第1話 奇跡のライオン
夏休みに入って五日目。
四国、徳島県の東部の山の中にあるその動物園は、見物人であふれ返っていた。白い雄ライオンを一目見ようと、それこそ日本中から人が集まって来ていたのだ。
紀伊水道を東に望むひび割れた舗装路には、動物園へと向かう車がびっしりと並び、エンジンの放つ熱気のために、山の稜線が揺らめいて見えるほどだった。
《奇跡のライオン、現る!》
そのニュースは、新聞の一面に大きく載り、テレビやラジオでもしきりに流れた。当のライオンの雪のように煌めく白い毛並みも、大いに目を引いたが、何よりもその登場の仕方に人々は驚いたのだ。
最初にそのライオンを発見したのは、動物園の猛獣担当の飼育員だった。
夏休み初日の朝、いつものように、雄と雌、二頭のライオンを、夜の管理舎から出そうとした時のこと、ふと檻の方に目をやると、長い草の間に、白い
「散水チューブに、穴でも開いたのか」
首を捻りながら近づいていくうちに、
「何が起こっているんだ?」
目をこすった飼育員は、腰を抜かして驚いた。
靄の塊は、白く輝く大柄なライオンとなっていたのだ。たった今、目覚めたばかりのように、ぬうと頭を持ち上げ、伸びをするように四肢を突っ張っている。
「・・・」
かすれた悲鳴をあげながら檻からはい出た飼育員は、ドアを閉めてから、もう一度見つめた。
「あいつはいったい」
これまで、そんなライオンはいなかった。新しいライオンが来るなどという話は聞いたこともない。まして山猿でもあるまいし、どこからか檻に紛れ込むなんてことはあり得ない。どう考えても不思議だった。
「とにかく連絡しなければ」
飼育員は、管理舎についた電話で、獣医と園長を呼び出した。
さっそく獣医が駆けつけたが、ライオンは麻酔を打たれることもなく、まるで落ち着き払った様子で検査を受けた。
「全くの健康体です。細菌に感染していることもなく、虫歯の一つさえありません」
「なるほど」
少し遅れてやって来た園長は、獣医の言葉に大きく頷くと、すでに動物園のものになったかのように他の二頭と引き合わせることにした。上手くいけば、すぐにでも、入園者の前にデビューできると考えたのだ。
「どうか、優しく迎えてあげておくれ」
園長の必死の祈りを背後に、のそりと歩み出た古株の二頭のライオンは、新参者を睨みつけながら、その周囲を回った。が、急にかなわない相手と悟ったように、ごろりと横になり、皮の薄い腹を見せた。二頭は、どこからともなく現れた若いライオンに、服従の姿勢を示したのだ。
「このライオンはまさに季節外れのクリスマスプレゼントだ。無論、どこから来たかを調査しないといけないが、デビューは、明日からでも、いや今日からでも。よろしいですよね、先生」
「ええ、医学的には全く問題ありません」
「ありがとうございます」
獣医の頷きに、園長は喜びの涙を流した。
なんたって、とびきりのライオンが、神様からの贈り物のように現れたのだ。
持ち主が見つかり、すぐに返すことになろうとも、話題性は充分である。たとえ短期間でも、スーパースターがいるだけで、入園者はぐんと増えるのだ。
これで、入園者が少なくて飼育員たちの給料を払うのもぎりぎり、動物園を閉鎖しようかとさえ悩んでいたことが、一挙に解決されるかも知れない。
さっそく、日本中の新聞社やテレビ局に、不思議なライオンのことを知らせた。
「そんな事があるわけがない」
最初、記者たちは疑ってかかった。
「人気のない動物園が来園者を増やすために、夢のようなエピソードをでっち上げたのだ。ライオンはどこからか秘密に輸入したに違いない」
当然、そう思った。
無視していてもよかったのだが、嘘を放っておくわけにはいかない。それに、これはこれで大きな記事になる。
それで記者たちは、世界中の動物園や動物保護協会、船会社に問い合わせた。ところが、いくら調べても、日本に白いライオンが送られた記録はなかった。
とりあえずと、地元のラジオ局の中継車が取材にやってきたが、
「すばらしいの一言です。七千年以上も昔、古代オリエント地方で、白い獅子が聖獣とされていたそうですが、まさにその聖獣が、この世に現れたようです」
ラジオで流れた声は、感動しきりで、このことがニュースの火種をまき散らした。その日の昼過ぎには、余計な疑いを捨てた記者や、ビデオカメラマンがわんさと集まってきていた。
「こちらでも様々な所に問い合わせてみました。しかし、いっこうに彼の持ち主はわからないのです」
腹の突き出た園長は、ほくほく顔で記者の向けるマイクに話した。
「皆さん、このようなことが、これまでにあったでしょうか。それに彼のなんとも素晴らしいこと。ぜひ、神様から贈られた百獣の王に会いにきて下さい。会えば、きっと皆さんの心に、力がみなぎってくることでしょう」と。
実際、このライオンは本物の王者のようだった。
ずいぶん離れた檻で、いつもイラついているように歩き回っていた黒豹は、静かに頭を下げて座り、狼たちは崇めるように遠吠えをした。すぐ隣の柵にいるミーアキャットは、兵士のように一列に並び、このライオンを見つめた。
園内の動物たちは何かしらを察知し、いつもとは違う行動を見せるようになっていたのだ。
見物に来た人は、皆、満足した。
園長の言った通り、このライオンを前にすると、「よし」とばかりに、心のどこかに忘れていた力が、沸き上がってくるように感じたのだ。
お年寄りの中には、座っていた車椅子から立ち上がり、ありがたいものを拝むように手を合わせる人もいた。
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