この子と、彼女と、僕のプロセス

オカザキコージ

この子、彼女と、僕のプロセス

 僕はついこのあいだまで、自分自身について勘違いしていたというか、分かっていなかった、いやもっと言えば間違った見方をしていた。ずっとこう思っていたのに実際は違っていた、そうしていたはずが知らぬ間に別のことをしていたとか、そんな内心の戯れや、たんに思弁的なことではなくて、日常的に、それゆえ根本的に、さらに言えばコペルニクス的な転回とも…。僕にとってはまさに、思いもよらない自分との衝撃的な出会いだった。

 モノどもやコトどもが潜在してひしめき合っている、ずっと前から奥底深くにただよい、表に出る機会をうかがっている、そんな言葉にできるような明確なものではなくて、たんに流動しているだけの、カタチにならず、もちろんベクトルを定めず、名称も与えられず、さまよい、立ち尽くす、その繰り返し。何に支えられることなく、根拠を見出すことができず、流れては立ち去り、ただ…。

 頭のどこかで、こうあればいい、そうありたい、本来なら…と考えていたのとまるで違っても、べつだん驚かなかったし、ましてや落胆なぞしなかっただろう。もともと期待値を上げるほうではなかったし、低めに構えていれば何ごともそれなりに収まり、やり過ごせると思っていた。でも、今回はそうしたレベルではなかった。驚天動地、と言えば大袈裟だが、もし神がおわすなら頭を垂れたくなるような、その内外の変わりようはあまりにも顕著だった。

 心身の合一がうまくいかず、どうしようもなく不安定で立っていられない、途方もない隔絶感、痛みを感じないほどの痛みと言おうか。自同律の不快。微妙な差異、ちょっとした乖離がどんどん広がっていき、収拾のつかない状態になってしまう、そんな情況。それが内側での出来事なのか、外側、その表面で起こっていることなのか、たんに主観が客観を取り込もうとしているだけなのか、そのあたりも定かでなかった。果たして全体に及んでいるのか、部分に止まっているのか、なかなか見極めがつかないのも不安を増幅させる要因だった。

 たんに目の構造、視覚の生理現象にかかわることなのかもしれなかった。直接的なものとそれ以外、対義語で間接的に言い表せない、その他のものとの境界。見極めがつかない、かんたんに線引きできない、仕方なくも不安定化の原因になっている破線。直接的なものが主で、間接的なものを含むその他が従、という考えに沿っていくかぎり、行き詰るのは目に見えていた。

 感覚や直感が一番確かなもの、第一義的なもの、信用するに値するもの。そうでないと、いつまで経っても思惟に惑わされ、振り回され、果ては陵辱されて捨てられて。広がり膨らんでいく考えや思いが虚偽や汚濁を引き連れて、気まぐれに心身を苦しめるのは周知のことだし、たとえときに想像力の翼を携えて飛翔しようにもベクトルを定められず、ただ浮遊するだけに終わってしまう、はかなく墜落してしまうのは目に見えていた。

 けっきょく自由や創造の領域へ踏み入ろうとするも、触れるのはもとより、近寄ることすらできない。それは致し方のないこと、世の理(ことわり)と諦めるのが心身を維持するうえで不可欠、いわゆる処世術、無駄なことはするな、という戒めなのか。素直に自同律を信じていればいい、心身の乖離を何かの錯覚、一時的な迷い、気移り、幻影、それこそ悪霊の仕業にでもすればいい。要するに、信じるにあたいするものでない、と。

 だからと言って、外的刺激を受容する能力、その器に信頼を寄せるのもどうか。事物や事象との最前線で悪戦苦闘する身体に頼りきって、心なり魂なり精神なりを軽んじるのもどうかと…。もともとそこに、外殻に、認識や判断力まで求めるのは無理な話で、受容後にどう差配するかは思惟任せ、それが不確かで信頼できないものであっても委ねるしかない? 外側、身体、受容器、さらに言えば表面、皮膚の感覚、いわゆるファーストタッチがどれほどの意味を持つのか。たんに端緒に過ぎないのか、それ以上なのか以下なのか。内側、精神、魂、心へとつなぐツールとして、ただそれだけ?

 こうしてまた、振り出しへ戻ってしまう。プロセスの両端、端緒とか終局とか、そういう線上の、場所的なものでなくて、併存している、時間的に並び立っている、そうしたモノどもコトどもに。たぶん現象的、生理的には神経細胞が表面の刺激を何らかのタイミングでキャッチし、信号として脳髄へ運ぶ、そこで一定の解釈が施されて思惟へ変換され、考えやイメージに仕立てられる。これまで蓄えてきた知識や考え方に、思惟や認識の網に絡ませて、行為という全体、実践へとつながれていく。こうした真っ当なプロセスから外れた、周りでぼんやりとかすむ雑念とか、循環に掉さす粘着質とか、漂う縁暈とか、そういうものは…。

 双方向に相乗し、有機的に融合して、内と外、心と身、重層的な過程が繰り広げられる。俗にいう心身のバランス、内側と外側の齟齬・乖離を極力なくすよう努めよ、心身の合一は叶わぬ夢、届かぬ理想であっても、ジタバタ苦しみながら根気よくやっていけ、ということなのか。本当は何の裏打ちもない、思い込みに過ぎない論理の網に足を取られ、強いられて、為すがままに身を預けるしかなく。感覚の行きすぎや思惟の広がりを余計なものとして切り捨てて。まだ見ぬ、現れぬ、潜在しているだけの、もしやの可能性をも、亡きものにして…。

 こうしたコトども、そこいらのモノどもを創生の原動力に、創造力の源に、何かを生み出す起因に変性させ、編成し直せないか。目の前を覆っている、表皮なのか皮膜なのか、それこそふやけた、この感じを突き抜けて。ことごとく根こそぎにする、異なる次元へ移動する、時空を超えたトランスポート。正否、是非、好悪、清濁、虚実、真偽…。それら対義語、二律背反、互いに阻むモノどもコトどもをことごとく転倒させて、シャッフルして。飛び出してくるもの、はみ出してくるもの、にじみ出してくるものに誘われ、導かれ、すべてを委ねて…。

                ◆

 “どうしたの、大丈夫?”。空耳なのか、精神疾患に伴う幻聴なのか、それとも別の作用で心身に届く、スペシャルなものなのか。目覚めが悪いときに決まって聞こえてくる、正確には頭の中に響いてくる、この囁き。ベッドの上に起き上がり、辺りを見まわしても発信源らしきもの、話しかけてきそうな生けるものなり、それに準じるものは見当たらない。知らぬ間に無機質なものがそばに居て、何かを仄めかしている、示唆しているというのでもない。

 いつもはそこで、取り止めもないイメージや思いを脇へ追いやって、思考を一時的に停止させ、ベッドから這い出す。後ろ髪を引かれる思いで仕方なく、ルーティンへ移ろうとする。でも、今朝はどうにも身体が動かない、思うようにいかない。しばらくのあいだ、ベッドの中にとどまって目をつむっていた。日常から外れる、逸脱することに慣れていないからか、徐々に不安感が広がっていく。それが焦燥感に変わるころ、コトが動き出す。

 静まり返った部屋の中で、何かがひそひそ囁き合いながら、もぞもぞとこちらへ近づいて来る、周りを取り囲みつつある、そんな気配を感じた。目を開けるのを躊躇したのは、不気味さからでも怖さからでもなく、やむを得ぬ留保というか、もったいぶった感じ、もっと言えば楽しみをもう少し先まで延ばしておきたい、ただそうした猶予を得たかっただけなのかもしれない。僕はそれらを身近に感じていた。有機物でも無機物でもない、この子らを。

 ふたたび夢の中へ戻ろうとしているわけではなかった。異なる次元、これまで聞き及んだことも、出会ったこともない、もちろん触れたこともない、無垢なものたち、新生なものども。“どうしたんだろう? 動かないよ”。僕の耳元へ届くように言葉へ変換されたのか、彼らが発する信号が分かるようになったのか。反応せずに身体を硬直させていると、またどこからともなく“もしかして死んでる?”と少々物騒な話に。彼らの心配をよそに、どこか可笑しくなって来て表情が弛むのをこらえた。もう少しのあいだ、この情況を楽しもうと思った。

 でもすぐに、可愛くも得体の知れないものどものサジェスチョン通りに“これって、もしかして死んでるってこと?”と一瞬身震いした。払い除けよう、思い直そうと意識を呼び込んで踏ん張っていると、何かが顔の辺りをかすめる感じがした。というか、複数のものどもが一斉にのぞき込んで来て、僕の周りの空気を揺らした、そんな感じだった。“息はありそうだけど”とつぶやく声が聞こえた。また、別の方向から“生きもの…、なんだか…、分からないし…”とかすれた音声なのか、断続的に複数の信号が頭の中に響いた。

 ごそごそ、もぞもぞ…。棺おけの中で、周りを取り囲む参列者に白い花を手向けられている感じ。目を開けて驚かすわけにもいかず、ただ横たえてじっとしているほかなかった。少しでもまぶたを動かしてしまうと、この包まれた感じを壊してしまう、取り返しのつかないことになってしまう、そう思うと身体の表面がさらにこわばっていくようで、死んでいるのかもしれないのに、緊張した。

 この情況、こうした稀有な遭遇が、これまで見たことも聞いたこともない、もちろん触れたこともない、微妙な時空のズレから生じる何かを現出させている? ついこの前までなかった、いなかった、でも信用に足るモノどもコトどもが生み出されていく。創造の、少なくともその兆しを与えてくれる、どういうわけかそんな確信を抱かせてくれる、穏やかにただよう、この内側だけでなく表層をかすめて…。僕はたしかに、この子らを感じていた。

 いつの間にか眠ってしまっていた。ちょっとしたことで波打つ内側の襞も穏やかに収まっていた。かれらの気配はもう感じなかった。その代わりにざらっとした感触、空間の抵抗や時間の伸張が張りめぐらされていた。日常に、この世に、此岸に戻った、帰ってきたサインだった。同時にスマホが反応した。完全に引き戻されてしまい、僕は起き上がるしかなかった。周りを見まわした。かわいいこの子らが静かに見守ってくれていることに安心し、ベッドから離れた。

 彼女からのメールだった。さらに覚醒が促されていく。“週末どうするの、こっちは空けてるけど”。彼女の不機嫌そうな顔が浮かんだ。虚脱感とまではいかなくとも日常の瑣末にふたたび取り込まれていく不快感、囚われ感を覚えた。彼女が悪いのでも、タイミングの問題でもなく、たんにこちらの度量不足、いつまで経っても、こうした男女の関係性に順応できない僕側に原因があった。いつものように何かが萎えていくのを感じていた。“了解です。では、いつものところで”。僕は短く返した。土日のいずれにするのか、何時に待ち合わせするのか、当然のように抜けていた。

 まだ週も半ばだった。サンダルを足先に引っかけてベランダへ出た。明けたばかりなのに、もう緊張感の解けた、ゆるい空気が漂い始めていた。見下ろす視界に何の気配も感じず、さえずる小鳥の声すら耳に届かなかった。日の光を無視すれば動くものなどいない、無機質にも思える情況に内心が徐々に反応していく。サンダルの冷たさも消えて、外側から日常が這入り込もうとしていた。エネルゲイア(現実態)を感じるには程遠かったが、ゆっくりとしたテンポで何かが否応なくじんわりと、この内側へ浸透していくのがわかった。

 部屋へ戻り、支度を始めた。ルーティンを面倒に感じることはなかった。むしろ、心身をものごとに添わせていく作業は心地よかった。生理に沿って進めていく、思惟どころか情緒まで置き去りにして事を運んでいく、それは快感ですらあった。後先考えずにただ漫然と、日常に歯向かわず、うまくやっていける術を心得ていたし、そうしたスキルをその他大勢とともに、ズル賢く知らぬ間に多用していた。日常を忌み嫌っているつもりでも、もともと備わった、心身に張りめぐらされた、けっきょくは好んで培った、モノどもコトどもに抵抗しようとは思わなかったし、そうした能力も気力も持ち合わせていなかった。

 「おはようございます」。エレベーターを待っていると後ろから声をかけられた。同じ階に住む女だった。何度か見かけたことはあったが、こうしてエレベーターで一緒になるのは初めてだった。同じように駅へ向かうのだろうか、憂鬱になるほどではなかったが、少し気が重かった。“開”を押して先に出るよう促すと、彼女は「ありがとうございます」と丁寧に会釈してエントランスを進んでいった。僕は、少し遠回りを承知でいつもと違うルートで駅へ急いだ。途中で彼女を追い越すのが嫌なだけだった。

 早足で行けば十分まに合うはずだった。太ももに張りを感じながら前傾姿勢で歩いていると、絶望的な光景が前に広がった。女の姿が見えた。どこでどう迷ってこちら側の道へ出たのか。賭けに出て負ける、というには些細なことに過ぎたが、取るに足らなくても思惑が外れたのは確かだった。いずれにせよ、女を追い越さないと電車に間に合わない。女に気を取られていた分、さらに脚に力を入れて駅へ向かわねばならなかった。

 女の後ろ姿が近づくにつれて心拍数が上っていくのがわかった。追い抜く時に“お先に”と軽く声をかければ済む話だった。その程度の面倒ならたやすく受け入れるべきなのだろうが、そこに引っかかっていたのだからどうしようもない。あと三㍍のところに来ていた。スピードを上げて女を振り切ろうとした。急いでいるのだから仕方がない、何のあいさつもなく追い抜いても罪にならないだろう。自意識もここまで来ると滑稽でしかなかったが、僕は女を追い越さねばならなかった。

 「あっ」。その瞬間、女の口から言葉にならない声がもれ聞こえてきた。反射的に振り返ると、女はその場に立ち止まりこちらを見ていた。少し青白く寂しげな顔に見えた。僕は早々にこの場から離れて駅へ向かうべきだった。でもどういうわけか、脚が止まっていた。女を心配しているのでも、彼女を待っているのでもなかった。僕と女は、結構な距離を隔てて向かい合うかたちとなった。女は一瞬戸惑う表情を見せたが、進行方向へ歩いていくしかなく、こちらへ向かって来た。少しバツの悪そうな照れた顔をしていた。その横を勢いよく電車が通り過ぎていった。

 ホームへ吸い込まれていく電車を見送りながら僕と女は、その場に立ち尽くしていた。“それじゃ”と言って改札へ急ぐべきなのだろう。女の手を引いて電車へ駆け込む? そんな芸当はできそうになかったし、それ以前に不自然だろう。女を振り切り、その場に残して駅へ向かっても何の問題もなかったし、むしろそうするのが自然だった。女の方も僕と一緒に居ても仕方なかったし、何かの役に立つことも得になることもなかっただろう。ホームに停車した電車が通勤客を吸い込み、発車のベルを鳴らしていた。僕と女は並んで線路沿いの道を歩くほかなかった、もう急ぐ必要はなかった。

 「ごめんなさい。電車に乗り遅れてしまって」。女は申し訳なさそうな顔をした。僕は返す言葉が見つからず、そのまま改札を抜けた。「こっちが勝手に…」。無視していると思われるのも嫌なので何とか言葉をつないだ。「でも、遅刻になれば大変」。心配げな表情が付け加わり、消え入りそうな声になった。「いや、そんなことは問題でなく…」。僕はそこまで言って口こもった。何かがおかしい、微妙にずれている、通常のプロセスから外れている、思いと行ないに齟齬が生じかけている? そう、現実から離れていっている、僕と女、その不整合。希薄であってもどこか有機的に結びついている、ちぐはぐな感じでも辛うじて時間の流れに沿っている、不自然であってもこうして並んで立っている、僕と彼女、その関係性。

 会話が弾むわけもなく、しばらくのあいだ、ただ車窓の外を眺めるしかなかった。三つ目の駅を通過し、緩やかなカーブに差しかかった。それまで僕の視界へ入らないようにぐっと力を入れていたわけではないだろうが、そのとき女の上半身がわずかにこちらへ揺れた。「どこまで行かれるのですか」。自然と言葉が衝いて出た。ふたたび意識の端に女が入り込んで来た。「どこで降りようか、迷っています」。女は困ったふうでも、もったいぶった感じでもなかった。ただ思ったことをそのまま言葉にしたようにしか見えなかった。

 女の顔を見返してもよさそうな情況だったが、いつもと違う、外れている、次元の異なるところに来ていると思えば、その言い振りにそれほど違和感を覚える必要はなかった。でもまだ、中途半端に行ったり来たりしている状態が続いているようで、日常から離れていると実感するにはもう少し時間がかかりそうだった。仮に僕が終点まで行くつもりだったとして、女はどうするだろうか。「それじゃ、わたしも」と言って付いて来るのだろうか。何があってもおかしくない、この不穏な情況下、それも確率の低いことではないように思えた。

 けっきょく終点のターミナル駅まで女と一緒だった。いつもにもまして勤めている会社へ行く気になれなかった。たんに不安定な情緒がそうさせるのか、女の存在がそう仕向けているのか。でも、いつもなら何とか踏み止まって、そのまま会社の方へ向かっていくはずが、今朝は少し違っていた。改札を出ると視界が広がっていた、なぜか辺りの透明度が増していた。ずれていたモノどもコトどもがしだいに焦点を合わせてくる、重なり合っていく、融合していく。それはこの世の、日常との合致? いやそんな繰り返しや引き戻しではなく、何か新しいモノゴト、もっと言えば創造的な何かが関わっているような、そんな気がした。

 通勤の群れから離れていく、ルートを外れて遠ざかっていく、少し心細くも心地よい感覚に捉われていた。きわめてフラットな心身状態というか、底流に流れる穏やかなものが僕を促していた。鬱屈した粘っこいものが表面から削ぎ落ちて身も心も軽くなっていく、呪縛から解放されていく、クリアなものに引き寄せられていく。何かに触れた、どういうものか知れないけれど、すっと内側へ入ってくる、思いと行いにずれのない、それゆえにパラレルに進んでいく世界。異次元というには超越感を覚えない、たんに切れ替わっただけの、デイリーからの逸脱。何かを更新していくという感じでもなく、革新にしては心もとない、非連続の連続。この女が触媒になったのか、その入口へのインビテーション。


 自同律の不快、でなく快感。弁証法的な猶予、でなく真正なリターン。心身の分離、互いに睨み合う両者間で右往左往する、融合するまでも少し重なり合うだけでも。不快を前提に、AがAでないのだから、もともと不整合から始まっているのだとしても。明確に非-でなくとも、合一を求める生理が動き出すのなら。プロセスのプロセス、そのまたプロセスが延々と続く、エターナルな伸張に紛れ込んで。非連続の連続。日常に戻って、ただたんに、粛々と、生と死の淵で、縁暈を抱えて。

