第2話

農園の外にほとんど出たことがなかったかるにとって、道のりは遠く感じたし、見るもの全て珍しかった。やがて少し賑やかな町中を過ぎ、門構えの立派な一軒の家の前で頭領はここだと言って立ち止まった。

農園の中のあの粗末な小屋のような家とは大違いだった。

門を入るときれいに手入れされた庭があり、その中の小道を行くと奥に静かな屋敷があった。

訪ねると下女が出て来て入れてくれた。

下女は、「まあまあ、このお嬢ちゃんですか?」とニコニコしてからかるを見て奇妙な表情をした。

この奇妙な女がこの美しい子の母親?という顔がはっきりと表情に出ていたが、かるは黙っていた。

立派な玄関から立派な部屋に通されると、すぐに銀髪の上品な老女が現れた。

物腰も柔らかくおもこを見る目は優しそうだった。

老女は下女のようにあからさまな目でかるを見る事はしなかった。

だがかるは自分から、「このおもこは姉の娘で、姉が亡くなった四歳から私の傍で育ちました。が、この子の将来を考えまして頭領に相談して、この度こちら様のお話を紹介していただきました。まだ何もこの子に教えてあげておりませんので何も知りません。ですが、おもこはきちんと話せば解る子です。どうぞ色々教えてやって下さい。宜しくお願いします。」

かるは精一杯の気持ちでその老女にお願いした。

老女の表情を見ていて、この方は心のある人だと確信したからだった。

老女は一目見ておもこを気に入ったようだった。

かるは老女の人柄を信じておもこを置いて来た。

頭領が、この人ならと紹介してくれた方だもの。帰り道おもこの心細げな目を思い出す度に自分も泣きたくなるのをこらえて、かるはそう自分の心にムチを打って帰って来た。

同じ土地と言っても、歩いて片道四時間もかかる距離だ。やはり近くて遠いとはよく言ったものだ。

一度お願いしたからにはこれからはなかなか会えないだろう。

これでいいんだ、これでいいんだ。

おもこには自分のような閉ざされた狭い場所の中で一生を送って欲しくない。

幾度も幾度も未練な心に念を押すように言い聞かせた。

そしてあれから七年、

その間におもこは何かというとかるの顔を見に農園に帰って来た。

泊まりはしなかったが、あの年頃の子供には走ってくるとそう遠くもないらしく、おもこは息を弾ませてかるの顔を見に帰って来る事がよくあった。

それだけ自由にさせてくれるのだろう。

かるはおもこがひょこっと顔を出す度に嬉しくて嬉しくて、

「悲しい事はないかい?苦しい事はないかい?辛い事はないかい?」と毎回同じ事を聞いた。

だが、おもこは輝くように笑って、

「おっかさん大丈夫です。老女様もクラさんもとっても優しいんですヨ。」と答えるのだった。

そして帰って来る度に物も、着ている物や髪の結い方も美しいきれいな物を身につけていて。いかにおもこが大事にされているかが解った。

かるは日に日に輝くようにきれいになって行くおもこを眩しく眺めながら、だんだん自分の手の中から離れて行くようで淋しかった。

実の親なら無条件に喜ぶ事だろう。

それなのに、この不確かな仮の母の自分はただ淋しい気持ちを抱えている。

何て自分勝手なのだろう。これでは母親失格だ。

おもこはこんな農園のような閉ざされた場所で一生を送る娘ではない。

広い世界に羽ばたいて人々から仰ぎ見られるような女性になるのがふさわしいのだ。

例え、この自分の手の届かないような所に行ってしまったとしても。

母親ならそれを喜ぶのが本当だ。

おもこがかるに笑顔を見せて帰って行く時、その後ろ姿を見送りながらかるはいつもいつも同じ事を思った。

おもこはいつか本当に遠くへ行ってしまうだろう。あんなに美しく素晴らしい娘になってしまったのだもの。

育ての母のかるの目からもあんまり美し過ぎて本当に眩しいくらいだもの。

そして月日はいつの間にか流れて、おもこは十六歳の美しい娘になった。

かるはある日、老女様から手紙を貰ってお屋敷に伺った。

二度目に落ち着いて見ると、お屋敷は本当に風雅でいたる所植木や敷石や目にも鮮やかな苔に至るまで手入れが行き届いたお屋敷だった。

おもこはこのような所で長い間育てていただいたのだ。

農園の裏のあの小屋のような家でなくて本当に良かった。

かるはそう思いながら玄関に立った。

クラという下女も最初の時とはうって変わって、かるをおもこの母親として丁重に迎えてくれた。

すると奥から、それはそれは目も覚めるような美しい晴着を身にまとったおもこが現れて、かるの前で三つ指をついて、

「お母様、遠い所をおいで下さり本当にありがとうございます。」と丁寧な挨拶をした。

しとやかで美しく、その仕草はどこへ出しても恥ずかしくない立派なものだった。

かるは驚いてしまって何も言えなかった。

広い屋敷に入ると、既に老女様が待っていて、かるが座って挨拶する前に、

「本当はこちらから伺わねばならないのですが、この通り年寄りで足腰が弱くなって貴女様をお呼びたてするような失礼をしてしまいました。」とかるにとっては身に余る挨拶と言葉をいただいた。

