昔話 かる

やまの かなた

第1話

 今日も、お山のてっぺんで

 一人ぽっちの山ん婆が

 お迎え来るのを待ちながら

 ピューピュー冷たい山背の風に

 ざんばら髪をなぶられて

 か細い声で詠います


 この世の最後の慰めに

 誰にともなく語ります




 この物語は昔話だけれど、子供の為の昔話ではありません。人生の山坂を懸命に登り、ようやくその頂上近くまで来られた婆様達に捧げます。


山ん婆の昔話「かる」


 昔々、その昔、

時の権力者やそれに類する者、あるいは一部の者達を除いて誰もが本当に貧しかった時代がありました。その頃のお話です。

日照りが続いたのかと思うと、突然大雨に見舞われて散々な目に遭い、そのまた翌年には逆に寒い日が続いてせっかく育った作物の上にひょうやあられが降り、作物はまともに育たないという、そんな悪天候の繰り返しで、ろくに食べる物が無く、野垂れ死にした者を道端に見かける事もそう珍しくはない時代でありました。


そういう状況下にあっては人は、とにかく食べる事が出来さえしたらと思うものです。

贅沢は決して言わない。ただ生きて行く事さえ出来たらもうそれだけで十分だと思う者達がまるで藁にもすがる思いで生まれ故郷を捨て、辿り着く場所がありました。

その場所というのは、飢えた者達の目には光り輝くように見えたに違いありません。

目の前に整然と美しく広がる農園でした。

遠くまで見渡せるそこは、近くを太い川が流れ、どんなときにも水に不足する事の無い良い場所にあり、四方を高い山々囲まれている為、強い風をまともに受ける事もなく、余程の事が無い限り、そこそこの物が採れるという恵まれた土地でした。

そしてそこは、見事なまでに稲作は勿論の事、畑も美しく区画され管理されておりました。

今年はここには大豆、ここには小豆と豆類が続き、別の所ではきゅうり、あじうり等瓜類の畑、かぼちゃの畑、ニラ、ネギの畑、かぶや大根類の畑、にんにく、らっきょうの畑、葉物野菜の畑。とにかくいろんな種類の作物が、整然と区画管理されてどこまでも続いておりました。そこでは多くの人達が朝早くから、夕方は陽の落ちるまで一生懸命働いておりました。

世間の人々から“農園”と呼ばれているそこは、その地方で一番偉い人の持ち物でした。

その農園を任され管理しているのがお館様言われる人で、そのお館様もまた大層立派なお屋敷に住んでおりました。

お屋敷の少し離れた所に大きな蔵を何十もズラリと持っていて、その蔵の裏の方にまるで蔵の陰に隠れるような小さな小屋のような物が立ち並んでいました。まるで縄文の頃の部落か何かのように沢山の粗末な長屋のような小屋が沢山建っていました。

そこで働く人達が仕事を終えてから寝に帰る所でした。

見るからに粗末な小屋でしたけれども、そこで働いて暮らす人々は自分達の事を少しも不幸だとは思っていませんでした。

何故ならその人達は、自分から望んでこの農園に来て、そこで働けて一安心という人達ばかりだったからです。そこにいる人たちは朝も早くから陽が落ちるまで働いても、これといった賃金を貰える訳ではありません。

ただ、三度の食事は保障されておりました。

農園には大きな共同の建物があってその中に炊事場がありました。そこでは多くは年老いたお婆さん達が何人かで皆の食べる食事を作っていました。

人々は朝起きると、仕事の前にそこで簡単な朝ご飯を食べて出かけ、昼には何人かはそこに戻って昼飯を食べる者もあるが、多くは握り飯にして貰い、畑や田んぼの畔で食べるのでした。

昼が終わると、また陽が西の山に沈むまで働いてようやく仕事を終えて帰り、そこでまた夕飯を食べる者あり。

または器によそって貰い持って帰って自分の小屋の中で食べる事も出来ました。

土埃にまみれた体を洗い流すような所もあり、そこで働く人たちは誰もが同じ境遇なので、特に不満を持つ事もなく、どこかおおような雰囲気で仲が良く呑気に暮らしておりました。

どんなに働いても賃金と呼べる物が貰える訳ではありません。年に二度、盆と正月にほんの小遣い程度の物を貰えるだけでしたが、もしもそれを不満に思う者がいたならば、そこを出て外に飛び出して行くのは自由でしたので、そこにいるという者達はそれで満足していた事になります。