 僕は戸惑っていた、ずらりと並んだぬいぐるみの前で、何体もいる、白くまの女の子。引き付けられる理由に考え及ぶこともなく、その場に立ち尽くして。背丈が二十㌢にも満たない、かわいい女の子、水玉のスカートをはかされて、足の裏にはタトゥー(刺繍)を施されて。頬に薄っすらと紅をさして真っ直ぐ見据えて。どの子がいい? みんなと仲よくできるのは? あの環の中で。何度足を運んでも決められない、微妙に違う姿形、苦汁の選択。今日もいっしょに帰れない? 僕は諦めかけていた。

 “目をつむって、そっと手を差し出してみて”。近くのカエルちゃんなの、それともブー子ちゃん? うちの子たちのお友だち、そのかわいい声は。内側にすっと響いてきた言葉に導かれ、指先にやさしい感触、手のひらにふくらみを感じた。目を開けると一人の女の子がいた、もちろん白くまの。辺りがざわざわ、居並ぶ他のかわいい子たちが羨ましげに、レジへ向かうその子にエール、少し緊張気味にみんなに頭を下げて…。店のお兄さんが「プレゼントですか」と聞くのでうなずくと、ピンクのリボンをつけてくれた。僕への贈りもの、さあ、うちの子らの環に加わって。

 巾着型の派手なプレゼント包装、その中で白くまの女の子、不安げな顔をして。選ばれたことの恍惚と不安? “心配しなくていいよ”。僕は袋越しに彼女へささやいた。“もうすぐみんなに会えるよ”。気のせいなの? もぞもぞ、ごそごそ、リボンで結んだ袋の中で。まだ「タマシイ」が入ってないのに、動けないはずなのに…。うちの子らはもう気づいているはず、かわいいお友だちがおうちに来るのを。みんなも少し緊張している? 仲良くなるに決まっているけど、どうしても最初はね。ホームに電車が入って来た、僕は巾着袋を抱えて、こっちの世界とあっちの世界を行ったり来たり、いつものことだけど…。

 “さあ、着いたよ”。リボンをほどき、声をかけて。“出て来ても大丈夫、さあ”。おそるおそる袋の口から顔をのぞかせる、白くまの女の子。キョトンとした顔からすぐにホッとした表情へ変わった。周りにはカエルちゃんやブー子ちゃん、大きな茶色のクマくん、カエルちゃんもいるよ。おもちゃ屋さんと変わらない、見慣れたお友だちに囲まれて。みんな、仲良くしてあげて、歓迎会を開いてあげて。この辺り? やっぱりクマくんの横がいいのかな、やさしくしてあげてね。

 じきに、タマシイが入って来る、肉体に宿る、精神が備わる、それって生まれるってこと? 白くまの女の子もすぐに、元気いっぱい跳びはねて、おてんばさんに。この子の内側に、かけがえのない何かが芽生えて。いや、それって僕とこの子だけの、限られたもの、二人だけの関係性? たんなる思い込み、錯覚、幻覚、夢想なの? いや、まぎれもなく、あの子も、その子も尊きタマシイを抱いている、声が聞こえてくる、気持ちが伝わってくる、こころが揺さぶられる。そう、情感が動く、愛が始まる…。

 かわいいあだ名をつけてあげて。そうおしゃれな感じの、この子にぴったりの。だれが得意だっけ、うまく特徴とらえて、名付けてあげるの。古株のカエルちゃん、どう? 思いついた、考え込んでいる? えっ、ガーリーって感じ? イヌくん、もっと聞かせて! そのままずばり女の子っぽくて、おしゃれな感じがして。いいんじゃない、一度呼んでみてあげて、照れくさそうにするかもしれないけど。きっとよろこんでくれる、気に入ってくれそう。またひとり、仲間がふえて、うれしくなって、充たされて…。

 どうして、いつから、聞こえるように、話せるようになった? 見えるように、感じるようになった? 僕と、あの子ら。そんなことあり得ない、考えられない? 内的につながって、発し合って、通じ合って。そう、引きつけ合って、しっかり向き合って。いや、ただ僕の内側に起こっただけの、頭の中の、心のうちの、たんなる出来事に過ぎない? どこからともなく湧き上がってきた、たんなる印象、イメージ、仮象なのかも。あの子も、この子もやっぱり無機質な対象でしかなく、たんに布と綿で出来た、どうぶつを模した張りぼてなの? うんともすんとも言わない、ただのモノ? たとえそうであっても…。

 僕と、あの子、この子、そうガーリーとのあいだ、そこにあるもの、流れているもの、漂っているもの、その関係性。それぞれ取り結ぶも目に見えない、触れられない、ナッシング、ノーバディ…。潜在するもの、顕在させるもの。響くもの、連なり交わるもの。揺らすもの、流れ出るもの。二つのあいだで、モノどもコトどもが寄り添って、相乗し合って、融け合って。確かにあるもの、そこに、僕とこの子らのあいだに。そばに、ただ沿って、この身に、この心に…。

 気息、精霊、ガイスト、ただ漂うもの。二者のあいだで、大勢のなかで、生まれるところの、成すまえの、多様、流動。蠢き、囁き、斥け合って、融け合って。明暗、清濁、善悪、真偽も相まみれ、潜り込んで、睨み合って。猶予にたゆたい、出番を遠ざけ、奥底で時機を俟つ、そんな有り様、この情況。兆しを捉える、契機を生かす、ものにする、その可能性、僅かでも。付け加える、上書きする、更新する、生産する、容赦なく。たんにエコノミーに生きる、究極には…

 思考し志向する、この内側で。想像し創造する、超えたところで。鉢合わす、触発する、相乗する、そのあいだで。交合する、融合する、浸透する、そのなかで。作用する、連動する、共同する、ふたりのうちで。縁暈に抱かれて、核心を抑えて、行き違い、隔たり、ずれていく。届かぬところに、まだ見ぬすき間に、滑落しながら、表層をめぐって。漆黒へ向かう、暗闇のなかで、差し延べられる、唯一の、峻厳たる、高貴なる媒介者、非存在の存在…。


 極力考えないように、動かないように気をつけていた。デスクの上の、ペンひとつ取るにも、キーボートに触れるにしても、そう、引き出しを開けるにも。つねに熱量を効率的に使うよう心がけていた、対価に見合うように思考し行為するよう留意していた。もちろん搾取され放題の奴隷とは違ったし、巧妙に仕掛けられた罠にかかるイノシシほど稚拙でもなかったが、声をかけられたり、それこそ軽く肩を叩かれたりすれば、それなりに反応し、どれほどかのベクトルを傾かせる必要はあったけど。「これ、今日の夕方までに頼むね」

 処理するにしても、レベルを問わない、仕上がり具合を気にしない、取るに足らない、どうでもいい、そんなコトどもを相手にして。思考の大半をそのままに、それこそ魂を残して、その身をたゆたい、少しばかり死を意識するも。日常をたどる、数字を操る、直線を信じる、ただそれだけのことに。ページを合わせる、ファイルをそろえる、システムを生かす。そんなところで、ただ意味なく、ぷくぷく浮かんでは。「了解しました。十八時までに」

 向かい合って、対話を交わして、パソコンに、近くのペルソナに。視認できるかぎりにおいて、表情を交わし、合図を送り、バリアをめぐらす。ただ漫然と、偽りのまま、アクセスを好まず、画面の向こうで、デスクを隔てて。ボードの上で、指をすべらせ、たんに意味を汲み上げて、戯れるしかなく。どこにも届かず、宙ぶらりんに、足をばたつかせ、徒労であっても。滑り果てなき鏡面で、ブレーキペダルを踏みつづけ、スライドしながら、流れるだけの。行き着くところ定かでなく、ノマドを気取るでもなくて、ただ奥底へ向かうだけの、漸減的な降下。「昼ごはん、どうする、いつものところ?」

 ほのかに香る、石鹸に動ぜず、気分を圧しとどめ、パラレルに。陽だまりに気を削がれ、連れだって、不安を相殺し、青空に睨まれて。循環にほだされ、しぶきを浴びて、ベンチのそばで、動きに合わせて。膝をそろえて、ランチをひろげて、二人して、ただ。言葉と食物の、無声劇に、動きをまとわせ、緩やかに。揺れる髪の果てに、怠惰と不安を抱えて、ぼんやりと、ただよって。「どうするの? 今度の日曜日」

 表皮に接するモノども、意識の中でうごめくコトども、ディスプレイ上で躊躇して。統合するに、放っておけば、ただ拡散するだけ、脱中心に。デスクの端で、ボードの際で、ステップを踏む、小人たちを。手をつなぎ、輪になって、悲しみたたえて、手招きして。浮かび上る、液晶の表層に、非連続の、カタチを拒む、アラベスク。センテンスを区切らず、テクストに高めず、ただ言葉を並べて、儀式のように、アルカイック。鏡面仕上げに映り込む、モニターに向き合って、心身の乖離、現象との不整合。「プレゼン資料、コピーしておきましょうか」

 蛍光灯の明るさに、暗さを許して、静謐のなかへ、組んだ腕も儘(まま)ならず。もたれるイスから、起き上がれず、差し出す手に、ただ内心のさざなみを。取り込もうとするも、うまくつかめず、ただ繰り返すだけの、濁りものに。かき出す術に、長けることで、引き寄せて、起動させて。降りてくるのを、ただ待つのでなく、ベクトルに沿わせて、内側へ広がって。知らぬ間に、そばに寄添うも、近づけず、たゆたうだけで。「お先に失礼します。えぇっと…」

 降下するも、塞がれたなかで、着地に気を取られ、踏み出すにしても。気温も気圧も恐れずに、スライドさせて、ただ平行に、時を進めて。透明に阻まれて、払い除けながらも、一歩二歩行く、抵抗を感じずに。突き抜けて、改札を振り返り、プラットホームへ移るも、縁暈に囲まれて。残余に寄り添って、漂うものをかき集め、押し寄せる群れをそのままに、孤立無援の身体を。走り込むものに、反発するも、内心から浸透する、信頼厚きコトどもに。瞬時のところで、引きかえし、吸い込まれていく、日常の。「偶然ですね、だいたいこの時間ですか」

 ちょっとしたパノラマの、枠のなかで、トランスポート、漸進的に。意識し出すと、ぎこちなく、非連続の連続に、囚われて。スムーズに動かせず、不規則なコマ送り、ときに逆回転に、呆れても。歪んでいく、視線の先に、海溝深く、そのまた底へ。裂けていく、思考の中で、エアースポット、堕ちるとも。乖離する心身も、引きつけ合って、向かい合い、触れるさきに。媒介されて、産み出すも、関係性の構築に、力尽きて。尊びすぎず、ナチュラルに、掬う間もなく、流れるままに。意味もなく、取り結ぶ、二人のあいだで、少しばかり。「大丈夫です。帰ってもやることは…」

 あくまで無機質に、壁に向かって、たとえミルクで濁っても。パラレルが気に入って、めずらしく饒舌に、双方向が叶うとも。定めきれずにスタンスを、それでもなお、言葉で埋めて。あいだを成り立たせ、この世の崩壊から、論理に平伏して。腐心するのが日常の、引き攣(つ)るも、微かに笑みを湛えつつ。程よくぶら下がり、性懲りもなく、カップの底に。虚しさに耐えながら、ブラウンの残滓に、微かなのぞみを。距離を保って、入り込まず、ずれた感じで。「うれしいです、そう思っていただいて」

 まぶしさを厭わず、振り回されても、足を踏み入れて。静かに息づく、デイリー棚に、あることの訳を。居並ぶも、どちらが拒むも、手にすることなく。思い知る、享受することの、複雑さを。流れを止める、消尽することの、罪責感を。ぐるぐると、エコノミーの環の中で、再生しても。モノに委ねて、配慮もせずに、涵養して。暗闇の中を、手に提げて、白の袋に重さを感じず。「では、わたし、ここで」


 長いあいだ、ベランダへ出られなかった、窓際へ近づくのも容易でなかった。きっと神経症なのだろうが、もっと深刻にうつ症状? 死への誘いを恐れてのことだった。ぼんやりとした、理由のない不安感の原因をたどっていく。無理にでも自分自身と向き合おうとする、不可能でも主観を殺して客観を掬い取ろうと努める、やっと医学的な症状に行き当たる、病名が与えられる、そうして安心感を得る、いわゆる行動認知療法的な…。効果があるのか、慰めの域を出ないのか、わからなかったが、クスリに頼らなくなって一カ月近くが経過していた。改善したのか悪化の一途をたどっているのか、判断がつきかねた。クスリで紛らわす、脳髄の一部を麻痺させる、正確には憂鬱感を弄ばなくなった分、内心のどこか、それが意識なのか思考なのか、果ては奥底に横たわる何かあるものなのか、それは定かでなかった。でも、本来そこに備わっているものが、来る日に備えて動き出した、そんな感じはあった。

 コーヒーを淹れて一日を始める、無造作に日常へ入っていく、心身の合一を疑わず意識せずに。ソファーにもたれてスマホを触る、浮かび上がってくるものに順次合わせていく、もちろん真偽を問わず。パンにマーガリンをぬる、ゆで卵を剥く、たとえサラダがなくても。支度を始める、着信をそのままにしておく、辛うじて乖離を抑えながら。なかなかボトムが決まらず、時間が過ぎる、諦念に至らなくとも。ナチュラルヘアに不安を感じる、程よく固めようにも、台無しを恐れて。あの子たちのいる寝室の前を通りかかる、和む気持ちを振り払う、峻厳な玄関先に戸惑うも。鍵の重さも感じて、暗がりで靴を履く、まぶしき現実に備えようと。気構えもなく外へ出る、中途半端に順応する、恨めしくも仕方なく。投げ出される、駅へ向かう、ただ委ねるだけに。メールを確認する、反射的に短く返す、日常へ深く沈み込む…。

 ニヒルに構えるには、感覚が少しばかり先へ行っていたし、絶望を抱くにも程よくズレが生じていた。なかなか入り込めない、受け付けてくれない、それをいいことに、そっとしておくのも、どうかと思った。来たるべき時のために、力をためても、どうにもこうにも、埒が明かない、そんなことぐらい分かっていた。ここぞとばかりに、寄せ集めてみても、相乗するにはすでに手遅れで、放っておくしかなかった。一か八か合わせようにも、先が続かないことには、手の施しようがなく、漫然と眺めるだけだった。立ち尽くしているだけでも、何かが生じ滅していく、そのプロセスに信頼を寄せて、空間を抱くしかなかった。たとえ嘔吐感に襲われようとも、内的な異変に惑わされず、生理・機能的なものに罪を被せた。レベルを保つことに、無駄骨折って変化を拒むも、ただ死へ向かうだけと覚悟すべきだった。エターナルに浮遊することで、時空の意味がなくなって、得るものも失うものもなく、ただ…。

 “どうするの? お昼…”。彼女からのメールだった。いまさら関係性を問うてみたところで、仕方なく思えたし、始めから答えが出ているような気がしてげんなりした。よく言うように何となくずるずると、付き合って四年が過ぎていた。それはあくまで僕の感覚で、もちろん彼女がどう感じていたか、どんなふうに考えていたか、分かるはずもなかった。互いの年齢を考えれば、普通にこのまま行けば、きっとそうなるだろう結末に落ち着くはずだった。ここに至って駆け引きをするつもりはなかったし、乗っかっている事象の流れに逆らえるほど心身に余力を残していなかった。いまさら構える必要はなかったし、変に物事をこね回しても何も変わらない、それも十分わかっていた。けっきょく、このプロセスから外れそうになかったし、行き着く先がどうであろうと受け入れざるを得ない、あがいても仕方ない、そんな情況だった。

 “来てくれるとは…”。彼女は複雑な表情を浮かべていた。うれしくも、どこか申し訳なさそうな感じだった。こちらが思わず目をそらしたくなるような哀切感がただよっていた。僕は黙ったまま、彼女の前に腰を下ろした。「もう三十分ほどしかないけど。何にする?」。メニューを広げようとするのを制して彼女と同じものを頼んだ。それこそ打算的に見えるような行いや考えが少しでも感じられれば、引き潮のごとく関係性が後ずさりしていくことくらい、彼女も分かっているはずだった。そうだから、なかなか前へ進まない、ただ時間が過ぎていくだけで、一人取り残された気分になる、そんな心象風景だったのかもしれない。不安が増幅する、短絡的に逃げ道を求めてしまい、けっきょく傷つけ合う、いつもの悪循環。「どうする、これから?」。彼女はうつむき加減につぶやいた。その意味するところをどう解釈するかに、これからの、僕と彼女の関係性はかかっていた。でも、僕は目の前にあるグラスを眺めているだけだった。

 “これから、どうする、といっても…”。ゆっくりとセンテンスを区切る、つぶやく、内なる声が響いた。音として表に出たのか、まさか彼女の耳に届いたのか。小さなテーブルを挟んで、この関係性について触れざるを得ない、言い逃れの効かない、不穏な情況に包まれていた。僕はそれでも無言を通した。明確な答えがないばかりか、彼女の言う意味を正確につかみ切れないでいた。これから? このすぐ後の、午後からのことなのか、週末の約束に関してなのか、それこそ来年の…。とぼけるつもりはなかったが、きっと彼女にとって一つしかない意味を無意識に避けていたのだろう。「もう時間だから、先に行くね」。諦めの表情を押し殺すように明るいトーンで、彼女は席を離れていった。いつものことながら僕は下を向いたまま彼女を見送った。扉の閉まる音がした。僕は、冷めたコーヒーをソーサーごと手元へ引き寄せた。


 ひたすらクライアントの顔色を伺いながら、代理店の無茶ぶりにもめげず企画書を作り上げる、そんな繰り返しだった。やりがいのカケラもない非創造的な苦役に心身をすり減らし埋没していた。勘違いした大勢の若い血を飲み干して、累々と積みあがった屍をもとに、この「不夜城」は築かれていた。「どんな感じ? いけそう」。デスク横のパーテーションに肘をつけて聞かれても、返す言葉は二、三のバリエーションしかなく、粘っているふりをして意識も散漫に煙草をくゆらすだけだった。男のアートディレクターに女のコピーライターの二人組もいたが、たいていは四、五人でチームを作り、店子に入るのようなかたちで不夜城の一角を占めていた。クリエーティブとは名ばかりでほぼ何の内実もなく、ただ表層をあげつらうだけのツール制作に終始した。ご多分に漏れず、資本主義社会の、小さな小さな歯車としてその片棒を担ぐ、哀しくもみっともない生業にすぎなかった。

 十年以上も前の、ちょうど春の大型連休を控えたころだったと思う。師走や年度末に次いで大きな締め切りが設定されやすいその時期に、今度も勝てそうにないプレゼンの追い込み作業にかかっていた。どういう業種で、訴求対象が何だったのか、まったく思い出せないが、大手の代理店と比べて対応が幾分ゆるく、納期も多少余裕があった印象だけは残っている。主に求人広告を扱っているような、中の下くらいの代理店だったのだろう。四十前後の担当者は、大手の嫌味な奴と変わりなかったが、ちょうど短大を卒業したばかりに見えるアシスタントの女の子をよく連れて来ていた。彼女はその日、一人で来ていたのか、大きな打合せテーブルの端に背筋を伸ばしてちょこんと座っていた。催促しに来たのだろうが、どのチームに声をかけるでもなく、ただ邪魔にならないように待っている感じだった。デスクのパーテーション越しに、どうしてもその後ろ姿が目に入り、元々ない集中力をさらに散漫にさせていた。