お茶と美味しいお菓子が出されて、それをいただくと老女様は本題に入った。

おもこはこの通り美しい娘に成長して私も下女のクラも満足している事。

その噂をどこで聞きつけたものか既に何軒かから縁談の話があった事を話し出した。

かるはきっとそういう話が出るだろう事は覚悟していた事だった。

そのいくつかの縁談の中でも色々考えて選んだ結果、都で大きく呉服の店を構える跡取り息子が、おもこの話を聞きつけ、先日番頭と一緒にここに品物を納めに来た時におもこを見て、いっぺんで気に入ってしまったらしいという事。

老女自身の目から見ても、その跡取り息子に不足はないと思う事。

だが、もう一つ心づもりの所があるという事。

そこまで話して老女は本筋に入る前に背筋を伸ばして改まったように感じた。

老女は、「私が初めておもこを見た時に何か希望の光を見たと思いました。そして、おもこと一緒に暮らすうちに何かこの子の持つ気品というか貴族性というものを感じたのです。そういうものは誰でも持ち合わせるものではありません。良い家柄に生まれたから身につくというものでもありません。そして、やっぱり私の目に狂いはありませんでした。私は一日一日、薄皮が剥がれてその美しさに気品が備わるのをこの目で見て来ました。

そして次第に途中からは、一つの心づもりを持って育てて来ました。このおもこならどんな良家の姫達にも負けないと確信し、私は自分の持つ事の全てを注いで力を入れて来たのです。それはおもこを御殿にあげる事を考えていたからです。

私は先の殿様の頃から長い間御殿でお仕えし、務めて来た事は知っていますネ。

おもこなら御殿に上がって今の殿様のお目に留まり、御寵愛を受ける事は間違いないでしょう。そして芽出度く御子を授からないとも限りません。そうなれば、この上ない女の出世が待っています。

これは一生を左右する問題です。母親のかる様とおもこがじっくり相談して決めて下さい。もしも御殿へ上がるとなっても、私の養女として不足のない仕度をさせましょう。

行儀作法、言葉遣い、読み書き、和歌のたしなみ、どれをとってもおもこは他の娘達に劣る事はありません。

そしてまた、呉服屋に嫁ぐ事を選んでも同様、おもこはどこに出しても不足のない立派な嫁御寮になれるでしょう。」

老女はそう言うと、おもこの部屋に行って二人で相談するようにと言ってくれた。



おもこの部屋は陽の当たる娘らしいきれいな部屋だった。

小さな小引き出しや文机、姫鏡台、座布団に至るまで娘らしい美しい小物で飾られていた。かるが驚いて眺め回していると、おもこは琴を出して弾いてくれた。

うっとりする程、美しい音色だった。

こんな事まで老女様はおもこに教えてくれたのだ。

ああ、おもこはこんなにも大切にされて日々を送って来たのだ。

老女様に預けて本当に良かった。

かるはその部屋を眺め美しい琴の調べを聞いて、自分がいかに狭い場所で生きて来たかを思い知った。改めて自分の暮らす粗末な家を思い出したりした。

琴を弾き終えると、改めて美しく成長したおもこに向かってかるは聞いた。

「おもこ、お前の気持ちが一番大事だヨ。お前はどうしたいんだい?」

「私には解りません。お母さんがいいとおっしゃる方に行きます。」とおもこは言った。

「呉服屋の御長男の顔は見たんだネ。どんな人だった?」

「ええ、でもよく解りません。優しそうな人だったような気がします。」


「おもこ、きっとここが人生の大きな分かれ道だと思うんだヨ。お前が幸せになるのも、あるいは後で後悔するのもここが分かれ道だと思うんだヨ。お前の母親のおもならどっちを選ぶだろうネ。」とかるが言うと、

「私のお母さんは今のおっかさんだけです。おもという人が私を生んで私の名前をおもこと名付けてくれた事は解っています。でも今は、かおも覚えていませんし、正直、その人に甘えたようなまた愛されたような思い出がないのです。その人を思い出そうとすると何か暗いじめじめとした肌寒さが浮かんでくるんです。

でもおっかさんを思い出すと、いつもあったかくて優しくていつも私を愛情いっぱいで包んでくれる陽だまりのような思いが溢れて来るんです。だから私の母親はおっかさんだけです。」

おもこはそう言ってくれた。

かるは嬉しくて嬉しくて、天にも昇るような気持ちだった。

こんな思いやりのある優しい天下一の娘を不幸にしてはならない。絶対に幸せになってもらいたい。

さてどうしたものか?