お館様の下には全ての事を仕切り采配する頭領と呼ばれる人がいて、その人が皆に仕事の指示を与えていました。

どこに何を植えるのか、何日にどこを収穫するか。何をどこの業者に売り渡すか等の事を決めるのでした。

お館様は更に上の領主様の家来でしたが、滅多に農園に顔を出す事がありません。

農園は全て、この頭領という人に任せられておりました。

ここで働く人達が安心しきって呑気な気持ちでいられたのは、この頭領の人柄によるものかも知れません。

その頭領という人は、元々はこの農園の出ながらも頭の良さを見込まれて、まだほんの若い頃、二・三年他の土地で勉強して来たという人物でした。

その今の責任ある立場に引き上げたのは、今のお館様か、あるいはその頃、まだ生きていた先のお館様の見る目があったと言うべきでしょう。

頭領という人は四十前後ながら口数の少ない、落ち着いて思慮深そうな人物でした。

上に立つ者の心一つで皆がただ働き同然の身の上でありながらも、満足して暮らしているというのは余程、そこが居心地の良い場所だからに違いありません。


その粗末な小屋が集まった一つの部落のような中に一組の夫婦者がいて、ある日その夫婦者に子供が生まれました。

これはめでたいと皆は次々に小屋のような狭い家に赤子の顔を見に行きました。

その頃の人達にとっては例えあばら家でも雨露をしのげ食う事の心配をしないでいられるのは有難い身の上だと言わねばなりません。

しかも人並みに子供を持つ親になれる上に、何とその夫婦にはいっぺんに二人の子が生まれたのですから。

これはめでたい事だと皆が思うのは当然でした。

最初に駆け付けたのは、母親になった女といつも一緒に働いている三人の女房達でした。

三人の女が顔を出したのはどれも同じ作りの六畳ほどの板敷きの何もない部屋でした。

おくにちょっとした仕切りがあって、その後ろが物入れになっている他は、部屋の隅に蓋のついた木箱が一つあるっきりで部屋の奥の方に赤子を生んだばかりの女房が大役を果たした安堵の顔で皆を嬉しそうに迎えました。

皆は一斉に、

「おめでとう!男のかね?女の子かね?」と問いかけました。

男の子ならいずれここの立派な働き手となるし、女の子ならば美しければ、ひょっとしてお金持ちに見染められるのも夢ではないからです。

どちらにしても生まれたての赤ん坊は貧乏人にとってもいっぱいの夢を抱えて、この世に生まれて来るものなのです。

「女の子なんだヨ。見ておくれ。」

母親になったばかりの女房がそう言って、傍らの動いているものを目で示しました。

そこには産着に包まれた二つの生命が無心にモゾモゾと動いていました。

「あれまー、本当に双子だヨ。大したもんじゃないか!」と女の一人が言った。

「だけどまた、随分大きさが違うんだネー。」と一人の女房が口に出しました。

「そうなんだヨ。片方は並の子以上にかなり大きく育って重いし、片方はそっちに体の半分を取られちまったようにやたらに小さくて軽い子なんだヨ。」と母親は言いました。

一人の女が、「それでもどっちも元気に動いているじゃないか。子供ってもんはどんどん変わるもんだ。育って行くうちに今に同じようになるヨ。」と言いました。

「そうだといいんだけどネ。」

と言って母親になった女房は笑った。

するともう一人の女が、「名前は決めたのかい?」と聞いた。

「まだだヨ、だけどうちの人がさっき、この子達にお前は重い方だから“おも”だナ。お前は軽い方だから“かる”だナ。なんてふざけた事を言って話しかけてたヨ。それはあんまり、可哀想だろ?」と母親が笑いながら言った。

「あれまー、そんな事を言ったのかい?だけど、それも考えてみたら悪かないネ。おかるという名前はよく聞くし、おもっていう名前も満更悪くないヨ。」といつも一緒に働いていた女は言って笑った。

もう一人の女も、「第一小さい頃は見分けがしやすくて案外いい呼び名かも知れないヨ。」と無責任な事を言った。

どの女も同じ境遇の似た者同志なので、一人が体の調子が悪ければ他の者達が庇い合うようなそんな間柄の女達だ。

子供の母親になった女も少し苦笑いしながらも、案外悪くない呼び名かも知れないと思い始めた。

そして結局、子供の父親が呼び始めたという事もあって、双子の女の赤子達は大きい方がおも、小さい方がかると呼ばれるようになりました。

二人の女の子はどちらも大した病気もしないで元気にスクスク育って行きました。

だがいずれ大きさは同じになるだろうと考えていたのに、何年経ってもその差は変わらないままでした。

やがておもは色白の大柄の娘になり、かるはどこまでも寸詰まりの色黒のどこか見栄えのしないまま娘になっていました。


おもは大輪の花のように目立って周りからチヤホヤされるようになりました。

かるは花の蕾が小さいうちに霜にあたってそのまま硬くなったような感じで、背丈もなみよりかなり小さく可哀想な程です。

だがその分を補うように、頭は賢くよく気が付く性質で人一倍働く娘でしたので、女房達仲間からは同情心も手伝って大層可愛いがられました。

かるは幼い頃から何事も一生懸命でした。見ていていじらしい程体を動かし、努力しているのが解りました。

結果、小さいながらもやがて皆から頼りにされる程になりました。

一方おもは、男達からチヤホヤされる事もあって次第におしゃれにばかり関心を持って、汚れ仕事や力仕事をしたがらない娘になって行きました。

一方かるは、自分の容姿が人並み以下であることを充分承知しているのか、自分は一生懸命働く以外に道がないと思い定めたように、人の目のある無しに関わらずクルクルとよく働く娘になって行ったのです。人の人生、何が災いし、何が得をするのか解りません。

親達にとってはどちらの娘も同じように可愛いものだが、他人はそうはいきません。

一方は怠けて遊ぶ事ばかり考え、一方は年老いて疲れた者の分まで働こうとするのです。

そうなるとおもは尚更、女たちの輪の中から離れて男達の方へ寄って行き、何かと男達の力を借りようとするようになりました。

やがて二人の娘達が年頃になりました。

その頃には父親は働き過ぎのせいか呆気なく亡くなっていて、母親もまだそういう年ではないのに随分くたびれて年を取ったような顔をしていました。

その母親がある日、二人の娘に向かっていつになく真面目な顔で話しました。

「おもとかる、どういう訳かお前達二人は縁あって双子として私のお腹から生まれて来たんだが、双子と言ってもお前達は少しも似ていない。この先、二人の人生はどうなって行くのかね。人の人生なんて解らないもんだヨ。この私だってサ。生まれた時は親達がどんなお殿様に見染められるか楽しみにしたもんサ。だけど、結局お前達の父親と一緒になってこの暮らしのまんま終わりそうだヨ。」と言ってフッと笑いました。

