Heures Heureuses.

※フランス語で幸せの時間


 部屋の中には沈丁花の甘い香りが満ち溢れ、まだ少し冷たい春の風が庭園の木立を吹き抜けて開け放した窓から、月桂樹の香りや薄紅色に咲いた桜のたおやかな香りを運んでくる。

 ロココ様式のマホガニーでできた肘掛け椅子に座ったまま、窓から差し込む柔らかな太陽の光に身をさらしているゆずる=ヴィアレットの紅と碧のオッドアイには、生き生きと萌ゆる新緑の庭園だけが映っていた。光へと向かって伸びる葉緑は行き場のない激しい命の炎を見るようで、それらを支える枝々はまるでその熱に悶えるかのようにざわめいている。

 朝も10時を過ぎた頃。少年はふと庭園から室内の薄紫の天蓋付きベッドへと視線を移した。透けて見える滑らかなシフォン生地の先には最愛の妹がくしゃくしゃと乱れた布団を抱きながら眠っている。寝間着代わりに愛用している水色の長襦袢が白のシルク生地にうねる様子はさながら砂浜に無秩序に打ち寄せる波間のような気がして、すぅすぅと寝息を立てることはなく文字通り人形らしく横たわる姿はやはり無機質な面を感じずにはいられない反面、彼女のじっとしていられない退屈を嫌うその気質をよく表していると思った。

 少年は再び窓の外へと目をやった。すでに数十分もの間こうして飽かずに庭園と妹の姿を眺めている。時折吹き抜ける春の爽やかな風が優しく緑色の髪を撫で、可愛らしい鳥たちの歌声を聴くのを少年は特に好むところだった。自室の隣接する部屋には妹の作り上げた書斎があり彼女はそこにこもるのを無上の楽しみとしているのであるが、ゆずるにとっての小宇宙はこの布張りの椅子の上であるといえた。別段に絢爛豪華な調度品や家具を並べたり万巻の書物を積まなくても、こうしてぼんやりと座っているだけで少年は非常に満ち足りた気分だった。とはいえ何も少年は禅僧のように無欲を良しとしているわけではない。少年の趣味は意外にもスポーツで特に毎朝のフェンシングの稽古は欠かしたことはないし、サッカーやラグビーなどの団体競技の観戦も好むところで同じくスポーツを趣味とする執事やメイドたちとラウンジでお喋りすることも楽しんでいる。ゆな程大きな部屋を持っているわけではないが、執事の玄武や美術商を通じてアンティークの刀剣を手に入れて貰うこともありそれらを愛でることもしばしばだった。

 しばらくしてベッドからシーツの擦れる音が聞こえた。どうやらゆなが起きるらしい。まるで子どもがむずがるように何度も身体を反転させながらようやく上半身を起こしてヘッドボードに預けると半分寝ぼけ眼でゆずるの方を見つめた。

「あら、お兄様。早いのね」

「おはよう。もう10時過ぎちゃったよ」

 ゆずるが少し苦い顔でたしなめるように言うのもどこ吹く風といった感じでゆなはベッドから這い出るとゆずるの頬杖をつく窓枠へ身体を預けた。

「良い風ね。お兄様ももっとだらだらと布団の中で過ごせばいいのに。気持ちの良いものよ。特に春や秋の涼しい日に身体を締め付けない布に巻かれて過ごすのは」

 ゆなはそう言って寝間着の長襦袢の裾を抱え込むようにして腕を組んだ。そよそよと入り込む風に少女の前髪が小さく揺れている。

「気持ちは分かるけど、僕は規則正しい方が性に合ってるよ」

 少年が頬杖をつきながらそう答えると少女は短く「そうね」と答え、少年の揃えられた細い両脚にゆっくりと腰掛けた。体格差はほとんどなくゆずるが腕を回して抱くと不自然な形になるため、必然ゆなの方が横向きに腰掛けてゆずるの頭を抱くようにして座った。ゆずるは妹のするがままに任せておくだけで何も言ったりはしない。

「ねぇ、お兄様。天気が良いならお花見しましょう。屋敷の子たちが喜ぶわ。桜餅が美味しいかしらね。暑いなら中庭の桜を眺めながらお茶するのもいいわ。ねぇお兄様」

 ゆなは兄の頭に頬を寄せ窓から見える草花を眺めながらとりとめのない話を始めた。ゆずるは妹のそんな話し声にうんうんと短く返事をするだけだった。まるで母親が赤ん坊を腕に抱くような、はたまた赤ん坊が父親にじゃれつくようなそんなお互いが求め合うこの時間が兄妹にとって幸福の瞬間だった。

「幸せねお兄様」

 ゆなは散々喋り終わるとゆずるの手に自分の指を絡ませてぽつりと呟いた。

「うん」

 ゆずるの返答は相変わらず短いがゆなと絡ませた指にほんの少しだけ力を込めることで答えた。

 ゆなはその返事に満足した様子で立ち上がると「着替えるわ」と言って部屋に備え付けられた呼び出しベルを鳴らした。風鈴のような可愛らしいベルの音が二三度響くとすぐに待機していたメイドが扉を開けて入ってきた。

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