第5話
およしが亡くなってから暫らくは空けていた部屋に大工を入れて、中をきれいにし頭領に入って貰った。
もう隣の作業場の中二階に上り下りするのは危なっかしいし、何よりも蓮の為にもかるにとっても、土間を隔てたすぐ近くに頭領がいてくれることは心強かったし。
もしも頭領に何かあっても、すぐに気が付いて助けてやる事が出来る安心があった。
それ程、この頃ではめっきり頭領の体は弱って見えた。
かるはそう思いながら自分の年から数えてみた。
頭領は自分の母親とやや同じ年頃だ。
この私がもうこんな年になっているのだもの。頭領が老いるのは当たり前の事なのだ。
だけど時は何と残酷なのだろう。
あんなに頼りになり丈夫だった頭領も年には勝てず、いつかは他の年寄り達のように、この世を旅立っていくのかと思うと今から悲しくなった。
もしもその日が来たら自分はどうなるだろうと思った。
それは暮れてゆく秋空に立つような、あの身に沁みるような肌寒い夕暮れの風に晒されるような不安な気持ちになった。
いけない。
いけない。
私が今からこんなんじゃ頭領は安心して余生を送れやしない。
蓮の為にも頭領の為にも、明るく楽しい心を持つようにしなけりゃ駄目だ。
とにかく笑ってい
よう、取りあえず笑っていれば大抵の事はいつの間にか何でもなかったように過ぎて行くものだ。
今までだってそうだった。
これからもそうして行こう。かるは自分の心にそう言い聞かせた。
蓮はまた、山寺に通い始めた。
山寺には新しい和尚様も来、読み書きを教えてくれる先生も“願信”という僧侶に代わり、蓮にとっては暫らくは緊張の続く日々だったろう。
しかし、その生活にも自分を馴染ませ慣らしながら、蓮は一日として休む事なく山寺に通い続けた。
蓮はかるの目から見ても、一日一日とあの幼さが消えしっかりして来たように思う。
着る物のせいか、周りが男の子として扱うせいか、きりりとして男の子らしく頼もしくなったと思う。
蓮は何事に対しても真剣であり又、山寺に毎日通っていれば自然に耳に入って来るお経も知らず知らず覚えて、口に出す事もあった。
だがあれは蓮が八歳になった頃だった。
かるはどきりとした事があった。
風呂に入る前に後ろに束ねて結んであった紐をほどいて髪をおろした時、その横顔は驚く程、美しく愛らしい少女のように見えたのだ。
その時かるは咄嗟に、蓮は自分の体が人と違う事に気付いているのだろうか…と思った。
蓮が幼い頃、かるは蓮と一緒に風呂に入り体を洗ってやりながら、この子の行く末を思ったものだ。
あの頃は、頭領にも頼んで時々蓮と一緒に風呂に入って貰ったものだ。
何も知らない幼子に、いつかは人に性別があるという事を教えそれに慣れさせておきたいとも思ったが、幼い蓮にそれが解ったかどうか。
今では蓮は一人で風呂に入っている。
自分の体が人と違う事に気付いているのだろうか。
かるはその事が時々気になった。いつかは蓮と話し合わねばならない。
もしも男の子として生きている蓮の身に、ある日女の子の印の月のものが来る日だってないとは言い切れないのだ。
その胸がふくらみ女の子としての体つきになる日が絶対ないとは言い切れないのだ。
もしもそうなった時、その時に話すのはあまりにも残酷だ。
そんな変化が訪れずにこのまま男の子として行ってくれたらどんなにいいだろう。
それにしたって自分の体の事はいつかは解る。
一人で人知れず悩む事になる。そうなってからでは遅すぎる。
かるはその頃、夜眠れなくなるとその事を考え一睡もしないで朝を迎える事も度々だった。
こんな思いを頭領に話したらきっと一緒に悩んでくれるだろう。
だがそれで解決出来るものではない。
そう考え悩みながらも一日一日と蓮は背丈も伸び、更に面立ちも美しく、かるの思い込みか蓮はどこか愁いのある、知性も加わって少しずつ少しずつ人の目を引くような美少年に育って行った。
そういう中でなおも蓮は、あらゆる書物を夢中で読みあさり、書く筆の力もつけているらしかった。
蓮はいつか、かるが頼りにする程の存在になっていた。
そんなある日、仏前にお経をあげに来た新しい和尚様がお経が済むと、豪快に笑いながら蓮の事を誉めた。
新しい今の和尚は慈円が言っていたとおり大変おおらかでいつも明るくちょっとした事は笑い飛ばしてしまうような方だった。
かるはこの和尚様が来るといつも家の中がすっかり明るくなるようで嬉しかった。
その和尚が、
「ところでかる殿、まあ、蓮のお婆婆殿と言った方がよろしいか?蓮は私がここに来る以前から寺に勉強に来てもうかれこれ六年以上になる。
蓮に教えている“願信”もこの頃ではもう教える事が無くなったとぼやいている程、蓮は勉強熱心なのだが。
お婆婆殿は蓮をこの先どうなさるおつもりか。」
と和尚様は聞いて来た。
いつも豪快にワッハッハと笑い、細かい事は笑い飛ばしてしまうような御気性の和尚様だが、その時の目はギロリとして、かるは痛い所を突かれたような気がした。