それから、「誤解しないでおくれ。この暮らしが不満だと言っているんじゃないヨ。少なくとも一日三度の食事に困る事は無いし、仲のいい友達にも恵まれている。私は結構今の暮らしに満足しているんだヨ。お前達の父親だってああして先に逝ってしまったけれど、案外呑気な人生だったと思うヨ。私が言いたいのはネ、お前達の事だヨ。おもは自分の事どう思っているんだい?かるは自分の事をどう思っているんだい?私だっていつまでも生きていられる訳じゃ無いし。いつか先にこの世からいなくなってしまうんだ。その時どうする?誰もが自分の才覚とほんの少しの運を最大限に使って生きて行くもんなんだヨ。貧しくてもいいんだヨ。自分の心が満足ならばネ。」

そう言った顎、母親は暫らく黙っていたがやがてポツンと一言、

「お前達二人共、幸せになっておくれ。」と言いました。

母親はそれ以外、その時の自分の心を表す言葉が見つからないようでした。

娘達もその時はそれぞれの胸の中で自分なりに何かを心にとめていたに違いありません。

だがその時の母親の言葉をどう受け止めたのか、おもはその後まもなく農園から姿を消してしまいました。

周りの人達は、おもがどこへ行ったのか聞いて来たが、母親もかるも本人が何も言わずに姿を消したので、まるっきり見当もつきませんでした。

おもと一緒に消えたという若い男は一人もいなかったからです。

だからこの農園の誰かと姿を消したのではない事は確かでした。

すると誰かが、お館様の所にこの間、何人かのお客様があったと言い出しました。

お館様の所には時々客があります。

大抵は都からのお客人で、多くは身分の高い方々が多かった。

この間のお客は若い身分の高い人が五人程だったという。

だけどおもがその身分の高い若者等に混じって全くつてのない都へ行くものだろうか。到底考えられないという事でその話は終わりました。

母親はその話を何も言わずに黙って聞いていました。

おもはそれから暫らく経っても帰っては来ませんでした。

母親の仲間は励ますように、「おもだったらどこへ行っても食べて行けるヨ。男から大事にされるからネ。そのうち玉の輿に乗って私等をびっくりさせるかも知れないヨ。」

そう言って慰めたりしました。

だが次の年も、そのまた次の年も何の音沙汰もなくて母親はもういないものと諦めたのか、かるの前でも仲間の前でもおもの事を一切口に出さないまま力尽きたように死んでしまいました。

それはかるが十八歳の年でした。

かるはとうとう一人になってしまいました。

十八の娘と言えば、花も盛りの筈だが、どこから見ても残念ながら娘らしい華やかさがなく人が振り返って見とれるような事もなく、本当にまるで蕾のまま霜にあたって茶色くなってしまったようなそんなかるだったので、嫁の口一つありませんでした。

背丈は並の女達の肩くらいしかなく、肌は浅黒くただ一つその中の目だけが人より大きくクリっとしており、何事をも見逃すまいとするような頭の良さを感じさせました。

かるは体が小さいからといってかよわい訳ではなく、その華奢な体からは思いもよらないような力を発揮して並の女以上に力仕事が出来ました。

任せられた分の仕事はテキパキこなし、他人の分も助けるという事はいつの間にかそこに働く者なら誰でも知っていました。

その中でもお館様の右腕として全てを任せられている頭領は、いつも全体を見渡しているので、かるの性分や働きぶりはほんの小さい頃から十分に解っていました。

かるの真正直な性分も誰より知っていました。

かるのそんな気持ちをあてにして、いつも手伝ってもらう年寄りの女がいる事も知っていました。かるは自分があてにされている事を少しも嫌がらず、一生懸命その小さな体で人の一倍半は働いている筈でした。


あれはかるの母親が無くなる少し前のある日の事でした。

頭領はかるを呼びました。

かるは何の話だろうと神妙に前に行くと、

「かる、お前の性分を見込んで頼むんだが、俺の傍についていて手伝ってくれないか?」

「細かい用事をする事なので力仕事ではない。今までお前がしていた仕事は他の誰かに頼むから。」と言うのでした。

かるは突然の事で大変驚きましたが、緊張して従う事になりました。

まず言われるままに頭領について歩きながら、ちょっとした用事を言いつかると、あっちこっちに走り回って頭領の手足のように働きました。

こういう仕事は普通、気の利いた若い男や、または次に自分に代わってやって貰う者に頼むものなのですが、どういう訳か頭領はかるに白羽の矢をたてたのです。

もうその時は既に病に倒れていた母親はそれを聞くと涙を流して喜んで、

「頭領という人は若い頃から頭が良くて人を見る目のある人だったんだヨ。その人に見込まれるなんて本当にそれはもう名誉な事なんだヨ。かる、お前が男の子だったらきっと次の頭領にもなれただろうネ。」