かるの頭では、考えても考えてもどちらに進むのがおもこの為なのか判断が付きかねる。


「おもこ、お前の幸せはどっちにあるんだろうネ。あんまりにも責任が重大過ぎて私には解らないヨ。こんな時は後悔しそうな方がどっちで、後悔しない方がどっちか考えて決める事も大事だネ。

呉服屋に嫁げば使用人等大世帯で苦労するのが大体見当がつく。そんな時、御殿に上がった方が良かったナーって後悔する事もあるだろう。

また逆に、御殿に上がっていろんな多くの女達の中で緊張しながら暮らす日々は私には想像も出来ないが、上様の御寵愛をいただいたら幸せへと繋がるが、お子が授かるかどうかは解らない。授からない時は辛くて呉服屋に嫁ぐんだったと悔いるだろう。

どっちにしたって後悔する事はあるものだ。それが人生だからネ。もしも、もしもだヨ。御殿に上がって子宝に恵まれなかったら、その時は辛かったらやど下りしてとっとと帰っておいで。そういう道もあるからネ。」

かるがそう言うとおもこは笑った。

「そういう簡単な話じゃないだろうがね。」

おもことかるがどんなに考えても、はっきり先が見える筈もない。

かるもとうとう降参してしまった。こんな大事な話はかるの暮らしの中では想像も出来ない事だから。

これはもう老女様のお考えとおもこの気持ちに任せるしかない。

かるは結局そう観念して、老女様におもこの身をお任せしますとお願いした。

かるは老女様に、おもこが呉服屋に嫁いだ後、万が一子供が授からなかったり、家風に合わないと離縁された場合の事。また、御殿に上がった場合も、同じように子供に恵まれずに御殿を下るような事になった場合のおもこの身の振り方が心配な事を正直に話した。

老女様は優しく笑って、「母親なればごもっともな心配です。おもこは賢い娘です。気立ても良く、こんなにも美しい。私が後ろ盾ならば粗末にされる事もないでしょうが、私はこの通り老いてそう長くはありません。母御が心配なさるのは当たり前です。

私は実は公家の出です。大した位の高くない、いわば落ちぶれた家ですが、私が年頃になると父親は大きな夢を抱いて私を教育し御殿に上げました。

もしも上様のお子を身ごもったらという夢を抱いてネ。恥を話すのは避けたかったのですが、私は若い頃、先の上様からただの一度だけお情を頂戴しました。

悔しい事ですが、そのただ一度だけです。その後は二度とありませんでした。

若い頃はもしやまたお越しいただけるのではないかと随分お待ち申し上げましたが、御殿には美しい女御が沢山おりまして、私のような平凡な女は一度でもお渡りのあった事が幸運だったのかも知れません。

それから五年、七年と経ちますと、もうすっかり諦めましたが、実家には帰れませんでした。自分から申し出たら宿下りは簡単に許されたでしょう。

ですが、今更実家に戻って落胆する親達の顔を見る事はどうしても出来ず、私は腹をくくって御殿での指導係として生き抜く事を選びました。やはり私と同じような女御は他におります。気の合う友達も何人か出来ました。そして父親が亡くなり兄の代になって、それでも御殿での暮らしに落ち着いてそこに居続けてしまいました。

そして十年程前まで御殿にいて、そして宿下りしてここに居を構えたという事です。

御殿には今もあの当時、私の下で働いていた者達がおります。

気安く頼める者も二人や三人はおります。万が一の事があっても、その者に頼んでおけば悪いようにはしないでしょう。

正直おもこは百人の美女達の中にあっても、飛び抜けて人の目に留まる魅力を持っています。長い間御殿で多くの女達を見て来た私が保障するのですから間違いありません。

それだけに裕福とはいえ町家の商家の女房にするのは誠に惜しく残念に思うのです。良い事ばかり考えますと、せめて一人でも上様のお子を授かれば、若君様ではなくてもいい、姫様でもいい、授かればおもこの行く末は安泰です。更に上様に気に入られて、一人が二人三人とお子様が授かれば、正室ではなくても御殿での立場はゆるぎないものになるでしょう。

そうなれば、いいえ、そうなるように私のかつて育てた者達が色々と気配りしてくれる筈です。」

そう話す老女の目は輝いて大きな夢が更に更にと膨らんで来るようだった。

あまりにも途方もない夢なのでかるは何だか空恐ろしく心配になった。

「老女様、老女様ともあろうお方がおもこをこんなにも見込んで下さり有難く思います。

私のような者は遠くからおもこの幸せを祈ってやる事しか出来ません。どうかどうか、おもこがこの先幸せを掴み、安泰な一生を送る事が出来ますよう何卒宜しくお願いします。」


そう頼んで帰る道々、かるはあまりにもとてつもない話に足元がフワフワと頼りないような気がして素直に喜ぶ事が出来なかった。


その後間もなくして、老女様から便りがありおもこが老女様の養女として御殿に上る事になったという便りがあった。

これからは自分が母親代わりとして御殿との連絡をとるので何も心配しないように。特別変わった事があれば手紙で知らせると書いてあった。

かるはその事を頭領にだけはそっと教えたが、おもこの将来を考えて、おもこがこの農園の出だという事が知れればおもこの為にも良くないと考えて、この事は絶対秘密にするようにとお願いした。

頭領は信用のおける人で安心だが、それを聞いた時、「おもこが幸せになってくれるといいが。」と一言ポツンと言ったきりだった。


その後かるは、おもこを心配する日々が続いたが、どんなに思ってももうかるの手を離れて行ってしまったのだ。どうする事も出来ない。

かるは手垢で黒光りする小さな観音様にひたすら手を合わせてお祈りした。

どうかどうかおもこをお守り下さい。

大きな幸せでなくていい。小さな幸せでいい。どうかおもこにお授け下さい。

やがて三ヶ月もすると、老女様から手紙が来た。やはりおもこは上様のお目に留まり、今は上様から大変可愛がられているからそのうち御懐妊も夢ではないだろうという事。

以前、老女の下にいた者達が今では女御達の上におり、その者達がおもこを守るようにお世話しているという事であった。

また、良い知らせがあったら手紙を書いて知らせるから安心して待つようにと書いてあった。



あの便りから一年、何の音沙汰もなかった。

おもこの体に子は授からないのだろうか?

