第4話

おもこが死んでしまったというのに外の陽ざしがかるの目に眩しく飛び込んで来た。

おもこが死んでしまったのに。もうどこにもいないというのに。

そう思うと泣けて来そうだったが、かるは小さな蓮の手を少し力を入れて握り、足を踏み出した。

あのお女中が表に出ていつまでもいつまでも見送っていた。

「蓮、手を振ってお別れをするんですヨ。」というと、蓮は大きく手を振った。

お女中は着物の袖で目を抑えているようだった。恐らくこれが最後の別れになるだろう。もう会ってはならないのだし。

あの御殿での暮らしは出来るならば幼い蓮の頭の中から自然に消し去った方が良いのかも知れない。

老女との関わりもこれが最後だ。それはかる自身の気持ちにも、また蓮の為にもその方が良いのだと思った。

かるはそう考えながら歩いた。

そして蓮の為に通りがかる荷車を見かけると何度か呼び止めて声を掛けた。

やっと自分の家の方に行くと言う荷車があったので、お金を出して乗せて貰う事にした。

自分一人なら何度も歩いた道だが、蓮にとっては無理だろうし、今のかるには幼い子供をおぶって歩いて帰る気力も体力も残ってはいなかった。

その荷車にはちょうど二人が乗れる場所が空いていた。

かるは蓮を乗せ、自分も隣に座りながらこの幼子をしみじみと見つめた。

やはりおもこに似ている。最初見た時、何だか誰かに似ていると感じたけれど、やはりこの子はおもこの幼い頃によく似ている。

かるはさっきから黙ったままの幼児に話し掛けた。

「蓮、どう?荷車に乗って面白いだろう?これからはいっぱいいっぱい面白い事があるんだヨ。」と言うと蓮は、おもこによく似たきれいな目でニッコリ笑った。

「ほら、気持ちがいいだろう。向こうの山々もきれいだネー。」そう話し掛けながら何故か涙が溢れて仕方がなかった。

かるは隣に座る小さな肩を抱いてあやしながら、いろんな事を目まぐるしく考えた。

今は泣いてなんかいられない。おもこの事を思って泣くのは後にしよう。

今はこの子の事だけを考えるのだ。この子の気持ちを一番に考えるのだ。

この子を不幸にしてはならない。

いずれ年頃になったら自分の体の事を知り悩むだろう。だけどとりあえず今は普通に明るく育って貰いたい。それにはどうしたらいいか。

頭領にだけは本当の事を話さなければならないだろう。だがおよしにはどうだろう。

真正直で気の優しいおよしは本当の事を知ったらこの子を哀れむだろう。

出来るだけ哀れんだり不憫に思ったりしないで伸び伸びと育てなければならない。

それでは、この子をあの二人には何と言おう。男の子と言おうか、女の子だと言おうか。どちらでもないなんて、そんな本当の事はもちろん駄目だ。とりあえずどちらかにしなければならない。

このこが女の子として育って果たして年頃になった時、体つきも娘らしくなったり月のものが来るだろうか?

先々、この子が成長した時、どんな仕事についてどんなことを身につけ、どんな大人になり、どう生きて行くのがいいのだろう。男のように力もなく、それかといって女のように子供が生めないとしたら、この子はどう生きていくのが一番いいだろう。

かるは幼子の肩を時には軽くポンポンと叩きながらも頭の中は次から次へと色んなことを考えていた。

のどかな田畑の景色の中を荷車はのんびりゆっくりと進んで行った。

やがて山裾から少し上がった所にある山寺の屋根が見えて来た。

あのお寺を真っすぐ下った所にかるの家はあるのだ。

山寺の屋根を見ていて、その時ふとかるの頭にお坊様!という考えがよぎった。

僧侶!そういう道もある事を思いついた。男だけでなく尼さんという女の僧もいるという。

それに偉い人達の家の中からお坊様になる人がいると聞いた事があった。

蓮が成長してどういう道を目指すかは本人の意思に任せるしかないが、かるの頭の中では遠くに立つ目印の柱の一本がその道もあり得る事を示していた。

そう気付くとそれが一番良いようにも思えて来る。

とにかく何もないより何かを心の頼りにする事は良い事だ。


幼児の耳元でかるはそっと聞いた。

「蓮?蓮は可愛いネ。きれいな顔をしているネ。蓮は可愛いきれいな着物を着て女の子になりたいのかい?」

そう聞くと、「ううん。」と返事が返って来た。

嫌だという。

「それじゃ走り回って強い男の子になりたいかい?」と聞くと、

それも「ううん。」と言って首を横に振る。

「どっちが蓮に似合うんだろうネ。」と言うと、幼子は解らないと言う。

そうなんだ、今はまだ何も解らないんだろう。それに世話係のあのお女中もこの問題には触れないように育てて来たのかも知れない。

でもこれからはそうは行かない。世間というものはどちらかに決めなければおさまらない所がある。どっちつかずでも妙な目で見られかねないだろう。

かるは決心して幼子の耳元にそっと話した。

「蓮、世の中にはネ、男と女が多いんだヨ。どちらかに決めた方が都合がいいんだヨ。いつか嫌だと思ったら、その時は蓮が自分で変えてもいいけれど、今はどっちにしたいか解らないだろう?それなら、この婆婆がとりあえず決めていいかい?婆婆に暫らく任せてくれるかい?そして蓮がおかしいナ、嫌だナーと思ったらその時は婆婆の耳にそっと話しておくれ。それまでは婆婆が全部いいようにするから、それでいいかい?」と目を覗き込んで聞くと、

蓮はコクンと頷いた。

まだあどけないこの子がどこまで理解しているか解らないが、これで決まりだ!