そう言って、このいつまでも体の小さい娘を頼もしそうに見ました。

その時かるは、こんな私でもおっかさんを喜ばせる事が出来たのだと思いとても嬉しくて、生まれて初めて自分に自信が持てました。

それからかるは、頭領の期待を裏切らないようにあちこち気働きし傍について回りました。

元々頭の良いかるだったので、頭領の毎日の仕事の様子はすぐ解りました。

何に気を付け、何を大事にしているかも解って来ました。それにしても畑仕事と違い、何につけ字の読み書きが出来なければ務まらない仕事です。

かるは仕事が終わって家に帰ってからも一生懸命勉強しました。

米や野菜の出来高、何日か毎に都へ送る荷物の手配等。何日に何をどれだけ送ったかの等。細かく記帳する事も覚えました。

そのいちいちを半年も経つと頭領に言われなくともかるはきちんきちんと手配し記帳し、後は頭領に確認して貰うばかりに出来るようになりました。

それからいくらもしないで、かるの母親の容態がいよいよ悪くなったと知ると、頭領は母親の寝ている小さな苫屋に来て体を労わるようにと労った後、

「かるの事は心配いらないヨ。あの娘は私の見込んだだけのある娘だ。これからどんな事があろうと立派に自分の身はおろか他人の身まで面倒見て行ける娘だ。お前さんは立派な娘を持ったネ。安心するといいヨ。」

そう言って帰って行きました。

戸口の陰でそれを聞きながらかるは、頭領はおっかさんがあまり長くない事を知って安心させようとしたのだと思い本当に有難く思いました。

母親は頭領の話が余程嬉しかったのか、

「あの人の見る目は確かだ。私は本当に安心したヨ。かる、お前は私の自慢の娘だ。例え、これから何があったってお前の才覚でお前自身とお前を頼って来る者を助けておくれ。」そう言いました。

口に名前は出さなかったが、それは暗におもの事を言っているのだとかるは十分理解していました。

「おっかさん、何も心配しなくていいんだヨ。神様、仏様はきっと助けて下さるヨ。私は生まれてからズーッとそういう気がして来たんだ。これからもきっとそうだヨ。」

そうかるが言うと、母親は嬉しそうにほのぼのとした顔で、

「お前は本当に心の優しい、いい娘だネー。」と言いました。

そしてそれから間もなく息を引き取りました。

かるはその後幾度も、母の人生は幸せだったのだろうかと考えました。

最後はあんなにいい顔をしていたけれど、おもの行方は解らないで心配だった筈だ。けれど、あのほのぼのとした顔を思い出してかるは自分を慰め一人生きて行かなければなりませんでした。

かるはとうとう小さな家に一人っきりになってしまったのです。

それからは一層気を引き締めて励み、頭領の片腕として仕事をして来ました。

体は小さく、しかも女だったけれど農園で働く人々は皆、かるの仲間です。

かるの気性も心持ちも知っているひとばかりです。

それが良い効果をもたらして農園の中の雰囲気は前にも増して良くなりました。

かるは仕事も出来、順調な毎日だったけれど、やっぱり一度として嫁の口もかからずいつの間にか二十五歳になっていました。

そんなある日突然、おもが小さい女の子を連れて帰って来ました。

おもは体を壊しているようでした。

幼い子は四歳になるという。

おもがいなくなったのが十四・五のあたりだったから、あれから十年以上は経っていました。今までどこで何をしていたのかとかるは口まで出かかったが、何も聞かずに弱っているらしい者達二人を黙って迎え入れました。

おもが小さい女の子を連れて帰って来たと言う事は途中何人かの人達に見られています。

すぐ皆に知れ渡っている筈なのに、誰もおもを訪ねて来る者はいませんでした。

若い頃のおもをチヤホヤしていた男達も今では嫁を貰ったり、あるいはまだ一人者でも子連れの体の弱った年増女にはもう用はないようでした。

かるは家の奥に布団を敷いて寝かせてやりながら、おもの色白の横顔を見ました。

同じ双子として生まれながらどうしてこんなにも違うのだろうと羨んだ美しい肌や顔立ちやスラリとした姿は、まだ二十五だというのに今ではすっかりくたびれて、まるで軒先に長い間吊るされていた手拭いが雨風に晒されて色褪せたようなそんな様子に見えて、何か哀れで悲しくなりました。

おもはそう思って見ているかるをじっと見て、

「かる、お前は暫らく見ない間に随分美人になったね。」と言ってフッと笑いました。

「同じ顔だヨ、美人な訳ないだろう。」とかるが言うと、

「そうなんだけど、何故だか眩しい程きれいに見えるヨ。きっとかるは今幸せなんだネ。」と淋しそうにしました。

そして、「おっかさんはやっぱり死んじゃったんだネ。ここは呑気に見えても体を使う仕事だからネ。長生きは出来ないんだヨ。ここを出て行った私にしたってこの有様だけれどネ。」と力を落としたように言いました。

かるは傍にいてさっきから一言も声を出さない大人しそうな女の子を見て笑いかけながら、

「名前は何ていうの?」と聞くと、女の子は大きな黒い瞳でかるをじっと見上げて、

「おもこと申します。どうぞよろしくお願いします。」ときちんと挨拶しました。

かるは驚いてその女の子を改めて見つめました。

何て美しい子なんだろう。

そしてこんな可愛い賢い子を産んだおもを少し羨みました。

それを知ってか知らずかおもが、

「そうなんだヨ。私の名前に“こ”を付けて“おもこ”にしたんだヨ。この子にだけは私の分まで幸せになって貰おうと思ってネ。」と言った後、大儀そうに目を瞑ってしまいました。

そして目を瞑ったまま、

「かる、今更迷惑かけて悪いネ。かる以外に頼る所がなくってネ。頼むネ。」と言いました。

かるは「気にする事ないヨ。私達双子なんだから。」と答えました。

おもはそれから半年近く生きていました。

まだまだ若いしそんなに早く逝くとはかるは思いもしなかったのです。

後で思い返すとおもは、殆ど寝たままでボーッとしているばかりだった。その間何を考えていたのだろう?

