとおり、救急箱には怪我の応急セットに加え、鎮痛剤も入っていた。二人は苦みのある錠剤を口にし、痛みを堪えながら足裏を消毒し、包帯を巻いた。
「きつー」
下駄箱の前で、自分の上靴を履こうとした真一が
「そうだ!健太のにしよう。あいつの洗っていないから臭いけど」
隣で綾乃がくすりと笑った。既に上靴を履いている。不格好な大きさからすると、男子のものを拝借したのに違いない。
外に足音が響いた。
廊下に戻って、そっと窓からのぞくと、四、五人の大人が、懐中電灯で道路を照らして頷き合っていた。
「私、あの道を通ってきたの。あの人たち、私の血の跡を見つけたのに違いないわ」
「もうすぐ来る。ここを出なくては。村井さん、僕についてきて!」
二人はこっそりと校舎を出た。
裏門を抜け、すぐ横の小道に入り、学校の西側にある寺の境内の階段を登った。裏手には、荒れ山へと伸びる道が続いている。
振り返れば、校舎の中に幾条もの光が走っていた。真一は、綾乃の手をしっかり握りしめながら暗闇を進んだ。
「ねえ、この先って幽霊が出るという噂がある山でしょう。草とか生え放題だし、危険だから登ってはいけないのよね」
綾乃が息を切らせながら聞いた。
「だから、誰も僕らがそこにいるなんて思わないさ」
真一は落ちていた木の枝を拾い、道の先を叩きながら進んだ。夏のこの時期、
「去年、ここに登ったんだ。幽霊なんていなかったし、それに頂上には、見晴台もあるんだ。ほら、足元に気をつけて。土や草に埋もれているけど、石の階段もあるからね」
真一は、転びそうになる綾乃の手を力強く握った。
鎮痛剤が効き始めたとはいえ、荒れた山の登り道、包帯の内側で足の痛みがぶり返してきた。おまけに膝がガクガクと揺れだした時、坂は終わった。
低い雑草の伸びた石畳の奥に小さな社があり、二人はその軒先に座った。
見上げた空には、星が瞬いていた。東の彼方には、黄色い満月が顔を出したところだった。
しばらく二人は無言だった。嵐のように襲ってきた事件で何も考えられなかった。
やがて、長い溜息をついた綾乃が口を開いた。
「ねえ・・」
「うん?」
「私、こんなに月や星が綺麗だったなんて知らなかったわ。いつも見ていたはずなのに」
「えっ、そんなこと・・うん、でも、確かにそうだね」
真一は頷いた。
「下界で起こっていることなんて全然関係ないみたいに輝いている」
「ほら、あの月の模様。よく見ると本当にウサギがいるみたい。小さかった頃、私、月にウサギがいて、餅つきしているって信じていた。いつだったか、そんなこと忘れてしまったけど」
「うん、僕も」
真一は何年も前に見ていた十五夜の月を思い出した。あれは小学の低学年の頃だっただろうか・・
・・皿に盛った白い団子の上にかかるススキの穂が、黄金色に光っていた。丸い月を見上げる父さんたちの目は、普段と違って神秘的に輝いていた。
『月見団子はな、月の光を浴びながら、〈今年もたくさんのお米が取れました。自然の神様ありがとう〉って言ってから食べるんだ。そうすると月に住んでいるウサギが喜んで、飛び跳ねながらお餅をつくんだ・・』
どこか遠くで、微笑みながら話す父さんの声が聞こえたようだった。
無論、本当のことではないことはわかっていた。でも、きっとそうなんだと信じてもいた。いつの間にか、頬に涙が流れていた。
「確か、あのライオンは言っていたわ。邪神は、森羅万象の秩序が破壊され続ける時に現れるって」
綾乃が、空の景色に言葉を重ねるように言った。
「僕たちは、大切なことを忘れてしまっていたのかもしれない」
「もしかしたら、邪神って、それを思い出させてくれるものなのかも」
「だけど、そいつに食べられたら、たまらないよ」
真一は手の下にあった小石を、暗い空に投げた。
「ライオンは地上に残るって言っていたわ。きっと大丈夫よ」
「そうだ。守護獅子とか言っていたけど。こら!隠れてないで出てこい」
怒った声に、草むらで鳴いていた虫たちの声がぴたりと止まった。
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