今から蓮は男の子で行く。かるは何故かその方がいいような気がして、

「蓮!蓮は家に着いたら男の子だからネ。何も心配する事はないんだヨ。全部この婆婆に任せておくんだヨ。」と言い切った。

かるはこれから長い戦いに挑むようなそんな興奮した気持ちで蓮の体を思いっきりぎゅーっと抱きしめた。


かるの家はすぐそこに見えて来た。

家に着くと、庭周りの仕事をしていたおよしと頭領がニコニコ顔で迎えてくれた。

が、かるが小さい子供を連れているのに気が付くと、妙な顔をした。

頭領が、「老女様は何の話だったんだ?その子はどこの子だ?」と聞いた。

かるは、「大事な話ばかりだから家の中に入って話しますヨ。この子は蓮と言って男の子ですヨ。私の孫だから宜しくネ。さあ蓮、御挨拶は?」と言うと、

「蓮です。三歳です。」と言って、ペコリと頭を下げた。

頭領は訳の解らないまま中に入って、およしが入れてくれたお茶を飲みながらかるが話すのを待っている。

「およしさん、後でおよしさんにも事情を話しますから、すみませんが蓮に庭や畑を見せてやって貰えませんか?」と頼むとおよしは幼い可愛い子供の手を引いて笑顔で庭の方へ連れて行った。

やがて広い畑の隅に建てられた墓の方へ向かって歩いて行くのが遠くに見えた。

それを確認しながら、かるはこらえきれずに、

「頭領、おもこが死んでしまいました。」と言った途端、押さえていた涙が一気にポロポロと溢れ出た。それは次から次と流れ落ちた。

頭領は、「何てことだ。何てことだ。どうして亡くなったんだ!まさか自分から死んだっていう事はないよナ!」と聞いた。

「あの子はおもこが生んだ子供です。上様の子です。でも訳あって上様の子とは名乗れないんです。おもこは子供を生んだ後、体の調子を崩してずっと床に伏っていたそうです。御殿ではいろいろ手を尽くしてくれたそうですがやっぱり駄目で、七日前に亡くなったそうです。初七日を過ぎて係のお女中があの子を連れて来ました。」

そう話すと、「何故だ!あの子は上様の子なんだろう!」頭領は怒りもあらわにそう怒鳴った。

「頭領、落ち着いて聞いて下さい。」かるは話すのも辛かったが、頭領には聞いた事を包み隠さず話した。

あまりにも思いもよらない事実に頭領も話したかるも暫らく黙り込んでしまった。

「そういう訳で、上様の御存知のないこの子は表向きは死産とされたそうです。私もその話を聞いて動転してしまいましたが、まだほんの子供と言っても知恵がついて来る大事な時期です。私は来る途中悩みましたが、あの子をとりあえず男の子という事で世間体を通そうと思います。

それにしても、おもこが生んだ子がそういう運命を背負って生まれて来たなんて何の因果なんでしょう?私は昔、物心ついた頃から同じ双子に生まれながら自分はどうしておものようではないのかと悩みました。でもそれは蓮の体の事を思うと蓮は私の何十倍も悩むでしょう。頭領、私はあの子をどう育てていったら良いでしょう?

あの子が大きくなるに従い、その事で悩むと思うと私は心細くて本当は自信がありません。どうしたら良いんでしょう。本当に本当に可哀想な子です。でもだからこそ、今は普通の子のように伸び伸びと育てたいのです。

頭領、この事を話す事が出来るのは頭領だけです。頭領、これからも力を貸して下さい。それからいろいろ考えておよしさんには言わないでおこうと思います。」

「そうだナ。そうしよう。俺も聞かなかった事にする。あの子を男の子だと思う事にするヨ。」と言った後、

「それにしても世間には生まれながらに目が見えないだの、耳が聞こえないで生まれて来る子供がいるらしい。だが、こういう話は初めてだナー。しかもおもこの子供がナー。もしもこの事が世間に知れたら、何かの祟りだとか騒ぎ出してあっという間に噂になるに決まってる。これは誰にも話しちゃならネー。俺はもう忘れた。」と頭領は言った。