この人にはいつまでも隠し通せるものではない。それにいくら勉強を身につけてもこの先、どう生きるのかを決めなければ何の役にも立ちはしない。
かるもこの頃では蓮の進むべき道を毎夜考えていた事だった。
悩みに悩んでいまだに豆腐作りを人に渡さずにいるのは、まさか蓮に継がせる気持ちはサラサラないが、この先の道筋がはっきりしていないから決めかねていたのだ。だが、
かる一人ではどうすれば良いのか、右にも左にも前にも足を踏み出せずにいる問題だった。
誰かに本当の事を話して相談したい。
そう思いながら、度々短い言葉を交わすうちにこの和尚様なら何もかもお話して、これからの蓮の歩む道を相談して良い方だとかるは思っていたが、それでも相談するのをためらって迷っていたのだった。
頭領と自分以外、誰にも話した事のない蓮の秘密。
蓮はもちろん知られたくないだろう。
だが、勇気を出して誰か信頼できる人に何もかも打ち明けて道筋をつけていただかなければこの先一歩も先には進めない。
それは今を置いて他にはない。
かるはそう決心すると、勇気を出して和尚様に話した。
「和尚様、これは和尚様の他には誰にも知られてはならない事でございます。絶対にこの先、他言なさらない事を信じてお話致します。
蓮はさる高貴な方の血を引く私の娘の子供ですが、
実は…、
実は…、
実は…」と言い淀んでから、
「あの子は男の子でもあり、女の子でもある体でこの世に生まれて来ました。それ故に傍についていたお女中と産婆が二人で相談し、表向き死産だったという事にされた子供なのです。
三歳まで、秘かに隠して育てられ、母親が病で亡くなって私の元に連れて来ました。」
かるは心を決めていっきに話した。
そこまで聞くと、さすがの和尚もあまりの事の重大さに一言も口を挟まず、かるの話を聞いていた。
「私はこの辺りで生まれ育ち世間の事は何も知らない女です。世の中に女でもあり男でもある体を持つ者が存在する等、想像した事もありませんでした。
でも幼いあの子をこの家に連れ帰り、あの子を抱いて寝た夜、それが本当の事だと知り恐れおののきました。この子をこの先どう育てて行こうか。
いつか自分の体が普通でない事を知った時の蓮の悩みはどうなるだろう。
あの子が幼いままなら悩む事もなかったでしょうが、あの子は山寺に通い始めてから一日一日と知恵がつき、いろんなことを勉強してからはまるで目をみはるばかりに成長して来ました。
私は一人いつも心の中ではオロオロと悩んでおりました。
あの子の心の中はどうなのか。
あの子の体は成長するにつれどう変わって行くのか。今は男の子として育てておりますが、いつか並の女子のように月のものが始まるのではないか。
そうなった時の蓮の驚きはどんなだろう。そうなった時は女として生きるべきかどうか考えれば考える程、悩みはふくらみ心配事はどんどん広がって行きます。
和尚様、どうしたら良いのでしょうか。
私の悩みなど蓮の心が救われたならいっぺんに晴れるものです。
蓮の心こそが私の心配なのです。
蓮がいつか悩んだ時、いいえ、もう悩んでいるのかも知れません。
その悩みからどう救ってやれるか。
和尚様、和尚様なら蓮の心を不安から救って下さるのではないかとおすがりします。
どうか蓮を助けてやって下さい。
蓮と話をしてやって下さい。
和尚様が良いと思ってお話下さり、和尚様と蓮が良いと思って決める道ならば私に異存はございません。」
かるは今まで胸に押し込めて来たものをいっきに吐き出すように打ち明けた。
そして話しながら泣いていた。
あの豪快な和尚も暫らくは何も言わなかった。
そして数珠を握った手を膝に置いて、それを見つめながら深く考えをめぐらしているようだった。
暫らくして和尚は、
「して、蓮は今どこにいる?」と聞いた。
かるは、
「長い事、この家の為に尽くしてくれた頭領が年には勝てず、最近は寝たり起きたりしております。
蓮はそこの部屋に行って頭領の眠る傍で勉強しているのでしょう。」と言うと、
和尚は、「蓮をここに呼んで来て下さらぬか。私が話してみましょう。ですが、お婆婆殿は隣の部屋にいて下さらぬか。」と言った。
かるは立って土間を隔てた頭領の部屋に行くと、やはり眠っている頭領の傍で蓮は勉強している所だった。
「蓮、和尚様がお前のこれからの事でお話があるそうですヨ。」
そう言うと、蓮は美しい顔を上げ涼しい目でかるの目を見て頷き、すぐに立って来た。
かるは蓮を和尚様のいる仏間に通すと、自分は隣の部屋に入り襖を閉めた。
これから和尚様は蓮にどういう話をなさるのか。知りたくもあり、その話はあまりにも恐ろしく思え、出来る事なら耳を塞いで聞かずにいたい気もした。
だが、やはりかるは蓮の事なら何もかも知っておかなければならない。
蓮の心がズタズタに切り裂かれるなら、自分の心も一緒に切り裂かれて血を流さなければならない。
目を瞑って嫌な物を見ず、聞きたくない辛い事を聞かずに済ます事等、出来ない。