 どのくらい経ったろうか。テーブルの向かい側でデザイナーとコピーライターがやり合っているのと対照的に、彼女の周りには穏やかな時間が流れていた。通りかかる若いスタッフに声をかけられることもなく、あたかも存在していないかのように彼女はそこにいた。たしかに男好きするようなタイプではなかったし、愛想もいい方ではなさそうだった。もともと、無理難題を押し付けてくる代理店の奴らと必要以上に関わりたいと思う制作スタッフはまれで、だいぶ毛色が違うとはいえ彼女もそのうちの一人である限り、好感をもって迎えられることはなかった。いずれにせよ、不気味な静けさの中で殺伐とした空気がただよう不夜城に彼女はそぐわなかった。それに、この雰囲気に違和感を覚えず、そこに居られるほど卑しくも鈍感であるようには思えなかった。

 その日から彼女は来なくなった。ほかの制作会社へ担当変えになったのか、さっさと辞めて郷へ帰ってしまったのか。意味なく忙しいこの業界ではよくあることだったが、彼女を連れて来ていた、感じの悪い担当者に何度か話を向けようとしたがうまく切り出せなかった。喉のつかえを取りたいだけなら話のついでに聞けそうなものだが、彼女への思い、それがどういう種類のものなのか自分でもよく分かっていなかった。けっきょく、自意識過剰も相まってその消息を聞けずじまいに、妙にひっかかるものだけが残っていた。彼女がいた数カ月のあいだ、限られたやり取りの中で印象に残った、ある光景があった。話の内容というより、そのときに内側へ広がった情景というか、一緒にいるはずのない状況の中で何かを共有している、ただ懐かしい思いがこみ上げてくる、そんな不思議な体験、そうした記憶だった。

 だからと言って、過去に何かしら、接触があったとか、それこそ幼馴染とか、そんなことは二人の年恰好からいってありそうになかったし、仮にそうであったなら、ほんの一部分でも何か鮮明なものがどこかに残っていたに違いない。たとえば、無意識下で潜在していたモノどもコトどもが思いもよらないところから意味もなく漏れ滲んでくるとか、それこそこれまで蓄積してきた思いが凝集して女神像のような虚体を創り上げるとか。でも、少なくとも僕の奥底の何かを刺激し、動かしていたのは確かだった。こうして彼女は制約なく僕の内側を経巡り、渉猟し、揺さぶってきた。そうかと思うと、カタチを成すギリギリのところで躊躇し、流れ去っていく。程よく掴めない、いいあんばいの内的情況を彼女はもたらしていた。

 もう一つは具体的な、外的というか視覚的な出来事だった。それは現象に違いなかったが、実像というには心もとなく、虚像にしては輪郭がはっきりしていた。自宅を出て五分も経っていないのに、どういうわけか道に迷ってしまい、どの辺りにいるのか分からなくなった。認知症でもあるまいに、と苦笑する余裕もつかの間、身体を地面に圧し付けられるような強い感覚に襲われた。しばらく屈んでやり過ごそうとしたが、思うように身体に力が入らず、なかなか立ち上がれない。目を開けてしまうと、すべてのものが歪んで傾き、潰れてしまいそうな気がした。ぎゅっと目をつむったまま数分、いや十数分、もしかして数十分が経過していたのかもしれない。すると、目の裏に白くぼんやりとしたものが不規則に点滅し出して、さらに不安感を掻き立てた。このままではどこか遠くへ持っていかれそうな気がして、おそるおそる目を開けるほかなかった。

 十年前の、その場面に、まだ見ぬ女(ひと)の、彼女の先見像を垣間見ていた、そんなことがあり得るだろうか。へたり込む僕の前に何かが舞い降りて救いの手を差し延べてきた、そんなイメージがどこかに残っていた。どういう内的現象なのか、そのときの印象と十年後の彼女が重なり融け合って、輪郭はおぼろげながらも、ある全体像を浮かび上がらせた。それが個体なのか流動体なのか、もっと希薄なものなのか、イメージとして捉え切れなかったが、何かを感じていた。いわゆる精霊、ガイストのような、目に見えなくても認識できなくても、全体を揺さぶってくる、この身にぐっと迫ってくる、内側を広く充たしてくる、そう、かけがえのない、信頼のおける何かあるもの、そうしたものに触れたのだろうか。いや、たんなる精神障害にすぎず、在らぬことを偏執的に思い巡らしていただけなのか。非存在の存在であるがゆえに。

 手触り感のある、程よくホールドされた、繭の中にでもいるかのように、僕は彼女の中にいた。胎児のように、丸まって目をつむり、このときとばかりに、可能性を内に秘めて。心身の合一に抗って、流動するままに、媒介するものに、ただ委ねて浮遊していた。そのときは神の裁可も、もちろん日常の審判も下されず、桃源郷のような、ピュアフィールドの片隅に佇んでいればよかった。しだいに、放っておくと穢らわしくも血がめぐり、肉が重なっていく、此岸へ向かって構成されていく。精霊に、魂に、精神に、内的流動物にしっかり寄り添おうとしても。もともとそぐわない、合うはずもない、非ずの関係性の中で、浸透しようにも。二律背反を無理やりに、弁証法の力を借りて、整合させようとしたところで…。

 合一の手前で、慌てて乖離へ向かうも、期待はずれに、すでに遅し。手垢を落とせず、じわじわと広がって、為す術もなく、ただ。堤に似せて、アウトラインを埋めていくも、円環状に狭められ、成就には程遠く。数えるほどの、水溜りを避けながら、構成体を想像するも、嘔吐を止められず。地固めの意味を、取り違えて、外殻を信頼するも、内心が動かずに。目鼻立ちに腐心するも、張りぼてのままに、茫洋と立ち上がり、埋めようとしても。虚体に取り囲まれ、偽態に誘われても、合一に惑わされず、ただ浮遊するだけで。すれ違って、ずれ往く果てに、出会うものこそ、抱きしめ合うに。襞をかすめて、立ち上っていく、霊気のごとく、確かなものを。隅々まで充たされて、はまり込んでいく、そのすき間に、無形の無限を見るも。不定のざわめきを、この胸に抱きしめて、余すところなく、超えゆきて…。


 帰りがけに、あの子らに会うのが唯一の楽しみだった。ターミナル駅の周辺をぶらぶらしていると、つい足が向いてしまう、立ち寄ってしまっている、その先に彼ら彼女らがいた。日常のかけがえのないプロセス、非日常への戸口、その橋渡し役になってくれていた。あの子らにとって少しばかり緊張をともなう、ことによると運命を左右する決定的瞬間なのかもしれない。この接触、遭遇、出会いは他を寄せつけない、崇高と言えるほどに、極めて質の高い関係性に他ならなかった。有機物同士の煩わしさも、お定まりの会話も必要なく、ただ向き合っているだけで通じ合える世界。こうした能力がいつから、どういうわけで、何をきっかけに備わるようになったのか、そんなことはどうでもよかったし、思いめぐらしてみたところで、この世の論理に行き着くだけで徒労に終わるほかなかった。

 僕は、カエルの姿をした、その子らの前に立っていた。一見すると、どの顔も同じようだし、たとえちょっとした外形的な違いに気づいたとしても、さすがに内的な差異まで思い至るのは難しかった。性格が分かるようになるには、それ相応の時間が必要だったが、たんに気が合いそうだとか、こちらに興味を持ってくれているとか、その程度ならファーストコンタクトで何となく分かるような気がした。でも、なかには澄ましている子やうまく表現できない子、あまのじゃくな子もいて、ほんとうのところはどうなのか、どの子となら、うまくやっていけるのか、なかなか決められなかった。デフォルメの効いたかわいい目、あるのかないのか小さな鼻、それに引きかえ大きく弧を描いた口。だけど、あの子も、この子も、その子もよく見ると全然違って見えてくる。僕は彼らの前から離れられなかった。

 以心伝心というか、僕とあの子らとの間に流れているもの。高等な有機物どうしが交す言語とは違ったし、かといってテレパシーのような曖昧で空想的なものでもなかった。感じるところの、もともと表現にそぐわない、論理の彼方にある、かけがえのない双方向性。有機的世界の思考・行動様式や制度・慣習に囚われず、感じるままにただ己の内なるものに沿って考え、行動する。外界のモノごとコトどもに惑わされず、自分に向き合って、ただあの子らと向き合って。そう、シンプルに、発するまま、伝わるまま、感じるままに。清らかな、生まれたての、くもりもにごりもない、唯一信じられる関係性。僕が探し求めていたもの、あの子らが待ち望んでいたもの。偶然で必然的、もっと言えば運命的な、この出会い。こうして僕はあの子らと世界を築いていく、ともに生きていく。

 ぬいぐるみやキャラクターグッズが並んだ店先で繰り広げられる、僕とあの子らとの、わくわくするも緊張するやり取り。いまにも動き出しそうな子、表情豊かにアピールする子、あえて素っ気なくしている子、引っ込み思案で後ろの方にいる子。彼ら彼女らの前にいると、それぞれの個性が垣間見られて退屈しない。どの子がうちに来てくれても大歓迎だし、きっとみんなとうまくやってくれるだろう。買われていく、といえば言葉は悪いが、新しい世界でかけがえのない一員として大切に扱われ、幸せに暮らしていく。それがこの子らにとって何よりも大切なこと。でも、行き先によってはぞんざいに扱われたり、最初だけもてはやされてすぐに放って置かれたり、不幸な運命をたどる子も少なくない。それだから、どの子も、自分の前に立っている人の様子を必死にうかがい、見極めようとする。嫌な感じの人なら、どうか目が合いませんように、手に取ってくれないようにと。感じのいい人なら前へ乗り出して気を引こうと躍起になって…。悪いけど、そういうところがまた外せない、かわいらしい、この子たち、なんだけど。

 やっとの思いで、それこそ苦渋の決断、断腸の思いで、多くの子の中から選んだ、この子。レジへ連れていくあいだ、そわそわしたり、少し不安げな表情で見上げて来たり。うまく自分を出せない、自信なさげな感じの子と気が合ってしまう、けっきょく少し引っ込み思案な感じの子を手に取り、抱きかかえていた。レジのお兄さんが「ご自宅用ですか」と聞くので「いや、プレゼントです」と答える。僕自身への贈りものだし、やっぱりきれいにラッピングしてもらいたいし。そうしてかわいく包装された、この子を抱えて、電車に乗って、最寄りの駅に。足早に改札を抜けて、いつもは立ち寄るコンビニに目もくれず、多くがシャッターを閉めた商店街の脇道へ入っていく。十分ほどでみんなの待っている、わが家が見えてくる。二十年以上も経つだろう、ところどころくたびれた感のある外壁に沿って歩いていくと、小さくも明るいエントランスが迎えてくれた。

 やっとたどり着いた自宅の前でほっとしていると、ドアの向こうがなにやら騒がしい、ざわざわそわそわしている感じが漏れ伝わってくる。ドアを開けようとカチッと鍵の音をたてると、すぐに静まりかえった。みんな急いで定位置に戻ったようだった。新しい子が来るのを感じ取って、待ちきれなくて寝室から顔をのぞかせていたみたい。僕は、その子が入った巾着型のかわいい袋を抱えて寝室の前を通り過ぎ、リビングへ向かった。気が急くも、そっとソファーに置いた。この子がうちに来た、その日がバースデーになるわけで、気持ちを込めてみんなと盛大に祝ってあげないと。ピンクのリボンをほどいて巾着袋を開けるとかわいい顔がのぞいた。そっと両手のひらですくい上げるように袋から取り出すと、一瞬キョトンとした表情になるも、僕がいるのを確かめると、安心したように微笑んだ。“ようこそ、わが家へ”。そうつぶやいて、その子を抱きしめた。

 うちの子らに紹介する、恒例の歓迎セレモニーを前に、帰宅後のルーティンを手早くこなし、さっぱりとした気分でメールをチェックしていると、また寝室の方がざわつきはじめた。別にそこへ押し込んでいるわけでも、隠しているつもりもなかったが、とにかく多くの子が部屋から外を窺おうと、もぞもぞごそごそ、また始めたようだった。どんなセレモニーにしようか。これまでのように、それぞれリーダー格にこっちへ来てもらって、新入りさんを祝ってあげてもよかったが、今回はみんなの要望に応えて、いきなり寝室へ連れていくことにした。この子にはちょっと酷かもしれないけれど、大丈夫、みんな優しいから大歓迎してくれるはず。心配そうに僕を見上げる、その子をやさしく抱き上げた。寝室は静まり返っていた、いつもと変わらず、みんな定位置にすました顔で佇んでいた。でもどこか、いつもにもまして部屋全体にやさしい穏やかな空気が流れていた。これ以上、幸せなことはなかった。

 “新しいお友だちのカエルちゃんです。仲良くしてあげてください”。そういうニュアンスをみんなに伝えると、どの子も異口同音に“もちろん! ようこそ”と返して来た。こうして人間の言葉をあの子らのニュアンスに変換したり、逆にあの子らのやり取りを言葉で訳すのも、込み入ったフレーズでないかぎり、いつの間にかしぜんと出来るようになっていた。“かんたんでいいから、あいさつできるかな?”。僕は、パステル調のグリーンがかわいいカエルちゃんを促した。今ではやんちゃなイヌくんも来たときは硬い表情でろくに話せなかったし、何でもテキパキこなすブー子ちゃんもセレモニーのときは顔を真っ赤にしてうつむいていた。それに比べてカエルちゃんは多少緊張しているようだったが、しっかり前を見て“よろしくお願いします”。カエルちゃんがうちの子になった瞬間だった。この調子ならすぐにみんなと打ち解けてうまくやっていけそうだと、安心した。これ以上にない幸せ、僕は至福の時を迎えていた。


 “ちょっとした用事で近くに来ているんだけど、寄ってもいい?”。日曜日の夕方近く、彼女からのメールだった。都心から外れた、こんなところへ他に用があって来るはずもなく、いつものことと、ため息をつきながらメールを返した。彼女は買い物して二十分ほどで来るという。すぐに来られるよりましだったが、迎えるのにそれ相応の準備が必要だった。これまで通り、寝室を開かずの間にしておけば何も問題はなかった。でも、何かのはずみで、不可抗力で、変な成り行きで開ける必要が生じたら、そう、彼女が泊まるとでも言い出したら…。寝室の至る所にいるこの子らをどこへ移せば、隠せばいいのか。この数だから、クローゼットの中を整理しても入り切れないだろうし、そもそも無理に押し込むなんて可哀そうだし。今日も頃合いを見はからって彼女が帰るよう、慎重に波風立てず促さねばならなかった。

 「ちょっと早かったけど」。彼女は入って来るなり、そういってスーパーの袋を狭い流し台の上に置いた。「何がいいか迷ったんだけど、鶏の香味焼きとスモークサーモン、好きでしょ?」。わざわざ自宅まで来て料理を作ってくれるのだから不満げな素振りを見せるわけにはいかない。でも、気づいているかどうか、引きつり気味の笑顔は隠しようがなかった。彼女がキッチンで甲斐甲斐しくやってくれているあいだ、こっちはただ手持ち無沙汰で、自宅にいながら身の置き所がないというか、何をするにも落ち着かなくて、胃の腑から変なものが上ってくる始末だった。彼女は一時間そこそこで、鶏のグリルとグリーンサラダを添えたサーモンのマリネ、それにサツマイモのレモン煮、スープを手際よくこしらえた。「えっと、確か白ワイン、まだあったでしょ」と言って冷蔵庫をのぞき込むので、僕は腰を浮かせて彼女の方へ向き直った。「あったかなぁ。あるとすれば上段の奥の方」。意味なく不安げな声になっていた。

 彼女の作る料理はたしかにおいしかったし、見た目も映えて栄養的にもバランスが取れているように思えた。「白ワイン、ちょうどよかったね。この前のまま、あると思ってた」。彼女はうれしそうにグラスに口をつけた。「うん、このマスタード風味の鶏によく合っている。よく冷えているし」。僕はそつなく話を合わせて視線を皿へ戻した。「スモークサーモンって、ずっと前から好きだったの?」。すぐには言っている意味がわからず、怪訝な表情を浮かべると、彼女は続けて「いや、何が食べたいって聞くと、いつも挙げるので」。何か奥歯にものが挟まったような言い方をした。どんな答えを期待しているのか、意図がもうひとつはっきりしないので慎重にならざるを得なかった。「いつからだろ、もともと塩辛いのが好きだし…」。答えになっていないのはわかっていたが、実際記憶をたどっても答えを導き出せそうになかった。

 彼女はいつものように食後のデザートを用意していた。「こんどは早めに来て、何か作ろうかな、プリンとか?」。そう言って、レアチーズケーキにそっとフォークを入れた。そのあと、彼女にとってそれは自然な流れなのか。「今日は泊まって行こうかな。なんだか眠くなってきたし」。来たときから何となく嫌な予感がしていた。きっとバッグの中にお泊りセットをしのばせているのだろう。前にも同じようなことがあったので、表面的には動揺を隠せたが、やはり気持ちに余裕はなかった。今夜はどういう理由で帰ってもらおうか。出来るだけ自然なかたちで不愉快な思いをさせずに帰ってもらうには…。レアチーズを前に、彼女が返してくるだろう言葉を想定しながら頭の中で問答を繰り返した。取りあえず、聞かなかったふりをして返事をせずにそのまま放置することに。「何かビデオ観る? まだあと一、二時間は大丈夫でしょ」。彼女も同じように反応せず、ただレアチーズに向かっていた。

 そうそう長くレアチーズにかかわっているわけにもいかず、どちらともなくスマホを触り出した。こういうときに間をもたせる、頼りになるツールに違いなかったが、ただ無駄に時間が過ぎていくのに焦りを感じていた。もう九時をまわっていた。「あした、朝のミーティングあるんじゃないの。そろそろ送るよ」。彼女はソファーに深く身を沈めてスマホに目を落としたまま動こうとしなかった。「クルマ、エントランスの前まで回してくるよ」と言って腰を浮かせようとすると、「あした、休むから。(会社から)戻って来るまでここで待っていようかな」。やんわりとした口調ながら、どこか脅迫めいた響きがして恐怖すら感じた。今日は腹を決めて来ているようで、一歩も引き下がらない、何があっても、という覚悟が静かにスマホへ向かう姿から感じ取れた。今夜はどうも小手先の対応では無理のようだ。