かるは朝から夕方遅くまで仕事なので、おもが日中どうしているのか娘のおもことおしゃべりしたり遊んでやっているのか定かではなかったが、かるが見る限りではいつもおもこは母親から少し離れた所にいて退屈気に見えました。

少なくともかるの前ではおもが自分の娘に愛情持って話しかける様子を見た事はありませんでした。

おもが亡くなった後に、自分の体の事でいっぱいだったのだろうか。それ程体がだるかったのかも知れないと気がついた。

それでもおもこは挨拶は躾けられているらしく、会う人毎におはようございますと丁寧な挨拶をした。

そして聞かれた事はきちんと返事をしたが、それ以外は子供らしい無邪気な質問等をするような事はありません。どこか暗く打ち解けない子供と言う感じです。

かるは自分の幼い頃はどうだったろうと思い返しながら、この幼い女の子を不憫に思った。

あれはおもが死ぬ前の事だった。

ある夜、日に日に弱っているようなおもの様子が気になり、気になり出すと目が冴えて眠れないままかるは朝を迎えた。

かるはこの子の父親はどこの誰なのか聞いておかなければならないような気に急かされて幼いおもこがまだぐっすり眠っている事を確かめてから聞きました。

「おも、お前は今までどこにいてどんな暮らしをしていたのか言いたくなければ話さなくていいけれどこの子が誰の子か、この子の父親がどこに住む何という名前の人なのか、この子はまだ小さいしもしもの事があった場合、この子の父親を私は知っておかなければならないからネ。それはお節介だろうか?」と言いました。

かるがおもにそう尋ねると、おもは暫らく黙った後だるそうにこちらに顔を向けて、

「はっきりと名前を言いたいが、自分でも解らないんだヨ。」と言った後、驚いた目で見ているかるに、

「そういう事サ。私はそういう暮らしをして食いつないで来たんだヨ。」と言った後、

「だけどお腹に子供が宿ってからはこの子の為にそういう生活とはきっぱりおさらばしたヨ。この子の未来の為にネ。私は精一杯母親らしく頑張ってみたのサ。この子だけは、この子だけはと思ってネ。ホラ、この子は器量良しだろう?だから、この子が娘になった時に母親が後ろ指さされるようじゃいけないからネ。私だって今まで随分頑張ったんだヨ。だけどサ、私の体はもう駄目みたいだヨ。あんなに丈夫なつもりの体だったけれど、どこでどんな悪いものを貰ったのかネー。あちこち駄目になったみたいなんだヨ。かるの傍に行ってゆっくり体を休めたら元気になれると思ったんだけどサ。

私はネ、このおもこの娘姿を見ておもこがどこぞの偉いお方に見染められて嫁ぐのを見るのが夢だったんだけどネ。それも無理かもしれないネ。」と言った後、

「私はこれでも少しの間だったけれど、偉いお方のお屋敷に奉公に上がった事があるんだヨ。下働きだったけどね。そこで見た生活は私の目にはそれはそれは夢のような暮らしだった。だけどそこで、ちょっと不都合があってネ。そこを出されてからは散々な暮らしだった。私はおもこにあのお屋敷で奉公した時の事を思い出しながら、まだ言葉も覚えない頃から挨拶や言葉遣いを教え込んだんだヨ。

ねえ、おもこは小さい割にしっかりしてるだろ?」と聞いた。

「ああ、おもこはきちんと御挨拶の出来る立派な子だヨ。」

そう聞くとおもは初めて母親らしい嬉しそうな顔を見せました。

それからしんみりした調子で、

「かる、もしも、もしもだよ。私が死んだら、かるが母親代わりになっておもこを育ててくれないかい?そしておもこが年頃になって自分の父親が誰か聞いたら、“さる高貴なお方の子供だ”と言って欲しいんだヨ。実際私はそういう方との付き合いがあったからネ。ただ訳あってその方の名前は言わなかった。そういう事にしておいてくれないかい?」

おもはもうすっかり血の気の失せたような顔でかるに頼みました。

かるは、「解ったヨ。万一の事がある訳もないけれど、おもが安心するなら受け合うヨ。今は早く体を治して元気になる事だヨ。あの子が幼いのにどこか無邪気な所がないのは母親の事が心配だからだろう。おもこの為にも早く良くなっておくれ。」

かるはこの頃のおもが目に見えて一日一日と弱って行くのが解るだけに、何でもないように素っ気なく言い放ちました。

そうした会話は本当に数えるぐらいしかなかったけれど、そう言い残してやはりおもは死んでしまいました。まだ二十六歳の若さでした。

まだまだこれからという若さで、あの色白の大輪の花のようだったおもは呆気なく逝ってしまったのです。

かるはおもが無くなって初めて自分の体の半分を失ったような奇妙な感じの淋しさにとらわれました。

母親のお腹の中にいた頃から一緒だったおもだった。かるの分まで栄養をいっぱい吸い取って大きく生まれて来たおもだった。

生まれてからは何かにつけ二人は比較されて見られました。かるだっておんなのこだったから自分を見る人の目が可哀想にと言っている事は知っていました。

だから本当は悔しくて、すっごく嫌だったけど、それを拗ねたり地団駄踏んで悔しがったりしたら余計みじめになるようで必死で我慢して来たのでした。

見た目が到底叶わないなら中身で頑張るしかない。道はそれしかないと思いました。

今まではおもの華やかな姿をバネに頑張って来たのです。

だがそのおもは死んでしまってもういない。急に体から力が抜けたような気がしました。

それからの数日はどんなに自分に鞭打っても体に力が入らず仕事に出てもいつものかるらしくありませんでした。

そうした日が何日か続いた日頭領が、

「かる、おもの残した子供はどうしてる?」と聞きました。

その時かるはハッとしました。

自分が仕事に出ている間は炊事場のお婆さんに頼んできていました。

だがあの子は今、どんな気持ちでいるだろう。母子の間に元々あまり会話が無かったとはいえ今までそこにいた身近な人の姿が急にいなくなってしまったのだ。かるは今更ながら子供の悲しみを思いました。