和尚の話がどんな話なのか。
その事で蓮が苦しむのなら自分も一緒に苦しもう。
蓮が嘆き悲しむなら、私も一緒に嘆き悲しもう。
喉元までせり上がって来る不安と悲しみを抑えて、襖に耳を当てていると中の会話ははっきりと聞こえて来た。
和尚は蓮の最近の勉強ぶり、寺の蔵書を次から次へと読んでいる事を誉めた後、こう切り出した。
「蓮、お前はこの二・三年で驚く程いろんな意味で成長した。お前はこの先、どうしたいと考えているのかネ。そろそろ自分の進むべき道を決め、それに向かって歩き出す頃と思うがのう。」
和尚がそう切り出すと、いつもはきはきと返事をする筈の蓮が、何も言わずに黙っている。
「まだ先の事は考えていないという事かの?」
すると、「いいえ、考えております。でも私のような者が、どの道なら進めるというのでしょうか?」
蓮の悲し気な声にかるはドキッとして胸が痛んだ。
やはり蓮は自分の体の事で悩んでいたのだ。
「“私のような者”とお前は随分、自分を卑下したような言い方をするが、それは自分の体の事か?」
そう和尚が訪ねても蓮は何も言わない。
「お前の事はお婆婆殿から聞いて知っている。世の中には数知れない人がいて、その中にはいろんな悩みを持つ人々で溢れている。蓮、お前もその悩む人の一人なのだヨ。
いや、悩む人が限られているというのではないぞ。
誰もが、あらゆるほぼ全ての者が何らかの悩みを抱えているというのが本当だろう。
赤子や知恵の足りない者を除けば、知恵ある者は老若男女を問わず限らず何かに悩みながらも生きているといった方が良い。
蓮、お前は自分が男か女か解らない。あるいは男でもあり女でもあるから、それ故そういう体を卑下しているのであろう?」
そう和尚がずばり切り出した。
かるは自分の胸がえぐられるような気がした。
「私は若い頃、国中のあちこちを旅し修行して回っていた。
その土地、土地で風習が異なり考え方や物の見方が違う事で随分驚かされたが、私は今、その一つを思い出していた。
ずっと北の方を回っていた時の事だった。
ある村へ行って泊まつた時の事だった。
あれは確か秋だった。大層賑やかな行列がやって来るらしく、表の通りは遠くからも人々が出て来てまるで祭りの山車がやって来るのか、ワイワイしてその行列の来るのを待ち望んでいるので、
秋祭りですか?と私が尋ねると、
私の泊まった家の主人が、観音様がおいでになるんですヨ。誰もが観音様に少しでも触れたいとああして道筋まで出て来て立って待っているんですヨ。と言う。
観音様ってそれは人形ですか?仏像ですか?と私が聞くと、
いいえ、生き仏様ですヨ。お坊様も是非ご覧になって触れて貰うと良いでしょう。この地方ではなかなかお生まれにならない本当の有難い観音様です。と言う。
どういう事ですか?なぜ観音様だと解るのですか?
行列がだんだん近づいて来る様子なので、その理由を知りたくて私はその家の主人に矢継ぎ早に質問していた。
すると主人は、お坊様も観音様の像は御覧になった事があるでしょう?あの美しい観音様は女ですか?男ですか?昔から観音様はどんなに美しくても女ではなく男でもない。あるいは女でもあり男でもあるという事は御存知でしょう?今、こちらに向かって歩いて来なさる観音様も正しくそういうお方なのですヨ。
そういうお方は何十年、いや何百年に一人しかお生まれにならない有難い生き仏様です。この世で苦しみうごめいて死んで行く私達を救って下さる為にこの世にお生まれになられた方なのですヨ。
でもそういうお方は御寿命が短いと言われています。とにかく、この世におわす闇に、、例え一度でもその手に触れたいとこうして人々は待っているのですヨ。
そういう話であった。初めて耳にする不思議な話に私もその頃はまだ若く、話を聞いて人々の様子を見ていると、その観音様がどんなお姿をしておいでになるのか興味が湧き、その行列がこちらに向かって来るの首を長くして待っていた。
やがて年老いた爺様、婆様達にグルリを守るように囲まれた行列の中にひと際輝く金襴の衣装をまとった姿が現れた。長く伸ばした黒髪にビラビラかんざしを何本もつけたような飾りの被り物を被り、それはきっと私は見た事はないが、花街のおいらんというものはかくあろうかと思われる華やかな作りのお姿だった。
周りを取り囲む爺様婆様達の中にいて、飛び抜けて背の高いお方だった。
自分の周りをがっちりと年寄り達に守られながらも手を出して、触れたいと思う者の手にそっと触れさせる事を許しながらゆっくりとゆっくりとこちらに歩いて来る。
一度でもかすかにでもその手に触れる事が出来た者は夢のような心地でこれから先の幸せを約束されたような満足な心地と感激とで誰もが天にも昇る顔をしている。
やがてその行列は私の前に来た。これが誠の生きた観音様なら私も仏の道を歩む者、触れておく事はやぶさかではないと自分に言い訳をして私も目の前に現れたそのお姿に近寄り、その御手に触れようと手を伸ばしました。
