第3話 病院で
鼻をつく消毒薬の臭いに、真一は目を覚ました。
母さんが顔に手を当てて泣いていた。
「こら、心配かけるな」
視線を下げた父さんが気づき、顔をほころばせながら、ごつごつした手で頭をなでまわした。
ベッドから起きあがって見回せば、そこは白いカーテンに囲まれた病院の一室だった。首には包帯が巻かれ、中がヒリヒリと痛んでいる。
はて、自分はどうしたのかと考える間もなく、母さんが大泣きしながら抱きついてきた。
「・・く、苦しい」
プロレスの羽交い締めみたいに、きつく抱きつく母さんに、やっとのことで言った。鼻をすすりながら、腕をゆるめた母さんは、今度は額やら頬にキスをしてきた。
「やめてくれよ、赤ん坊じゃないんだよ」
「そんなこと言わないで。どれだけ心配したことか」
気持ちは解らないでもないが・・ぼうぼうと熱い息をかけてくる母さんを、ジロリと睨みつけた。
「親の気も知らないで」
「そんなの、知りたくもない」
「なんて口のききかたをするの」
冷ややかな空気が流れたが、おかげでやっと自由になれた。
「お目覚めだね」
カーテンを開け、白衣を羽おった若い医者が入ってきた。後ろには、弟で小学二年生の
「今の会話を聞いて安心しました。それだけ元気なら、ショックは受けていないようです。先ほどもお話ししましたように、首の傷は大丈夫。傷口は浅いし、細菌の感染もありませんから」
すねるように横を向いている母さんに、医者は笑いながら言った。
「けど真一君、危なかったね、もう少し深く噛まれていたら死んでいたところだよ。それにしても大した勇気だ。せっかくだから、握手させてもらえないだろうか」
医者はぎゅっと手を握りしめてから、部屋を出ていった。
「兄ちゃん、やるじゃん!」
ベッドの上に飛び乗ってきた稔が、真一の胸を叩いた。
「こら、病院ではしゃいではだめ」
母さんが、トランポリンのように跳ねる稔を引きずり降ろした。開いたカーテンの向こうには、空のベッドが二台見える。この病室に寝ていたのは、真一ひとりだったようだ。
「確かに結果がよかったからいいが、しかしな・・」
父さんは、難しい顔をして唸っている。口にこそ出さないが、無茶をしたことを怒っているようだ。
「ねえ、僕はどうなったんだい。あのライオンは?」
「おう、ちょうどニュースの時間だ」
気持ちを切り換えた父さんが、枕元にあるテレビをつけた。いつも、風呂を出た頃にやっているニュースが始まった。時間は夜の九時を過ぎていた。
「やっ、出た出た」
軽やかな音楽とともに最初に画面に映し出されたのは、あのライオンの写真だった。その隣には、真一の写真も並んでいる。去年、海水浴にいった時のものだ。よりによって、海水パンツ姿のあんなのが映されるなんて・・
「おまえの写真って、あれぐらいしかなくてな」
横目でにらむと、父さんはそっぽを向いて笑った。
《本日、午後五時半ごろ、あの白いライオンで有名な動物園で事件が起こりました》
キャスターの男性が話し始めた。
《なんと、白いライオンが、五メートルの高さのある金網を飛び越え、外に逃げ出したのです。一人の少女が逃げ遅れて襲われそうになりました。その時、ステッキを握った少年が飛び出して、ライオンに立ち向かったのです。
ライオンは頭を叩かれて、おとなしくなりましたが、少年の首に一度噛みつきました。少年は、すぐに病院に運ばれました。命に別状はないとのことですが・・・
あ、たった今、少年が運ばれた病院から連絡が入りました。少年が目を覚ましたそうです。医師の話では、傷は浅く、意識もしっかりしているとのこと。明日にでも退院できるそうです。
その少年の名は、平田真一君。動物園のある地元の津田川中学校の二年生です。それにしても、なんと勇気があるのでしょう。真一君をこのように育てているご両親も、きっと立派な方にちがいありません》
ニュースは少し大袈裟に語られていた。映された写真といい、真一は困ったように顔をしかめた。その一方、父さんは嬉しそうに鼻をかいている。
「母さん、僕ら、立派なんだってさ」