想えばおもこは母親が亡くなった時もワーワー泣かなかった。

ただ大人しくしていただけでした。

ここに来た時からずっとそういう子供だったから、かるはいつの間にか自分の淋しさばかりに気を取られて深く考えなかったのです。

だが、おもこの心の中はどんなだろう。自分はやはり子供を生んだ事のない女だから子供の気持ちが解らないのだ。

そう悔やんでいる耳に頭領が、「その子供を連れて来てもいいぞ。」と言ってくれました。

かるは改めて頭領の何もかも見ている広い心を思い感謝しました。

「すみません、仕事の邪魔にならないようにしますから。」

そう言って翌日から自分の傍に置く事を許して貰いました。

そうして頭領について仕事をして歩く時、おもこも連れて歩きました。

最初の朝出掛けに、

「おもこお前のおっかさんは遠くへ行ってしまった。いつかは私達もそこに行く事になるけれど、いつかはあの世という所で必ず会えるけれど、それまでは暫らくは別れ別れに暮らさねばならないんだ。それまでは私がおもこのおっかさん代わりだ。おもこが私をおばさんと呼びたければおばさんとお呼び。おっかさんと呼びたければおっかさんとお呼び。お前の気持ちに無理がないようにするんだヨ。私の方はいつもお前の事を自分の娘だと思っているからネ。

それから、今まではどうだったか知れないが、これからは心に思った事は口に出して話した方がいいヨ。

“悲しい”とか。

“淋しい”とか。

“楽しい”とかネ。

その方がお前の心持ちが解って安心するからね。おもこがあんまり良い子できき分けが良くって大人しくしていると、我慢しているんじゃないかと時々心配になるんだヨ。

おもこ、今はどんな気持ちなんだい?悲しいかい?苦しいかい?淋しいかい?」とかるは聞いてみた。

するとおもこは大きな黒い目をパッチリさせて、

「淋しかったけれど、今、少し楽しい。」と答えました。

「そうかい、そうかい。それでいいんだヨ。泣きたい時は泣いていいし、笑いたい時は笑っていいんだヨ。」

かるはそう言いながらも、胸がジーンとして思わず自分の方が泣きたくなりました。

「おもこ、これから行く所は仕事場だからおもこにとっては楽しい所じゃないヨ。もしも炊事場のお婆ちゃんの所が良かったらそこにいていいからネ。まずおっかさんがどんな仕事をしているか見に行こうネ。」

そう言うとおもこはコクンと頷いた。そしてかるはおもこを連れて頭領の所に行きました。

「頭領、お言葉に甘えて連れて来ました。おもこ御挨拶しなさい。」と言うと、

「おはようございます。おもこと申します。よろしくお願いします。」と言ってペコリと頭を下げました。

頭領はニッコリ笑って仕事を始めました。


おもこは邪魔にならない子供でした。

あまりに静かなので振り返ると、いつも少し離れた後の方で草花を摘んだりして遊んでいる、そういう子供だったのでかるも安心して仕事が出来ました。

一日が終わって家に帰る時は、それぞれで炊事場に寄ってそこで食べて帰るか、人数分の食事を器に入れて貰って持って帰る事も自由でした。

だからそこで働いている者は夕飯の支度をしなくてよい分遅くまで働いたのです。

かるとおもこは二人分の食事を持って帰り、ちゃぶ台代わりの木の箱に向かい合って食事をしました。

かるはなるべくおもこに話しかけました。

おもこが答えやすいような話をしました。


自分にもこんな年の頃があった。そして子供でもそれなりに考えていたような気がする。端から見たらほんの頑是ない子供でも、その子なりに精一杯いろんな事を考えるのだという事をかるは人一倍知っています。

大人以上に心を痛めたり不安になったりするものだという事は自分が一番良く知っている。

私は子供の頃、自分の見目形の悩みはあったけれど、本当のおとっつあん、おっかさんがいつも傍にいてくれた。

だがおもこには本当の父親も本当の母親もいない。どんなに心細いだろう。

この子を淋しがらせないよう、悲しがらせないようにするのが自分の一番の仕事だ。

かるは改めて自分の心に言い聞かせました。

「おもこ、おもこは本当にいい子だね。おっかさんは随分鼻が高かったヨ。だけどお前は無理していたんじゃないかい?退屈だったんじゃないのかい?もしも嫌だナーと思う事があったら我慢しないで言うんだヨ。きっときっと、話すんだヨ。おもこが悲しいとおっかさんも悲しいからネ。」

そう言うと幼いながらもおもこは安心したようにニッコリ笑って、そして明日もおっかさんと一緒に行くと言ってくれました。

かるは今まで感じた事の無い喜びを感じました。

「さあ、これを片付けたら寝ようネ。今日からおっかさんと一緒に寝ようか。おっかさんは淋しがり屋だからおもこが一緒の方が淋しくなくていいんだヨ。おもこは嫌かい?」と聞くと、幼い女の子は、