かるはおもこの便りを待ちながらも、かる自身の境遇も大きく変わって来ていたのだった。おもこが御殿に上って半年程した時、頭領が一人の若者を連れて来て一緒に回り始めたのだ。

かるにその若者に仕事を教えてやって欲しいという。かるはまだ四十四になったばかりで、まだまだ働ける年だったが頭領は若く見えても大分の年になっていたので、これは頭領の後継者だナとすぐに思った。

その若者は運之丞という名前を持ち、いかにも侍の出というキリリとした頭の良い若者だった。

かるはこの先どうなるのか急に不安な気持ちになった。とにかく言われた通りにするしかない。

若い男はお館様の親戚に当る男で、やがては頭領の後継者として育てるようにと言われているのは明らかだった。

物覚えも早く半年もするとかるの教え方も良かったのか、今までかるがやっていた事は殆ど出来るようになっていた。

かるは自分のしていた仕事がいつの間にか他人の手に流れていってしまうようで漠然とした不安を持っていたが、もしもそうなったとしても致し方のない事だと諦めていた。

果たしてある日、頭領から話があると呼ばれた。

かるは覚悟を決めて頭領の言葉を待った。

「頭の良いかるの事だ。見当がついているだろうが、実はあの男が俺に代わって近々、この農園を仕切る事になる。当分は俺が側について見てやる事になるが、俺も年だ。こういう日が来る事は覚悟していた。

それで一番心配なのはかるの事だ。あの男は自分が頭領になった場合、女であるかるは使わないだろうし、その事が一番心配だったんだ。

所が昨日、お館様が俺を呼んで話があるという。一年程前から都で暮らしていたお館様の弟が帰って来て館の中で一緒に暮らしているんだが、その弟に別に家を用意して分家させようと準備し、その家も大体出来上がった。

その弟の食事や何やらの世話には今まで長年館にいた五助という下男夫婦をつけてやろうと思う。だが、実の弟が分家するのに年寄りの夫婦者だけを付けて、はいどうぞという訳にもいかないという話なんだ。

その弟というのは俺と似たりよったりのかなりの年に見える。お館様は世間体を考えたのだろう。一人者の弟を厄介払いするように見られても困る。ついては世話をしてくれる女の人が一人欲しいが、近々頭領の傍で働いているかるの場所替えを考えねばならない。

かるを弟の世話にと閃いたんだがどうだという話なんだ。

いくら何でもかるには年寄りの世話役をさせるなんてと俺はムッと来たが、お館はそれが駄目ならかるはまた、元のように畑や田んぼの仕事に戻る事になるという。

それよりも静かな一軒家でのんびり出来る生活の方がいいと思うがとそう言うんだヨ。その弟というのはお館様と気が合わなくて、若い頃に都に出てまあ、御殿のちょっとした仕事をしながら気ままな一人暮らしを続けて、結局所帯を持たないままに年をとって帰って来たお方なんだが、遠目に見た事はあるがそんなに難しい人には見えなかった。

放蕩の生活からか酒の呑み過ぎかかなり体は弱っているが、お館様の実の弟だ。ある程度の事はしてやるつもりのようだ。

そういう話をお館様に言われた時は、最初俺は冗談じゃないと断ろうと思ったが、気を静めて考えたんだ。

かるは俺にとっては娘のようなものだ。そのかるの行く末を考えたんだ。

このまま農園の野良仕事に戻って陽に焼けながら腰が曲がって死ぬまでここで使われるか、それとも?ってな。

それで俺は思い切って条件をつけて見た。もしもかるが首を縦に振ってお館様の弟さんの面倒を見ると言ったら、その時はただの世話係でなくてれっきとしたその弟さんの女房という形にしてくれってネ。」

そこまで話すと頭領は申し訳無さそうにかるを見た。

かるはただ驚いて頭領の顔を見た。

「なーに、形だけなんだ。形だけ女房になれば旦那が死んだ時は新しく建てたその家屋敷はみな女房の者になる。情けない話だがおれはそう計算したんだ。このまま農園にただ同然で使われて小屋のような所で一生を送るか。それとも何年か病人の世話を我慢して、その後そこの奥様として自分の家を持つ事になるか。かるの気持ちを思うと俺はかるに申し訳無かったが、亡くなったかるのおっかさんがこの話を聞いたら何て言うかと考えたんだ。きっと賛成してくれると思ったんだヨ。」

