練習問題⑥老女

 全体で一ページほどの長さにすること。

 ひとりの老女がせわしなく何かをしている――食器洗い、庭仕事・畑仕事、数学の博士論文の校正など、何でも好きなものでいい――そのさなか、若いころにあった出来事を思い出している。

 ふたつの時間を超えて〈場面挿入〉すること。〈今〉は彼女のいるところ、彼女のやっていること。〈かつて〉は、彼女が若かったころに起こった何かの記憶。その語りは、〈今〉と〈かつて〉のあいだを行ったり来たりすることになる。

 この移動、つまり時間跳躍を少なくとも二回行うこと。

一作品目:人称――一人称(わたし)か三人称(彼女)のどちらかを選ぶこと。時制:全体を過去時制か現在時制のどちらかで語りきること。

二作品目:一作品目と同じ物語を執筆すること。人称――一作品目で用いなかった動詞の人称を使うこと。時制――①〈今〉を現在時制で、〈かつて〉を過去時制、②〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制、のどちらかを選ぶこと。


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(一作品目:三人称、過去時制)


 泡まみれのスポンジを持つ手に力がこもった。少し赤みの付き出したタイルの目地を彼女の手が丁寧に丁寧になぞっていった。洗い場と湯舟、壁と扉まで拭き上げたところで手を止め、泡の付いていない手の甲を押し当てて、ぐぐーっと腰を伸ばした。これは彼女の癖。何十年経っても、ほんの些細なことであっても、気合いの要ることはあるのだった。

 蛇口をひねりシャワーを構えた。勢いよく出る水が白い泡を押し流した。ふと、そのひと固まりに在りし日の彼女自身の姿が見えた気がした。

 あの日、奥の台所で夕食後の洗い物をしていた彼女は知らぬ内に一人家の中に取り残されてしまっていた。配送用のバンが無くなっていたことから、店で働いていた人達は皆夫が運転するそれで避難したようだった。店側に回ると既にくるぶしにまで水が押し寄せていた。忘れられたのではないだろうが、五分待っても車は戻って来なかった。軒を越え、窓ガラスを勢いよく叩きつける雨音に心細さが募った。先程までは見えていたはずの商品棚の下段に置いてあるお酒のラベルが見えなくなっていた。少し迷ったがぐぐーっと腰を伸ばし、ふうと息を吐くと心を決めた。

 ここにいる訳にはいかない。

 雨合羽を被り、玄関の引き戸に鍵をかけると全身を重い雨粒が殴りつけた。雨水が勢いよく流れ足元が見えない道路を一歩進むと、今度は彼女の内側が蹴りつけられた。それが彼女を勇気付けた。横殴りの雨粒が痛くて顔も上げられない暗闇の中だったが、疎らな街灯を頼りに彼女は歩を進めた。もう一つの命がお腹の中にある今、中洲の家にじっと籠っていることはできなかった。

 橋まで辿り着くと川の水は既に堤防に達し、あふれ始めていた。いつ決壊してもおかしくない様子を見て、やはりあのまま家にいてはいけなかったとは確信したが、同時に目の前の状況にすくんでしまい足が動かなかった。これは駄目だと頭の中が激しく警鐘を鳴らした。引き返そうとした時、橋の向こうにヘッドランプが見えた。うちのバンだ。ほっとした瞬間、何かに足を取られた。木の板だったか、それとも流木だったか。とっさにお腹をかばって二歩、三歩。よろめいた先に地面は無かった。

 鼻歌と共に流し台に泡だらけの茶碗が伏せられた。続けて湯飲み、お椀、お箸。あの日、濁流に飲み込まれた彼女はしかし、奇跡的に生き延びることができた。川岸に上流から流れてきた瓦礫の溜まりがあり運良くそこに引っかかったのだ。あれから時が流れ、腹の中にいた子も立派に成長して今では二児の母になっていた。残念ながら折り合いが悪く、もう十年近く口を聞いていないが、何度か夫と話す電話を隣で聞いた。元気そうだった。それで、十分だった。腰に手の甲を当ててぐーっと伸びをした。さて、と声に出してコックを上げた。蛇口からシャワーの水が勢いよく流れ出した。