かるは、「あのような女の子のようにきれいな子供ですが、明日からは着る物もそれらしくしようと思います。頭領、頭領も蓮を男の子として話しかけるようお願いします。」

頭領は、「それにしてもナー、あのおもこがもうこの世にいないと思うとナー。」と深い溜息をついた。

かるはまた新しい涙が湧いて来そうで慌てて腰を上げて立ちながら、

「そういう事ですので、頭領、私はここ当分はあの子に付きっ切りでついてやりたいんです。豆腐作りも今までみたいには行きませんので、手伝ってくれる人をどうしましょうか。蓮がここの暮らしに慣れて落ち着くまでどうか宜しくお願いします。」と言うと、頭領は、

「おお、解った。かる、何事もなるようになって行くもんだ。あんまり心配するな。豆腐の方は俺も手伝うし、おゆうさんと相談して後の事はちゃんとするから、お前はその子供を第一に考えろ。」そう言った頭領は本当の父親のようだった。

かるはそれから、蓮を自分の傍に括りつけるようにして、いつも連れ歩いたが、ある日ふと考えた。

世間の男の子はやはりお爺の傍にいた方がいいのかも知れない。

蓮は今まで髪をおかっぱにしていたが、それでは女の子に見られかねない。かるは蓮の髪をつむじの所で一つに束ねて結んでみた。すると凛々しく見える。

着物も男の子柄の反物を買って来て筒袖の着物とお揃いの短めの馬乗り袴を縫って着せた。すると、いかにも男の子らしく見えて、かるは満足だった。

ここいら辺の男の子は蓮のような幼い子供は熱い夏は腹がけ一つだったり、着物も短いものを着たっきりだったが、かるは心の中で思った。

蓮はそこいら辺の子供とは違う。仮にも上様の血を引く高貴な子供なんだと。それに何よりうっかりして誰かに蓮の秘密を知られてはならない。

その度にかるは思い出した。蓮をここに連れて帰ったその晩、幼子の眠る顔をしみじみと見つめ、布団をかけ直してやる時に幼い蓮の足元の寝巻をそっとはぐって確かめたあの時の衝撃を思い出した。

色の白いポタポタとした可愛い足から足の付け根に見たものは、まぎれもなく愛らしい女の子と愛らしい男の子のどちらも備えたものだった。

本当だ!本当だったんだ!この子は両方の性を持って生まれて来たのだ!

どうしよう。

どうしよう。

この子をどうやって育てて行こう。この子がやがて自分が人と違っている事を知り、悩む時は必ずやって来るだろう。その時はどうやって救ってやろう。

この私に出来るだろうか?

先々の事を考えると、その責任の重大さにかるは押しつぶされそうになった。

だが私が駄目になってどうするんだ。今からそんな弱っちい心でどうするんだと自分の心にムチを打って気持ちを持ち直した。

私に出来る事は、今の一日一日を精一杯愛情を持って育てる事。それ以外にない。

それしか私には出来ないのだから。自分に納得させて歩き出したかるだった。


が、折に触れて先の日の事を思う。

幼い今は良いが、あの子が十歳になったら?

十二、十三、十四の年頃になったら、その時、悩んだ末に自ら命を絶つようなことがあったらどうしよう。私にそれを止められるだろうか。

その頃には頭領やおよしは生きていないかも知れない。私一人でこの子を守り抜いて救ってやることが出来るものだろうか。

考えれば考える程、思いは暗い方へ暗い方へと向かって行く。

よし婆はこの秘密を知らない。蓮の事を遠くへ嫁いでいたかるの娘が亡くなってかるの元へ来た男の子とだけ思い込んでいる。よし婆は蓮を可愛がってくれる。

頭領も時々、その辺りの仕事をする時、蓮を連れ歩いて、木の小枝や葉っぱで何か作って遊んでやったりしている。

かるは豆腐作りを続けながらも、いつかはこの仕事を今手伝ってくれている女房二人に任せて譲り渡す事を漠然と考え始めていた。

働いてくれているのは、いつか仲の良いおゆうとおようの姉妹になっていた。

最初は別の女房に来て貰っていたが、その女房がまだ下の子が手がかかるからと長期に休んだ時に、もう一人のおゆうが、それなら妹が近くにおりますので声を掛けてみますと言って連れて来た。

その妹のおようも姉同様働き者で、一生懸命に働いてくれ性格も正直で真面目な事から。かるも頭領もこのおゆう、およう姉妹に安心して仕事の多くを任せて来たのだった。

おようの子供はまだ小さいが一緒にいる姑がよく孫を見てくれるからこの仕事は続けたいという話だった。

かるは二人の性格と働きぶりを見て、いつかはこの二人に店を譲り渡そうと心に決めていた。

その事を頭領に話すと、「かる本当によく考えたんだろうな。店を手離したらお前と蓮はどうやって食べていく?」と心配した。

「頭領、どうにかなりますヨ。少し貯えた分だってあるんだし。あと一年稼いだら、蓮も五歳になるでしょう。いろいろ自分の頭で物事を考えるようになるでしょう。私は今から自分の全てを投げ捨ててでも、あの子の為に生きようと思っているんです。」