目の前にはおしろいを塗ったのか真白い手がありました。
その手に触れた瞬間、ヒヤリとしました。まるで氷のように冷たかったからです。
その日は天気も良く暖かい日でした。その上、何百という人に囲まれ何百という人に触れられ熱い筈のその手が、まるで死んでいる人の手のように冷たかったのです。
驚いて私は思わずそのお方の顔を見ました。白く化粧をしているとはいえ、とても美しい人でした。
男のようには決して見えず、それかといってその辺で見かける女達にはない何か特別な神秘さと不思議さを漂わせていました。
私がそのお方の顔を凝視すると、そのお方も私の僧侶の姿が目についたのか私の顔を見ました。私達の目は一瞬合いました。
その時のゾクリとするような感じは何だったのだろうと今も時々思い出します。
笑顔ではなく、むしろ何か悲し気な目でした。若い私はこのままどこまでも追いかけて付いて行きたいようなそんな思いを抱かせる目でした。
私は暫らくボーッとそのお姿を見送っていました。あの時のあの不思議な体験を年を取った今でも昨日の事のように鮮やかに思い出します。
あの土地では確かにあのお方は人々の心を救って下さっていたのです。
若かった私はそれからも暫らくはあの時の儚げで悲しそうな目が度々頭に浮かびました。
それから後も、方々の土地を巡り歩いて、更に不思議な話を聞いたり見たりするにつけそういう体で生まれて来た人は、半陰陽と言われ珍しくはあるけれどたまにある事だと解りました。
そういう子供が生まれた家にとってはひた隠しに隠し秘密にする家もあるが、地域によってはあの村のように地域全体で守り大事にするという所もあるという事です。
蓮、お前の体がそうであるならばもう悩む事をやめるのだ。本人にとっては単純な事ではないだろうが、それはいわば自分から世間に公表しなければ隠し通せる事だからだ。
仏が自分をこの世に菩薩の体でお遣わしになったと思う事は出来ないだろうか?
少なくとも若い頃にそういった経験をした私にとっては蓮は正しく御仏がお遣わしになったとしか思えないのだヨ。
蓮、お前こそが仏の道を行くにふさわしいと思うがの。
私は他にもいろいろな人を見て来た。
顔半分が赤い、そういう男を見た事がある。
首の横に赤子の頭程のこぶのある人も見た。
三・四歳の子供のまま大人になった人も見た。
目玉が飛び出た人も見た。
また若い美しい娘なのに、赤子の頃から髪の毛が全く生えないと言って頭巾をかぶっている人もいた。
それ以外にも蓮のように人の目の見えない所に悩みを抱えている者は山程いるだろう。
だが、それを各々が自分に与えられた個性と思って生きて行く他ないのだヨ。」と和尚様は話し終わった。
話し終わって一呼吸すると、
「蓮、お前剃髪して仏の道に進む気持ちはないかね?」と和尚が言った。
かるは襖を隔てた部屋で息を呑んで二人の話を聞いていた。
すると蓮が、
「和尚様、和尚様のお話本当にありがとうございました。実はお婆婆様に心配かけまいと顔には出さないようにして来ましたが、私は幼い頃から自分は人とは違う事を知っていました。
誰に何と言われた訳ではありません。
強いて言えば、周りの自分に対する気遣いの目というのでしょうか。
ああ、私は普通の人間ではないのだと小さい頃からそう気が付いていたのです。
そういう私がこの先、お寺のような多くの人達に混じってどうして生きていけるのでしょうか。この先、私が歩いて行く道はあるのか解らずにおりました。
もしも和尚様のおっしゃって下さるように仏門に入ったとします。
この先、私のような男とも女ともつかぬ見た目の者が多くの僧侶達に混じってやって行けましょうか。
皆から好奇の眼差しで見られ、弾かれて浮いてしまうのではないでしょうか。」
蓮の話す事はもはや子供のものでは無かった。
隣の部屋で襖ごしに聞いていたかるは、この蓮の言葉に驚いてしまった。
まだまだ子供だと思っていた蓮が、いつの間にかここまで考え、言葉が言えるようになっていたのか?
それにやっぱり賢い蓮は、小さい頃からとうの昔に自分の体の事を知り悩んでいたのだ。
この私に心配かけまいと素振りにも出さずに悩んでいたのだ。
そう思うとかるは、哀れでならなかった。
するとその言葉に答えて和尚の力強い声がした。
「蓮、僧侶という者共をそう侮ってはならぬぞ。成程、僧の中にも悪い奴はいるし中には巷の悪者より手に負えない者もいるかも知れない。
だが、この私は幸いそういう悪い僧を見た事はないぞ。
仮にも仏の道に進んだ者達は皆、おのれの愚かさや湧き上がる欲望をいかに静め、自分の魂を救おうか日々悩み修行し、悟りを求めて祈っていると私は思っている。
少なくとも僧侶とはそういう者だと信じているのだヨ。
蓮、お前の行く道に私が想像も出来ない苦難が待っているとしてもだ。
その苦難に立ち向かい克服していくのが本当の修行の道ではないか?