「私もおっかさんと一緒の方がいい。」と言ってくれました。

最初は知らない者同志で始めた事だったが、手でも足でも体の一部が触れ合っていると安心するのかおもこは布団に入るとすぐに眠ってしまいました。

かるはあどけない寝顔を見ていると、何故か胸がいっぱいになって来ます。

この子の中に流れている血は私と同じものなんだ。自分と双子だったおもが生んだ子なら自分が生んだも同じだ。

そう思ったりしてかるは一人笑ったりしました。

一生嫁にも行かず子供も持てないと諦めていたのに思いがけずこんなかわいい子の母親になる事が出来たのです。おもに感謝しなければならない。


おもことの一緒の暮らしは一日また一日と経つに従って血が通うように情も通い合うというのだろうか。

おもこを可愛い愛おしむ気持ちがかるの中でグングン大きくなって行きました。

自分が幼い頃から何につけ負けず嫌いで努力して見につけたいろんな事を、かるは全ておもこに伝えようと思い立ちました。

縫い物や、洗濯の仕方、字の読み書き等々。自分の知っているものはそれほど無いけれど、将来何が役立つか解らない。知っていて損をする事は何一つない。

それにおもこはこんなにきれいな子なのだから。いつか皆が振り返ってみるような娘になるだろう。

そうなった時、自分の外観だけをあてにするようなそんな人間にはなって欲しくない。

心の中も育てて、自分で事の善悪を正しく判断出来るそういう人になってもらいたい。

自分に自信を持って堂々と生きて行ってもらいたい。

かるは母親らしくおもこの将来を思い、些細な事も気が付けば、おもこが興味を持つように教えてやりました。

強制したら好きになるものも好きにならないものだ。だからおもこの気持ちを大事に尊重しながら導いて行こう。そう思いました。

それからの月日は楽しかった。

思いがけず天から授かったような子供だ。かるは嫁ぐ縁も無く仕事こそ自分の生き甲斐だと思って来た淋しい人生に思いがけなく突然、頂いたこの宝物をしみじみ見つめながら、この子の為だけに生きようと決めました。

粗末な仏壇とも呼べない棚には両親とおもの位牌と一緒に置かれている小さな観音様、三寸ばかりの手垢で汚れて黒光りした小さな仏様を改めて見ました。物心つかない以前から両親にならって朝な夕なに手を合わせて来たこの小さな仏に向かって、今までは何かを頼んだ事はなかった。ただ朝起きるとおはようございます。今日も一日見守って下さいと手を合わせ、夜は夜で今日も一日ありがとうございましたと手を合わせた。それだけでもかるは安心したものです。

今、幼子を自分の手で育てるという思いがけない喜びの中にいる。

いつも手を合わせていた観音様がおもを通して私に授けてくれたのだろうかと思ってみる。

そして巡りあわせの不思議さにしみじみと感謝し手を合わせる。

双子の片割れのおもが亡くなって呆けたようになっていた気持ちはもう消えていました。

それにおもこも心なしか明るく子供らしくなってきたような気がする。

朝におもこを起こし、髪を丁寧にとかしてやり、こざっぱりした着物を着せて家を出る。

炊事場で一緒に朝ご飯を食べ、仕事場に向かう。小さな子供の手を手の平に感じてかるはとても幸せでした。

仕事も増々張り切ってするのは後ろの方にいるおもこに自分の働いている姿を見せているという気持ちが底にあるからだと思う。それにしても頭領が心ある人で本当に良かった。

自分がこうしていられるのは全てこの人のお蔭だ。この人の為に尽くそう。

かるはそう思って前にも増して懸命に働きました。


それから一年経ち二年経つと、おもこは伸び伸びとした子供らしい子供になってかるについて歩かずとも農園の中をあちこち自由に遊び回れるようになって、同じ年頃の子供を見かけると一緒に楽しそうに遊んでいます。

その様子を見ていてかるは、野菜畑にいる気心の知れた女房達に、もしもおもこに出来るような仕事があったら少しずつでも手伝わせてやって欲しいと頼みました。

女房達は気持ち良くいいヨと引き受けてくれます。

そのようにしておもこはかるとだけではなくて、少しずつ他人と触れ合って世界を広げて行きました。

元々が愛くるしい顔立ちの子供であり、それがかるの大事にしている子供という事もあって皆はおもこを見ると、何かと声をかけてくれます。

そういう温かい環境の中でおもこは素直に成長して行きました。

そしていつか女房達に混じって手伝いが出来るようになりました。

だけれどもかるはその様子を見て嬉しいながらも、おもこをこのままにしてはおけないと考えていました。

そしておもこが八歳になった春でした。

すくすくと背が伸びて素直で賢さが増々目に現れて来ました。この子はどんな娘になるだろう。そう思い眺めながら、おもがこの子に望みをかけていた事を思い出す度に、このままではいけないと思うようになりました。

誰かに頼んで行儀作法やきちんとした読み書きを身につけさせなければならないと思い立ったのです。

夜中に目が覚めると、増々気が急いて来るのです。

思い余ってかるは次の日、頭領に相談しました。

「あの子はおもから頼まれた大事な子です。それなりの所に嫁いでも良いように今からきちんとしたものを身につけてやらねばなりません。でもそれならばどうしたら良いかと思いきって話しました。」