そこまで話すと、頭領はさすがに黙ってしまった。

かるは一言も何も言わずに話を聞いていた。

頭領は亡くなった母親とやや同い年だろう。きっと小さい頃一緒に遊んだ仲だろう。

母親は頭領に認められたことをあんなに喜んで誉れに思っていた。

その頭領が今や年老いて最後の力を振り絞ってかるの事を考えてくれている。

そのお館様の弟がどういう人か解らないが、病人を看護すると思ったら自分に出来ない事もない、父親の最後の時もまだ年がいかなかったがかるが傍についていた。母親の最後の時も短い期間だったが、、かるは下の世話をした事がある。

とにかく、頭領が自分の行く末を思ってこの話を持って来てくれたのだ。

ここでははっきり返事をしなければならない。

この四十四の年まで母親の真似事をする事はあっても夫婦の何かは考えた事もない空恐ろしい世界だ。

だが、かるは気を取り直して返事した。

これが自分の一生の正念場だと思って、先の事は真暗闇の中、崖から飛び落ちるように恐ろしいがここは頭領を信じようと思った。

「頭領、本当にありがとうございます。この、私のような者を取り立てて今まで引っ張って来てくれていつも感謝しておりました。この度のお話も光栄なお話です。こんな見た目の私が形だけでも人の女房になれるなんて感謝しなければなりません。

私に出来るかどうか解りませんが、精一杯御病人の看護をさせていただきます。お館様にはそうお返事して下さい。」

そう言うと、頭領は悲しそうな顔をして、「かる、辛い選択をさせて悪いナ。かるならどんな事があっても、どんないばらの道でも切り開いて行ける。俺はそう思ったんだ。」と言った。

何だか淋しそうだった。




そうしてかるは、お館様の弟という文之亟様と形ばかりの盃事をして新しい家に住む事になった。

新しく建てた家は、農園から大分離れて山の裾の所に少しきれいな庭の付いた、かるの目にはとても大きな家に見えた。

土間と土間を隔てた下男夫婦のすまいがあり、その他に部屋が四つもある立派なものだった。

あの豪勢なお館様のお屋敷とは比べ物にならないが、かるにとっては木の香りも新しい畳の部屋もある大層立派な家でびっくりした。

肝心の文之亟という人は見た目は年寄りだが、ずっと一人者を通して来たせいかどこか子供のような所があって、ずる賢さや、したたかさの全く感じさせないどこか気の楽な人間に見えた。

家に移って一通り片付いて、下男夫婦が土間脇の部屋に下ると、かるは夫になった文之亟にきちんと向き直って挨拶した。


「改めまして御挨拶申し上げます。文之亟様、私はかると申します。見た目はこのように寸足らずですが、私は至って健康であり、それに力もありますので、文之亟様に何かありましても充分、お世話出来ると思います。どうぞ安心なさって下さい。

見た目がこうですので、今まで縁談のようなものは一つもございませんでした。

自分でも人の嫁になろうと考えた事もございません。ですから、この度のお話は突然、降って湧いたお話という他ありませんでした。私は自分の行く末を考えて頭の中で計算してこのお話をお受けしました。ですが、よく考えてみますと文之亟様のお気持ちの方はどうだったのでしょう。もっと若くてまた若く無くとももっと美しい見目形の女がお望みだったと思うと大変申し訳ない気持ちでいっぱいです。

ですが、このお話を持って来てくれた頭領は形だけだとそう申しておりましたので、文之亟様も私の事は女房とはお考えにならずに、看護をしてくれる世話係、あるいは下女とおぼしめして何でもお申しつけ下さい。これから精一杯努めますので、何でもおっしゃって下さい。」

そう言って手をついて深々と頭を下げた。

文之亟はかるの言葉を黙って聞いていて何も言わなかった。

あまりに長い間何の言葉もないので、かるは頭を上げて文之亟を見た。

文之亟は笑っている。

笑いながら、「弁がたつね。それにしっかりしている。さすが頭領が見込んで育てただけはある。私は気に入ったヨ。私はこの通り老いぼれて、これからは増々弱ってかるの世話になるだろう。宜しく頼むヨ。

あっ、それから、お前の見た目はそんなに悪くないヨ。むしろ、私の目にはかなり可愛く見えるネ。本当だヨ。こんな若い可愛い娘のような人を、しかも賢くてしっかり者をこの年になって女房に出来るなんて、私の所にもようやく福が舞い込んで来たみたいで私は本当に喜んでいるんだヨ。並の上辺だけのチャラチャラしたずる賢い女達にはもう飽き飽きしているんだ。これから世話になるおかる様だ。粗末にしたら罰が当たる。私はそう思っているから安心おし。」と言ってニッコリ笑った。