ニュースに釘づけになっていた母さんが、父さんの耳を捻りあげた。
「まあ、いい気になって。それどころではなかったのよ。真一は死にかけたのよ!」
「わかっているけどさ。僕ら、全国のトップニュースで誉められたんだよ」
「すごいや、兄ちゃん。でも、弟の僕だっていることを言ってもいいのに」
稔がふくれ面で言い、父さんと母さんはブスッと吹き出した。
《えー、問題のライオンですが、》
ニュースはまだ続いていた。
《神様からのプレゼントとして注目を浴びていた白いライオンですが、このような事件を引き起こしたため、国内の動物園に置いておくことはできなくなりました。外国の動物園に、引き取り先を探すとのことです》
真一はほっと息をついた。
『あのライオンは、特に凶暴というわけじゃない。あいつにとっては金網が低すぎただけなんだ。もし殺されることにでもなったら可哀想すぎる』
「で、あの・・隣のクラスの、ほらあの子は」
真一が聞くと、稔がニヤニヤしながらドアの方に顔を向けた。
「本人に聞きなよ」
ドツドツ・・
ドアが勢いよくノックされた。父さんが開けると、健太と正が飛び込んできた。後ろには、花束を抱えた少女が立っている。
「ほらほら」
稔が脇腹を突ついた。
「待合室でニュースを見ていたんだ。でも本当によかった。真一が死んでしまったら、俺たち、どうしようかと思っていたんだぜ。なあ、正」
健太と正が、笑いながら手を突き出し、真一はその上を勢いよく叩いた。
いつもなら、このまま仲間と大いにはしゃぐ真一だったが、どうも上手くできなかった。
「まだ、具合が悪いの」
正が心配そうに聞いた。
「そんなことないさ。もうピンピンしてるよ」
「もしかしたら、俺たちはお邪魔なのかもよ。お父さんもお母さんも、稔君も。なあ、真一」
真一の目が、ちらちらと後ろを見ていることに気付いた健太が言った。
健太は、正や父さんたちを外に押し出して部屋を出ていった。
「では、ごゆっくり」
病室には、名前こそは知っているが、初対面と変わらない綾乃が残された。
「あいつ、なに言ってるんだ」
真一はドアを睨みつけながらつぶやいた。
「さっきは本当にありがとう。あなたに助けてもらわなかったら、私、どうなっていたかわからない」
「いや、大したことはなかったよ」
体中の血が顔に昇ってきた。
きっとゆでダコのように、真っ赤になっているに違いない。せめてライオンに立ち向かった時のように、両手で握り込む棒があれば落ち着けるだろうに。残念ながら、そんなものはどこにもない。
『畜生、健太の奴。あいつになんて話さなきゃよかった』
実は真一も、他の多くの男子と同様に綾乃に憧れていたのだ。
歌の合同練習の時に知ってから、ついつい隣の教室をのぞくようになっていた。廊下ですれ違うは、足がギックシャックとしてしまう。夏休みが始まったのは嬉しかったのだが、綾乃の姿が見られなくなり、残念でもあったのだ。
健太と正には、そのことを打ち明けていたのだが、まさか、綾乃と二人きりになるなんて・・、ああ、神様・・・
「村井さん、怪我をしたんだ?」
綾乃の膝の絆創膏を見て、なんとか言葉を絞り出した。
「ええ、転んだ時に擦りむいちゃったの。私だけよ、逃げ遅れたのって」
綾乃が小さく笑い、三つ編みにした長い髪がクルリと揺れた。
「うんうん、そうそう、その通りさね」
言葉を作る脳の回路が、いかれてしまったようだ。真一は自分でもおかしなくらいチンプンカンプンなことを言い、天井に顔を向けた。
「痛てて」
急に首の傷がズキリと痛んだ。
「ごめんね、私のために・・。ねえ、ゆっくり休んでね」
綾乃はそう言うと、花束を花瓶にさして病室を出ていった。シャンプーのような甘い香りが残った。
入れ違いに、健太、正、それに稔がどっとなだれ込んできた。
「ねえ、ゆっくり、休んでね」
「おまえらな」
口を揃えて言う三人に、真一は首の痛みも忘れて、枕やら毛布を投げつけた。
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