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(二作品目①:一人称、〈今〉を現在時制〈かつて〉を過去時制)


 泡まみれのスポンジを持つ手に力を込める。少し赤みの付き出したタイルの目地を丁寧に丁寧になぞって落としていく。洗い場と湯舟、壁と扉まで拭き上げたところで手を止め、泡の付いていない手の甲を押し当てて、ぐぐーっと腰を伸ばす。これはちょっと気合いを入れる時の私の癖。何十年経っても、ほんの些細なことであっても、気合いの要ることはある。

 蛇口をひねってシャワーを構える。勢いよく出る水が白い泡を押し流していく。そのひと固まりに在りし日の自分自身が重なって見える。

 あの日、奥の台所で夕食後の洗い物をしていた私は知らぬ内に一人家の中に取り残されていた。配送用のバンが無くなっていたことから、店の人達は皆夫が運転するそれで先に避難したようだった。店側に回ってみると、既にくるぶしにまで水が押し寄せていた。まさか忘れられたのではないだろうが、五分待っても車は帰ってこなかった。軒を越え、窓ガラスを勢いよく叩きつける雨音に心細さが募った。ついさっきまでは見えていたはずの商品棚の下段に並べたお酒のラベルが見えなくなっていた。少し迷ってぐぐーっと腰を伸ばし、ふうと息を吐くと心を決めた。

 ここにいる訳には行かない。

 雨合羽を被り、玄関の引き戸に鍵をかけると全身を重い雨粒が殴りつけた。雨水が勢いよく流れ足元が見えない道を一歩進むと、今度は私の内側が蹴りつけられた。大丈夫。大丈夫だからね。横殴りの雨粒が痛くて顔も上げられない暗闇の中だったが、疎らな街灯を頼りに歩を進めた。もう一つの命がお腹の中にある今、中洲の家にじっと籠っていることはできなかった。

 橋まで辿り着くと川の水は既に堤防に達し、あふれ始めていた。いつ決壊してもおかしくない様子を見て、やはりあのまま家にいてはいけなかったとは確信したが、同時に目の前の状況にすくんでしまい足が動かなかった。

 これは駄目だ。渡れない。頭の中で激しく警鐘が鳴った。引き返そうとした時、橋の向こうにヘッドランプが見えた。うちのバンだ。手を上げると、ヘッドランプがちかちかと返事した。これでもう大丈夫。ほっとした瞬間、何かに足を取られた。木の板だったか、それとも流木だったか。川の水は足の甲を舐めるように流れていたので鯉でも泳いできたのかもしれない。とっさにお腹をかばって二歩、三歩。よろめいた先に地面は無かった。

 鼻歌と共に流し台に泡だらけのお茶碗を伏せる。続けて湯飲み、お椀、お箸。濁流に飲み込まれたあの日、助かったのは奇跡だと思う。水面も分からない中、必死でもがいていたところ、ちょうど上流から流れてきた瓦礫の溜まりに指がかかったのだ。ここで離したらお腹の子まで死んでしまう。その一心でしがみ付いていた。あれから時が流れ、お腹の中にいた子も立派に成長して今では二児の母だ。残念ながら折り合いが悪く、もう十年近く口を聞いていないが何度か夫との電話を隣で聞いている。元気そうな声をしていたから、大丈夫なんだろう。それで、十分だ。腰に手の甲を当ててぐぐーっと伸びをする。さて、と声に出してコックを上げる。蛇口からはシャワーの水が勢いよく流れ出してくる。


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(二作品目②:一人称、〈今〉を過去時制〈かつて〉を現在時制)


