練習問題④重ねて重ねて重ねまくる 問2

語りを短く(七〇〇~二〇〇〇文字)執筆するが、そこではまず何か発言や行為があってから、そのあとそのエコーや繰り返しとして何らかの発言や行為を(おおむね別の文脈なり別の人なり別の規模で)出すこと。

やりたいのなら物語として完結させてもいいし、語りの断片でもいい。


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 夜中、トイレに行きたくて目が覚めた。我慢して寝てしまおうかとも思ったけど、「五年生にもなって、まあた布団を雫にしとう」と、笑われるのが嫌で起き出した。付いて来てもらおうかと少し迷ったけど、「五年生にもなって、まあだ一人でトイレにも行けんのか」と笑われるのが嫌で、親や隣の部屋で寝ている祖父たちを起こさないよう、重い引き戸をゆっくりと引き開ける。二つ目は開いているので、引き戸で十字に隔てられた四つの部屋のはす向かいが見える。山姥が包丁を研いでいそうな暗い居間は、しかしそこには誰もいない。

 代わりに、薄ぼんやりと手が生えていた。

 舞い上がったホコリが月明かりに照らされるような曖昧さで、座った人の背丈ほどの関節のない腕と僕のと変わらないくらいの小さな手が床の辺りからすぅっと生え、海月のようにゆらゆらと漂っている。寝ぼけているのかと目をこすってみたけど、ぼんやりとした手はやっぱり同じ場所で揺らめいている。襲ってくる気配もないが、かといって逃げ出しそうな気配もない。不気味だけど怖くはなくなってくると、そこ、昼間は僕の場所なんだけどなとちょっと不満を感じる余裕も出てきた。

 炬燵を挟んで手の届かない所をそろりそろりと通り抜け、足裏で畳の終わりを探して土間に降りる。畳の縁から土間へは腰の高さ程の段差があるから気を付けないと行先がトイレじゃなくて病院になってしまう。ゆっくり降りて、土間の感触を確かめながらサンダルを探す。

 サンダルが履けたら、今度はトイレの電気を点けないといけない。トイレは外に出て納屋の一番奥、裏山との境だから灯りが無いと怖くて行けない。でも、そのスイッチは竈と冷蔵庫の間の高い場所。

 少しだけ悩んで、結局諦め、竈の蓋のお札を供えているはずの辺りにひとつ手を合わせてから竈の縁に足をかける。指先も見えない暗い影の中、手探りでスイッチを探そうとする手が思わず止まる。

 冷蔵庫と壁の隙間から、薄ぼんやりと手が生えていた。

 思わず振り返ったけれど、居間の手はまだ同じ場所にいる。スイッチの辺りに視線を戻したけれど、やっぱりいる。これは一体何なんだろう。

 どうしようか悩んでいると、先に手の方が動き出した。十センチ程ゆらりと伸びて、スイッチの場所を指差す。ほのかに光っているようで、指の先にスイッチが見えた。勇気を出して押すと、カチリと音がする。ほっとして目を離した瞬間、指先に風が吹いた感触があった。慌てて見直すと、さっきの手の指先が弧を描き自分の指先をすり抜けて元の位置に引き下がるところだった。

 感触はあるけれど、つかんだりすることはできないみたい。そう思うと、少しだけ怖さも減ってきた。それと同時に反抗心もムクムクと芽生えてくる。

 これ明るくなったら消えるのかな。

 スイッチはみっつ並んでいる。ひとつはトイレのすぐ上。もう一つは外に出た所を照らすもの。そして最後のひとつは壁を挟んだすぐ隣の水屋の灯り。それを点ければ、この隙間だっていくらかは明るくなるはず。そしたら、この手も消えて無くならないかな。

 パチ、パチと押すと、冷蔵庫の向こう側にオレンジ色の柔らかい光が灯った。手は、消えなかった。光が灯ったことさえ気付いていないかのように、ただ変わらずそこで揺らめいていた。それどころか、明るくなったことで余計にいくつか見えてきた。居間の下から伸びるようにひとつ。水屋の漬物樽の脇にもうひとつ。気持ちは悪いけれど、つかまれたりしないのなら、もうどうでもいい。これが何なのかは明日、お父さんに聞いてみよう。

 ゆらゆらと揺らめく手から目を離さずに隣を通り抜け、勝手口から外に出た。外は、静かだった。下の沢の音がする。向かいの山の杉の葉が風に揺れる音がする。けれど、何かが足りない。足りないのが何なのか必死で考える。納屋は見ない。戸が無くてもあそこには光が届かないから。大丈夫。きっと誰もいない。きっと何も揺らめかない。

 ようやく家の端のトイレにまで辿り着いた時には目尻に涙が溜まっていた。トイレの入り口の電球にはあの手が絡まっていたけれど、見なかった振りをしてシロアリに食われてボロボロになった木の扉を開いて手前の個室に入る。ここのトイレはふたつの個室の下に布団を二枚敷けるような大きな桶が掘られていて、個室に開いた穴を跨いでする。もちろん、夜は下が見えない。下から手が伸びてこないことと、踏ん張っている足元の板が割れないことを祈りながら用を足した。

 余計なことを考えないようにして水屋に戻り手を洗っている時、唐突に足りなかったものに気が付いた。裏山の竹の葉がこすれて鳴る高い音。向かいの山では風が吹くたび聞こえるのに、裏山の音が聞こえない。

 行ってはいけない。見てはいけない。分かってはいるのに、手足は震え、ぼろぼろと涙は零れるのに、それでももう一度外に出て、今度は軒の向こう側へ。屋根越しに裏山を見上げると、やっぱりそこにはもう竹藪は無かった。

 代わりに、薄ぼんやりと手が生えていた。

 竹藪と同じ高さの無数の手が月明かりの下で揺らめいていた。

 あとはもう分からなかった。声だけは出さなかったと思う。勝手口の戸を閉めたかさえも覚えていない。膝ほどの高さのある水屋の敷居につまづいて土間で思い切り転んだけれど、そのまま居間によじ登り布団の中に頭から包まった。

 たぶん、ガタガタ震えている間に眠っていたんだと思う。気が付いたら、ちょうど居間の掛け時計がボーンボーンと鳴っている。途中からだったけど、たぶん六時か七時だと思う。障子の向こうが明るくなっていた。

 もう怖がる必要はないんだ。そう思って布団を跳ね除けて起き上がる。お日様の明るさが力をくれた。昨日のことが嘘のような気がしてきて、一刻も早く誰かに聞いてもらいたかった。

 けれど、両隣の布団にはお父さんもお母さんもいなかった。

 代わりに、薄ぼんやりと手が生えていた。

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