「それから部屋も、おかるの部屋はおかるの部屋。私の部屋は私の部屋。お互い静かにのんびり安心して眠るとしよう。だから何も心配しなくていいんだヨ。」

そう言ってニッコリ笑った。

かるは、この言葉を聞き顔を見ながら急に緊張して力が入っていた体からホッと力が抜けるよう安心を覚えた。

この年老いた夫は見た目はヨボヨボだが、どこかあどけない少年のようにも見える人だった。

この家に一緒に付いて来た老いた夫婦もどういう訳か喜んでいるらしく、ニコニコして嬉しそうな顔をしている。

かるが、「本家のお屋敷にいた方が良かったのに、私達の為にこちらに回されて大変でしたネ。」と声をかけると、

「いいえ、いいえ。私共は文之亟様とおかる様の元で働けて本当に良かったと思っているんですヨ。」と言う。

お世辞かなと思ったが、様子を見ているとそうでもないらしい。

文之亟という人は意外に心根の良い人だった。何かにつけあまりこだわりを持たずのんびりしている。

欲も得もそういう事は頭に無いらしく、本家を追い出される形になったのに、すこしもそれを恨んでいる様子もない。

かるはお館様とは面と向かって話をした事はないが、目に凄みがあり何事も見逃すまいというような怖さがある人だと見ていた。

また、それぐらいでなければこの広大な田畑とそこに働く多勢の人達を束ねる事は出来ないだろう。そう思ったりもした事がある。

だが、同じ兄弟でありながらこの文之亟はまるで違う。

ある日、少し慣れて来た頃かるは、

「お兄様であるお館様と文之亟様は御性格がまるで違いますネ。」と言うと、

「兄か、そうだね。もしかしたら、向こうが弟かも知れないがネ。」と言う。

「どういう訳ですか?」とかるが聞き返すと、

「私達は双子なんだヨ。おかるもそうだろ?」とサラリと言う。

「ええっ?そうなんですか?」と言うと、

「似てないだろう?子供の頃は見た目は同じだったのにネ。長い事暮らし方が違うと、こんなにも見た目が変わってしまうものなんだネ。だから、私の方が兄だったのかも知れないヨ。向こうは何につけ小さい頃から我が強いものだから、親達も向こうにいちもく置くようになってしまったがネ。まあ、私の事を頼りなく思ったんだろう。人の性格ってどこから来るのかネ。おかるも、もう一人とはまるっきり違うだろ?不思議だよネ。

だけど私はネ、暮らして行ければそれでいいと思っているんだ。あれもよこせ、これもよこせという気持ちは少しも沸いて来ないんだ。おかるはこんな私の女房になって損をしたね。」そう言って笑った。

「おかるの為にももう少し取っておくんだったかナ。」そう言ったりしている。

かるはおかしくてつい笑ってしまった。

「旦那様、私はこんな新しい家に住めただけで、もう満足しております。私だってそんな欲張りではありません。」

そう言って二人は笑い合った。

文之亟は弱り切った足腰の為に、外を歩くようになった。

杖をついてゆっくり、ゆっくり歩く文之亟はいかにも年老いて見えた。

かるは後ろをついて歩きながら、この人は今までどんな風に生きて来たのだろうと思った。

すると文之亟は振り返って、「おかるはいつもその黒っぽい着物を着てるけど、その着物しかないのかい?」と聞いた。

「いいえ、他にも着替えはありますが同じような物ばかりです。」と答えると、その時はそれっきりだった。

二日程すると、家に町の呉服屋が訪ねて来た。

いきなりかるを呼んでかるの目の前で色とりどりの反物を広げた。

文之亟はこの中から三枚かるの為に着物を作ると言う。

どれも美しい色と柄のものばかりだ。

こんなきれいな物は私には似合いませんと言うのを文之亟は勝手に桃色の地と水色の地と紺地のいずれも小花を散らした美しいのを見立て、それの仕立てとその着物に合わせた帯や小物、履物を揃えて持って来るようにと言った後、

「これは本家の方で支払うから、そっちに行っておくれ。」と言って呉服屋を返した。

そして、「これぐらいの事をして貰ってもいいだろう?おかる、お前があの着物を着た所を見るのが楽しみだヨ。」と言った。

「あんなきれいな柄、若い娘でもない私には絶対似合いませんヨ。」とかるが言うと、

「おかる、お前はいくつになる?お前は全体に小作りだから若く見えるんだヨ。きっとあのきれいな柄はよく似合うと思うヨ。それに女房は旦那の言う事を聞くもんだヨ。」

そう言ってニヤリと笑った。

やがて何日かすると、着物も帯も全部揃えて呉服屋がニコニコ顔で持って来た。

呉服屋に、「向こうで何か文句を言っていたかい?」と文之亟が聞くと、

「いいえ、いいえ。向こうの奥様はもっともっと贅沢をなさっておられます。文句など言う筈がありません。」

呉服屋はそう言って、品物を置いて帰って行った。

広げて見ると、どれもこれもおかるが生まれて初めて目にする美しいものばかりだった。

農園の中で生まれ、農園の中で育ち、周りの作業着姿の人達しか目にしないで来たし、自分の見た目と実用を考えるときれいな着物が欲しい等というのは人に笑われるだけだと思って生きて来た。

