【Ⅵ】4
「物静かな説教師だったのよ。彼の
本名は、イブラヒム・ベン・アッワード・ベン・イブラヒム・アルバドリ・アルフセイニ・アルクラシ・アルサマライ──というらしい。イラクの都市サマラの裕福な家庭の生まれで、ファルージャ──二〇〇四年、アメリカ合衆国軍とイラク武装勢力との間で激しい戦闘が行われたあのファルージャで、イスラム法学を学ぶ。彼の祖父はアラビア語学者でサラフィー主義者でもあったらしい。
ムスリムで、クライシュ族の血を引く自由民の男であり、人々の尊敬を集めた説教師であり、つまり、カリフに推戴される資格を有している。
あまりに見事な経歴で、悲しくなった。平和な時代だったら、彼はテロリストと呼ばれることなどなく、才能溢れる学者か政治家にでもなったのではないだろうか。
「あの人の奥さんは首を斬られて殺されているの」
「Pardon? What does it mean?」
一瞬、ラティファの発した言葉の意味が理解できず問い質してしまった。ラティファは悼むように固く目を閉じて首を横に振る。
「彼の親族がやったのよ。アメリカの好意を引き出そうとして……」
「嘘だろう? そんな、まさか、今は二十一世紀だぞ」
「やったのよ! 遠い東洋の平和な国で生まれたあなたが信じなくても、あの土地には中世と同じ古い時間が流れているのよ!」
「ラティファ、落ち着いて……」
「アミンはどうなるの? 彼はあそこにいるんでしょう?」
ラティファはもう僕には応えずに両手で顔を覆って泣き出した。
二〇〇六年、ジョージ・ブッシュはイラクでイスラム過激派に対抗する民兵組織の配備を行う。この案は一部地域では一定の成果を挙げたらしい。そして、二〇〇七年、アル・バグダディの妻の出身部族であるブファラジ族もアメリカ軍と同盟を結ぶ。ブファラジ族の長老は、アメリカが支払う報酬目当てにアル・バグダディの妻を斬首したらしい。
それが本当なら、血縁の娘を金で売ったということになる。
婚姻で結ばれた同朋に裏切られ、愛する妻を、よりにもよって血族の手で残虐に殺害された男の胸の内は計り知れない。
イラクのアル・バグダディゆかりの地域は、ラティファの一族にもゆかりのある土地だと彼女は言った。だから国を捨てて亡命した後も時折、人伝に祖国で何が起きているのか情報が流れて来たのだ、と。しかし、その噂も数年前から途切れているらしい。
みんな、国を捨てて亡命したのだ。
アル・バグダディ自身は二〇〇四年二月に逮捕され、アメリカ保護観察委員会の言によると同年十二月まで、悪名高いアメリカ軍の収容所キャンプ・ブッカに収監されていたらしい。二〇〇九年まで囚われていたという説もあるが、二〇〇六年、アル・ザルカウィの指揮するアルカイダ・イラク支部に参加したという証言もある。
アメリカが当時のイラクで何をしたのか──
様々な問題が後に暴露され、大規模なスキャンダルになった。非人道的な犯罪も、アメリカ軍によって数多く行われた。罪も無いイラクの人々が不当に虐げられたケースも多いはずだ。ましてや反体制側の組織に属していた人々は……
「それでも、本当に彼だけが悪いの?」
僕は何も言えなかった。
人間として知っている人達から見れば、どんな
政府や駐留軍の無慈悲な弾圧は、政府への反対運動をしていただけの人々すら過激化させる。IRAの闘争の歴史を見れば明らかだ。テロリストと呼ばれる人々も、最初は、不当な抑圧に反抗しただけだと言えるかもしれない。
しかし、アメリカ軍の立場からは、仕方のないことだったという声が聞こえてくるような気がする。実際に戦地に行ってみれば、一般市民にしか見えない反体制勢力の民兵やテロリストに命を狙われる日々だ。疑心暗鬼にもなるだろうし、現実問題として、自分の身を守るために強圧的な態度を姿勢で挑まねばならない場面もあるだろう。前線の兵士にだけ責任を押し付けることは出来ないと思う。自由な裁量が許されていない士官や軍上層部にもそれは言えることだろう。
では、アメリカやロシアの大統領が悪の親玉なのかと言えば、そうではないと僕は思う。民衆は気分で動く。支持を失えば転げ落ちるしかない。「愚かな国民に媚びるな」とか「ポピュリズムに堕すべきではない」なんて言い草は綺麗事だ。権力を維持できなければ、どんな政策も実現できない。大統領だって国民のご機嫌伺いをしないわけにはいかない。
それで、しわ寄せはアラブ諸国や発展途上国へ向かうのか?