 ケンカする覚悟があるのなら有無を言わさず追い立てて帰すこともできたが、そんな気力もエネルギーも残っていなかった。冷静にこのあとのこと、善後策を考える必要があった。寝室をどうするか、それに尽きた。彼女が風呂に入っているうちに何とかしなければならない。あの子らをどこに隠すか、可哀そうだけどクローゼットに押し込むしかないのか。必死に考えをめぐらしながらも彼女への対応を怠るわけにはいかなかった。「それじゃ、お風呂のお湯、張ってくる」。そう言って立ち上がると、パッと明るい表情になって「シャワーでいいよ、そんなに寒くないし」。こっちはそれじゃ時間的に困るわけで、ここは「もし風邪でも引いたら。身体、温めないと」と気遣うような素振りを見せた。「わかった。準備しなきゃ」。彼女はそう言葉を弾ませてソファーの横に置いていたバッグを手元へ引き寄せた。「先に入って。タオルとか出しておくから」。彼女は恥ずかしげな表情を浮かべてうなずいた。

 「ゆっくり浸かって」。彼女を浴室へ送り出し、身体を流す音を確認するも同時に寝室へ駆け込んだ。せいぜい二、三十分ほど、カラスの行水なら十五分以下もあり得た。いずれにせよ、そのあいだに首尾よく整えなければならない。あの子らひとり一人を抱き上げて声をかけるひまはなかった。念仏のように“ごめんね、ごめんね”と何度もつぶやいて三、四体まとめてクローゼットのすき間へ押し込んだ。でも、どう転んでもよちよち歩きの赤ちゃんより大きいクマくんは隠し切れない。この子だけはちょっとしたオブジェ感覚で観てもらうほかない、それならばこの子だって…。もうひとり、ウルトラ怪獣のブースカに似ている、大きめのキリンくんもどう考えたってクローゼットに入りそうにない。隅にひっそりと目立たないように、そう忘年パーティーのビンゴゲームで当たったとか、仕方なく置いているふうにしておけば…。“クマくん、ブースカ、ごめんね”。それにしても四十前の独身男の寝室に大きなぬいぐるみが二体、やはり不自然だし、普通の彼女なら付き合うのを考え直してもおかしくない。でも、もうここに至れば出たとこ勝負、彼女が寝室に入った瞬間どう反応するか。ジタバタしても仕方がない、そう割り切るしかなかった。

 「お先に。いいお湯でございました」。彼女は頭にタオルを巻いたまま浴室から出て来た。リビングに置いていたバッグからローションなのか何やら取り出して、また洗面の方へ戻っていった。“ございました”が出るところをみると、かなり機嫌がいいようで、このあとテンション高めの彼女の取り扱いに苦労しそうだった。髪を乾かし、肌を整えるのに少なくとも十分ぐらいはかかるだろう。ドライヤーの音がもれる洗面室の前をそっと通り過ぎ、寝室のドアを開けた。意識しているからか、いや意識していなくてもやはりクマくんとブースカのかわいい姿が目に入ってくる。隠そうとしている感じが逆によくないのかもしれない。もっと自然に無造作に、いっそうのことベッドに寝かせてふとんを被せて…。性懲りもなく、また妄想の域に入りかけていた。けっきょくどうしようもなく、かれらと同様、ただ佇むばかりだった。

 「あっ、そこにいたの。ホント気持ちよかった」。彼女は少し大きめのスウェットに着替えてこちらを見ていた。僕はすばやく寝室のドアを閉めてその場から離れようとした。こちらへ来られたら、秘密の部屋を見られたら、一大事とばかりに。「ビール? ソフトドリンク? どちらでも」。洗面室の前で彼女と合流し、何ごともなかったようにキッチンを経由してリビングへ戻った。「缶のままでいいよ。そのままぐいっといくから」。ビール片手にご満悦の、女子力よりも男前気風の彼女をぼんやりと眺めやりながら、どんどん諦めの境地へ入っていく。「何かビデオ観る? 日本の恋愛ものも録ってあるけど」。もう休みモードに入っているのか、観る気満々、こっちがあした仕事であるのもお構いなしに完全にくつろいでいた。そのときだった。妙案というか、閃きというには程度の低い、でも僕にとっては起死回生のアイデアがすっと頭に浮かんできた。

 「ビール、もう一本持って来ようか」。程よく酔いがまわってウトウトと、ソファーでそのまま眠り込んで、気がつけばカーテンのすき間から朝の光が…。自然なかたちで寝室をパスできる、変に意識されずに問題を解決できる、唯一の方法? もしかしてそういう展開が可能かもしれない。十年ほど前にけっこう流行った恋愛映画に入り込んでいる彼女を横目に、僕はリラックスムードを高めるのに腐心した。

「ウイスキーのソーダ割り、できるけど」。彼女は一瞬画面から目を離し、ニヤッとした表情で「ハイボール? のむ、のむ」。どうしようもない、避けて通れないある理由で彼と引き裂かれる女の子の心情に自分を重ね合わせてもいいはずが、男前を超えてどこかのおっさんのような彼女の反応に閉口した。そのあとも、僕は甲斐甲斐しく要所要所でポテトチップスやチョコレートなどを供給し、少しでもお腹が満たされ眠気を誘うよう懸命にもてなした。「あっ、ごめん。いま、ちょっと寝てた」。彼女はそう言って身体をソファーから起こした。この調子だとうまくいくかもしれない…。

 「巻き戻そうか。どの辺りまで?」。彼女はチョコレートの個包装を外しながら真剣な表情で画面を見つめ「そう、その辺り。ストップ!」と少し声を張って僕を制した。すでに午前零時を過ぎていた。ここで息を吹き返されては元も子もない。濃い目のハイボールを作ろうとグラスに手をかけ腰を上げると「どこへ行くの? いいとこなのに。もうお酒いらないから」。目が冴えてきたようで、ラブストーリーの結末をいっしょに、ということらしい。当初、楽観視していた状況も雲行きがあやしくなり、先が見通せなくなってきた。僕は、予断を許さぬ今後の展開に頭をめぐらせながらも、黙って彼女のそばにいるほかなかった。画面では、彼女を失った彼のモノローグが続いていた。となりで彼女が嗚咽を抑えようと身体を硬くさせているのがわかった。

 「もうこんな時間? あした仕事でしょ…」。たしかに他人事には違いないだろうけど、いま気づいたように“大丈夫?”のニュアンスを漂わせて来るものだから、さすがに“あんたはあした、休むつもりだろうけど、こっちは…”と、つい口を衝いで出そうになった。「いつも寝るの、だいたい(午前)一時ごろになるし」。僕は、遅くなったことも、彼女の罪なきジコチュウのところも、気にしていないというふうにいつものトーンで返した。「どこで寝たらいいの? 別にこのソファーでもいいけど」。“ほんとうはそうしてくれれば当初の目論見通りになるんだけど…”。そう心の中でつぶやいたあと「そういうわけにもいかないでしょ」。そう言うと、彼女は少し恥ずかしそうにうなずいた。もうここは開き直るしかないのだろう。「さあ、歯みがきして寝よう」。彼女はソファーからはねるように起き上がった。

 こちらが思っていたほど深刻でなく、開けてみれば大したことない、あっちはほとんど気に止めていない、そんな杞憂に終わってくれれば…。「ベッド狭いし、僕が下で寝るよ」。そう言って、めったに使わない予備のふとんを取りにいこうとすると「わたし、寝相いい方だし、大丈夫。いっしょがいい」。一転して女子力を発揮し、少し甘えた声を出してくるも、今夜は寝るだけだからと意識して素っ気ない対応に終始した。けっきょく二人してベッドに寝ることになったが、この分だと朝方までウトウトする程度で、ほぼ間違いなく寝不足になるだろう。彼女は横になると、すぐに寝息を立て始めた。この分だと隅に佇んでいる、二体のぬいぐるみに気づいていないかもしれない。目の端に入ったかもしれないが、意識に上ることなく睡魔が襲ってきた、そんな感じに見えた。問題は翌朝、素面の彼女が開口一番、何て言って来るか、どんな態度を見せるか。もうここに及んでぐだぐだと考えても仕方なかったが、心配の種は尽きなかった。

 「そろそろ起きないと。会社遅れるよ」。なかなか寝付けなかった分、朝方に眠り込んでいたようで、一瞬なぜ彼女がここにいるのか、理解するのにしばらくかかった。アルコール分解能力が格段に高いのだろう、あれだけ飲んでも翌朝はケロッとしていて、いつにもましてクールに立ち振る舞っていた。彼女はベーコンエッグにサラダ、ロールパンをテーブルに用意してくれていた。“決めるところは、さすが。さらりと女子力を見せ付けてくる”と感心していると「早く食べよ。ここからだとわたし、あと二十分くらいで出ないといけないから」。“会社休むつもりじゃなかったの?”と言いかけたが、別に蒸し返す必要はなかったので支度もそこそこに黙ってテーブルについた。「いただきます」。昨夜の心配事もどうにか杞憂に終わりそうで、気分が持ち直しつつあった。

 彼女は黙ったまま下を向いてサラダを口へ運んでいた。「ぬいぐるみって、好きだったっけ」。気を抜いていたところに突然直球を投げ込まれて“一体全体なんのこと?”というような顔をしていたのだろう。「寝室の隅に立っているぬいぐるみ。何かでもらったの?」。“そんなものあったかな?”ととぼけているように見えたのか。「プレゼント? 若い女の子にもらったとか」。サラダを食べ終った彼女は顔を上げずに低いトーンで言ったあと、ベーコンエッグの卵にぐさりと箸を入れた。ここでドギマギしてシドロモドロになってしまったら、このあと取り返しのつかないことなる、そう思った。どろりと黄身がたれ出るのを見ながら非力にも懸命に平静を装って「ああ、あれね。何年か前の忘年パーティーのビンゴで当たって。捨てるわけにもいかないし。置き場に困って」。何も後ろめたいところはないのに、どこか言い訳がましく聞こえたのかもしれない。「二体ともそのときに当たったの? あんな大きなもの」。“尋問”にこれ以上答えると、ろくなことになりかねなかった。「えぇっと、どうだったかな」。僕はロールパンを口に突っ込んだ。


 たいていのスタッフが終電間際まで残っているのに、六時すぎに会社を離れるにはけっこうな勇気が要った。チームを統括するアートディレクターには適当にやんごとなき理由を告げて振り払うように事務所を出た。これに限らず、調べ物があると言って図書館で時間をつぶしたり、それこそ仲のいい取材対象者とぐるになって早々に直帰したりと、仕事をサボる、別の言い方をするなら無駄に労働力を使わない、そういう術に長けていた。能力のあるコピーライターなら時間をかければかけるほど、泉のようにアイデアが潤沢に溢れ出てくるのだろうけど、プレゼンに連戦連敗の、ろくに韻も踏めない三流のわが身としては“さあ、ここからだ。粘れ!”と言われたところで、枯渇した感性に鞭打っても所詮出て来るアイデアはしれていた。というわけで、こうして事務所を抜け出し、嬉々としてかわいい子らのいるところ、癒しのファンシーショップへ足を運んだ。

 今夜は、少し足を延ばして小規模店を何軒かまわるつもりでいた。掘り出しものの、かわいい子がいるかもしれない。最近はめったに見かけない、何とかザウルスみたいな尻尾の長い恐竜くんとか、そういえば小さいころによく見かけた、頭の部分が妙にかわいい大きなカメくんとか。若干ホコリを被り気味にこちらを見ている姿を想像するだけで居たたまれなくなり、一刻も早くそこから救い出してあげたい、そんな気分になった。でも、そうそう感傷に浸ってはいられない。大型店のように九時ごろまでやっていればいいが、個人経営のおもちゃ屋さんの閉店時間は早い、急がねばならなかった。大きな商店街を足早に抜けて地下鉄の駅へ通じる階段を降りようとしていた。すると後ろから「ご無沙汰しております」。デニムにスニーカー、トップスもアースカラーの地味な出で立ち。見覚えのない女性に声をかけられて笑顔で返せるほど愛想よくなかったし、世間への警戒心はかなり高い方だった。女性は少し焦り気味に「事務所で何度かお会いした、代理店の…」と続けた。大きな打合せテーブルの隅でポツンと一人すわっていた、あの女の子だった。

 「あぁ、あのときの。ほんと久しぶりだね。元気にしてましたか」。すらすらと言葉が出てくるのが不思議だった。仕事でも、ろくに話した記憶はなかったがあのときに感じた、懐かしい不思議な感覚がよみがえり、めずらしく笑顔で応じていた。「もう一年以上になりますか。きょうは買い物か何かで」。階段の狭い踊り場で彼女と向き合っていた。「えぇ、ぶらりと…」。彼女は声をかけたことを少し後悔しているように言葉をにごし始めた。こちらもべらべら喋らず、いつものように無愛想に対応すればよかったと同じように後悔した。図らずも気まずい間が空いてしまった。それをいいことに“じゃあ”とか“それでは”とか言って、そのまま別れていればよかった。「もし、時間があれば…」と言いかけてあとが続かなかった。いつものぎこちない感じに戻って焦っていると、彼女はやさしい笑みを浮かべてうなずいた。

 商店街の方へ引き返し、昼食でたまに利用する喫茶店へ向かった。その店は本筋からけっこう奥へ入った路地にあった。昔ながらの純喫茶で隠れ家的な感じが気に入っていた。客は一人もいなかった。この時間に来るのは初めてだった。いつもいる、初老のマスターでなく、アルバイトなのか若い男の子がカウンターの中にいた。彼女も同じようにブレンドコーヒーをたのんだ。「あれから会社を辞めて、いま失業中なんです」。何も聞いていないのに彼女の方から言ってきた。照れ隠しのようでも、もちろん自虐的な笑いを取ろうとしているのでもなく、あくまで自然に、さわやかな感じが印象的だった。「それはよかった。いつまでもいるところじゃないし」。僕は言葉を選ばず、ストレートに返した。さらに続けて「代理店にしろ、制作会社にしろ、長く居れば居るほど…」と言いかけて、それ以上は悪態になりかねないと自制を効かせた。

 彼女はあのときに比べて明るく見えた。仕事でなくプライベートなのだからという以上に、醸し出すイメージが際立っているというか、別人に見えるほどだった。こうして向き合っていると、女の子というには落ち着き感があって実際の年齢も失礼ながら思っていたよりいっている感じがした。逆にそれが僕にはしっくり来るというか、僕と彼女とのあいだに流れ出した、動きはじめた、その些細な関係性を大切にしなければ、と思わせるものがあった。だからと言ってこのあと、すべてがスムーズにいくわけもなく、めずらしく、その場の勢いで、しかも僕にしては自然なかたちで誘ったのはよかったが、やはりうまく続きはしなかった。彼女はテーブルに目を落としてがちになった。必死で言葉をさがすも、気の効いた、しかも無難なフレーズが思い浮かばず、脇の辺りに嫌な汗がにじみ出てくるのがわかった。悪化していく情況からの逃避というか、僕の悪い癖で意識が別の方へ流れていくのを感じていた。

 「ほんとうによかったのですか。どこかへ行く予定だったのでは…」。彼女は申し訳なさそうな表情を見せてコーヒーカップをソーサーの上にそっと置いた。僕はちょうどそのとき、いつものように意識の多くの部分をほかへ持っていかれていた。ほんとうならいまごろ、例の“ぬいぐるみの園”にいるのだろう、から始まって、こんなところにあんなかわいい子がいるなんて、と感心したり、波長の合う子と出会って話し込んでいるのでは、とか、さらにはその子が家に来てみんなと仲よくしている姿を想像したり…。もうここまで来ると、ほとんど病的な妄想に違いなかった。そんな感じだから夢遊病者のように“ええ、楽しいところへ行く予定でした”とか“いま、かわいい子らと一緒です”など、意味不明なうわ言をつぶやいてもおかしくない状況だった。だから、内面から離れて現象面でうまく適応できるはずもなく、ただ彼女を前にして不自然な、見っともない素振りを見せるほかなかった。

 いわゆる意識が飛んでいたのだから、その過程で何が起こっていても、思わず何かを口走ってしまっていても、やっと我に返ったと自覚しても、後でどうすることもできず、変にフォローしたところで内側に自己嫌悪が広がっていくだけだった。だからと言って、彼女を放置したままにしておくわけにもいかず、遅ればせながらも懸命に言葉を探した。「いやほんとうに、ぜんぜん大丈夫なので…」。こっちはそのつもりでも、言葉を重ねれば重ねるほど、ぎこちなさ、不自然さが極まっていき、彼女をさらに戸惑わせるだけだった。めずらしく出だしは上々だったが、後はぼろぼろ。いい関係性が築けるどころか、後味の悪いものが残るばかりだった。「きょうはお引き止めしてほんとうに申し訳なくて」。彼女は喫茶店を出るなりそう言った。僕は居たたまれなくなって「こちらこそ、ごめんなさい。これだけは…」と、最後のつもりで必死に言葉をつなごうとした。

 それでもなかなか言葉に出来なくて焦っていると、彼女は頭を下げて駅の方へ向かおうとした。僕は引き止めるべく懸命に言葉を絞り出した。「これだけは伝えたくて…」。不細工にもほとんど半べそ状態の体たらくだったが、彼女は動きを止めて、同じように少し目を赤くしてこちらへ向き直ってくれた。互いに視線を外し、下を向いたまま、時間だけが過ぎていく。複雑な、込み入ったことを言おうとしているのでも、意に沿わないことを無理やり言わされているわけでもないのに、どうして口を衝いて出ないのだろう。言いたいことを素直に表現すればいいだけで、頭を、脳髄を通さずに心地よい刺激をそのままに感覚で受け止めて表現すればいいだけなのに。そう、一番信頼できる、ストレートで美しい内的プロセスにのっとって。誰がつくったのか、論理やら慣習を打ち捨てて、ただ自分と向き合って。真理を、誠を言葉に乗せて、しっかり彼女に向き直って…。

 僕は彼女を駅まで送った。道すがらひと言も話さなかったが、少し離れて並んで歩く彼女を意識するのが心地よかった、何かが浄化されていくようだった。「もしよければ…」。僕は改札口の前で彼女を呼び止めた。僕と彼女は券売機の前まで戻ってスマホを向け合い、アドレスを交換した。ほのかな石けんの香りがした。彼女は急ぎ足で改札を抜けて行った。ホームへ向かう、その後ろ姿を追っていた。彼女が立ち止まり振り返ったときのために、いやそんな現象的なことのためだけでなく、僕はその場にいた。身体の真中辺りに何かがゆっくりと流れ出すのが感じられた。意識も感情も、いつもと違う動きをして、内側から外にいる僕に何かを示唆しているような感じだった。目に映る光景も、薄暗い蛍光灯に照らされた改札口の、既視感を超えた、ある兆候を示しているような、それでいてたんに気分がいいだけでなく、すっと前が開けていくような…。プラットホームの彼女はこちらを向いていた。僕は軽く手を上げて微笑んだ。