目立たぬように、人に注目されないように、それだけを考えて生きて来たような気がする。

四十歳を過ぎると、もう世間では孫があってもおかしくないこの年になって、こんな娘のような派手な着物を与えられてかるは戸惑ってしまった。

文之亟に催促されてかるは隣の部屋で着替えて出て来た。

自分でも顔が赤くなるのが解った。

すると、「ああ、思った通りだ。おかる、きれいだヨ。お前にはこういうきれいな色が良く似合うヨ。」と文之亟が誉めると、

「本当によくお似合いですヨ。まあ、本当に若いお嬢様のようです。」と言う五助とおよし夫婦の声が土間の方から聞こえた。

振り向くと、きっと文之亟が呼んだのだろう。二人はまるで晴着を着た自分の娘を見つめるような眼差しでかるを見上げ喜んでいるのだった。

こんなに言われるのじゃ覚悟を決めるしかない。

かるはその日から地味な着物を着るのを辞め、文之亟が作ってくれたきれいな着物を着る事にした。

外に散歩に出る時も、文之亟の後をかるは晴着のような着物を着てついて歩いた。

文之亟はそれがすこぶる満足らしく、いつも上機嫌だった。

家を出てゆっくり、ゆっくり歩いて来ると広大な農園の田畑が広々と見渡せる所がある。

そこで働く人達の姿も遠くにポツリポツリと見える。

それを見る度にあの時、頭領の話を断っていたら、自分は今もあそこで土埃にまみれて働いていただろう。そしてこんな美しい着物をまとう事も知らずに一生を送る事になったろう。

かるはここに立つといつも思った。

あそこでの生活もそう苦労とも思わずに過ごして来たが、離れてみると何とつつましく哀れでいじらしい生活だったろうと思う。

欲も得もなく、朝も早くから陽の暮れるまで働き通しで、ただ少しの食べ物を食べ満足し疲れて、泥のように眠りまた働いた日々。

だが、あそこの皆は誰もが温かく優しかった。かるの目には知らず知らずにまた涙が滲んだ。今日ものどかで天気の良い日だ。空で小鳥がピイピイさえずっている。

文之亟が振り返って、「生きているのもいいもんだネー。」と言ってニッコリ笑った。

まるで、かるの心持ちに答えてくれたような一言だった。

その時、かるははっきり思い知った。

今のこの幸せは頭領のお陰でもあるけれど、あの蟻んこ達の一匹だった自分をひょいと摘まんでここに連れて来てくれたのはこの人なんだ。そうなんだと気が付いた。

するとたちまち、弱々しい老いた姿の文之亟がお釈迦様のようにも思えるのだった。

このお方を大切にしよう。この人と一緒に大切に生きよう。

かるは心からそう思った。

それから暫らく平和な日々が続いた。住む家にも恵まれ、食べる物も五助爺が農園の方へ行っては食材を持って来て、それをおよしが色々作ってくれる。

ある日文之亟が、「かるは何が食べたい?」と聞いた。

何が食べたいと聞かれても、かるは生まれて以来農園の炊事場で作られた簡単な雑炊や漬物、味噌汁、たまに野菜を炒めたような物、そしてほんのたまに塩っぽい焼魚が出ると嬉しかったくらいだ。

答えられずにいると文之亟はそれに気が付いて、「あそこの食事は随分質素だったんだろうネ。これからは婆やさんに館で作っていた物をどんどん作って貰おうと言って、野菜とイノシシの肉がたっぷり入った鍋を作らせた。

かるは初めて口にする物をそれから色々と食べるようになった。

世の中には自分の知らない物がこんなにもあったのだ。自分がいかに狭い世界で生きて来たかをその度に思った。

そして、そういう時は必ずおもこの事を思い出した。

あれ以来、何の便りも無かった。便りが無いのは良い便りだと言うが、おもこは今頃どうしているだろう。

私はこうして幸せにしているが、おもこは本当に幸せだろうか。

もしも辛かったらいつでも帰っておいで。今ではおもこが帰って来ても大丈夫な家でおっかさんは待っているんだヨ。

文之亟様だっておもこが帰って来たらきっと喜んで迎えてくれるだろう。

そう考えてかるはおもこにもしもの事があっても帰る場所がある事を思い安心したりした。


ある日散歩に出掛けた朝に、文之亟はしみじみとした調子で「生きる事がこんなに楽しいと解っていたら、もう少し体を大事にするんだったナー。」とポツリと言った。

「何もかも嫌になってネ。これなら生きながらえても辛いだけだ。そう思って早く死のう、早く死のうとずっとずっと思っていてネ。無茶苦茶をしてネ。酒は浴びるようにして飲んでネ。結局、こんなになってしまったが、もっと早くおかるに会っていたらナー。」

前を歩きながら独り言のように、だがかるに聞こえるように歩く後姿は、あまりに頼りなくてどこか淋しくてかるの胸はつまった。

「旦那様、今からだって遅くないじゃないですか。ここで休養と栄養をとって大事にすればまだまだ元気でいられますヨ。これからですヨ。この頃では、顔色だって随分いいんですから。」

かるはそう言って慰めた。

そのようにして、穏やかな日々は静かに流れて行った。

文之亟は散歩を終えると、疲れるのか家に帰るとすぐに横になった。

その間かるは、家の周りの草をせっせと取って庭を広げた。

文之亟に聞くと土地は、山寺へ行く道からこっち沢が流れている所までずっと文之亟の物だという事だった。

今は草が茫々に伸びて草原になっているが、この草を抜いて畑にすればかなり広い畑が出来るとかるは思った。

かるは先々の事を考えていたのだ。

文之亟は年も年なので、自分の方が後に残るだろう。文之亟が生きている限りは野菜やコメや味噌等、食材は爺やの五助が農園まで行って持って来れるが、かるが一人になったらそうもいかないだろう。