頭領はそう言うかるを少し悲しそうに見つめて、「かるはどこまでも誰かの為に生きるように出来ているんだナー。せっかく何もかも順調に良い方向に向かっていると思ったのに、またこうして苦労を背負い込む事になるんだナー」としみじみと言って、「俺ももう少し若かったらかるの重荷を少しは分けて持つ事も出来るんだがナ。」と言った。

そういう頭領も今ではすっかりお爺さんになっていた。

その頭領が、「ところで人の事は言えないが、よし婆の様子何かおかしくないか?この間、久しぶりに農園の方へ顔を出して戻って来たら、よし婆が途中でウロウロしているんだ。

よしさん、どうした?と聞いたら、泣きべをかいた顔で何だか急にどっちへ行ったら良いか解らなくなったと言うんだヨ。あれはボケが始まっているんじゃないか?かる、少し気を付けて見てやってくれ。」

そう言うと、よろよろと中二階への階段を登って自分の部屋へ入って行った。

かるはまた、急に心細くなった。

ここの所、蓮の事で頭がいっぱいでよし婆の事には全く気が付かなかったが、確かに思い出すと様子が以前とは違っているような気がする。

最近、かるはおよしと世間話をしていない事に気が付いた。

だから何も気が付かなかったのだ。およしはボケが始まったのかも知れない。

頭領だって頭はしっかりしているけれど、あんなに体がしんどそうに見える。

こういう時は私がしっかりしなければならないと今更ながら思った。

他にも豆腐作りや店の事で考えて気を配らなければならない事は山程あった。

それに引きかえ、蓮はかるが思う以上に賢い子だった。

姿が見えないと不安になってかるは時々、「蓮!」と呼んだ。

すると明るい声で、「はい、ここにいます!」と返事が返って来るのだった。

どこにいても必ず可愛い涼やかな声が気持ち良く、すぐに返って来る。

その度にかるは安心して嬉しくなる。

ある日かるは、豆腐の仕事がどうしても手が離せなくて蓮を呼んで、よし婆の事を頼んだ。

やはりよく見ていると、よし婆の様子がどこかボンヤリしている事にかるも気付いたからだ。

「蓮、よし婆は時々きっと困る事があると思うんだヨ。蓮が傍についてあげてよし婆が困った時、力になってくれたら婆婆は安心して仕事が出来るんだがネ。」と言うと、

蓮は、「はい、私はよし婆の傍にいます。何か困ったらお助けします。」と幼いながらにかるに向かって約束してくれた。

蓮はまだ四歳になったばかりだが、しっかりしていて、かるの話す事が充分解っているような気がする。

そう思う時にもかるはまた、ああ、もったいないと胸が痛むのだった。

この子が男の子だったらどんなに頼もしい若者になったろう。

そして姫様だったらどんなに賢く美しい姫様になったろう。

かるは何につけそう思い胸を痛めた。

だが、もしもそうだったなら蓮は自分のような者の所に来る事もなく、この愛らしいお顔を一生拝めずに過ごしたのだ。

このようなおいたわしいお体だからこそ私の元に授かったのだ。

これは御仏がおもこの代わりに私の元へお遣わしになったのかも知れない。

そう気付くと、他の誰にも出来ぬ、かるだから出来る方法でこの子の心を救い、進むべき道を探し歩ませてやらねばならない、そう思うのだった。

蓮は実際かるが思う以上に賢く、頼りになった。

およしの傍にいつもいて、およしがふらふらと家の周りから遠く離れそうになるといつも一緒について行った。

そして、ある程度遠くまで行くと、家に帰ろうと言って連れて帰るのだった。

それは頭領が見ていてかるに話してくれた。

「蓮は本当に頼りになるナー。」としきりに感心して話してくれた。

強引に引っ張って連れ戻すのではなく、蓮が何かおよしに話しかける。

すると、およしがフッと思い出したように笑顔になって蓮に手を差し伸べて蓮に手を引かれて素直について来るというのだった。

「あの子は不思議な子だナー。およしに何を言っているのだろう。」

頭領はしきりに不思議がった。

かるもその話を聞いて興味をそそられた。

ある日も、蓮がおよしの手を引いて帰って来た。

家の中には入らずに庭の方へ回ると庭を通って畑の方へ行き、畑の角地の墓へ向かって行った。蓮はおよしを墓の前に連れて行くと、そこにしゃがんで二人で手を合わせた。

しばらくしばらく手を合わせると、またおよしの手を引いて家の方へ帰って来た。

そしておよしをいつもの土間の所に腰掛けさせた。およしは満足そうにニコニコしている。かるは二人に冷たい水を飲ませると、蓮を呼んで聞いてみた。

「蓮、いつもありがとう。蓮のお陰でお婆は大助かりだヨ。よし婆は蓮の言う事を素直に聞いて帰って来るようだが、蓮はよし婆に何て話しているんだい?」

すると、蓮はつぶらな瞳を向けて、

「よし婆はいつもどこかに行こうとして家を出るんです。でもどこへ行けばいいのか解らないんです。私がどこへ行きたいの?と聞いても困った顔をしています。だから、私はよし婆に聞いてみたのです。誰かに会いたいのですネ。