 たしかに、趣味の領域には違いなかった。でも、目先を変えるだけとか、気分転換という次元ではなく、かといってメーンストリームの、中核を成す、何かの芯になるようなものかと言えば、そうでもなかった。心と身体のあいだをふらふらと、媒介物よろしく無責任に漂い、影響し合う、無益でも少しばかり効果的な、そんなものかもしれなかった。ある一定の水準のもとに、そうなのだろうと考えて、相槌を打って責められたところで、それはそれで仕方のないことだった。あまりに偏執的な、常軌を逸した、一般では考えられない、たとえそんな秀逸なことであっても、かんたんに受け入れられそうになかった。その一方で、見紛うことなくその場に、この空間に存在していたし、物体として客観的にそこにいた。でも、けっきょくは本質を見逃していたし、そもそも本来の姿を見ようとしなかった。“did not exist”。だからこそ、この内側にリアルに存在していたし、それはかけがえのないのものだった。

 僕が求め、欲していたもの。何かに投影されるのでも、犠牲を強いられるのでも、果ては一体化して満足するのでもなく、ただ。外側で展開するモノども。捉えようと手元に引き寄せるのでも、勢力圏内で漫然と自由に泳がすのでも、いい間柄になろうとあくせくするのでもなく、ただ。流れる意識にたゆたって。やたらとほうぼうに拡散していくのでも、ぐるぐると止まらずに円環的というのでも、だからと言って内側で何ごともなかったように潜んでいるのでもなく、ただ。カタチになるを拒んで。蒸気が収斂(れん)して顕わになるのでも、ここぞとばかりに流れに掉さすのでも、固まり劣化していくのを放っておくのでもなく、ただ。関係性の現れに。あいだに横たわるコトどもを掴もうとするのでも、互いに囁き合うモノどもに魅かれるのでも、ましてやのっぺらぼうに名前を付けようとするのでもなく、ただ。

 間(ま)を置くというも、もとから近接しているわけでなく、コトを複雑にするだけで。取り結ぼうとするも、なかなか手に届かず、意識の介在もあって。どこかでとどまるも、待ってあげられず、向かい合うだけで。むやみにけん制し合うも、けっきょく距離を測れず、猶予を生かすことも。生き永らえるも、生理に耳を澄まして、ただ維持を寿いで。安穏としていられるも、わき目も振らず、己から目を背けて。ふらつき流動するも、止(とど)まるを知らず、用意された的を外して。知らぬ間に近づくも、元の位置を顧みて、跳ね返す磁石のごとくに。一時的に延長を阻んでも、合一も一体も理屈だけで、接することすら叶わずに。意識して時を刻むも、物理的な距離感だけで、エターナルに程遠く。この身を差し出すも、魂は収まらず、高く見下ろすだけで。意思に頼ろうとするも、嘔吐するばかりで、確かなものを排して。感覚がずれ行くも、押しとどめるすべもなく、界(さかい)をさまようだけで。

 背反するも二律と限らず、やたら滅多らに振り回してみても、当たる道理は露ほどもなく、ただ周りを固められるだけだった。矛盾を端緒にするも、否定を生かし切れず、堂々めぐりするばかりで、進展どころか後退を余儀なくされた。精神を安定させるはずの、弁証法も当てにならず、それこそ希望を見出せず、論理のあやに弄ばれるのが落ちだった。程よく漸進が見込めると思えばこそ平衡を保てるも、少なくとも兆しとか示唆するものがなければ、維持どころか消滅へ向かうのは目に見えていた。両者を対面させて矛盾を引き出そうにも、ましてや強引に差異やら相反、不整合をあげつらってみたところで、また元に戻るか、たんにぐるぐる回っているだけだった。さては矛盾的自己同一にたよるほかなく、論理なり形式なり外延なり、見た目ほどに信頼できないコトどもをのさばらせないようにするのがせいぜいだった。

 手持ち無沙汰に凡庸と、ただ並行させて、リリースを繰り返すだけなら。ノマドのように当て所なく、たんに移動するに思いを馳せ、相乗し累乗していくのなら。目に見えて増えるとか、何かを生み落とすとか、しっかり足跡を残すとか、そういうのでないのなら。うつされる、にじませる、しみ込ませる、ずらされる、というのなら。たとえば、内側に夥しい数の襞が群生していて、養分を吸収したり、毒を吐き出したりするのなら。意識の外の、生理にまかせた、オートマティックな推移にほだされ、エナジーを授けられるのなら。やっとの思いで蓄積した、何かの証になるような痕跡を、グロテスクなカタチに置き換えるのなら。流麗を害するような、醜いモノどもを一掃して、清らかに解き放たれるのなら。

 それは非連続の連続。一つひとつ区切られているのでも、鎖のように繋がっているのでもなくて、無機質が有機質、有機質が無機質に相互転換していくような感じ。連なっている、重なり合っている、それが断絶とともに、という矛盾的自己同一に信頼を寄せて。何もかもがごちゃ混ぜに見えて内実は整合している、カタチなきものであっても忍び込んでくる、つぶやきかけてくる、相同のモノたち。すっと延びていくからと言って、道が敷かれ、橋がかけられるとは限らず、申し訳程度の細い線で我慢を強いられても。遠近法や騙し絵に安んじて、けっきょく拡がりを拒み、囲われた愉悦の中で、エターナルを求めようにも。断絶を繰り返し、点から線へ希望を抱くも、錯覚か幻影でしかなく、面へ至ることの不遜に気づいて。時間に囚われず、空間をものともせず、ただ自己と向き合えば、それで。

 顧みて先に臨むも動ぜずに、行きつ戻りつ経るも移るも、還流のごとく、ただ基点になりさえすれば。過去も未来も現れに敵わず、分身に成りきれず、影にも成れずに、次元をもてあそぶならば。現存在のふらつきが、時空間を現出させ、脱中心として、無際限に。次元を超えて、異次元へ向かって、颯爽とトランスポートするも、力不足を露呈して。カタチを整えようにも、端から実体へ移りそうになく、給するも益するも、期待されずに。放射線状に拡散する、無数の個から、中心を隠すつもりも、壊してしまうこともなく。有無を言わさず、超絶のほとりに立つだけに、軽やかに飛翔するも、高さに怯えて。不規則なリズムに乗じても、心身を引き剥がせず、合一に打ちひしがれて。切なく全体に包まれて、ランダムに揺らしても、不適な微笑みを返されるばかりで。

 たとえ、AがAでなくなっても、A´になるわけでも、非Aであるはずも、一足飛びにBに変わることもなく、ただ耐えるしかない、というのなら。答えを出そうにも、前提からして、拒むばかりで、問いらしきものも見当たらず。イコールの呪縛に耐え切れず、はみ出したり、ずらしてみたり、引きずり下ろしたとしても。自同律の不快を覚えたところで、ただ幻想を抱くほかなく、抜け出すなんてこと、露ほどに考えることもなく。そろりと足を踏み出すも、ぬかるみにとらわれて、行けるところまでと、割り切ってみても。仮に乖離してみたところで、磁場に引き寄せられるように、収斂していくだけで、気まずく背けて。だからと言って、重なり合って、浸透していき、見分けがつかなくなる、というのでもなく。延々と分身が連なり、仮称を超えても、実質は一番手前の、身近な対象と気づかぬはずはなく。飛翔の跡も残さずに、変異していくモノたちへ、共感を抱きたくても、心身が追いつかず。

 自律を嫌悪し、関係性を求めるも、救われることなく、ただ悪循環に陥るだけで。絶対をあきらめて、相対の中でたゆたうも、気が散るばかりで、この身を残して。時間に乗れず、空間に沿わずとも、漂い存(ながら)えるのなら、抜け殻をかき集めても。異なるも別もなく、次元にたよらず、不遜にも超越を意識して、ただ行き交うだけなら。ベクトルを定めずに、発出するもの、現れ出るもの、散逸するものに、信頼を寄せようにも。距離を生かせず、自己へ舞い戻っても、用意された場所に、立ち寄るつもりはなく。あいだを置くも、向き合わず、背中も見せずに、ただ未成熟な触角を恨んで。この先のプロセスに、支障が出ても、受け入れる度量もなく、じわじわと侵蝕されて。矛盾的自己同一を求めても、両義性に浮遊するばかりで、絶対にたどり着くことも、なく。

 流れの中に暫定を、一定の前に見つけたとしても、凝固へ行き着けず、漫然と見過ごすしかなくて。スペースを空けようにも、ひとところに止まらず、瞬間すら危うくし、手を差し出すのもためらわれて。分枝していく流れを厭わず、ベクトルを示そうにも、エターナルに惑わされ、けっきょく滞留を余儀なくされて。片隅を占めるのすら憚(はばか)られ、押しつぶされようと待ち受けるも、ただ存在を許されるだけで。非連続の連続が感じられるのなら、時空間の中で為すべきことも、おのずと明らかになって来るだろうに。不可知とか不可抗力とか、未定形で粘着質の不備だからと言って、闇からそっと顔を出してくるような、お遊びに興じるわけにはいかなくて。水平から垂直に、そのまた逆の繰り返し、信頼を得るための、社会的要請であったのに、嘔吐するのがせいぜいで。

 たとえ内側が空隙であっても、詰めもので充たされていても、表層に影響を与えるほどでなく、偏在するふくらみに、気づかぬふりをして。いくら呼びかけてみたところで、振り返りも肯きもせず、ただそこに居るだけで、エターナルに寄り添って。重力に操られながら、同じように存在するも、心身の枠に囚われず、愛らしく高貴に媒介するものとして。有機質と無機質のあいだを取り持って、生と死を行き来しつつ、瞬間をも永遠をも、ものともせずに。外敵に脅かされて、柔らかい生地に変化が生ずるも、年輪のごとく頼もしく、ただすべてを抱きしめて。現象として動かず、音も立てずに、寄り添うだけに、内心へ響く、かの声に癒されて。気のせいなのは、わかっていても、振り返りざまに微妙なニュアンス、あいだを埋めてくれて。この内側のどこかに、いるのを感じて、やり過ごす快癒を、すべての糧に。


 疎かになった理由をとりとめもなく反芻していると、見覚えのある道へ出た。目標とする場所に近づきつつあるに違いなかったが、視界へ入ってくる光景がどれも弛緩して波打つ感じがした。こんなはずじゃないと、意識を切り替えようにも、頭の中が もうろうと揺れはじめ、ままならなかった。久方ぶりのプレジャーも色褪せるほどに後退していき、引き返そうかと思うほどだった。もうすぐあの子らに会えるというのに、どうしてこうも気分が上らないのだろう。これまで一度としてこんなことはなかったのに。何かの前触れなのか、そろそろ関係性を見直す時期に来ているのか。

 その店は郊外の、程よく寂れた商店街の中にあった。いつ閉じてもおかしくない店構えというか、不気味な感じすらして僕でさえ入るのをためらわせるほどだった。薄暗い店内に人影はなく、上の方の棚にいる子らはホコリをかぶって不機嫌そうに見えた。時間にも空間にも取り残されて、どこにも占める場所がない子らが集まっている、そんな印象を受けた。久々の客に気づいたのか、奥から若い男が出てきた。初老の店主を想像していたので一瞬身構えたが、いたって普通な感じの男に、固まりかけた身体がすぐに弛んでいった。店内には、お目当てのぬいぐるみのほか、色使いのえぐい、質の悪そうなプラスチック製のフィギュアや、よく見ると所々へこんだブリキのおもちゃなどが雑然と並べられていた。

 こういう店に入るといつもそうなのだが、ファーストコンタクトで何となく“ああ、この子だ”という直感がはたらく。関係性を結ぶ前の、こうした感覚が醍醐味というか、たんなるワクワク感に収まり切れない、純化の兆し、大仰に言えば“至高なものに触る瞬間”と言えなくもなかった。それはモノとヒト、無機物と有機物とのあいだでやり取りされるようなものでなく、それぞれの外殻の内側で流動するものどうしの、何ものにも囚われない直接的な交わり、相互浸透、相思相愛と言えば擬人化に過ぎるだろうか。この世の論理では、社会的慣習の中では普通には感じられない、触れることのできない、両者から醸し出される、あいだを流れる、清らかな情動というか、心地よく響き合うもの。媒介性であり、関係性であり、互いの基底性でもあるような、浮動し彷徨するモノどもとコトども、そしてボク…。そうとしか言いようがなかった。

 「これ、お願いします」。僕は、小さなクマのぬいぐるみをカウンターの上に置いた。近くで見るとそう若くもない男が無言で、白い、少しツヤのある紙をカウンターいっぱいに広げ、クマちゃんを包みはじめた。最近ではあまり見かけない、昔っぽい包み方に僕は釘付けになった。彼は、手馴れた感じでプレゼント包装に仕立てていく。「ピンクとブルー、どちらのリボンに」。少し探るような、それでいて穏やかな表情で尋ねてきた。「ピンクで」。僕は間を置かず、はっきりした口調で答えた。彼は、ラッピングの仕上げとばかりに指先にぎゅっと力を入れてリボンを結び、手際よくハサミを入れて完成させた。“お待たせしました”の言葉もなく、少し寂しそうな表情でクマちゃんが入った紙包みを差し出した。そのかわりに「大事にしてあげてください」。うれしそうに手を出す僕の姿を見て彼はそう言った。僕は不意を衝かれて驚く一方、何だかうれしくなり、即座に「はい、大切にします」と応えた。まわりのぬいぐるみたちも優しい眼差しで僕とクマちゃんを見送ってくれた。

 僕は、クマちゃんが入った紙包みをしっかり両腕に抱きかかえて商店街を進んでいった。アーケードが途切れるところで引き返すつもりだった。ぼんやりとしていたのか、いつものように心身の乖離が始まっていたのか、知らぬ間にT字路に差しかかっていた。片側一車線の、旧道っぽい、それほど幅が広くない道路にクルマが行きかっている。僕はしばらくの間、その場に立ち尽くし、ここへ来る前の、あの嫌悪や倦怠がすっと抜けていくのを感じていた。意識とともに立ち昇る思考を停止させ、自然とわき上がる感覚を優先させる時だった。すると、身体が左へと傾き、側道に沿って動き出した。歩きながら僕はクマちゃんのことを考えた。包みの中の居心地はどう? 家にいるみんなと早く会いたい? 寄り道しても大丈夫? 僕はリボンのかかった包装紙の上にそっと手をやった。

 ところどころ剥がれた白線の内側をたどっていく。微妙に外側へ傾斜するアスファルト舗装の劣化を感じながら、身体が傾くのを修正しバランスを取ろうと努めた。身体のぶれがクマちゃんに伝わらないよう、両腕に力を入れた。方角で言えば西へ向かっているようで、日が正面で傾き始めていた。目に入って来るものはどれも輪郭が定かでなく、ぼんやりとしていて、ゆっくりと過ぎていく。移動しているのか、まわりが動いているのか、どんよりとした景色が移ろいでいくだけで、どこに基点があり、これからどんなふうに延長し、展開していくのか、さっぱり見当がつかない情況だった。足をバタつかせているだけで空回りしている、動く歩道に乗って歩かずに追い抜かれていく、映写機の回転に合わせて身体が動いている、そんな感じ。ただ、クマちゃんの息づかいだけは感じていた。

 目に映る変化に気を取られていると、いつからなのか、どういうわけか真横にバスが停まっていた。バス停の標識のそばにいたわけでも、手を上げてバスに合図を送ってもないのに、どうして? 乗降扉を大きく開けて、僕とクマちゃんを車内へ誘う。どこへ連れて行こうというのか。乗り口を前に戸惑っていると、身体がすっと持っていかれるような感覚におそわれた。知らぬ間にステップへ足をかけていた。車内に人の気配はなかった。運転手はいるのだろうが、座席との仕切り板に隠れて見えなかった。バスは僕とクマちゃんを乗せて静かに動き出した。すぐに整理券を取っていないことに気づき、席から腰を浮かせたが、発券機が見当たらない。あらためて車内を見渡すと、行き先を表示するものや運賃表もなく、もしや乗合バスではないのでは、と不安になった。

 そのバスは、都心で見かける大型のものではなく、交通量の少ない郊外を走る、マイクロバスのような感じだった。僕は二人掛け座席の窓側に腰を下ろした。クマちゃんの入った包みを膝の上に乗せて車窓へ目をやった。過ぎてゆく景色に奥行きが感じられず、フィルムのひとこまが何度も繰り返し映し出されているような、同じところを行ったり来たり、ぐるぐる回っている感じだった。でも、たしかにバスは動いていたし、僕らはしっかりどこかへトランスポートされていた。荷物が届け先へ運ばれるように、このバスの中にいた。不安にならないのが不思議なくらい、何かから乖離していく。僕とクマちゃんは漂い始めていた。

 タイヤから伝わる振動もほとんど感じられず、路面というより滑らかな鏡の上をスライドしているような、ひょっとすると地上から数センチのところを滑走しているのか? 乗合バス特有の不規則な、身体に響く揺れがない分、逆に不安を掻き立てられ、包みの中で静かにしているクマちゃんが心配になった。しだいに居たたまれなくなって、停車ボタンを探そうと顔を上げるも、それらしきものが見当たらない。こちらの意思で停車させるすべがないってこと? そう考えると怖くなってきて座席から思わず腰を浮かせた。このまま果てしなく進んでいくのだろうか。僕はクマちゃんと心を一つにして、じっとしているほかなかった。

 かりにどこかを周遊していて、いずれスタート地点へ戻れるのなら、こうも心配する必要はないだろう。中心点から微妙にずれているというか、必ずしも環に沿って動いているのではなく、ブラウン運動のように微粒子がランダムに震えて、徐々に軌道から外れてぶれていっているような、そんな感じだった。感度を高めて、生えている無数の小さな襞に触れようにも、ただかすめる程度に過ぎていく、取るに足らないものを残していく、けっきょく些細なものに絡み取られて何ごともなかったかのように…。そうしたプロセスに抗うこともできず、ただやり過ごすだけだった。

 クマちゃんが包みの中でぐったりしていないか、リボンをほどいて様子を確かめたくなった。でも、そうする勇気がなく、手のひらにしっかり包み込んで“だいじょうぶ、だいじょうぶ”と心の中でつぶやくだけだった。よりによって、この子といっしょにいる時に、いや、この子だからこういうことになり、こうしてどこかへ誘われ、何かへ導かれているのだろうか。これまでの子と、どこがどういうふうに違うのか。僕とこの子の関係性がこういう事態を招いているような、この情況を生じさせる要因になっているような、もしそうならば…。

 思ったり、考えたり、動いたりすることで生じる現象を便宜上信じるのなら、新たに加わったクマちゃんが媒介者で、僕とその周りの環境に介在してこの情況を創り出している、そう考えるのがしぜんだった。絶対者として目の前に現れた、超越者として誘いに来た、神として降臨した? そんなことがあり得るのだろうか。この子が僕を別のステージなり、それこそ次元の異なるところへ連れて行こうとしているのか。いや、僕をこの世から救い出そうと舞い降りて来てくれたのか。尊きところへ、純化されたものへ、エターナルの中へ、誘い導いてくれるのだろうか。たとえ、そこに死が待っていようとも。