私は悩める若い僧を大勢見て来た。
悩みのない物より悩みのある者の方が人の心の痛みが解る。これは本当の事だ。
人の心の痛みが解るのは自分が充分心を痛めて来たからこそ解るのだヨ。
蓮、それでもお前の心の中にはそういう説得をする私は何も苦しみ悩みがなかったように思いはしないか。
よろしい。
蓮、お前だから私も自分の秘密を話そう。
私は生まれた時、私の左手の指は六本あったんだヨ。
親指の付け根にもう一本指があったんだ。それを世間に知れたらきっと大騒ぎになるだろう。
私を生んだ母は驚き悲しんだろう。母親と産婆は生まれ落ちるとすぐに左手が人の目に触れないようにグルグル包帯をして私を育てた。
父親はそういう子供を避けるようになったのか、私は幼い頃から父親に可愛がられた事も優しい言葉をかけられた事もない。
あれは私が三・四歳になった頃だ。
母親は私の手を引いて、裏山に連れて行った。
そして一本の木に私が身動きをとれないように私を縛りつけた。
普段優しい母が、その時は一言も何も言わなかった。何をするのだろう?
木に縛り付けられた私は不安だった。
それからすぐ脇にある根元に、私のその左手をのせて包帯を解くと、何をするかと思う間もなく、あの母がなたで一番外側の親指をストンと叩き切ってしまったのだ。
それは一瞬の事だった。
私はあまりの事にギャーッと泣いた。
あの優しい母親が髪を振り乱した鬼に見えた。
その後、母親は自分の懐から軟膏やら包帯を取り出して傷口の始末をしてくれた後、泣きじゃくっている私を思いっきり抱きしめた。それでも何も言わなかった。
それから泣きじゃくる私をおぶって裏山を下りて途中にある墓地まで来ると、自分の家の墓の前で私を降ろして、墓の後ろを少し掘り、そこに血にまみれた包帯に包まれた切り落とした指を埋めて、土をかぶせ手を合わせた。
それから初めて、母は泣きじゃくる私に向かって、お前の一部はここに埋めたからネ。これから先ずっと私が死んだ後もここに埋めた物は大事に守り通すからネ。安心おし。これからお前は誰に後ろ指を指されず堂々と生きて行けるんだヨ。
そう言ってまた私を力いっぱい抱きしめてくれた。
母親の顔は涙で濡れていた。その顔を見て私は子供心にその時、母親を許したんだヨ。それから一年余りも相変わらず左手をグルグル巻きの包帯で隠していたが、五歳か六歳になる頃だったと思う。
ある日、立派なお坊様が家に来て、このお子かねと言って私を見た。
私はそのお坊様に連れられて包帯のない五本指の左手でお寺の小僧になったんだヨ。
それからの私は一生懸命勉強した。とにかく勉強した。
あの時の鬼のような母の顔と、和尚様に連れられて家を出る時泣いていた母の顔を思い出して、遮二無二勉強した。
何故かそれ以外に道はないと思ってネ。長い事包帯を巻いて使わないでいた左手は、暫らくの間は右手のようには力が入らなかったけれど、だんだん思うように動くようになった。
大人になると普通になってしまったが、だがどんなに月日が経っても、あの日の事は鮮明に覚えているヨ。
子供の為ならあの慈母観音そのもののような優しい母が鬼になるのだからネ。
私の母はもうこの世にいないが、その時の母の心を思うとその勇気に頭が下がるヨ。
人はこうして口に出さなければ心の内は見えないものだろう?
何の苦労もないように思える人間にも一つ、二つは抱えている物があるのだヨ。
蓮、少しは気持ちが楽になったかナ?
人間誰もが自分に与えられた人生を、例えれば亀の甲羅のように一生背負って生きていかなければならないのだヨ。
蓮、これから先の事、よーく考えて決めるんだぞ。
そして決めたからには歩き出す。
歩き出したからには人に負けぬ程努力をする。それでも途中、何度も嵐のように苦難が襲ってくるだろう。
だが、その時はその時。その都度、自分に出来る限りの努力をして最良の道を探る。それしかないんだヨ。私達にはそれしかないんだヨ。その道へ踏み出しもしないうちから先々の事を思い悩んでも仕方がない。
まあ、そういう事だ。
私は言うだけの事は言った。後は蓮が考えて決めるだけだ。
もしも私がお釈迦様ならもっとましな事が話せただろうが、まだまだ私も駄目な坊主だナー。」
そう言って頭を掻くと、いつもの和尚様に戻っていた。
和尚は普通の調子に戻るとかるを呼んだ。
「お婆婆殿―、どこにおられるー。私はそろそろ帰りますぞー。」
かるは慌てて涙を拭いて襖を開けて出て行った。
やがて和尚が山道を登って帰っていく姿が見えなくなっても、かるも蓮も話をしなかった。
蓮はまた、頭領の部屋へ行って勉強をしだした。
後は蓮本人に任せよう。かるはそう思った。
だけれども、あんなに胸苦しかったものがいつの間にか消えて胸の中は軽くなっていた。
きっと和尚様が蓮の前で、蓮の秘密をその暗い胸の中から取り出して広げお日様に当てて下さったからだ。
