第2話 動物園での事件
「
剣道着姿の三人の少年が、汗を滴らせながら自転車で坂を登っていた。先頭を走る少年は腰を浮かせ、力強くペダルを漕いでいる。後ろの二人はハンドルをふらつかせ、今にも倒れそうだ。
今や大人気の動物園への道だが、夕方近くになり、さすがに登りの車の渋滞は解消していた。クラクションを鳴らしながら、次々と三人を追い越していく。その一方で、下りは混み、連なった車がだらだらと走っていく。エアコンをかけているのか、閉めきった窓の中の顔は、どれも涼しげで快適そうだ。
「うぅ、みんな満足そうな顔している。早く!」
「まだ、大丈夫だって」
太り気味の少年が、ゼイゼイと息を切らしながら訴えた。
「正、今、何時だ?」
小柄でやせている少年は、あまりの苦しさに、泣きそうな顔をして腕時計を見た。
「四時三十分、まだ一時間あるよ」
「よおし、間に合うぞ」
先頭を行く少年は大きく息を吐きながら、サドルに腰を降ろした。
三人は、山の麓、海沿いの町にある津田川中学校の二年生だった。
皆、剣道部に入っていて、つい先ほどまで稽古をしていたのだ。部活の後で、くたくたのはずだったが、噂のライオンを一日でも早く見ようと、動物園に繰り出したのだ。
それぞれの自転車のカゴには、制服が入ったバックが積まれている。一分でも時間が惜しくて、着替えもせずに体育館を飛び出してきたのだ。
先頭を走る少年は、
勉強は苦手だが、運動については、生まれつきの才能を持っているらしく、特に剣道の腕前は、師範をも打ち負かしてしまうほどだった。間違ったことは大嫌いで、正義感に溢れているのだが、あまり考えずに突っ走ってしまうので、親や先生から、よく大目玉を喰らっていた。
太り気味の少年は、
その隣は、
「とうちゃーくー」
広い駐車場を過ぎ、三人はやっとのことで動物園の入口の前にたどり着いた。
自転車置き場は、隙間もないほどにぎっしり埋まっている。仕方なく三人は、端に植わっている
入場門の上のカバの時計は、五時になろうとしている。閉園時間までは、あと三十分。三人はあわてて入場券を買い、門をくぐった。
お目当てのライオンのいる檻は、中央の小道をずっと下った奥、サバンナ地区にある。
「行くぞ」
「急がなくても大丈夫よ」
走りだそうとした真一に、入場パンフレットを配っていた係員が笑いながら声をかけた。
「今は特別期間。開園時間は一時間延長していますからね」
「なんだ。知らなかった」
ぼやいた真一の後ろで、健太と正は気が抜けたように、その場にへたり込んだ。
「なあ、ジュースでも飲んで行こうぜ。体が干からびて、ミイラになってしまう」
健太が、汗一杯の顔をふるわせた。隣の正も咳き込みながら頷いている。
「そうするか。とにかく間に合ってよかった」
真一はにっかりと笑い、二人の肩を叩いた。
「ふう、やっぱり、運動したあとのジュースは最高だぜい」
ペットボトルのジュースを一気に飲みほした健太が、満足そうに言った。
「うん、まったく。それにしても健太は飲むのが早いな」
真一は健太の赤い顔をあきれながら見つめた。
「僕、知ってる。部活の時の健太君の水筒の中身、オレンジジュースだってこと」
と、正がぼそり。
「それはずるい。道理で、いつもあんなに美味そうに飲んでいるんだ」
「それは言いっこなしよ。ねっ」
「うぷっ」
肩をすくめてウィンクした健太に、あやうく真一は、飲みかけのジュースを鼻から吹き出しそうになった。
「そろそろ行くか」
「奇跡のライオン様、もうちょっとで会えますよ」
三人は動物園の中ほどにある休憩所を出た。夕方の五時を過ぎ、太陽は尖った西の山に隠れようとしていたが、まだギラギラと輝いていた。
閉園が近いというのに、園内は見物人であふれていた。ライオンの描かれた風船を握りしめている子供がたくさんいる。中には、ワイシャツにネクタイをした大人も混じっている。きっと会社を早引きして来たのだろう。
「ねえ、あの子たち・・」
汗で黒ずんだ剣道着姿の三人を見て、通り過ぎる人が笑っていた。
三人は、そんなことにはお構いなく足を急いだ。胸ふくらむ思いに、恥ずかしさや疲れなど、どこかに忘れてしまっていた。
ミーアキャットの柵の向こうに大きな檻があり、黒だかりの人がいた。
「あそこだな」
顔を見合わせて頷いた。あとわずか二十メートルほどの所だ。
その時だった。
甲高い女性の叫び声が、陽気な賑わいを切り裂いた。
人々が、パニックを起こした獣の群れのように、どっと走りだしてくる。数え切れない風船が空に舞い上がっていった。