すると困ったような顔をします。それで私は五助爺に会いたいのですか?と聞いてみました。するとよし婆はうんうんと頷きました。私はそれじゃこちらではありません。これから五助爺の所へ一緒に行きましょうと言って一緒にお墓の所まで行きました。

お墓の前に来るとよし婆は思い出したのでしょう。安心して手を合わせていました。でもおかしいのは私の事をお地蔵様と思ったのでしょうか。

お地蔵様本当にありがとうございましたと言って私にも手を合わせるのです。」

蓮はそう言って笑った。

その時の蓮の顔は全てを知り尽くした菩薩様のように慈悲ある顔に見え、かるは驚きの余り何も言えなかった。とても四歳の幼子とは思えないのだった。

きっとおよしには蓮は見知らぬ土地で迷った時に出逢った地蔵菩薩様に見えたのに違いない。

「蓮、どうして五助爺の事を知っていたの?」とかるが聞くと、

「だって、よし婆はいつもお墓の所に行ってはここに五助爺がいるんだヨと私に教えてくれていましたから。」と言った。

それでかるも納得した。

もう、この頃ではおよしは蓮よりも幼い子供のようになっていた。

かるはおゆうとおように諸々の事情を話し知ってもらい、出来るだけおよしから目を離さないようにしながら、忙しい時は蓮の力を借りて仕事をしなければならなくなった。

だが最近の蓮のしっかりした様子を見て、そろそろ蓮にしっかりとした方について読み書きを教わらなければならないと思うようになった。

かるは幼い頃からの性分で真夜中眠れずにいる時、そう思いつくと矢も楯も堪らず、すぐにも誰か良い師を見つけねばならないような気がして焦るのだった。

本来蓮は、上様の子であり、上様の子ならば既に立派な師に付いて手習いを始めている筈だった。

そう思っていた矢先、山寺の和尚様がかるの家においでになった。

文之亟の亡くなった時も、五助が亡くなった時も、葬儀の時お世話になって以来、何度かかるの所にお経をあげに見えた事があった。

和尚様という方は大変高齢なお方だが、さすがに最近は足腰が弱くなったらしく若い僧を伴って来て下さった。

かるはお経が終わってお茶を出した後、和尚様に自分の孫の手習いについて相談した。

「詳しくは申し上げられませんが、ある高貴な方の血を受け継ぐ子供です。出来得る限りの教育をさせてやらねばなりません。どなたかこの子に読み書きを教えて下さる方を紹介願えないでしょうか。」と思いきって話したのだ。

すると和尚様は、そのお子が見たいとおっしゃった。

かるは庭先にいる蓮を呼び寄せた。

蓮は幼いながらも和尚様の所に来ると、両手をついてはっきりとした御挨拶をした。

和尚様はその見た目、物言い、仕草等を見定めると、

「よろしいでしょう。このお子なら年は幼いながらも聡く、大人の話す事も聞き分ける事が出来るでしょう。このお子の事はここにいる慈円に任せましょう。

この慈円は年は若いが大変優秀な僧侶です。本来ならこの山寺にいつまでも置いておくのは勿体無い程の人物なのだが、私の事を心配して、こうしてここに居るのです。いつかは本山に行き、然るべき高層にもなると私は思っています。私がこの世を旅立つのもそう遠くはないと思うが、それまで、慈円が本山に行くその時までこのお子は慈円が責任を持って見る事に致しましょう。よいか慈円、そなたに頼めるか?」

和尚が若い僧に言うと、いつも目立たぬように後方に控えている若い僧侶が、「かしこまりました。」と受け合ってくれた。

明日からでもいい、山寺によこしなさいと言って下さり、和尚様と慈円という僧は帰って行きました。

あんなにいろいろと考えていた蓮の手習いの問題は気が抜ける程、あっさりと解決した。

かるはこれは蓮に運が向いているのか御仏が導いて下さった縁なのかと信じられない思いがした。

かるはホッと安心して蓮の顔を見、

「蓮、貴方は明日から山寺に行って、お勉強をするのですヨ。山を登って行く事になりますが大丈夫ですか?」とかるが聞くと、

「はい、大丈夫です。」と蓮は子供ながらに覚悟を決めた顔つきで返事をした。

とにかく道は開けた。そう安心すると次は、およしの事が気になった。

庭を見渡してもおよしの姿が見えない。

蓮を和尚様に引き合わせていたほんのわずかな間におよしは外に出たらしい。

慌てて隣の作業場にいる頭領にも声を掛けて探す事にした。頭領には無理をさせられないがおよしの行きそうな所を手分けして、蓮にも手伝って貰って探し歩いたが、その辺りにおよしの姿が見つからなかった。

どこへ行ったんだろう?