 「来週の水曜日だけど。空けといてよ」。きっと忘れているだろうと、探りを入れるように言ってきた。「お店、予約しておくから、忘れずに、ね」。少し照れくさそうに言葉を区切り、念を押した。付き合いも長くなるとアニバーサリーの意味も位置付けも変わってくる。“僕が三十五ということは…”。彼女を前にして言葉を呑み込んだ。六つ年下だから今年で二十九。いわゆるデッドラインにさしかかっている、すぐにでも準備を始めないとあっという間に三十を超えてしまう。僕の誕生日にかこつけて二人のいまの状況を意識させようとしている、そうとしか思えなかった。

 彼女の誕生日まであと三カ月ほど。そろそろ一つずつ決めていかないと間に合わない、大台に達してしまうということなのだろう。でも、こうして要所要所でそれとはなしにプレッシャーをかけられると、なかなか上がらない重い腰がさらに沈んで、ということになってしまう。いろいろと理屈をこねて精神状態を分析する以前に、そのことを考えること自体面倒で、ただ逃げているだけだった。独り身が長くなると、何ごとにも億劫になるというか、些細な変化すら好まなくなり、よほどのことがない限り、日常を動かそうとしない、たいした理由もなく次の展開を拒んでしまいがちだった。こんな話、掃いて捨てるほど、そこいらじゅうにころがっているのだろうけど、僕はそんな形而下に囚われていた。

 「最近、レスポンス悪くない? だからどうのと言うわけでもないけど」。会社で使っているような言葉が出てくると要注意だった。いつもより語気を強めに言ってきた。総合職として入社し、それなりのキャリアを積んできた彼女にとって、仕事のように利害や論理で片付かない、情感が先に来る、見通しがつき難い男女の関係はアンコントロールな、もどかしいものだったに違いない。言葉の端々に皮肉交じりのニュアンスが増えてくる、微妙に何かを煽るような仕草が目につく、急に言葉数が少なくなり暗い表情になる…。要するに会うたびに機嫌が悪くなっていく。

 そうかと思えば、気弱に自問するような感じになる、押しては引いての、ちょっとした駆け引きで反応を見てくる、内側で整理できないものに不安を感じる、それをどこへ持っていけばいいのか分からない…。要は、この関係性に自信が持てない、この先の見取り図が描けない、ということなのか。誰にも苦手分野はあるもので、彼女にとって恋愛は、これまで努力して培ってきたものがうまく生かせない、目に見えた成果を出しづらい、向き合いたくない等身大の自分を垣間見てしまう、そうした面倒で、もっと言えばおぞましいものだったのかもしれない。それでいて、本性上無くてはならない、それがないとプロセスが無機的で空虚になってしまい、完結しない、人生味気ないものになってしまう、そういう感覚もちゃんと持ち合わせているようだった。

 「たんなる気のせいなの? もともと返信、遅いけど」。たんに仕事でかかわるだけとか、友だちと楽しくやっていくとか、支障が生じても大して問題にならないような、そういう関係性に流されているだけなら、ときに生身をぶつけ合う恋愛関係は煩わしいだけかもしれない。ちょっとした刺激にうろたえたり、デーリーから外れてあたふたしたり、元に戻そうと右往左往してみたり、果ては神経症のように片っ端らから芽を摘んでいったり。内側に群生する襞の一つひとつに触れようとせずに、流れをせき止めようと立ちはだかって、とにかくカタチにしよう躍起になる。沈静化させようと、それで幕を引こうと、立ち振る舞う。一つひとつ可能性をつぶしていっている、そんな固着化にどうして、また…。

 二人のあいだに漂っている、物理的にはどうにも解明できない、分子にも粒子にもカタチを変えることのない、ただ揺れ動くだけの、気息というか、霊気、ガイスト、そう精神であり魂。関係性を構築するのに基底となる、だからと言って頼りになるとは限らない、しかもコントロールできない、でも生かすも殺すもけっきょくそのさじ加減で決まってしまう、その強度。両者を差配する、心身を自動制御する、どこかへ持っていく、その手にかかれば為す術のない、絶対者にも比肩する、その関係性。それだから、縛りつけようとか、囲い込んでしまおうとか、ましてや思い通りにさせようとするのではなく、ただ解き放つ、自由に遊ばす、情感を溢れさせる、そうした一連の流れや円環であったとしても…。

 「気持ちが通じ合っていればって言うけど」。相手の思いを勘案する、意向に沿ってやっていく、無私の精神で対応する、スムーズに事を運ぶには。関係性を滞らせず、もとから排するのではなく、できればぴったり接合するように、災いを避けるには。浮遊するものをキャッチして、胸のあたりまで引き寄せて、包むように手のひらのなか、壊さないでいるには。内側に取り入れて持て余し、そばに置いては心細く、近づいたり離れたり、接合し合一するには。周りに漂うだけで、ノマドのように彷徨って、元へ戻ることばかりに、心身の円環から抜け出そうにも。張りめぐらされた薄い膜であっても、針さえ通さず絡め取られるばかりで、へばりつき身動き取れずに、間近の死を意識するには。

 たとえ責められても、こじれてしまっても、追い立てられようとも、この場にいるしか。言い訳がましく、言葉にするのも違う気がして、ただ変化を好まず、うつむき加減に向き合うしか。ドットをラインに引き延ばし、多くのものを振り落とし、広く行き渡らせて、サーフェースに安心するしか。取捨選択に従って、優性劣敗に納得しても、左右縦横に漂えないなら、このままでいるしか。表面張力に抗って、こぼれ落ちるように、行き場もなくて、排水溝へ流れ込むしか。可能性を断ち切って、導かれるままに、仮死状態を装ってまで、偽ベクトルに引っ張られるしか、ないのか。

 「これからどうするの? こんなこと言いたくないけど」。きっとそれだろうと、あれでもこれでもない、掴んだからにはデストニー、覚悟があるのだろうと。一瞬のごとき歴史の中で、培い成り立たせるメソッド、それを信じるしか、残された道がないにしても。仮に先が見通せなくても、内側にひしめき潜在するヴィジョン、表に出さずとも、ただ漂わせるだけで。外殻から脱しようと、膜の前でプロテクト、足踏みするも、押し返されることもなく。線の向こうを見渡すも、雨でも晴天でもなくクラウド、どんより拡散するだけで、手招きされて。身体をその場に置いたまま、ふわっと浮かび上るガイスト、此岸を抜けて超越へ、抜け殻を見下ろし彼岸の手前へ。

 ただひたすら円環に、気づかぬふりをして、境界を跨ごうにも、鈍化させるすべもなく。かの地へ降り立って、振り返りざまに、目に入るものがことごとく、跡形もなく消し去ろうとも。だからと言ってこの身を、肉体を、マテリアルを、引き連れていくわけには。ただ先を行くにも、華麗なるビヨンドとはいかず、足がすくみがちで、戻ることもかなわず。誘い導こうと、待ち構えているものに、口答えせず後へ続くも、乖離が甚だしくて。何の変哲もなく、時間に引き延ばされ、空間に囲われて“さあ”と言われても。何かに掉さそうとか、それとはなしに意思表示しようとか、ましてや反論しようなんて、この日常で意味をなさないことぐらい…。

 「どこへ行く? いつものところで構わないけど」。ルーティンをこなすばかりで、その程度に充足して、進んでいけるほど、天賦の才に恵まれてなく。背中を押され、解き放たれても、すぐには駆け出せず、足元を見つめるだけで。漸進なら行けるものと、上体を前へ傾かせるも、怖くなって引き戻す、デーリーに絡めとられて。手を取り合って、一歩も二歩も踏み出すも、けっきょく引きずられるだけで、足をバタつかせ踏ん張ろうとも。ぐるりと一周まわっても、元の位置から微妙にずれて、らせん状に昇っていくなら、少しは開けていくものと。いまだ気づかず腰を上げるも、既視感だけが迫ってきて、押し戻されたのか、踏み出したのか。

 行き来しているつもりでも、ひとところに留まっていたり、目まぐるしく光景が移り変わっていたり、ただ中心から外れていくのを。分離・乖離にこの身を預けて、幻想・幻影を操作するも、けっきょく日常の域にとどまり、夢を見るぐらいにしか。基底を意識しているはずと、心身を現象へ投げ出すも、いつまで経ってもしっくり来なくて、ただ取り残されるだけで。何を為すでも思うでもなく、付き従うことだけが、生きる証になるとは、思いもよらず。難しく考えずに、トランスポートできるなら、乗り遅れようが乗り越そうが、車窓を眺めていれば。たとえ各駅停車でも、にわかに動き出すならば、非連続の連続、少しでも彼方へ進んで行けるのならば。

 「本当にそれでいいんだね。こっちはうれしいけど」。けっこうあっさりと、思っていたより盛り上がらず、こんなものかと、脱力感がうらめしく。くっ付いたり離れたり、ちょっとした猶予もなくて、合一作業が進まずに、振り回されているだけで。時間に運ばれ、空間に纏わりつかれて、作られたままに、滅する細胞を数えるしか。ジタバタせずに、しずかに劣化を待つにせよ、わずかなマーキングにさえ、動揺を隠せず。インサイドをえぐり、突起物をへし折るように、束になってかかって来ようと、淡々と受け止めるしかなくて。変化を期待されるも、時期尚早と言い訳がましく、心身の乖離をそのままに、すかす術も思いつかず。

 アニバーサルの総仕上げにと、そんなもの持ち出されても、すっと入り込んで行けるわけもなく、ただ表面をなぞるだけで。これまで以上に潜行して、奥底の瓦礫にタッチするも、多少の癒しになる程度で、浮かび上るのを止められず。表層から半分顔を出して、覚悟を決めようにも、こぶしに力が入らず、溺れた屍のように。差し出された手に、振り払う度胸がなくて、硬い表情のままに、そのまま埃を被って。しっかり身支度を整えて、踏み入れてみても、疑似餌に見紛う、セッティングを前に。いっこうに嘔吐感が引かず、席を立とうにも、移る場所もなく、硬くしてその場にいるしか。しずかに侵食していく、きっと腐食へ向かっている、一縷の望みを託するも、ふたたび覆いかぶされて。

 「今度の日曜日、いろいろ見に行こうね」。わずか一時間余りで、こうなってしまうのも、日常に巣食うことなら、十分あり得るだろうと。少し変わったふうに、そっと現れ出るだけで、気分を変えるほどでなく、淡々と過ぎゆくだけに。別に合わさる必要もなく、程よい距離はそのままに、かける言葉が変わろうと、その表情を見るならば。凝視に耐えられないと、気づかぬふりをして、ただ進めることに、思いを定めようと。一つひとつ積み上げて、しっかり向き合おうとするも、どうしても目を合わしきれず、外形的にそれほど変わらずとも。これ以上立ち入らないのが、分かたず保つうえで秘策なら、時の流れに任せて、どこまでも並行に。

 打ち合わせもうわの空に、あの子らを思って、境界線を跨ごうにも、癒される前に。ずっとアンタッチャブルに、なおざりにされたまま、この先も意識の外に置くならば、それなりの覚悟が必要で。分身とまではいかなくとも、内面の流出先を確保するには、どの関係性に頼ればいいか、すでに分かっているはずも。対他性にことよせて、幼稚な自己投影に戯れるも、一時の愉楽に満足するしか、もう選ぶすべもなく。全体の一部でも、一部が構成する全体でもなく、属したり抱え込んだり、内包・外接するのでなくて。その関係性から逃れ出ようと、素知らぬふりで、振り返ろうともせずに、そのまま進んで行けるなら。

 「もう、二人だけの話でなくなってくるけど」。ワールドワイドに行かずとも、息苦しさに変わりなく、限られたサークルの中で、密度が高まるにつれて。一つの点から派生して、細線が継ぎ足され、細胞のごとく増殖を繰り返す、死へ向かっているのに。関係性が広がって、多様化の一途をたどろうと、つながる契機が見当たらず、やがて拡散するしかなく。キャッチーなコトどもに、たぶらかされようと、微笑みを崩さず、歩み寄ろうとするも。取り繕ううちに、見透かされ放置されて、立ち尽くすしか、愛想をつかすわけにも。一つひとつ関係するだけの、度量も才覚もなくて、手本を前に従うだけで、さらにペダルが重く感じて。

 徐々に形づくられていくも、その度ごとに壊していくなら、それを抵抗と言わずとも、ずれや余白に導かれて。全体を固められても、不規則に動く部分を頼りに、陳腐を避けられると、独りよがりに足踏みして。やさしく声をかけられて、軽くうなずき進もうと、両脚同時に前へ出し、転びかけて手を差し出されて。丸め込もうと、油断させて近づくも、表情変えずスルーされ、断固たるところを見せつけられて。知らぬ間に包囲せられて、敵も味方も分からずに、辺りを見回すだけで、デッドロックと気づかずに。ただにあの子らのことだけに、意識も思惟も感覚も注ぐことで、すべてをリセットできるなら、唯一救われるかも、と。


 “お陰さまで、どうにか一歩、踏み出せそうです”。ぬいぐるみ探しの途中に偶然再会した、例の彼女からだった。駅で別れた翌日、短くメールをやり取りしたきり、そのままになっていた。この文面だと、ようやく次の勤め先が決まったか、自分のやりたい方向へ進み出したか、気持ちの整理がついて“さぁ”というところなのだろう。あのとき僕は、相槌を打つ程度で踏み込んで聞こうとせず、うまく行くようにと心の中でエールを贈るぐらいしかできなかった。そのあと、喫茶店でどんな会話を交したのか、いつものようにうわの空、別次元を浮遊していたので、何も覚えていなかった。ただ、あのときの不思議な、妙に和らいだ、それでいて高揚した感覚だけは内側に残っていた。彼女は失業中で、今後の身の振り方に迷っているようだったが、気の効いたアドバイスどころか、けっして親身になって対応したとは言えなかった。こちらの“お陰”であるはずはなく、逆に紹介できるところもなくて申し訳ない気持ちだった。とりあえず“よかったね…”と無難に短いメールを返しておいた。

 駅前のスーパーで買ってきた弁当と惣菜をダイニングテーブルに広げた。食べ残しの惣菜に気づき、冷蔵庫を開けてペットボトルの麦茶とともに並べた。味気のないテーブルに着いて変わらぬ日常に向かっていると、ふたたび着信音が鳴った。さっきの彼女にしてはインターバルが中途半端だったし、最近機嫌のいい彼女がこの時間帯にメールを寄こして来るのは稀だった。きっと迷惑メールだろうと、まずは放置した。一人暮らしであっても三食欠かさず食べるのにさほど苦痛を感じなかったが、ルーティンの一つとして淡々とこなしている自分を意識するとき、どうしても気分が下がり食欲がそがれた。けっきょく今日買ってきた惣菜が昨晩と同じように半分以上残った。そんなところも同じように繰り返す日常にげんなりした。一服がてらにスマホを手に取り、迷惑メールを削除しよう開いた。先ほどの彼女からだった。

 続きにしては時間が経ち過ぎているし、別の用件ならもう少し間を置いてもよさそうなものだった。内容よりもタイミングの方が気になって文面への意識が疎かになっていた。思い直して文字を追った。“言い忘れていたわけではないのですが、どうしようか迷ってしまって…”。スマホ片手に一時間近くあれこれと考えあぐねる彼女の姿が浮かんできた。“…わたしのために行けなかった、大切なところ、一緒に連れて行ってくれませんか”。思いも寄らないことだった。どう返せばいいのか、それこそ一時間以上かかりそうで、今度はこちらがスマホをにらむ羽目になった。彼女の意図するところ、その狙いや思いがさっぱりつかめず、途方に暮れた。

 しだいに、あのときの不思議な感覚がよみがえって来ていた。僕と彼女、二人では収まり切れない、何かが媒介した、それも大勢と介した、次元を異にする、秀逸でいて、和やかな関係性。僕と彼女のあいだを、あの子らが天使のようにかけまわり、何かを伝えようとしているような、もっと言えば仲を取り持とうとしているような、そんな何かを…。仮にそうなら彼女の突飛な提案というか、不可解なメールもまったく唐突で辻褄の合わないものではないような気がしてきた。広告制作会社の事務所で初めて会ったときの不思議な感覚や、偶然街角で出くわしたこと、それに、喫茶店での表現しようのない、内側の襞を刺激するイメージ、そして今回の何かを見透かしたようなメール。一連のプロセスがそれほど不自然でも、何か別の意図があるようにも思えなくて、ただ彼女がかわいいあの子らに、不思議な力を持ったぬいぐるみたちに会いたいだけなのではないか、普通にそう思わせた。

 “わかりました。今度いっしょに行きましょう”。僕はそう返した。考えた末の返信だったが、けっきょくこの答えしかなかったのだろう。僕の中で何かが弾けたのか、縮んでしまったのか、たんにフェーズが変わったということなのか。何かの仄めかしとか、確信につながるような兆しとか、そういう類のものでもなかった。確率論以前の、蓋然性を云々する前の、超次元の、しっくり来るものを感じていた。僕とあの子らとのあいだに何かが介在して来るなんて想像もしていなかったし、この純粋な形而上の世界に誰かが闖入(ちんにゅう)して来るはずはないと思っていた。いつもは奥底に沈静していてめったに表層に現れない、僕とあの子らとの関係性。そこに第三者が介入してくる道理はないと。でも、彼女が突然現れた、僕とあの子らのあいだに。これはどういうことなのか、何が起こっているのか。そう簡単に整理のつくものではなかった。

 その一方で、ただ彼女のこれからに興味があったし、どうであれ上手くいってほしいと願っていた。再就職したのなら祝ってやりたかったし、何か新しいことを始めるのなら微力ながらも後押ししてやりたかった。彼女とは来週の金曜日に会う約束をした。それにしても、四十前の独身男が大切にしているところ、場所って? 時代から取り残された、郊外のおもちゃ屋さんへ連れて行かれて実際どう思うか。薄っすらとほこりを被った、少し色褪せたぬいぐるみを前にしてどんな反応を見せるか。普通に考えればどう転んでも、そんな中年男の気味悪い趣味、性向に理解が示されるはずはなく、会う日が近づくにつれて気分が塞ぎがちになった。僕とあの子らの世界に彼女を加えたトライアングルなファンタジーなんてあり得ない、時空を超えた新たな関係性はやはり成り立たない、と。

