【Ⅴ】8
「アミン、機嫌を直してくれ。僕が悪かった。謝るから、元に戻ろうよ」
「無理だよ、トモ」
「アミン……」
「もう僕は子供じゃない。元通りなんて、そんなのは無理だ」
トモは信じていた飼い主に蹴られた犬のように、酷く傷付いた顔をしていた。
不意に、いつかラティファが言っていた質の悪いジョークを思い出す。僕とトモをブロマンスだと言い「寝てないわよね?」と揶揄った。トモはホームズとワトソンを例に挙げたけれど、僕はル・カレの小説「われらのゲーム」に出てきた二人、ラリーとクランマーだと言った。クランマーはラリーの
トモは僕の……
一度は鎮まったのに、僕はまたも猛烈に意地悪な気分になった。徹底的に傷付けてトモを征服してやりたい――打ちのめして叩き伏せて組み敷いて、僕が上だと思い知らせてやりたい。そんな暗く歪んだ衝動に、僕は一瞬で憑りつかれた。考えもせず、言葉が口を突いて出る。
「あんたが僕の女になるならいいよ。そしたら、あんたの言うこと、なんでも聞いてやるよ。
トモはその場に凍り付き、ハッキリと、クリアに、空気が、関係が、変わった。
「侮辱するのか……僕を……」
ハッと僕は息を飲む。言い過ぎた――と即座に後悔した。
「トモ……違う、さっきのは……」
「いいんだ、言い訳しなくても。君の言ったことは、たぶん、事実だよ……僕は君をいつまでも子供扱いしていた。対等に扱っていなかった。侮辱していたのは、むしろ僕のほうだ。だから何を言われても仕方ない」
「トモ……?」
肩に触れようとしたら、パシン、と手を払われた。
「トモ、ごめん……」
懲りずに抱き締めようと腕を伸ばす。トモは逃げた。あからさまに一歩下がって、僕に触れられまいとした。僕を、拒絶した。
「トモ……」
「もういい……もういい……僕も、もう無理だ……もうダメだ……」
トモは泣いてはいなかった。だけど酷く傷付いて今にも泣きだしそうに見えた。
長い沈黙の後、トモは血の気の無い顔で溜息をついた。
「ごめん、アミン。僕は行けない。ここまでだ」
肩の力を抜いて、トモはふわりと柔らかく微笑んだ。
「喧嘩したまま別れるのはよそう。アミン、今まですまなかった。僕を許してくれ」
「トモ……」
僕は君が好きだよ(How I do love you)、とトモは言った。
「ピグレット、君は遭難していた。でも、もう違う」
「何言ってるんだ、トモ?」
「あのストーリーを覚えている?」
「……何?」
「Winnie-the-Poohだよ。君、十三歳の頃に読んでただろ? いや、最初に読んだのはもっと小さい頃かな? あれは子供向けの本だもんな」
「プーは覚えてるよ。大好きな本だった」
「じゃあ、洪水が起きてピグレットがボトルメールを流す話は?」
「覚えてる」
確か、洪水が起きて百エーカーの森が水浸しになる話だ。ピグレットは一人ぼっちで取り残されていることに気付き、以前に聞いた絶海の孤島で遭難した男の話を思い出す。ピグレットは遭難した男を真似てボトルメールを流す。助けを求める手紙は偶然にプーの元に届くけれど、プーには文字が読めない。クリストファー・ロビンに読んで貰おうと、プーは蜂蜜の壷をボートにして湖になった森に漕ぎ出す。クリストファー・ロビンはプーが届けたピグレットの手紙を読んで、オウルを使いに出す。助けに行くと伝える為に――
ラストは、ピグレットがオウルの退屈な長話を聞かされ続けて眠くなった頃、プーとクリストファー・ロビンが傘のボートで助けに来るんだ。
「君は、毎晩、ボトルメールを流してただろ?」
HELP! PIGLET(ME)
IT’S ME PIGLET, HELP HELP.
遭難しています。誰か助けて――
僕は毎晩、ツイッターにそう書き込んでいた。トモに見付けて貰うまで。
「僕はオウルだ。プーとクリストファー・ロビンが洪水で遭難したピグレットを迎えに来るまで、君に長ったらしい話を聞かせるだけの役だったんだよ」
だから、ここでお別れだ、とトモは言っているみたいだった。後は別の奴と行け、と。
「トモはオウルじゃない」
僕の大切な……
なんと言えばいいのか分からない。
「クレイドル(ノアの方舟)の役目はもう終わりだ。君は自分の人生を生きろ」
「トモは?」
「日本に帰るよ。僕も
「日本に帰ってどうするのさ?」
「分からない」
参ったね、とトモはひとつ溜息をつく。
「アミン、君は自分の血の祖国へ行くことを選んだ。その道は僕の道じゃない。一緒には行けない。だけど、君の選んだ道が、君を幸せにすることを願っている」
戦地に行く奴に言うことじゃないけどさ、と前置きしてトモは声を詰まらせた。
「なるべく危ない場所には行くなよ」
ぱた、と涙が落ちる。トモが泣いていた。子供のように、弱々しく。
僕は直感で理解していた。トモは本気で僕と離れるつもりじゃなくて、ただ侮辱された自分を慰めるためと、この場を綺麗に取り繕うため、それから、僕を許すために、「お別れだけど元気でね」という態で、二人の出会いのきっかけになったWinnie-the-Poohのエピソードまで交えて、見栄え良く飾り立てて本質を誤魔化した話をしているだけだ。日本人がよく使う建前というやつだ。心にもない嘘ってやつだ。
トモは、こんな時でも、日本人のトモだった。
「バカだな、トモは。危ない場所に行かなきゃ戦いにならないじゃないか」
ぱたぱたぱた、とまた涙が落ちて、トモは嗚咽を漏らした。トモのやせ我慢の仮面がたちまち剥がれる。行くな、と言われて、ごめん、と謝る。
「本当に戦争しに行くのか? 気が変わったら今からでも……」
一緒に帰ろう――と、さよならを言った舌の根も乾かないうちに、トモは言い募った。
「行くのはよそうよ。行かないでくれ。頼むよ、アミン……」
「行くよ。トモの代わりに戦ってくる」
後に引けなくて僕は意地でそう答えた。この時には、この意地を全うすることが、僕がトモを越えて自立する唯一の道のような気がしていた。結局のところ、それは酷い間違いだったのだけれども、僕は、トモと対等になりたい、だから自分の力を証明しなきゃ、とそう思っていたんだ。トモを好きだったから――
トモは寂しそうに首を横に振って、それから乱暴に袖で涙をぬぐった。
「アミン、君と別れるのは、正直、辛いよ……」
「トモ、また会ってくれるよね?」
「僕はしばらくロンドンにいる。君が会いたいと思えば、いつでも会えるよ」
僕達の部屋で待ってる、とトモは言った。
「アミン、なるべく早く帰って来てくれ。またすぐに……すぐに会おう」
会えるに決まっていると思っていたから、僕は気軽に頷いた。この時は、帰国する気になれば簡単に帰れると思っていた。戦争を甘く見ていたんだ。
僕はムスリムらしく胸に手を当てて言った。
「アラーの御心のままに(イン・シャー・アッラー)」
がば、とトモが抱き付いて来た。ハグが苦手な日本人のトモが自分から抱き付いて来るなんて初めてだ。安い石鹸の匂いがする。
ありがとうと言う代わりに、トモはアラブの言葉を唱えた。
「あなたにもアラーのお恵みがありますように(ジャザーク・アッラー・フ・ハイラン)」
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