そう遠くまで行ける筈がない。ほんのわずかの間だったのだから。

ちょうど、店の空いている頃だったので若いおゆうとおようも来て探してくれた。

方々探したあげく、まさかと思ったがすぐ近くを流れている沢の方まで行って貰ったら、沢の下の方でおゆうとおようの声がして、「かる様!ここにおります!」という声が聞こえて来た。

坂になっている笹薮に紛れ込んでそこを滑り落ちたらしい。動けないでいるという。

やがておよしは、おように背負われて笹薮の中から姿を現した。

グッタリしているが命に別状はないようだ。家に連れ帰って寝かせるとどこを打ったのか体のあちこちを痛そうにした。

可哀想に。年をとるという事はこういう事なのだろうか。自分の行きたい所や帰るべき所もわからなくなって幼い子供が見知らぬ山の中をさまよい歩くように深い藪の中を歩いたのだろう。

どんなに心細かった事だろう。

およしは眠ったまましきりにうわ言を言っている。

「どこへ行っちまうんだヨー。置いていかないでおくれヨー。」

はぐれた子供が泣くような悲しい声だ。夢の中で五助が先にどんどん行ってしまうのを追いかけているのだろうか。

かるは胸が痛んだ。五助が亡くなったあの時、まだおよしはボケていなかった。長い間仲の良かった二人だ。連れ合いを亡くしてさぞ心細かろうとかるが気を遣うと、

「亭主は亡くなったといっても、すぐ近くのお墓に眠っておりますので少しも淋しくはありません。」と気丈に答えていたおよしだったが、およしにとっては五助のいなくなった淋しさは計り知れないものだったのだろう。

年老いたらいつかは死なねばならないと理屈では分かっていながら、その理屈という押さえ蓋が取れてしまえば幼子のようにただただ心細く淋しかったのだろう。

五助夫婦が文之亟についてこの家に来た時から、やがてはこの年老いた二人を最後まで面倒を見て送り出さねばと思っていたかるだった。

そういう訳をおゆうとおように話すと二人は気持ち良く、店で三度のご飯の支度をしてくれる事を受け合ってくれた。

それはとても助かる事だった。かるは増々二人の心根の優しさを有難く思った。

次の日の朝、目を覚ましたおよしを起こそうとしたが、およしは起き上がれなかった。

どこをどう打ったのか少し動かそうとしても痛がった。藪の中を転げ落ちた時に体を打って腰か背中の骨を折ってしまったのかも知れない。

次の朝 時間をかけて痛くさせないようにやっとの思いで着替えさせ、体や顔を拭いてやり、おゆうう達が作ってくれたお粥を食べさせた。

下のおしめをさっぱりと取り替えると、気持ちが良く安心したらしい。また眠り始めた。

かるはおよしが眠っている間に、蓮を連れて山寺の坂道を登って行った。

以前、もっとずっと若い頃登った事があるが、こうして幼い蓮の手を引くようにして登る道はかなり遠く険しく感じられる。

この子にとっては大変な道だろう。

「蓮、大丈夫かい?」かるが心配して聞くと、

「平気です。大丈夫です。」とはっきりした可愛い返事が返って来る。

顔も紅潮し生き生きしている。この子も年寄りだけの中で、しかも家の周りだけの毎日で飽きが来ていたのかも知れない。自分の知らない世界へ足を踏み入れる事が存外楽しみなのかも知れない。

真っすぐな一本道を登りながら、かるはこの子の向上心にかけてみようと思った。

およしの事がなければ暫くは送り迎えをしてやろうと思っていたが、今はそれも出来ない。ましては足腰の弱った頭領には無理をさせられない。

かるが一緒について行ったのはその最初の片道の一回きりだった。

寺について訪うと、すぐに出て来た慈円に蓮を宜しくお願いしますと頼んだ。

まだ二十歳前に見える若さだが、物静かで口数は少ないが目にその名にふさわしく慈しみの心が見てとれる。

かるは慈円に、「蓮には道は少し遠いけれど、まっすぐの一本道だからと教えてあります。私は年寄りの介護で迎えに来れません。終わりましたら、一人で帰れると思います。」と、かるは蓮をそう頼んで引き渡すとすぐに帰って来た。

急いで下りの道をつんのめるように走るように帰って来た。

およしが待っているようで気が急いて仕方がなかったからだ。

案の定、およしはかるが当てて行ったおしめをぐっしょり濡らして泣いていた。

正気に戻っているらしく、

「かる様、ご迷惑をお掛けし申し訳ありません。」と言って泣くのだった。

泣くおよしに、「私は五助さんとおよしさんには随分助けて貰いました。今こそ、そのお返しが出来ると喜んでいるんですヨ。およしさん、私の事を実の娘だと思って安心して任せて下さいね。

私達は一緒のお墓に入る家族なんですから。遠慮は無しですヨ。そうでしょう?