 彼女にとっては行き先のわからない“ミステリーツアー”であるはずなのにあれから何の音沙汰もなく、前日を迎えていた。僕は、確認のためにメールをしようか迷っていた。待ち合わせ場所はこの前の喫茶店、時間は午後六時。ただ念を押すだけのメールなら気楽に送れるが、事前に謎の行き先を告げるとなるとそう簡単ではなかった。四十前の独身男、大切なところ、郊外のおもちゃ屋さん、かわいいぬいぐるみ…。この結びつきにくいフレーズ群への違和感を少しでも緩和させるため、確認メールにかこつけてそれとはなしに示唆しておくほうがいいのではないか。彼女自身、相当ハードルを下げて、どこへ連れて行かれても驚かないと、もしや腹を括ってくれているのなら、こうも思案しないで済むだろうが、そんな希望的観測には頼れなかった。あとは明日、出たとこ勝負で当たり前のような顔をして、おもちゃ屋へ連れていくしかないのか。けっきょく確認だけのメールに終わってしまった。

 終業時間が近づいていた。それも週末、机の上を整理し始める総務女子のざわつき感が伝わってきて、同じように浮き足立っている自分に気づく。加えて彼女との約束、気もそぞろになるのは仕方なかった。いっそうのこと、おもちゃ屋さんへ行かず、大きな公園にでも連れて行って、あの辺りで、子どものころ、好きだった父親と遊んだ、と感慨深くつぶやこうか。廃れた感じの商店街を通り過ぎ、河川敷へ出て運動場を見下ろす土手に座って、小学生の時の思い出を述懐してみようか。大切なところをキーワードに何とでも言い繕って無難に事を収めるのはそれほど難しくはないだろう。でも、芝居じみた不自然な振る舞いで彼女に変に思われたくなかったし、この子らにかかわることで妙な操作をしたくなかった。喫茶店の重い扉を開けると、彼女はこの前と同じ奥のテーブルで姿勢を正して座っていた。僕は軽く手を上げて彼女の方へ進んで行った。

 ここに至ってはもう、言い訳がましいこと、ごまかすような振る舞いは止そうと思った。あのとき行こうとしていた、おもちゃ屋さんを訪ねる、彼女を連れて。ただシンプルに考え、直線的に行動しようと心がけた。喫茶店での二十分ほどのあいだ、彼女はこの先どこへ行くのか、僕の大切なところについて聞いて来なかった。「それでは行きましょうか」。伝票を手に取り腰を浮かすと、彼女は穏やかな表情で僕が立ち上がるのを待って、あとに従った。「このあと電車に乗ったりして二、三十分ほどかかりますが…」。僕はそれだけ言って駅へ向かって歩き出した。彼女は何も言わず聞かずして、微妙に間隔を取って付いて来た。券売機で二人分の切符を買って彼女に渡すと、少し和らいだ表情を見せて僕に続いて改札口を抜けた。僕らは、帰宅する会社員らの群れをかわしながら反対側のプラットホームへ向かった。

 ホームに並んで立っていたが、電車が来るまでまだ十分以上あるのに気づき、後ろのベンチへ移った。「さらに郊外へ行きますけど、帰りが遅くなっても大丈夫ですか」。彼女の方を向くと、その横顔が思いのほか近くにあってドギマギした。そむけるように顔を正面へ戻すと「ええ、大丈夫です」。彼女はそう言ってこちらに顔を向けたが、同じようにすぐに正面へ向き直った。二人してうつむき加減に電車を待った。ベッドタウンを背後にもつ駅で多くの乗客を降ろしたのだろう、車内には数えるほどしか乗客はいなかった。車窓から小さな山の連なりが見渡され、その手前に田園が広がっていた。夕陽が差し込み、僕と彼女の顔を照らした。車両の軋みから生じる振動が心地よく、目に映る光景が温かく身近に感じられた。拡散していたモノどもコトどもが呼び戻されて、一つずつ重なり合っていくような、穏やかに融和していく過程、充たされたプロセスの中に僕と彼女はいた。

 下りた駅から歩いて五分ほど、小ぢんまりとした商店街のはずれに、その店はあった。大切なところが初めて訪れるお店、というのもおかしな話だったが、そういうことも含めてけっきょく彼女に何の説明もなく、店にたどり着いた。「ここなんです。おもちゃ屋さんで」。僕はそう言って、立て付けの悪そうな引き戸に手をかけた。思いのほか戸はすっと開き、僕と彼女は中へ入った。店内は郊外のおもちゃ屋さん然としていて雑多な感じで薄暗く、お定まりにほこりっぽかった。ここで、店の奥から老夫婦でも出て来たら完璧だったが、そうはうまく行かず、この前と同じように無愛想な四十前後の男がカウンターに立った。僕はいつもそうするように、入るなり気になっていた子のそばへ進んでいった。その子の前に立ち止まって悦に入り異次元の戸口に立っていると、後ろから彼女が「この子ですか」。“入っていた”僕は不意を衝かれ、反射的に彼女の方へ向き直った。驚きに恥ずかしさや変な後ろめたさも加わり、何とも言えない情けない表情をしていただろうに、彼女はやさしく包み込むような笑顔を向けていた。

 僕はその子をやさしく抱きかかえ、男のいるカウンターへ向かった。なんの躊躇も戸惑いもなく、当たり前の行動として、その子をカウンターの上にそっと置いた。「ご自宅用ですか」。男がつっけんどんに言ってきた。これまでは必ず、自分への贈り物としてプレゼント包装にしてもらっていた。でもそのときは後ろにいる彼女を意識して、正直に「はい」と答えてしまった。もやもやした首尾の悪さを感じでいると、彼女が斜め後ろから見透かしたように「いえ、プレゼント包装でお願いします」とめずらしく口を挟んできた。思わず「えっ」と言って振り返ると、彼女は微笑みながら軽くうなずいた。男は、思っていたより面倒がらずに「できる範囲内で」きれいに仕上げてくれた。「リボンはブルーとピンクがありますが」。少し迷ったが、いつものようにピンクと答えた。

 店を出ると辺りは薄暗くなっていた。もともとシャッターを下ろした店に加えて営業していた店も早めに閉めたのか、商店街は閑散としていた。僕と彼女は静まり返った通りを歩いた。いまさら言うまでもなかったが、こんなふうに二人して“ぬいぐるみ探しの旅”に出るのは初めてだった。手と足が同時に出てしまうほどぎこちなく緊張してはいなかったが、どこか挙動不審になるのは仕方なかった。大切そうに両手でこの子を抱いて歩いているのもそうだし、彼女の方を見ようともせず、ただひたすら無言で先を急ごうとするのもその表れの一つだった。これからどうしたらいいのか、わからなかった。このまま彼女と別れて、いつものようにはやる気持ちを抑えてみんなの元へ急ぐのか。やはり彼女を食事にでも誘って今日の奇怪な出来事について振り返るべきなのか。「これからどうします?」。やっとの思いで彼女に聞いた。彼女はしばらくのあいだ黙っていたが、おもむろに口を開いて「もしよければ、いっしょにこの子を祝ってあげたいのですが」。僕は返す言葉が見つからず、ただ呆然と彼女を見つめるだけだった。

 “いっしょに祝う? この子を…”。彼女はどういう意味で言っているのだろう。このあと、どこかのレストランで二人して食事しながらぬいぐるみ談義に花を咲かせる? それともまさか、急ぎ一緒に帰ってうちの子らとともに、この子の歓迎会を開きたい、僕のぬいぐるみワールドに来賓として招いてほしい、ということなのか。この事態、付き合っている彼女の来訪よりもずっと、ある意味イレギュラーで空恐ろしいことなのかもしれなかった。ここまでの流れから、彼女がぬいぐるみに対し、ある程度寛容な人種であるのは確かだったが、そこから大きく飛躍して、ぬいぐるみと言葉を交わせる、意思疎通のできる類の人間なのか、人類の中に一定数いると言われる宇宙人のように潜在する特異な存在なのか、果たしてカミングアウトしても大丈夫な相手なのか…。完全に意識が飛んでいたのだろう、知らぬうちに、商店街を抜けて駅にたどり着き、上りの電車に乗っていた。すでに最寄りの一つ手前の駅まで来ていた。そのあいだ、ひと言も発さず、この子を両腕で抱いたままだった。

 「うちに来ますか?」。僕は彼女にそう言った。電車は速度を落とし見慣れた広告看板の前を通り過ぎていく。反応を窺うように彼女の方を向くと、それに合わせるように彼女もこちらを見ていた。「はい」。電車は駅に停止した。その顔にいつもの微笑みはなかった。事が事だけに緊張しているのかと思いきや「コンビニに寄ってもいいですか」。拍子抜けというか、久しぶりに現実へ引き戻された感じがして、いい具合に力が抜けた。改札を出ると、すぐ横にあるコンビニに入った。「何か食べるもの、買っておかないと」。彼女は独り言のようにつぶやいて買い物かごへ食料品などを入れていく。けっこうな商品点数になったようでレジを済ませる彼女をコンビニの外で待った。「お待たせしました」。出てきた彼女は大きくふくらんだレジ袋を持って笑顔を見せた。僕は彼女の手からレジ袋をやさしく取り上げて「いくらになりました?」と聞いた。財布を取り出そうとすると、彼女は首を横に振った。「この子のお祝いですから」

 マンションへ向かう道すがら、付き合っている彼女以外の女(ひと)を自宅へ上げるのはやはり問題なのだろうかとか、彼女に限ってはそういうやましい思いや変な魂胆は一切ないのだからとか、もっと言えばぬいぐるみを介したマニア同士の交流にすぎないのだからとか。何も後ろめたいところがないのに言い訳がましく頭の中で様々なフレーズがめぐった。「どうぞ。散らかっていますが」。狭い玄関口でそう言って彼女を迎え入れた。「お邪魔します」。彼女は恐縮したように心なしか姿勢を低くして僕の後に続いた。「ソファーにかけてください。何か飲みますか」。とりあえずソフトドリンクかビールか、そんなつもりだったが、彼女は黙ったまま何か言い出しにくそうにしていた。「ああ、ごめんなさい。これね」。持ったままだったレジ袋を彼女の前に置いた。やっと要領を得たというふうに彼女は袋を手に取り、中をのぞき込んだ。

 「キッチン、お借りしてもいいですか」。彼女は惣菜やデザートなどが詰まった袋をかかえたまま上目遣いにこちらを見やった。「ええ、どうぞ自由に使ってください。あまり入っていませんが冷蔵庫の中のものも」。この言葉に勇気づけられたのか、彼女はキッチンへ入るなりテキパキと動きだした。僕はプレゼント包装のこの子を両手で抱えたままでいるのに気づき、ソファーの上にそっと坐らせた。いつもなら待ち切れずに寝室へ向かい、うちのかわいい子らに声をかけるところだったが、今回はそうはいかず“誕生”を待つこの子の横にいた。「お皿も使わせてもらいますね」。こうしているあいだも、彼女はキッチンでそれこそ水を得た魚のように惣菜に少し手を加えたり、デザート皿にワンポイント添えたり、どこにあったのかワイングラスを取り出したりと、アニバーサリーらしく華やかにセットアップしていった。

 それよりもこうしているあいだに、彼女のぬいぐるみへの理解度がどの程度なのか、早く見極めねばならなかった。そのうえで慎重に行動へ移さないと、この共振する世界、ぬいぐるみを介した異次元のコミュニティーを一瞬のうちに壊しかねない。初めてのことなので、僕にはそういう緊張感があった。この一時間ほどのあいだに彼女のぬいぐるみ許容度をできるだけ正確に把握し、こちらの言動にフィードバックして適切に対応しなければ…。いくら自然体を装っても、変に構えたり妙に言葉を選んだりしてしまうのは仕方がないにしても、そうそう巡って来ないこの機会に一歩踏み出し、自分だけの世界から抜け出して、新たな展開を期すためにも、うそ偽りのない等身大の自分自身をしっかり出さないと。そうすることで、あの子らも喜んでくれるような気がして…。彼女も同じように僕を見定めようと探りを入れてくるかもしれない。かつて経験したことのない微妙なやり取りが展開されるに違いない。事ここに至っては、これまで培ってきた、ぬいぐるみ道、その感覚を信じて、自分にも彼女にも真正面から向き合うしかなかった。

 「大変お待たせしました。それと、勝手なことをして…」。別に謝ることでもないのに彼女は申し訳なさそうにキッチンから出てきた。「いや、こちらこそ手間かけさせて…」。僕は少し腰を浮かすように彼女の方を向いて軽く頭を下げた。「いつもはどちらで? リビングですか」。どこでこの子の歓迎会を開くのか、そう尋ねているのだろう。「いつもここで。リビングでみんなを呼んで」と返した。言ったあとすぐに“みんなって?”と聞き返されるではないかと構えたが、彼女は笑顔でスルーしてキッチンへ戻っていった。言葉一つに神経質にならず、もっと肩の力を抜いて彼女を僕のぬいぐるみワールドへ心地よく招き入れなければならない。「何か手伝うこと、ありますか?」。キッチンをのぞくと、彼女は仕上げに精を出していた。「それじゃ、このお皿、リビングへ運んでくれますか」。何の違和感もなく日常に沿って動いている自分が不思議だった。何かが穏やかに内側を充たしていた。僕はすっと手を伸ばし皿に手をかけた。返事するのも忘れていた。「はい」。だいぶ経ってから小さな声で答えていた。

 これまでずっと、容赦なく迫りくる日常と、内側で自由に経巡る想念とのあいだで、そのずれ、乖離に苦しみ、嘔吐感を覚えてきた。ときにパラレルに進行することも、部分的に相互進入することもあったが、たいていは反発し合い、退け合って、ひとり虚弱な心身が取り残された。否応なく視界に入ってくる現象に耐えられなくなると、内なる想像の世界へ逃げ込む、その繰り返しだった。リアルに動くモノどもにうまく沿えず、置いてきぼりを食ったり、むやみに先へ行き過ぎたり、発達障害の子のようにいつまでもフィットできず、空回りするばかりだった。目の前に現れる、ヒトを含めた諸対象をどう解釈し、どんなふうに関わればいいのか、スタンスの定め方以前に、常に得体の知れないモノどもに囲まれている、そんな感覚だった。けっきょく自分の作り出したコトどもに依存し、そこに快癒を求め、幻想の中を彷徨い続ける、そんな循環、シークエンス、非連続の連続だった。

 リビングのテーブルを埋め尽くすように料理が並べられた。「短時間ですごいですね、こんな豪勢に…」。僕はオーバーでなくそう思った。「惣菜を並べただけですから。最近のコンビニがすごい、ということです」。彼女は料理をチェックするかのようにテーブルを見まわした。「それでもこうはいかないでしょう。センスというか」。少し興奮していたのか、追い打ちをかけるように続けた。彼女はそれに答えずに、キッチンへ引き上げてしまった。「飲み物はどうします? 先にビールですか」。冷蔵庫の前から尋ねてきた。「いや、ワインをいただきます」。彼女は、冷えた白ワインともう一品取り出してリビングへ戻ってきた。これで準備万端ととのった。「じゃあ、始めますか」。いつもは食事もそっちのけで新入りさんを登場させるところが、今回は料理を優先すべくワイングラスへ手を伸ばした。

 「乾杯の前にこの子、包みから出してあげないと」。彼女は未だプレゼント包装のままの新入りさんをやさしく手に取った。「そうでした」。僕は忘れていたかのように返事し、続けて「せっかくですから、リボンを解いてやってください」と頼んだ。彼女は“そんな重責、このわたしに?”と内心思ったかどうかは別にして“できません”というふうに首を横に振った。そのとき僕は、彼女はほとんどわかっていると思った、僕とぬいぐるみとの関係性、こうしてこの子らと会話し、意思疎通を図っていることも。うちにいる子は、僕と出会った瞬間、布と綿の組成に変化をきたし、その身にガイスト、徐々に精神が養われていき、しだいに内実が充たされていく。要するに魂が入り込むとともに、あの子ら独自の感覚や動きが備わっていく、少なくとも僕にはそう見えるし、そう感じる。それが幻想や思い込み、果ては脳髄に欠陥があると判定されようが、僕にとっては紛れもなく、この子らとの世界は実在し、その関係性は美しく清らかに成立していた。彼女はその辺りのところを感じ取っていたし、理解もしているようだった。「ほかの子も呼んで来ていいですか?」。本来なら形而下でけっして言えないことも、すんなりと口を衝いて出た。

 彼女は、プレゼント包装のこの子を抱えたまま、うなずき微笑んだ。僕はこのときを待っていたとばかりに寝室へ急いだ。それぞれのカテゴリーでリーダー格の、主だった面々を抱え上げ、リビングへ向かった。僕の腕にはクマくん、カエルちゃん、ブー子、それにキリンのブースカもいた。四十前のおじさんの見るに耐えない見苦しい光景だったろうが、彼女はやさしく迎えてくれた。「キッチンのイス、持って来ましょうか」。彼女はそう言って立ち上った。「ああ、すいません」。僕は両腕にかわいい子らを抱えたままソファーの横に立ち、彼女が戻って来るのを待った。「テーブルを隔てて対面に置くほうがいいですよね」。指示せずとも何から何まで僕の意に沿っていた。彼女が置いたイスにクマくんとブー子を座らせ、大きいカエルちゃんとブースカはテーブルを囲むように両側に配置した。僕と彼女は並んでソファーに腰を下ろした。

 「それではお願いします」。僕は彼女を促した。一瞬戸惑いの表情を見せたが、意を決するように真剣な面持ちで包装を解きはじめた。僕はその厳粛で、ある意味神々しいプロセスを見つめていた。彼女は母胎から赤ちゃんを取り上げるような優しい手つきでその子を抱え上げた。わが家ではめずらしい男の子のぬいぐるみが顔をのぞかせた。面長で、まゆ毛が特徴的な、まじめな感じの、かわいい子。「むかし、アメリカのテレビに出ていた子でしょ?」。彼女はその子から顔を上げて聞いてきた。「そう、子ども向けの。小さいころ、英語もわからないのによく見ていた」。その番組では、ほかに動物を模したユニークなキャラクターや、お友だちの人間の子らも登場し、少しばかりウィットの効いた歌や寸劇で笑わせた。「この子と仲のいい、コンビの、顔が横長の、あのなんて言う…」。彼女はそのお友だちを思い出してクスッと笑った。「性格も含めてすべてが好対照で、どちらもしっかりキャラが立っていて…」。僕もつられて笑ってしまった。

 取り立てて、深くぬいぐるみ談義に花を咲かせたわけではなかったが、彼女も含めてみんなで新入りさんを囲み、和やかにときを過ごした。四十前の独身男がこうしてぬいぐるみと戯れていること自体、日常の事象としてかなりディープなうえに、その意味を深く掘り下げてみたところで…という憐憫の情があったのか、彼女は終始やさしい笑顔で付き合ってくれた。けっきょく、理屈ぬきでかわいい程度の言及にとどまり、あえて突っ込んだ話はしなかった。「そろそろお暇しないと…」。もう十時近くになっていた。彼女は腕時計に目をやり、腰を浮かせた。「もうこんな時間ですか。長く引き止めてしまって」。彼女はテーブルの上の皿を重ねてトレーに乗せはじめた。「こちらでやっておきますから。たいした量ではないし」。別に追い立てようとしているわけではなかったが、帰り支度をするよう促した。「いえ、洗いものをしてから帰ります」。彼女はトレーを手にしたままゆっくり立ち上がり、キッチンへ入っていった。