やっぱり和尚様に相談して良かった。やっぱり和尚様は凄い方だ。
かるは何度も何度もそう思った。
蓮はそれからも相変わらず山寺に言っては勉強し帰って来ると、頭領の傍にいるのが務めのようにして傍らで勉強した。
頭領はそれが好もしくもあり、心強いのか殆ど横になってばかりになっていつもニコニコ満足気だった。
そういう日が続いたある日、頭領はとうとう帰らぬ人になった。
もう大分前からかなり弱っていたらしいが、かるに迷惑をかけまいと頑張っていたのだ。
山寺に勉強しに行く以外はいつも頭領の傍にいて、おまるを使う時も、また厠に行く時も蓮の肩を借りていたらしい。
そしてとうとうある朝、
いつものようにかるが温かい粥を持って顔を出すと、いつも笑顔を見せる頭領が目を瞑ったままだった。今、正に遠くへ行こうとしているのだ。
驚いて蓮を呼ぶと、蓮は走り寄り頭領の手をとって激しく泣いた。
「大爺!大爺!」と呼んで泣いた。
その声は男の子のようではなく、むしろ若い娘の泣き声のようだった。
蓮の温かい両手に頬を包まれると頭領は一瞬、あの世に踏み出した足を止めてこちらに振り向いたようにかすかに笑った。
かるにははっきりそう見えた。それから頭領は満足してあの世に旅立って行った。
蓮はそのままいつまでも、いつまでも頭領の亡骸にすがって泣いていた。
かるは蓮の心のままにさせておいた。
蓮と頭領がこんなにも肉親そのものの愛情でつながっていた事に感謝した。
頭領の為にも蓮の為にも感謝した。
やがて蓮は泣き止むと決心したように、
「お婆婆様、私は剃髪して仏門に入ります。お許し下さいますでしょうか?」と言った。
かるは、「心が決まったんだね。蓮、お前がそう決めたのなら私に異存はないよ。」そう言うと、
「私はこれからお寺へ行って大爺の葬儀の事を相談して来ます。大爺とは前々から亡くなった時に私がお経を読んであげると約束していました。
その約束の為にも和尚様に剃髪していただきます。」
そう言うと、蓮は山寺に登って行った。
蓮は仏門に入る事はとっくに決めていたのだ。
だが、かると頭領の為に、
頭領を見送るその日までは自分が傍についていようと決めていたのだ。
かるの胸中はいろんな思いが渦巻いていた。
何もかもが変わってしまったような、これから何もかもが変わってしまうような。
妙に不安定な感覚だった。
あんなに実の父親よりも案じ助けてくれた頭領だった。
「頭領、頭領、私の背中についていて守っておくれ。私はもう少し頑張るから。私を後ろから応援していておくれ。頭領、頭領。」
声に出して頭領、頭領と呼んだ。
だが頭領はもう安心したように深い長い眠りについてしまったのだった。
もう二度とその目を開けてはくれないのだ。
それからの事は慌ただしく過ぎて行った。
始終、他に忘れてる事はないか。何をしなければならないか夢中でどう過ごしたのか、食事はしたのか、眠ったのか、夢の中の出来事のようではっきりとは憶えていない。
ただ、蓮が寺から帰って来た時、目も覚めるような美しい僧侶になっていて、その青々とした頭とうなじを見た時、かるは思わず泣いた。
蓮はどう思ったか知れない。きっとお婆は喜んでくれたと思ったかも知れない。
だけどそんなんじゃない。かるは何故か悲しくて悲しくて泣いたのだ。
頭領の葬儀の時、
和尚様の後ろで立派にお経を読み上げていた蓮の姿が忘れられない。
背は高いのに、ほっそりとした首筋に墨染の衣を身にまとった蓮の姿に、
かるは何故か悲しくて哀れで泣けて仕方がなかった。
蓮が自分で決めた道だ。和尚様が進めてくれた道だ。
かるに何の不満があろう。
蓮は自分の進むべき道を見つけたのだ。
そう思いながらも、蓮の細いうなじを見ると涙が湧いて来るのだった。
蓮はかるの負担を考えて最後の最後まで頭領の傍にいた。
頭領は蓮に手助けさせてかるに下の世話を一度もさせずに逝った。
葬式も済んで、頭領も無事墓の中の住人になった。
今頃は、文之亟、五助、およし、頭領の四人でのんびり仲良くしているだろう。
そしてそこから、かると蓮の事を見守っているだろう。
そう思うのだが、家の中は急にガランとした。
蓮は正式に剃髪して仏門に入ったので、山寺に住む事になったからだ。
もう修行中の身で“蓮清”という名も頂いた。
家の中にいたような訳にはいかない。家の中がやけにだだ広く感じる。
ここ暫らく気が抜けたようになって、豆腐作りもうどんの店の方も任せっぱなしになっていた。
だけどおゆうおよう姉妹は二人でしっかり立派に切り盛りしてくれている。
「二人で手が回らなくなった時は、誰か頼んでいいですか。」と聞かれた。
かるは、「いいヨ。二人にまかせるヨ。私ゃ、何だか気が抜けちまって悪いが二人でいいようにしておくれ。」と言うと二人は、
心配して時々かるの様子を見に来てくれる。
