第4話 潜伏

 都内某所。時刻は午後三時を回った頃。

 家とコンビニの往復の日々だった天野にとって随分な遠出であったが、背に腹は変えられない。今、彼の目の前に建っているこのアパートが、千里川瞳の住まいだった。


 Dabetterで感じる数十倍の高揚感が、彼の全身を支配している。退職してからというもの、放っておけば心が餓死しそうなほど刺激がなく、また刺激を受け入れられるほどの余裕もない沈みゆくだけの日々の中で、唯一心が躍動したのがDabetterだった。それを超える刺激の大きさに、今の彼には何であっても実現できる気さえしていた。


「にしても……ボロいな」


 天下のアイドルが、このような安アパートとは。何か複雑な事情でもあるのだろうか。しかしDabetterのリプライで受けた仕打ちを思えば、どのような事情があろうと同情心などカケラも生まれなかった。


 天野の手元には、望遠レンズを装着したカメラ。これで千里川の家の前に張り込み、男友達とやらと一緒に家に入るところを撮る。調べたところ、千里川のスキャンダルはまだ誰にも撮られていないようだから、週刊誌に売ればそれなりの値段になるだろう。しかしそれをネタに“交渉”すれば、別のメリットもあるかもしれない。何、あれだけ派手に男遊びしているのだ。さして抵抗はあるまい。


 そんなことを考えながら、天野は千里川が住む部屋の見える場所を探す。それなりに長い期間張り込む必要がありそうだったが、モバイルバッテリーも複数台用意したし、時間ならいくらでもある。幸い、アパートの隣はちょっとした雑木林になっており、そこの草むらに身を潜めることができそうだった。



 一時間後、天野は自分の見通しの甘さを認めざるをえなかった。草むらの中に、身を隠しながらも落ち着ける空間を作り出すのにかなりの労苦を強いられた。ただでさえインドア派の天野にはそのために使えそうな知識など持ち合わせがない。居心地を良くしようとすると外から見えてしまうし、隠そうとしすぎると草木が身体に当たって傷だらけになる。


 そこからさらに四苦八苦し、何とか監視を始めた頃には午後六時を回っていた。暗さが心配になりカメラを覗いてみたが、アパートの照明で何とか人を撮ることくらいはできそうだ。


 念のため動画撮影をしながら、時折アパートの部屋のドアを確認し、Dabetterで戦いを繰り広げる。そんな繰り返しを二時間ほど続けたのち——千里川が、帰ってきた。


 無防備にも、変装はしていない。肩までの髪に黒のややタイトなサマーニット、スキニーデニムといった服装はテレビで見る彼女の印象とほとんど変わらない。Dabetterでの粗雑で乱れた印象を思い出し、天野はにんまりと笑んだ。しかし残念ながら、今日は誰も男を連れてはいないようだ。そのまま彼女の部屋の前に辿り着き、ドアを開けて中に入ってしまった。


 家に入ってしまえばこちらとしてはできることは何もない。設えたこの空間はそのままにして、カメラだけ持って帰ろうかと考えたそのとき、天野は今の光景にわずかな違和感があることに思い当たった。


 千里川は外出先から帰ってきて、そのまま自宅に入った。ほとんど流れるような、淀みない動作だった。それは彼女の洗練された佇まいからくるものかもしれない。しかし——


「あ」


 天野は違和感の正体にたどり着く。

 彼女は鍵を解錠する動作をすることなく、ドアを開けたのだ。

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