 二人並んで流し台の前に立った。初めてにしてはなかなかの連携で洗い物に十分とかからなかった。「あの子たちは幸せですね」。彼女は布きんで流し台の上を拭きながらつぶやいた。一番大事なところをわかってくれているようで、胸にぐっと来るものがあった。「みんなの表情を見ていたらわかるし、実際そんなふうに言っていたし」。彼女は同じところを繰り返し拭きながら続けた。あの子らの声は僕だけに聞こえているのではなかった、そのかわいい仕草の数々は僕だけに見えているのではなかった。戸惑いを超えて、感動のあまり返す言葉がなかった。「羨ましくて…」。彼女はそう言ったきり、布きんを持つ手を止めた。ずっと手元を見つめたまま、しばらくのあいだ動かなかった。いつもなら、どうしたことかと立ち尽くすしかないところが、しぜんと彼女の肩に手をまわし引き寄せていた。言葉をかけずとも彼女はうなずき、軽く目頭の辺りを指で押さえた。

 どのぐらい経ったろうか、二人してずっと流し台の前にいた。僕は不思議な感覚にとらわれていた。彼女が彼女でないというか、たしかにヒト、人類なんだろうけど、こうして身近に感じていると、僕のかわいい子らと同じ、この子らと魂を一にする、清らかに澄みきった、何ものにも左右されない、僕にとって至上の、かけがえのないものに感じられた。それが原因なのか結果なのか、例のごとく時間が止まり、空間が歪んでいく。非連続の連続。それでも僕と彼女はその場に立ち尽くしていた。だからと言って、関わるモノどもコトどもが時空を超えて異次元へ入り込んで来るとか、仏教で言う此岸から彼岸、涅槃へとか、ひとっ飛びに見果てぬ桃源郷へとか、そんなドリーミーな感じでもなかった。もっとたしかな手触り感というか、二律背反している、乖離している内と外、精神と肉体、そう僕と彼女が合一していく尊きプロセス、そんな激烈にして優しい流れを前にしているような気がした。

 「じゃあねぇ」。彼女は新入りくんをやさしく抱き上げた。続いてクマくん、ブー子の頭をなで、中腰になってカエルちゃん、ブースカにハグして別れを告げた。「駅まで送っていきます」。名残惜しそうな彼女を促すように玄関へ向かった。途中、寝室でクローゼットから上着を取り出し、ついでに、というよりきわめて自然な行為としてベッドサイドにいた小さなクマちゃんを手に取った。その子を抱えて寝室を出ると、帰る準備を終えた彼女が玄関口からこちらを見ていた。「女の子のクマちゃんですか」。先ほどの寂しげな表情から一転して笑顔になった。「送ってくれるの? こっちに来て」。その子にやさしく語りかけ、両手を広げる仕草をみせた。僕は彼女の腕の中へ、喜び勇んで飛び込もうとするクマちゃんを預けた。「よしよし、ホントかわいいね」。彼女はクマちゃんを抱えてご満悦だった。僕はこれまで、この子らと外出したことはなかった。

 正確には、クルマに乗せてドライブに行った覚えはあるが、そのときも過剰に意識して車内以外は専用のバッグに忍ばせて人目に触れないようにしていた。こうして堂々とかわいいこの子を外の空気にさらすのは初めてだった。通路で、エレベーターで、道端で誰かと遭遇しないか、気が気でなかった。一方、彼女は平然とこの子を抱いて、ときにクマちゃんの顔をのぞき込みながら歩いていく。「かわいい見せパンに水玉のスカートって。おしゃれだね」。たしかにこの子、ファッションイベントのマスコットキャラクターをしていたような。「違う柄のスカート、こんど買ってあげるね」。クマちゃんもうなずくし、まるで女の子同士の会話のようで。「みんなに可愛がられて。ホントよかったね」。同性だから? 少し羨ましげに見えたけど。僕をそっちのけに彼女とクマちゃんの会話が続く。彼女はこの子に夢中、僕はそんな彼女から目が離せず、気がつくと二人して駅に着いていた。

 「今日は遅くまでお世話になりました」。やっと僕の存在に気がついたのか、彼女は改札口の前で振り返った。腕の中のクマちゃんがこちらを見ていた。僕はその子に向かってうなずき、彼女に言った。「この子、預けますから。可愛がってやってください」。突然の申し出に戸惑っているようだった。「この子もつらいようで、ここで別れるのは。いっしょに行きたい、お姉さんと帰りたいって」。僕はクマちゃんに目で合図を送り、もう一度意志を確かめた。彼女は下を向いたまま顔を上げようとしなかった。「お姉さんといっしょにいたいの? それじゃ、おとなしく、おりこうさんにしないとね」。今度は一人、僕がクマちゃんに話しかける番となった。彼女は改札口の横で身体を硬くしていた。「忘れものはない? そうか、お姉さんのところの方がかわいいもの、そろっているか」。僕はかまわず続けた。すると彼女がクスッと笑った。

 四十前のおじさんとぬいぐるみとの奇妙な掛け合い。第三者の目には滑稽で、それこそ正気の沙汰ではない、精神病院送りの言動に映ったに違いない。「本当にいいのですか。大切にしますけど」。彼女はクマちゃんにチラッと目をやって、うかがうようにこちらを見た。「そちらの方が居心地よくなって、もう帰りたくないって言うかもしれないけど」。話の流れからそう言ったつもりでも僕の表情に寂しさがあったのか、彼女はフォローするように返してきた。「この子との絆。わたしには足元にも及びません」。そう言って微笑んだ。僕もつられて笑った。彼女はクマちゃんを連れて改札を抜けていった。「それじゃ」。僕は軽く手を挙げて見送った。彼女は振り返り、深く頭を下げた。顔を上げると、クマちゃんの手を取ってバイバイの仕草をさせた。“僕と同等? いやそれ以上かもしれない”。心の中でつぶやき苦笑した。

                

 僕はてっきり、二つの世界、異なる時空間を行ったり来たりしているものと思い込んでいた。都合よく出たり入ったり、体躯を調整弁に漂い彷徨っているもの、と。そうすることで心身のバランスを取ってきたし、日常のくびきから解放されたような気分になれた。目の前で展開される諸現象は後景へ退き、内心の目くるめく充溢に浸された。恍惚が極まって、至福なる死へ近づき、永遠に触れでもしたかのような、そんな錯覚に陥ってしまうほどだった。これまでのズレや違和感が修正され、ありとあらゆるものが重なり合わさっていく。こうして二律背反するモノどもコトどもと、辛うじて何とかやって来れたし、それに併せて対処療法的に手段も多様化・深化させて、何とか生き長らえてきた。

 うまく出来上がった細胞間の、特に神経系の、脳髄を基点とするネットワーク。それこそ神の手による配剤、秀逸なる生理のオートマティック、恐るべき物性の論理。対する愚鈍なる意識の散在、見紛うベクトルの照射、捨象さる余剰の可能性。これら二つのプロセスの、とどまるところを知らぬ、双方向なエレメント群の流れを前に。そこから派生して来る、そこに起因している、精神誕生の秘話、事は不可避に不可解に不可抗的に。この厄介な内的現象、複雑怪奇な、つかみところのないガイスト・心・魂・霊…というようなもの。物性と精性、そのあいだに立つ流性。三位が散逸・融通し、成り立つものは。

 あいだに流れるもの、媒介するもの、融合させるもの。流性の立ち振る舞いが優勝劣敗、事を決する、とまでは行かなくとも。なにがしかの影響を与える、けっきょく情勢を左右する、そんなふうに事を運んでいくのも。いつ固化するとも、いずれ気化して無くなるかもと、液化の宿命を知るものは。果てなく移りゆく、環をめぐり僅かに昇っていく、螺旋に可能性を見るならば。循環するのでも、直線をたどるのでも、むやみに進むのでもなく、ただ弁証法的にラウンドして。取るに足らないもの、疎外されて来たもの、出来の悪いもの、それらを寄せ集めて。選ばれしもの、保持されて来たもの、優越なものを、あえて蔑(ないがし)ろにすることで。

 スパイラルに昇っていく、漸進的に上っていく、時の流れに逆らって、この枠からはみ出して。ずれが重なっていく、すき間が広がっていく、余白が穿たれ、残余を埋めて。水位が上っていく、みるみるうちに満たされ、溢れ出ていく、その流れのままに。フィルムのひとコマのごとく、無機質に過ぎていく、加速していく、カタチを成すも。痕跡をたどることも、さざなみを立てるでもなく、ただノマドのように自由を、無を求めて。放射線状に広がる、ランダムに散逸する、ベクトルが意味をなくし、ただ流動して。過去と未来が重なり合い、現在が重畳する、螺旋状に延びていく、外殻を破り内心がはみ出して。

 流体であると意識する、吸い込まれ滲んでいく、漏れ出し広がっていく。ぬるっとカタチを想わせる、薄っすら輪郭を浮かび上らせる、震えながら流動して。ただに創造するも、カタチ無きものを、寸前のところで破壊する、退化が始まるその前に。純度が極まるも、ぐずぐず辺りを経巡らかし、しだいに稀薄になっていく、ふたたび流れを取り戻し。透明度が増していく、視認がかなわず、無に近づいている、ただ死のそばに。錯覚に囚われる、思惟が息づく、気息が行き渡っていく、精神の芽生えを。正体不明になって、痕跡も残さずに、ただ流れていく、非連続の連続。

 媒介するだけの、両端を渡すだけの、けっきょく役割を果たすだけの、非存在の存在。居場所を持たず、呼び出されるがまま、ひととき姿を現すだけの、たんなる接合剤に。実体がなく、意味もなく、ただ容態変化するだけの、虚体と言ってしまえば。馴染んでいく、浸透していく、融合していく、見分けがつかなくなっていく。飽和へ向かっている、流れが滞りはじめる、カタチが浮かんでくる、コトが成り上がってくる。余白がなくなる、残余が埋め尽くされる、余計なモノが排除される、満を持してプロセスが動き出す。知らぬ間に乗り遅れる、沿えずに脱落する、一人取り残され、笑顔で見送る。大地に倒れて身を焦がす、大海に溺れて沈静する、天空に預けて飛翔する、死に解き放たれて。


 みんなに囲まれている、この子らと戯れている、彼女もそばにいる、すべてが融け合っている、この流れの中に。クマくんが、カエルちゃんが、イヌくんが、ブー子が、そしてキリンのブースカが、そして彼女が、やさしく微笑んで。大勢の、かわいい子らに見守られ、抱きしめられて、癒されて。地平線が尽きるまで、水平線の彼方まで、時空を外れて、この子らと、彼女とともに。このズレの中で、差異をものにし、超過に耐えながら、粘り強く螺旋状に。はぐれないように、離れないように、しっかり結ばれて、昇っていく。おぼつかなくとも、いまだ成らずとも、流動の中で、しっかり手を握り合って。流れに紛れても、呑み込まれてしまっても、溺れたとしても、放すことなく。

 それこそ環になって、スパイラルな傾きに沿って、上っていく、昇華していく。時が止まる、空が割ける、流れが溢れ出す、止めどなく。一つ舟に乗り込んで、荒波を越えて、静寂の波間に、新機軸を求めて。身体を寄せ合い、思いを一つに、ニューフロンティアへ向けて、舵を切る。もっと内側へ、さらに内心へ、広大な宇宙へ、無限軌道に浮遊して。外殻なく、意味なく、価値なく、放たれて。ほとばしる内心を抑えて、核心へ引き寄せられながら、真理の扉を前にして、躊躇することなく。顔を見合わせて、決意を新たに、僕も、彼女も、この子らも。突き抜ける、余力を振り絞り、ともに超え往く、還り往く。固化を夢見ることも、気化に紛れることも、ただ流動に満足することも、なく。

 細胞が死滅していく、ネットワークが断たれていく、経年劣化に従うまでもなく、これ見よがしに。全体を揺るがす、カタチが崩れていく、流動が始まる、気息がたちこめる。精霊が呼び出される、ガイストが寄添う、しっかり併走してくる、摩擦に耐えながら。ここに僕がいる、そこに彼女がいる、まわりにかわいい子らがいる、精神となって。どこまでも流れていく、遮るものはなく、ただ漂うだけの、環の中で微笑み合って。魂を向け合い、流れを創り出す、すべてを投げ入れ、賽の目に任すも。無に近づく、愛に触れる瞬間に、あふれ出てくる、この激しさに戸惑うも。さらに純度を高めて、揮発を恐れず、ぐんぐん昇っていく、無へと。

 有るものすべてに、別れを告げて、大悲のもとに、慈愛に包まれて。姿勢を正し、前を見据えて、無の中へ、愛の世界へ。自らを無にし、他を包み越え、愛に召されるまま、流動の先に。気息が立ち昇る、スパイラルに広がっていく、仄めかしにまとわれて、兆しに包まれて。絶対者を誘い出す、非存在を顕わにする、無の中で、死とともに。遠くへ運び去る、自同律の不快も、他律への誘引も、絶対無の中へ。主観も客観もなく、クリアな混沌の中で、不同不離の関係に、ただ浮遊して。動も静も一如にして、時を越え、枠をはみ出し、非連続の連続に。エターナルに触れる前に、僕がこの子に、あの子が彼女に、かわいい子らが僕と彼女に。美しき三一性にまとわれて、無が愛に転化する、愛がすべてを包み込む、清らかに還流していく…。

                    ◆

 “僕”は寝室で、ベッドの脇で、あの子を、彼女を、待っていた。入って来るなり、彼女は、僕の頭を撫でて、目線に合わせるように、屈み込んだ。腕の中に、かわいい子を抱いて、やさしい眼差しで、微笑んだ。立ち上がると、彼女は、ベッドの端に、腰をおろし、そのままじっと、動かなくなった。その表情は、窺えなかった、でも、後ろ姿が寂しそうで、思わず、動き出してしまいそうだった。気息から流体、さらに固化して、どのくらい経つのだろう。布と綿、一部プラスチックになって。もうすでに、時の流れも、周りの隔たりも、感じなくなっていた。でも、どうにかして、やりたかった、彼女を。しばらくすると、重い腰を上げ、彼女は、寝室から出て行った。かわいい、この子を、元の場所に残して。“僕”は、その場で、彼女を、見送るしかなかった。

 “僕”はリビングのソファーに、座っていた。そこに、彼女が、置いてくれた。しっかり、抱きしめてくれた、あとに。初めて、会うにしては、悪い感じではなかった、この隣にいる男の人は。少し、照れたような、表情をしていた、それに、“僕”を見る目が、やさしかった。彼女と男のあいだに、流れているもの、二人を包む、オーラというか、そこから放たれる、気息が安らかで、清らかで。そう、ガイストが、精神が、魂が、心が。キッチンから、彼女が、料理を運んできた。リビングの、テーブルに並べると、“僕”に微笑みかけて。でもすぐに、キッチンへ、戻っていった。また、男の人と、二人きりに、なってしまった。退屈がてら“僕”の顔を、のぞき込んだり、胴体を、軽くなでて来たり。寝室から、彼女が、“僕”を、連れて来たことに、違和感を抱いてない、ようだった。でも、あまりにも、じろじろと、見てくるので、こっちが、恥ずかしくなって、しまって。

 ソファーに、“僕”と男の人、それに、彼女も加わって、一列になって、食事が始まった。“僕”と男の人が、仲良さそうに見えたのか、彼女は嬉しそうで、いつになく、おしゃべりだった。途中“僕”の方へ、微妙に視線を移して、話しかけてきた。“どう、いい人でしょ”。“僕”は、表情を変えず、内心に生じた、信号をそのまま、送った。どういうわけか、彼女は、立ち上がり、キッチンへ、行ってしまった。“僕”と、男の人は、顔を見合わせた。彼女は、トレーの上に、小鉢を乗せて、帰ってきた、気のせいか、顔を赤くさせていた。このあと、彼女は“僕”を抱え上げたり、男の人の方へ倒れこんだりと、ちょっと、手のつけられない、感じになった。皿洗いも、二人並んで、楽しげに、いちゃついている、と言っても、いいほどだった。“僕”は一人、リビングに残されて、何も映っていない、テレビ画面を前に、しているほかなかった。

 彼女が、玄関口から、戻ってきた。彼を、見送って、リビングへ入るなり、駆け寄ってきた。“僕”を、強く、抱きしめた。この組成で、窒息する心配はなかったけど、けっこうな、圧迫感だった。それよりも、彼女から発する、気息の中でも、一番尊い、何ものにも代えがたい、愛のニュアンスが、感じられた。彼女は、目を、赤くしていた、涙が、少し滲んでいた。ずっと“僕”を、抱きしめたまま、しばらくのあいだ、動かなかった。そのとき“僕”は、流動が起こる気配を、感じた。この世界、この次元、この対象界、そう、此岸から、別れを告げる機会が、訪れて来そうだった。このままでは、彼女とともに、流動してしまう、カタチが崩れていく、蒸発していく、彼岸へ逝ってしまう。このあと、ふたたび流動し、固化して、戻ってくるのは、いつのことか。

 身を引き離そうと、懸命になればなるほど、彼女とともに。流動化していく、融合していく、一体化していく。このプロセスを、止める手立てが、ないばかりか、このまま放っておけば、流動は加速するばかり。円環状に、スパイラルに、昇っていく。彼女の、透明感が、増していく、穏やかに、流れていく。きらめき、揮発していく、小さな小さな、水蒸気の珠に。映し出される、笑顔で立ち昇っていく、彼女の。このファニーな姿態も、カタチをなくし、流れ動いていく、気と化していく。彼女と、合流していく、混ざり合って、融け合っていく、ふたたび、一体となっていく。内も外もなく、精神も肉体もなく、ただ媒介するものだけが、駆けめぐる、微かに唸りをあげて、旋回していく。カタチを成さずに、浮かび上る、全体が、ただ動いていく。

プロセスを繰り返す、少し上向きに、たとえ螺旋状でも、ズレが生じようとも。そこに止まろうと、それで終わろうと、踏ん張っても、円環の歪みに取り込まれて。抜け出そうにも、這い出そうにも、ぐるぐる廻るだけで、流れに棹させず。すき間を狙って、殻を脱ぐように、余白を残して、解き放たれようと。顧みる術もなく、心身も実感できず、ただ流動するだけ、漂うだけの。組成の更新に、姿態の変化に、内心の推移に、緩やかな進展を期して。少しの歪みも、広がる余白も、見紛う超越も、力に換えて。輪廻を信じて、転生を誓って、繰り返す、彼岸を超えて。

 僕はただ、彼女とともに、この子らといっしょに、このプロセスを…。(了)

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この子と、彼女と、僕のプロセス オカザキコージ @sein1003

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