忙しいからいいヨというのに朝、昼、夕の食事を運んで来てくれる。
かるはすっかりおゆうおようの姉妹に甘えて楽をして過ごした。
だが心の中はいつもからっぽだった。
それから冬がやって来た。
かるは寒い冬の間はただ丸まって過ごした。
外に出るのが億劫で墓にお参りする以外は、綿入れの長着を着てボーッと過ごした。
からっぽの胸の中をつむじ風がヒューッと吹いて行くようだった。
蓮の行く道はこれで決まった。
今は和尚様がついていてくれるし、あの子ならこの先どんなに辛い事があろうと頑張って行くのだろう。
心配する事が無くなると尚更胸の中のがらんどうを冷たい風がピューッと吹いた。
私の周りからみんな居なくなってしまった。
父さん、母さん、おも、おもこ、文之亟、五助、およし、頭領までも逝ってしまった。
最後にかるのやせた翼に抱えていた蓮までも巣立って行ってしまった。
虚しいナー
淋しいナー
悲しいナー
生きて行くって辛いナー
この先、私はどうなるんだsろう。
蓮は今頃どうしてるだろう。
すぐ近くの山寺と言っても蓮は仏様に預けた身、あれからどうしているやら。
顔を見たくても年寄りの足ではおいそれと行ける所じゃない。
例えやっとの思いで登って行ったところで、孫離れのしない婆様が会いに来たと蓮が恥ずかしい思いをするだけだ。
私はこのまま一人ぽっちで年取って死んでいくばかりなんだろうか。
今更何を言ってんだか。最初から解りきった事じゃないか。
だから、その為に墓を建てたんじゃないか。
いつか力尽きて死んでしまった時は、あの墓に入ればいい。
そしたら立派な僧侶になった蓮が拝んでくれるだろう。
そんなことを考えているうちに、冬も行き春が来た。
広い畑の周りに植えた桜の並木が細いながらも花をつけ、その蕾が開いてぱらぱらと咲き始めた。
「桜が咲いたヨー。みんなー、見てますかー。」と声に出して言ってみた。
桜が咲いてもどうしてか元気が出て来ない。
ボーッとしていても時はどんどん流れて行く。
かるは近頃、昔の事ばかり思い出していた。
生まれてから今までの事。
生まれた時からおもと比べられていつも周りの人は私を可哀想にという目で見ていたっけ。
だから小さいながらも歯を食いしばって一生懸命手伝って働いた。
娘になってもきれいな着物は一枚として着た事がなく、ただ何かを振り切るように一生懸命働いた日々。
あの時、頭領はきっとそういう私の気持ちを見ていたのだ。
頭領に認められてそれが嬉しくて一生懸命だった日々。やがて母親までも病で亡くし一人ぽっちになってしまった。
でもあの時、私は悲しかったけれど若かった。
だから仕事を一生懸命頑張って乗り切った。
そこへおもが子供を連れて転がり込んで来た。おもが死に、おもこが残された。
その後はおもこの為だけに生きて来た。
老女様におもこを預けた時も一人ぽっちになったけれどこんなには淋しくなかった。
おもこが時々顔を見せに来てくれたから。
おもこを御殿に上げてからは淋しさよりも心配ばかりしていたっけ。
そんな時に舞い込んだのが文之亟様をお世話する話だった。
見た目は随分年を取って見える人だったけど、気持ちは汚れていない優しい人だった。
あの時はこの家が建ったばかりでそれまでの粗末な家と比べて大層立派なお屋敷に見えたものだった。
きれいな着物や帯をたくさん買って貰って初めて美しい着物を見にまとう事が出来た。
五助もおよしもまだ達者で文之亟もゆっくりだが毎日、散歩して歩いた。
きっと、あの時が私の一番の花の時代だったのだ。振り返って今初めてそれが解る。
過ぎて行った日々が無性に懐かしく思い出された。
文之亟が亡くなった後、頭領が心配してくれて豆腐作りの算段をしてくれ、食べて行けるようにしてくれた。
あの時は文之亟が亡くなってからも、淋しいなんて言ってられなかった。その先の事を考えて夢中だった。
それに五助夫婦もいたし、頭領もいてくれた。
五助が亡くなって、およしは随分淋しかっただろう。およしの心持ちが今は手に取るように解る。
それから思いがけなく蓮が私の所にやって来た。まるでおもこが幼児に姿を変えて私の所に来たと思い、私は蓮の事だけを考えて生きて来たような気がする。
こう思い返すとかるは自分は本当に幸せだったと思う。
いつも傍には誰かがいた。その良い人達に恵まれほのぼのとした温かい気持ちで生きて来られた。
しかし蓮はどうだろう。仏門に入り、これからは勉強と修行の日々だ。
それにあの子はああいう体だ。普通の人達のように誰かを好きになったり好かれたりの幸せを何一つ知らずに終わるのだろうか。
そう思うと哀れになる。あの青々と剃り上げた形のいい頭と細い首筋で頭領の亡骸にすがって泣いたあの声は、若い娘のように思えて仕方なかった。
この先、一生そういう女の部分をひた隠しに隠して生きて行くのだろうか。
蓮、お前はそれでもいいの?