 泡まみれのスポンジを持つ手に力を込めた。タイルの目地に沿って丁寧になぞり、少し付き始めた赤い汚れを落としていった。洗い場と湯舟、壁と扉まで拭き上げたところで手を止め、泡の付いていない手の甲を押し当てて、ぐぐーっと腰を伸ばした。これは気合いを入れる時の私の癖。何十年経っても、ほんの些細なことであっても、ちょっとした気合いの要るくらいには心に軟らかさは残っていた。

 蛇口をひねってシャワーを構えると、勢いよく出た水が白い泡を押し流していった。ふと、そのひと固まりに在りし日の自分自身が重なって見えた。

 奥の台所で夕食後の洗い物をしている。夕方から雨の音が酷くて洗い物以外の音が完全に消えて、世界に私しかいない気分になる。洗い物を片付けて店の方に回ると既にシャッターが下ろされている。その下にはいくつもの土嚢。隙間からか水が入り込みくるぶし辺り間にまで浸水している。知らない内に一仕事あったらしい。大雨の準備を労わなくては、と夫を探しに行こうとした時、窓の外にあるはずの配送用のバンが無くなっていることに気付く。店の人達のバイクや自転車はある。危ないからと送っているのだろう。とりあえず戻って、家中の戸締りをして回る。

戻ってみると、水は土嚢の高さを越えている。商品棚の下段に並べたお酒のラベルももう見えない。この高さでは車も動かないかもしれない。少し迷ってぐぐーっと腰を伸ばす。ふうと息を吐いて心を決める。

 ここにいる訳には行かない。

 雨合羽を被り、玄関の引き戸の鍵をかけると全身に重い雨粒の嵐を受ける。雨水が勢いよく流れ足元が見えない道を一歩進むと、今度は私の内側が蹴りつけられた。大丈夫。大丈夫だからね。横殴りの雨粒が痛くて顔も上げられない暗闇の中。見慣れているはずの道を思い出しながら、疎らな街灯を頼りに歩を進める。もう一つの命がお腹の中にある今、中洲の家にじっと籠っていることはできない。

 橋まで辿り着くと川からあふれ出す水が勢いよく足を押してくる。いつ決壊してもおかしくない様子を見て、やはりあのまま家にいてはいけなかったと確信はするが、同時に目の前の状況にすくんでしまい足が動かない。

 これは駄目だ。渡れない。頭の中で激しく警鐘が鳴る。一度引き返そうかと思っていると、橋の向こうからヘッドランプが近づいてくる。うちのバンだ。手を上げると、ヘッドランプがちかちかと返事してくれる。これでもう大丈夫。ほっとした瞬間、何かに足を取られてよろめく。木の板か、流木か、鯉だったかもしれないが思い返す余裕もない。とっさにお腹をかばって二歩、三歩。踏ん張りがきかなくなって、あっと思った時から先は記憶がない。

 鼻歌を歌いながら流し台に泡だらけのお茶碗を伏せた。続けて湯飲み、お椀、お箸。濁流に飲み込まれたあの日、助かったのは奇跡だった。岸辺に瓦礫の溜まりができており、そこに必死でしがみ付いていたのだと後から聞いた。助けられてからはずっとお腹の子の心配ばかりしていた。あれから時が流れ、お腹の中にいた子も立派り成長して、今では二児の母になった。残念ながら折り合いが悪く、もう十年近く口を聞いていないが、何度か夫との電話を隣で聞いた。元気そうだった。それで、十分だった。腰に手の甲を当ててぐぐーっと伸びをした。さて、と声に出してコックを上げた。蛇口からはシャワーの水が勢いよく流れ出してきた。


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 二作品目の②(みっつ目)が一番書きやすかった。分量も多くなったけど、原因の半分は三回目で慣れてきたから書きたいことが増えたってだけの気もする。ただ、現在形の方が切迫感を伝えやすいのはありそう。

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