それに蓮も一人で山寺に行くようになりましたヨ。あの子もしっかりして来ました。

およしさん、蓮が帰って来たら思いっきり誉めてやって下さいね。」

そう話しかけると、およしは初めて安心したように笑顔を見せた。

昼を少し過ぎる頃、蓮が帰って来た。

「お婆様、只今帰りました。」

元気な声が聞こえた。

かるは子供の成長が嬉しくて駆けて行って力いっぱい抱きしめようとしたが、蓮が来るのを待って、「お帰りなさい、大丈夫でしたか。」と声を掛けた。

嬉しさで顔いっぱいに輝かせながら、「はい、大丈夫です。一本道ですから。」と言う。

何とも急にしっかりして大人びた話し方をする。

「今日はどんな事をお勉強したのですか?」と聞くと、

「今日は字の読み方でした。慈円先生が家に帰ってからもお勉強するようにとお手本を下さいました。」と言う。

「まあ、それは良かった事。蓮、お婆は少しする事があるから蓮はここでお勉強して、よし婆の傍にいておくれでないか?」と言うと、

蓮は元気よく、「はい、ここで勉強します。」と返事をした。

かるが裏口でおよしの汚れたおしめを洗濯していると、やがて蓮の可愛い声が聞こえて来た。

いろはにほへと

 ちりぬるおわか

よたれそつねならむ

 うえのおくやまけふこえて

あさきゆめみし

 ゑひもせすん

それを何回も何回も繰り返している。

今日は一日でそんなに覚えたのか?

かるは驚いてそっと覗いてみた。確かに蓮の前にお手本は置いてあるが、蓮は目を閉じて暗誦しているのだった。

きっと慈円というあの僧侶は和尚のいうようにかなり優秀のようだ。

最初は歌を覚えるように何度も何度もいろはを一緒に暗誦したのだろう。

そして楽しく覚える事を教えてくれたのだろう。

かるは本当に心の底から良かったと思った。

およしも蓮の暗誦のいろはをニコニコしながら聞いている。

およしも蓮が傍にいてくれると心丈夫らしく、山寺に行って来たことの話を聞くのを楽しみにしているらしかった。

蓮は蓮で自分の話す事を楽しみにしてくれているよし婆に、その日習った事だけでなく、お寺の中の様子や道々で見かけた草花の事等も話して聞かせているらしかった。

蓮はこうしていつの間にか今ではかるの力になっていた。

蓮は毎日、朝ご飯を食べ終わると一人で家の脇から山寺へ続く一本道を登って行った。

たまに慈円が忙しい時はすぐ帰って来る時もあったが、慈円という若い僧は幼い蓮の良い師であるらしく、蓮は例え天気の悪い日でも決して嫌がらず、毎日楽しみなように山寺に勉強しに登って行った。

そして帰って来ると、それが自分の仕事でもあるように、およしの寝ている所に座って勉強のおさらいをした。

そのお陰で蓮がおよしの傍についてくれると思うと、かるは安心して隣の作業場に行って仕事をする事が出来た。

寝たっきりの年寄りの介護をし、また皆の着替えを洗濯もし、豆腐作りやうどんの店も手伝うという忙しい毎日だったが、今自分は本当に無駄のない充実した一日一日を送っているのだという実感がかるにはあった。

そういう日々がどれ程続いただろうか。

およしは命が自然に枯れるように亡くなった。

床についてからは蓮が山寺から帰って来るまではかるがおよしの近くで細々とした仕事をしながら見ていると、およしはしきりと誰かに向かって話しているようだった。

いかにもすぐ近くにいる人に向かって話しかけているように話しかけていた。

よく死ぬのが近くなると、お迎えが来ると人の噂話に聞いた事があって、かるは辺りを見渡してここに自分の目には見えない誰かがいるのだろうかと思い不安になった。

およしは大体は頭の中が霞がかかってでもいるように焦点の合わないようなボンヤリした目をしている事が多かったが、その霞がふと晴れたように正気になる時があった。

そういう時は、「かる様、私も五助もかる様の所に来て本当に幸せでした。あの世に行っても、かる様の事を見守っております。」等と言ったりした。

そうして、およしはこの世の人ではなくなった。

下の世話や何やら大変だったが、亡くなってみると今までかるの傍にあって、かるを取り囲んでいたあったかいぬくもりの一つが消えてしまったようで、悲しくて悲しくて夜布団に入ると優しかったおよしの言葉を一つ一つ思い出し、あの小さく愛らしい笑顔や物腰を思い出しては泣いた。

柔らかくて温かくてほっこりする人だった。かるが今まで自信を持って生きてこられたのはおよしのあの温かいぬくもりが背中にあったからだと思う。

今はそれがはっきりと解る。およしはかるにとって母親のような人だった。悔いのないように悔いのないようにと世話をして来たが、それでももっともっと何かおよしが喜ぶ事をしてやれば良かった、言ってやれば良かったという悔いが残った。