それで悔いはないの?
そうかるは心の内で蓮に問いかけた。でも、それじゃ他に道があるのかと問われれば他に道はない…と思うと、なお、哀れに思えて来る。
一度は蓮の決心に安堵し送り出した仏門の道だったけれど、これからの蓮の長い道のりを思うとかるはまた心を痛めるのだった。
やがてまた、月日は流れ、
久しぶりに蓮がかるの所に顔を見せた。
ほんの少し見ない間に急に背丈がスーッと伸びて、いかにも美しい若者らしさとまた、花のある乙女の面影も感じさせるようになった。
和尚様がたまにはゆっくり泊まって来ていいとおっしゃったと聞いてかるは急に元気になって、隣りのおゆうおように頼んで少しばかり旨い物を作って貰った。
食事が済んでお茶を飲みながら、寺での暮らしがどんなものか聞くと、
蓮は笑いながらかるを安心させようと朝の起床から掃除や食事のいちいちを詳しく話して聞かせてくれた。
「大変だネー。辛い事はないのかい?」と聞くと、
「いいえ、小さい頃から寺に通って寺の中の若いお坊様達の様子を見て来ましたから、覚悟はしておりました。人に出来る事なら自分に出来ない事はないと励んでおります。」
そう言って蓮は笑った。
「ところでどんな世界にも意地の悪い人がいると聞くけれど、嫌な思いをした事はないのかい?」
かるはそれが一番心配だった。
蓮は、「いいえ、和尚様が私をこの道に誘って下さった事は誰もが知っていますので、そんな意地悪をする人は一人もおりません。それに勧信先生もいらっしゃいますから。」と言う。
蓮の話を聞いてかるは一安心した。
だけれども、もう一つ聞いておかなければならない事がある。
もう大人になった蓮に聞くのはさすがにためらわれるが、この度、和尚様に許しを得てゆっくり里帰りしたのには何かそのような訳があるのかも知れないと思うとかるは気になって仕方なかった。
「蓮、もう大人になったお前にこういう事は聞きづらいのだけどね。」
かるは遠慮がちに聞いてみた。
すると、蓮は美しい横顔をこちらにクルリと向けて、「お婆婆様はその事が一番心配だったんですネ。大丈夫、何も変わりはありません。私はやはり男の子として生きて来て良かったのだと思います。」と言った。
かるはこの時を逃しては聞く機会がないと思いなおも、
「蓮、お前が答えたくなければ答えなくてもいいんだヨ。お前の心のうちはどうなんだい?お前は男の子として生きて来て後悔はないのかい?自分は女として生きたかった。そういう気持ちはないのかい?」と聞いた。
蓮はかるを安心させるように微笑むと、「きっと私は体だけでなく心もきっと中性なのだと思います。お婆婆様が気になるのは女の人の心で男の人を好きになるか。男の人の心で女の人を好きになるか。そういう心持ちを知りたいのでしょう?私は今はそういう気持ちは少しも湧いて来ないのです。
ただ、ただ、この道の奥の深さに驚いてもっともっと、知りたい事が沢山あります。字も他の人達のように上手くなりたい。経文の内容もすっかり理解したい。覚える事は山程ありますから、頭はその事でいっぱいです。」
蓮はそう答えた。
かるはその答えを聞き、そういうものだろうか?人それぞれの感じ方だから蓮がそういうのなら今の蓮の気持ちはそうなのだろうと思った。
かるがボンヤリそう考えていると、
「それからお婆婆様、この間、慈円先生がお寺に見えられました。次の日すぐにお帰りになりましたが、私の事を覚えておられました。
私が本格的に仏門に入りここのお寺で修行している事を知ると、驚いていました。
それから、すっかり見違えるようになったとおっしゃって下さいました。今、どんな勉強をしているのかとお聞きになり、いろんな書物の名前を出し、あれは理解したか?また読んだかを聞かれました。その中の何冊か読んだと答えましたら、それなら“蓮清”もいつかは本山に来るのだろうとおっしゃって、本山には全国から勉強熱心な若い僧が多勢集まって来るからしっかり勉強をしておくようにとおっしゃっていました。」
「和尚様の話だと、慈円先生はここのお寺にいた頃から多くの書物や経典を読破していて、とても優秀だった為、本山に行ってもすぐにそれが認められ、今では本山でも若い僧に教えておられるお立場だと言う事でした。
一度だけと和尚様に頼まれて慈円先生はその晩、私達を前にお話しされたのですが、とても御立派で為になるお話でした。
お釈迦様が旅をしながら弟子たちにお話しされたその一つをお話して下さいましたが、とても解り易く、先生の話し方なのでしょうか?その旅の様子やお釈迦様のそのお姿までまた、それを聞く弟子たちの様子までが目に浮かぶように想像出来て、大層面白く感動致しました。」
慈円という人は、幼い蓮が最初に教えを受けた師だった。
先の和尚様が亡くなると、すぐにこの山寺から本山の方へ行かれた蓮の最初の大事な勉強の師だった。
その師と何年ぶりかに再び巡り会い、再び激励されてさぞ嬉しかったのだろう。
蓮は頬を紅潮させてかるに慈円の素晴らしさを語って聞かせた。
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