頭領は少し考えていましたが、自分の知っている人で都から移り住んでいる老女がいる。その人なら行儀作法や読み書きも教えてくれるだろうし。きっとあの子なら気に入られるだろう。聞いてみるから少し待つようにと言ってくれました。


二・三日して頭領が、

「話をしたら興味を持ってくれて、退屈している所だからその子を見てみたいとおっしゃっておられる。」と言う。

「行儀作法を教えていただくにはやはり結構なお金がいるでしょうネ。」とかるはおずおずと聞きました。

何せここでの生活はのんびりしている代わりに食べる事以外の賃金は雀の涙しか貰えないのです。その僅かなお金で着る物の替えをたまに買うのが精いっぱいなのです。貯える程の余力はない。そこに働く者は皆同じで、かるの懐の中にも頼りになる程のお金は残っていなかった。

ここにいる限り寝る所と食べる心配はないけれど、外のように毎日毎日賃金が貰えるというものではなかった。

頭領は笑って、「大丈夫、向こう様は教えてお金をいただこう等全くないお方だヨ。私がたまにここで採れた物を届ける事をしているから何も心配はいらない。おもこには小間使いの御奉公という形で、その合間にいろいろ教えて貰う。そういう事で話をして来たけれど、それでいいかい?御老女様と下女だけの女暮らしで向こう様はむしろ楽しみにしているくらいだから、お金の心配は何もしなくていい。

ところで、ここから通うとなると少し遠いし住み込みという形になるけれどいいかい?」

頭領にそう言われてかるは一瞬戸惑った。

いくらかるの足では歩いて行ける距離でもおもこがそこに行ってしまうと思うと急に淋しい気持ちになりました。

「ありがとうございます。おもこと相談してみます。」

頭領にはそう言って帰って来ました。

帰っておもこの顔を見ながらご飯を食べ、布団に入ってから話をしました。


「おもこ、お前も八歳になったから何でも解る年頃だ。私はネ、お前が大好きだし大事に思っているんだヨ。おっかさんはずっとずっとお前といるのが楽しいし、離したくない。だが、あと七年もするとお前は立派な娘になる。その頃には嫁に行く事も考えねばならない。その時御立派な方に見染められたらどうする?急に何もかも身につくものではないんだヨ。おもこ、お前を生んでくれた本当のおっかさんの事を覚えているかい?」と言うと、

おもこは遠くを見る目をしてから、「ボンヤリとだけ覚えている。」と言った。

「お前の母親の名前はおもと言ってとってもきれいな人だったんだヨ。私とは双子だったが全然似ていない。そのおもが私に言ったんだ。おもこがやがて美しい娘になって、この農園の人ではなくて立派な人に見染められて玉の輿に乗るのが夢だってネ。だから、そのおもの夢の為に今からしっかり備えなければならないって考えたんだヨ。ここに居たんでは何も身につかない。毎日、土にまみれて草むしりを手伝うだけだ。立派なお人からお嫁になって下さいと言われても。字の読み書きも出来ない。行儀作法も言葉遣いもなっていないではせっかくの良いお話も駄目になってしまうからネ。そういう事は一日や二日で身につく物ではないんだヨ。

それでここからは少し離れてはいるが、頭領の知り合いの老女様の所に行儀見習いを兼ねて御奉公にと思っているんだが嫌かい?」

かるがそう言うと、おもこは黒い大きな目にたちまち涙を浮かべて

「おっかさんはおもこが邪魔ですか?」と言いました。

かるは急に胸がいっぱいになっておもこを力いっぱい抱きしめました。

「邪魔な事があるもんか。おもこはおっかさんの宝物だ。おっかさんの命だ。本当は死ぬまでおもこを縛り付けてここに置いておきたいんだ!どこにもやりたくなんかない!だけどネ、そうなるとおもこはこの農園の中の誰かの女房になって一生この農園の中から出ないで終わるんだヨ。そういう事、お前を生んだおもが望む訳ないだろう?

あの世に行った時、私はおもに叱られるヨ。お前がどうしても嫌だというなら仕方がないが、おっかさんもおもこにはおっかさんが見た事もない世界に出て行って欲しいんだヨ。

きれいな着物を着て、夢のような生活があるならそんな所に飛んで行って欲しいんだヨ。おもこがいなくなる事を考えると淋しいし、本当に悲しいけれど、おもこにはそうなって貰いたい。おっかさんも本当のおっかさんの気持ちになってしまったようだネ。」と言って淋しそうにしました。

それをじっと見ていたおもこは、

「おっかさん、私行きます。行って精一杯いろんな事を勉強してみます。でもどうしても我慢出来なかったらここに帰って来ていい?」と言いました。

「ああ、いいヨ。いつでも帰っておいで。おっかさんは首を長くして待っているからネ。利口で誰よりも聞き分けの良い自慢のおもこが我慢出来ないというのなら、それはよっぽどの事だ。いつでも帰って来るんだヨ。」

そう言って、かるはおもこを力いっぱい抱きしめました。

おもこはその晩、かるにぴったり体をつけて眠りました。

もう、この子とこういう風に暮らせなくなるのだ。そう思うとかるはいつまでも目が冴えて眠れませんでした。

それからの一日一日はかるにとってもおもこにとっても一日が一生と思う程、大切に過ごしました。

夜になると沢山、沢山おしゃべりをしました。

この日々をおもこはずっと覚えていてくれて思い出してくれるだろうか。そう願いを込めていろんな話をしました。

それから何日かして、頭領について貰ってかるはおもこを連れて老女様の家に行った。

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