だが、もうおよしはいない。

そう思うとまた涙が溢れ出て来た。

それからのかると蓮は、毎朝畑のお墓にお参りして手を合わせた。

「蓮、よし婆にいろいろお話して聞かせるんですヨ。よし婆はきっと聞いてくれてますからネ。よし婆は蓮のお話を聞くのが本当に楽しそうだったもの。」と話した。

蓮はそれから帰って来ると、一人お墓の前に行って手を合わせて何かを話しているようだった。頭領も仕事の合間にちょっとした暇が出来ると墓にお参りしているようだった。

かるも墓の前に行くと、亡くなった三人がニコニコ迎えてくれているようで心が和んだ。

ある日ふと考えついた。

ここに長い腰掛けを置こう。

かるは店に来る人に頼んで、墓の前にたっぷりとした長い腰掛けを作って貰って置いた。

それは最初は足腰の弱い頭領の事を思って考えついた物だったが、蓮にとってもかるにとっても、大いに役立った。

いつか墓の前はちょっとした息抜きの場所になった。

生きていると、時には弱音を吐きたくなる。そんな時に安心して吐き出せる場所になった。

また、天気の良く風の涼しい時など蓮は、腰掛けの所でよく勉強しているようだった。

蓮にとってもおよしは、蓮を頼りにして蓮を残りの全部で愛してくれる貴重な存在だったのだろう。

蓮はおよしの為に傍にいてやり、およしの喜ぶ話を聞かせ、その事によって大きく成長したのかも知れなかった。

蓮が山寺に通い出してから一年にはなっていないが、もうかなり経っていた。

いつの間にか、足腰も丈夫になり、かるは何の心配もなく送り出せるようになっていた。

今では話し方の一つ一つ、動作の一つ一つがきびきびとはっきりしていて、どこから見てもしっかりしているのは生来本人の持つものもあるだろうが、寺での学習がもたらすものが大きいとかるは思い感謝していた。

そんなある日、蓮が思いがけなく早く家に戻って来た。元気がない。

どうしたのかと聞くと、山寺の和尚様が亡くなられたという。

かるは驚き、蓮の為にも和尚様の死を悲しんだ。

御高齢であられたが話し方のしっかりした御立派な方だった。人の命に限りがある事は解っているが、それにしても惜しまれるお方だった。

あの時、和尚様はおっしゃった。

自分が遠からず死んだ時は、慈円という今は蓮の師である若い僧は本山に行く事になると。それまでの間、蓮の勉強を見てやるようにそうおっしゃっていた。

そうなれば、和尚様の葬儀が済んだ後は、慈円はここの山寺から去るという事になる。

蓮がせっかく勉強の楽しみを覚え、良い師に恵まれたとかるも喜んでいたのに…。

自分勝手とは思いながらもかるは、和尚様の死を惜しみ悲しむよりも、その事が案じられて仕方がなかった。

山寺には多くの僧が来るらしく、蓮は慈円に暫らくは教えられない。連絡があるまで家で待っているように言われたとすっかり元気のない様子で言った。

尊敬する和尚様を亡くして慈円もその悲しみは顔に出ていたのだろう。

それからの何日か蓮は所在なげに墓の前に行っては勉強していた。

そうしたある日、慈円がかるの所にやって来た。

悲しみの消えない目をした慈円は、かると蓮に向かって

自分はかねてからの和尚様のお言いつけ通り遠く離れた本山へ行って修行と勉強をしなければならない事。

しかし、蓮の勉強については同じ山寺の僧に頼んであるので心配いらないという事。

その僧の名前は“願信”と言って自分より二つ先輩で本山での修行を済ませているので蓮は安心して勉強するようにと。

それから願信先生は大変おおらかな性格の方だから何も心配はないし、今度新しく山寺に来られる和尚様もやはりおおらかでさっぱりとした性格の大変御立派な方だから、何か心配事や相談事があったら何でも聞いた方がいい。

そう言って慈円は帰って行った。

慈円が帰った後、蓮は明らかに元気をなくしたようだった。

かるも蓮の為に慈円が去る事を悲しんだが、こればかりは致し方のない事だ。

人の出会いにはいつかは必ず別れが来る。人はその淋しさ、悲しさ、苦しさに耐えて生きて行かなければならないのだ。

それにしてもこの幼い蓮は、実の母親のおもこと死に別れ、母親のようにいつも自分を守ってくれたあのお女中とも別れ、ここに来てからはあのよし婆との別れがあった。

そしてまた、ようやく慣れ親しんだ師の慈円との別れであった。

赤子の時ならいざ知らず、知恵もつき心も育ち、ものの哀れを知るこの度の別れこそ蓮にとっては大きな悲しい別れだろうとかるは思った。

だが蓮、生きている限りこれからもその別れの悲しい波は幾度となく押し寄せて来るんですヨ。人はそれに耐えるしかないんですヨ。

うなだれたように力のない小さな背中に、かるは心の中でそう言うしかなかった。

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