リベラルな人達は言うだろう。
「弱者に犠牲を強いる国家元首は許せない。指導力のあるマトモな奴と交代させろ」
言うのは簡単だけど、現実味が無い。
責任者の首を挿げ替えれば良いという問題ではない。そもそも政治は特殊技能だ。正義漢が真っ正直にやれば、たちまち国際社会は混乱してしまうだろう。
駆け引きが世界の危ういバランスを取っているんだ。
バランスを取るといえば、ゴールデン・アーチ理論なんてものもある。経済が世界のバランスをとる──転じて、マクドナルドのある国同士は戦争をしないというトリッキーな
ただし、ゴールデン・アーチ理論は、ユーゴスラビアで、レバノンで、グルジアで、クリミアで、軍事衝突が起こり否定されているし、そもそも理論が提唱される以前にパナマとカーギルで反証が出ていた。
確かに、ソ連解体の混乱がある程度終息して以降、国同士が表立って衝突する戦争は珍しくなった。でも、どこが仕掛けているのか分からない内乱が蔓延している。
結局のところ、世界のグローバル化が進み各国の経済的結び付きが強くなったとしても、紛争が消えてなくなることは無い。列強のパワーポリティクスによって弱い国が犠牲を強いられる。世界各地の内乱は列強各国が陰で糸を引く代理戦争でもあるのだ。
よくもそんな恥知らずな真似を──とリベラル派は声を荒げるだろう。
だけど、そうせざるを得ない事情が列強にもある。各国の首脳は自国の利益を最優先に考えなければならない。正義の心に従って道義に合う公正な国際政策を打ち出したとしても、それが自国に不利益をもたらし、国民の懐を痛めるなら、大国米露の大統領といえども、民衆からの感情的な反発に焼かれずにはいられないだろう。誰もが何かしらの抑圧を受けていて、誰も心のままに正義を行うことは出来ない。例えそれが為されるべき正義であったとしても……
良心に従う者から順に舞台を下ろされる。
せざるを得ないから、他国を犠牲にしている。
ならば、悪いのは民衆だ。大局的な視野を持たず、目先の出来事の上辺だけを見て、まるで脊髄販社のように感情的に裁定する。なぜ悲劇が起こったのか、そこに至るまでの原因と経緯をほとんどの人が知ろうともしない。「テロリストが悪い、彼らは血も涙もない異常な殺人狂だ」と片付けて、バックボーンを調べようともしない。それでは何も解決しない。選択的無知の利便性が、民衆を蝕んでいる。知らなくても生活に支障は無く、知らなくても自分は生きていけるから、知らないままで良いと思っているのだ。
世界が不公平なままなのは無関心な民衆の責任だとも言える。
でも、それが本当に民衆ひとりひとりの罪なのだろうか。教育されなければ世界の仕組みなんて分からない。何が起きているのかなんて分からない。満足な教育を受けられないのは当人の罪なのか。違うと思う。教育を受けられないのは虐待だ。
ならば、誰もが犠牲者だということになる。
誰も悪くないと片付けそうになって、僕は鳥肌が立った。
じゃあ、どうして世界には紛争とテロが溢れているんだ──?
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