【Ⅵ】5

 全体は大き過ぎて、複雑過ぎて、絡み合った因果の糸は解しようが無い。我欲は軋轢を生み、軋轢は紛争を生じさせる。そして、紛争に介入する大国は自国の都合で状況をコントロールしようとする。パワーゲームに関わる者達と彼らの祖国にとって紛争を終息させることは必ずしも利益ではないのだ。だから建設的な対策を取ることは難しく、おぞましいことに、わざと手をこまねいてみせる。そうせざるを得ないのだ。逸脱すれば自分が切り捨てられる。そして逸脱しない後任者が選ばれる。誰も責任を取れない。誰に責任があるのか、あまりにも混然とし過ぎていて、きっと誰にも分からない。


 それでも考えなければ。


 テロに走る若者を増やしてはいけない。


「アミン……ッ!」


 違う。違う違う違う違う違う違う。アミンは違う。アミンはテロリストじゃない。


 イスラム過激派に傾倒する若者が世界中で社会問題になっている。でも、彼らは本当にイスラムの教えに影響を受けているのだろうか。アラーがテロを行えと要求しているのだろうか。僕にはそうは思えない。イスラムはそもそも生活に根差した部族宗教だ。様々なイスラム法シャリーアも六世紀末から七世紀初頭のアラブの生活を律するためのものだった。ムハンマドは自分を慕ってくる人々のために、良かれと思って助言を与えたはずだ。神の啓示うんぬんはよく分からない。だけど、始まりには愛があったと僕は信じる。反して、過激な原理主義は現代の時勢には合っていないと思う。特に女性に関する様々な制約は、幸福よりも不幸を齎していると感じる。


 テロを肯定する人達は、本当に、良かれと思って、愛を持って、神の名を唱えているのだろうか? 自分を認めない、自分にとって都合の悪い世界を壊したい──そんな歪んだ怒りに満ちた願望を肯定するために、神と信仰を利用していないだろうか?


 アミンのいなくなった夏が過ぎ、秋が深まり、心まで凍り付くような冬が明けて、花々の咲き乱れる春が来る。不意に吹いた風に爽やかな夏の香りを感じて、僕はゾッと身震いする。季節は残酷に巡って行く。


 悶々とした日々が過ぎ、アミンがいなくなってから一年が経ってしまっていた。


 八月のある日──


 公営住宅カウンシルフラットの母子家庭で育った十代の少女が、ISの思想に影響を受けてイギリスを出国し行方不明になったというニュースが流れた。


「この女の子、アミンと同じ……」


 ラティファは蒼褪めて口元を押さえ、貧血を起こしたようにリビングのソファに倒れ込んだ。僕も似たり寄ったりで、視界がぐらぐらと揺れて吐き気を覚えるほどだった。


 少女は単身、イギリスのドーバーからフェリーでフランスのカレへ渡り、パリ・オルリー空港からイスタンブールのアタチュルク空港行きの飛行機に搭乗したらしい。防犯カメラの映像などで、そこまでは判明しているが、以後の足取りは掴めていない。おそらくISのリクルーターと接触し、トルコ国境からシリア、あるいはイラクを目指したのだろうと訳知り顔の専門家が解説していた。


 各テレビ局のカメラに囲まれ、無神経なキャスターの質問に答える少女の母親は、画面の向こうで涙ながらに心情を訴えていた。


「あの子は良い子なんです。一度も母親の私を困らせた事はありませんでした。あの子に不自由をさせないよう、私は仕事を掛け持ちして必死で働いていました。朝早く仕事に出て帰宅は毎日深夜でした。だから、まだ十五歳なのに家事は全部あの子がしてくれていたんです。帰りの遅い私のために、簡単なものだけど食事を作っておいてくれる優しい思い遣りのある子です。確かに、なかなか一緒に過ごす時間は取れませんでした。でも、あの子のことは母親の私が一番よく分かっています。イスラム過激派だなんて……」


「なるほど。つまり、あなたは留守がちで、娘さんの行動を把握できていなかったのですね。だから、娘さんがイスラム過激派に傾倒していた事にも、ISの広報員と連絡を取って出国の準備をしていた事にも気付かなかったのではありませんか?」


「どういう意味ですか。私が悪い母親だったとでも?」


「ネグレクトだったのでは?」


「よくも、よくもそんなことを……他人に何が分かるって言うのよ──」


 母親は取り乱して声を荒げ、周囲の人間が彼女を取り押さえようとする場面で映像はメインキャスターのアップに切り替わった。


 ラティファは震えながら、ニュースを繰り返すテレビを消す。


「きっと彼女は寂しかったのよ。ずっと一緒にいてくれる誰かがいれば、どこへも行かなかったんじゃないかしら」


 彼女は暗に僕を責めていた。「あなたがもっとアミンと一緒にいてあげたなら」と、そう言っているのだ。


 ラティファを見ていると、アミンが劣等感を抱いた理由が分かる気がした。彼女といると、僕も劣等感に苛まれる。恵まれた階級、アミンがよく言っていたツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)に属している彼女は、上品過ぎて、綺麗過ぎて、優秀過ぎて、息苦しい。


 じゃあ、僕はどうだったんだろう? アミンは僕をどう思っていたのだろうか?


 僕は劣等感を刺激するような人間ではないと思う。金銭的にはアミンより自由だったけれど、ラティファよりはずっと気安い相手だったんじゃないだろうか。学歴も低くて仕事にも就いていなかった。ドロップアウトして社会から疎外された人間だ。いや、そんなことじゃない。僕はあの子が十三歳の頃から友達だった。僕になら見栄を張る必要も、背伸びする必要も無くて……


「トモ、アミンはあなたを好きだったのよ」


 ラティファはソファに身を沈めたままじっと僕を見詰め、咎めるように言った。テーブルに置き去りにされていたグラスの中で氷が溶けて、カラン、と音を立てる。


 僕達は、言葉にせずとも理解していた。


 アミンを孤独にしたのは僕だ。


 ラティファは──こんなことを暴くのは、傲慢で、残酷で、気が引けるけれど──僕ほどにはアミンの心に根を下ろしていなかった。


 恋人と家族は違う。僕はアミンの家族だった。アミンがダリル・ラヴロックを逮捕に追い込み母親からの愛情に絶望した時から、僕はアミンの家族に成り代わっていたのだ。僕のせいだと自分を責めて自己憐憫に浸りながら、僕は責任を果たしていなかった。


 救った相手には、責任が生じる。一度は命に触れているからだ。


 僕は、もっとアミンに寄り添うべきだった。たった一人の家族として。


 許して欲しい……


 アミン、僕を許してくれ……


 十代の若者がイスラム過激思想に影響されて家出をし、ISの活動する地域へ向かったというニュースは後を絶たなかった。


 後に、ISのポスターにも載った美少女もいた。彼女はイメージモデルとして広告に利用される一方で、性のジハードと称した兵士相手の娼婦の役を押し付けられ、逃げ出そうとして撲殺されたそうだ。アミンと同じ十七歳の少年もいた。彼は、アル・ブリタニー(イギリス生まれの)というイスラム風の名前を与えられ、自爆テロを行った。十七歳の少年が行った犯行はイギリス社会に衝撃を与え、史上最年少の自爆テロ犯としてニュース特集も組まれた。


 僕はまだそんな悲惨なニュースは知らなかったけれど、十代の若者がISに参加するために失踪したというニュースを聞くだけで、胸を引き裂かれるような気分になった。


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