「逃げろ!」
カメラを首にかけた中年の男性が、怒鳴りながら走っていった。
「いったい、なに」
急に逃げろなどと言われても、心の準備というものがある。三人は訳もわからず顔を見合わせ、立ち止まった。
見物人が引き潮のように去った後、頑丈な金網を張り巡らした檻がすっきりと見えた。中には、茶色の毛並みをした二頭のライオンが気だるそうに横になっている。
そして、何ということか、網のこちら側に、白いライオンが豊かなたてがみを揺すって立っていたのだ。
「ライオンが逃げ出したんだ」
正が呆然とつぶやいた。
健太は銅像になったかのように、ぴくりとも動かない。その太い手の指は、どこかあらぬ方向をさしたまま。
ライオンは慌てて逃げる人間など、まったく眼中にないようだった。まさに王者の風格で輝く太陽に顔を上げていた。
「あっ!」
真一の目が見開かれた。
ライオンから五メートルと離れていないベンチの前に、長い黒髪の少女が倒れていた。健太の指はそこをさしていたのだ。
「村井・・さん」
それは隣のクラスの
夏休み直前に転校してきたのだが、その名前はすでに学年中に知られていた。
学年合同の歌の練習の時のこと。彼女の口から流れ出た歌声は、周りの生徒はもちろん、先生がピアノの伴奏を忘れてしまうほどに美しかったのだ。
そのままでは練習にならず、結局、彼女は独唱パートを受け持つことになったのだが、その可愛らしい外見と美しい歌声に、メロメロになってしまった男子も少なくない。
真一は、逃げ去った人々の中に、同じ学年の女子を見たような気がした。きっと、クラスメートと白いライオンを見にきていたに違いない。
「助けなくては!」
真一は大きく息を吸った。
「だ、だめだよ」
正は後ろで、引きつったように半べそをかいている。
「このまま、放ってはおけない」
綾乃の周囲には誰もいなかった。飼育員が駆けつけてくる気配もない。そこから十五メートルほどの所に真一らは立っていた。
お年寄りが落としていったのだろう、足元に、黒いステッキが転がっていた。即座に、それを拾った真一は、竹刀を持つように握りしめ、剣道の試合の時のように、下腹からゆっくりと息を吐き出した。
「よし」
バクバクと打っていた心臓が、幾分か落ち着いてきたようだった。
綾乃は、地面に倒れたまま動こうとしない。長い髪が、陽炎のゆらめくアスファルトの上に投げ出されている。
たてがみを大きく揺すったライオンが頭を下げ、綾乃の方を見た。持ち上げた前脚の爪が、鋭い刃物のようにきらりと光った。
「こっちだ!」
ステッキを正面に構えた真一は、干からびた喉から声を絞り出した。
『 ・・! 』
ライオンの青い目が、ジロリと向けられた。陽に反射して、光線を放っているように見える。
「ひいー」
健太が高い声を出して倒れた。へたり込んだ正は、目をつぶって歯をガチガチ鳴らしている。
真一はステッキを高く掲げ、じりじりとライオンに近づいていった。
ライオンは全く動こうとせず、じっと真一の目を見つめたまま。
『視線を外してはいけない。こちらの気合いで、相手の動きを封じこめるんだ』
静かに心につぶやいた。
それにしても、なんと大きいのだろう。白い毛並みのせいか、普通のライオンより一回りも大きく見える。
ズ ズズ・・
地面をする靴底の音だけが、静けさの中に聞こえていた。
いつの時か、最大限の集中をしている真一の呼吸は止まっていた。
すでにライオンとの距離は五メートルあまり。ここから一気に跳びかかれば、あの頭に一撃をくらわすことができる。しかし、それがどれほどのダメージを与えられるだろう。あの大きな牙と逞しい前脚なら、木刀だって、小枝のようにへし折られてしまうに違いない。
『とにかく飼育員が来るまで時間をかせぐ・・もしも、間に合わなかったら・・』
真一は左足を後ろに引き、ステッキをさらに高く掲げた。そして一度、唇を噛みしめて言った。
「村井さん、そこを離れろ」
「だめ、動けない」
視界の端に、綾乃の頭が動くのが見えた。
「・・ ・・・ ・ ・・ ・・・」
微かなメロディが聞こえてきた。
恐怖の淵に追い込まれたせいだろう、綾乃が歌を口ずさんでいた。
その時だ。
目の前のライオンが、喉まで裂けるかとばかりに口を大きく開き、牙を剥き出したのだ。
真一は、気合いもろとも、ライオンに跳びかかった。
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