自分も今はまだ若く動けるがいつまで元気でいられるか解らない。

五助もおよしも二人共今では身寄りも薄く、頼れる人はいないようだ。

あの二人の事も自分が最後まで背負って行かなければならないだろう。

それにおもこの事がある。無事幸せになってくれるなら良いが、いつ体を壊して母親のおものように自分を頼って来るかも知れない。

とにかくのんびりとしてはいられない。旦那様の世話をしながら、将来に備えて今から準備を始めなければ。

時間はこうしている間にもどんどん流れて行くような気がする。

何故かははっきりとは解らないが、漠然とした不安と焦りを感じてしまうのだった。

かるは文之亟の前では素振りにも見せないが、心の中では常にあれやこれやと考えを巡らせて絶え間なくクルクル働いた。

昼寝から目が覚めた文之亟が、「また野良仕事をしていたのかい?」と呆れたように笑っている。

「ええ、どういう訳かじっとしている事が出来ない質なんです。それにこんなに広い土地を草茫々にしておくなんてもったいないじゃありませんか。きれいに草を抜いて、ぐるりに桜や梅や桃の木を植えて、その花々を見ながら畑が作れたらと思うと楽しみなんです。それに色んな野菜を蒔いて、自分の畑で取れたら御本家に行かなくてもいいじゃないですか。爺やさんも楽になるでしょうし。私は働く事はすこしも苦にならないんです。そのうち、私の作った新鮮な野菜を旦那様に召しあがっていただきますから。楽しみにしていて下さいネ。」

かるがそう言うと、「かるが楽しんでやっているのなら良いけれど、もうかるには苦労をさせたくないんだヨ。」と言う。

「旦那様、ちっとも苦労じゃありませんヨ。人に強いられてするのじゃなくて、自分がしたくてしているんですから幸せです。」

そうきっぱり宣言して、かるは一層家の周りの草地を片付けていった。

五助もおよしも手伝おうとしたが、かるには年寄りには辛い仕事だという事が解っていたので丁寧に断って、自分一人でクルクル働いた。

だが気が付いてみると、いつの間に取ったのか少しずつ、少しずつ草地が減っている所を見ると二人もかるの気の付かない時に草を取っていたのだろう。

その年の秋も終わりの頃になると、広々とした土地が土も黒々と広がっていた。

かるは、文之亟を連れて草の無い庭続きのその土地を見せて歩いた。

文之亟は、「驚いたネ。こんなに広い土地持ちだったなんて。急に物持ちになった気分だヨ。」と言った。

かるも満足だった。

「このぐるりに桜の苗木を植えようと思いますけど宜しいでしょうか。二・三年もするときっと花をつけるでしょう。十年もすると、ちょっとした花見が出来ると思いますヨ。」

かるがそう言うと、文之亟は、「その頃には私はどこにいるのかナー。あの空の上からでも見ているのかナー。」と淋しそうに言った。

その時、かるは急に思いついた。

「ねえ、旦那様。私、今旦那様の言葉で思いついたんですけど、この広い土地の一角にお墓を作りませんか?旦那様だけのじゃなくて、私もいずれそこに入りますし。爺やさんもばあやさんも皆が一緒に仲良く入れるお墓を桜の木の下に作るんです。人は誰でもいつかは死ぬものですもの。死なない人なんていません。死んだ後、自分はどこに行くのか。自分の心がどこを頼りにどうなるのか解りませんが、私はここにお墓を作りたいんです。心の通った人達が仲良く一緒に眠れる場所を作りたいんです。旦那様はそういうの縁起が悪いから嫌だとお考えですか?」

かるは真剣に訴えた。

思えば、かるの両親もおもも山寺の墓地というかなり急な坂道を登った所のそれも端の崖に近い辺りに埋められた。

そこに墓石はないが。そこは農園で働いて死んだ者達が埋められている場所だった。

人は死ねばやがて朽ち果てて灰になり、土に返る。その道理は解っているが、崖のその場所はいかにも哀れな場所に思えた。

かるは急に、この広い畑の一角に墓を作ったらどんなに良いだろうと思ったのだ。

朝に夕辺に気が向いたらそこにお参りが出来る。こんな素敵な事はないと思う。

文之亟は深く考えもしないで即座に、「いいじゃないか。うん、それはいいね。私が死んでもかるのいる傍で眠れると思ったら怖くもないしネ。お墓参りしてくれるかい?」と言いながら笑っている。

「それはもちろんですヨ。畑仕事をしていたって、いつでも話しかけますヨ。」

そう言うと本当に安心したように、「いいナー、それもいいネ。私は死んだ後もずっとかるを応援していられる。これはいい考えだ。早速、墓を作る算段をしよう。私の生きているうちに向こうに出させよう。」

そう言うと、文之亟には珍しくすぐに手紙を書いて五助に持って行かせた。

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