【Ⅴ】7

 トモは小刻みに震えていた。酷くショックを受けて、このままシリアに向かうのは恐ろしくなったらしい。


 二〇一三年三月にはすでに、内乱状態になっていたシリアで化学兵器が使用されたという噂が流れていたけれど、トモはデマだと決めつけて信じていなかった。理性のある人間がそんな暴挙を行うわけがない――と。


 トモは貪るようにスマートフォンのニュースを読み漁り始めた。


 騒乱は二〇一一年三月から続いていたが、それは内戦に発展し、ついには毒ガスが使用されるまで状況が悪化していたのだ。


 三月十九日、アレッポ市西部で化学兵器が使用され犠牲者が出ていたのだが、翌二十日にシリア政府から国連に調査要請がなされてから、調査団が現地入りするまでに五ヶ月が経過していた。しかも、八月二十一日午前二時頃――まさに今日の夜明け前だ――国連化学兵器調査団がダマスカスのホテルに逗留中に、そのホテルから十キロも離れていない反体制派グループ支配地域で化学兵器=サリンが使用された。ネットには犠牲者の映像や、惨状を伝えるメッセージが溢れかえっていた。アサド政権側が使用したと日本のニュースは報じていたらしいけれど、どうも、そうとは断定できない状況らしい。使用したのは反政府勢力側だとイギリスのニュースは伝えていた。情報は錯綜していた。


「信じられない。どうしてこんな……」


 取り乱すトモを見て僕は少し苛々した。噂は前々からあったじゃないか。人間の醜い部分を否定して、目を逸らして、綺麗な理想に酔って、そんな非道が行われるはずがないと勝手に思い込んでいただけじゃないか。現実を見せつけられたからって、今さらそんな風に動揺するなんて、トモは図々しい。


 怖くなったのか? 唐突に? 戦争を実感して――?


 トモは僕の両腕を掴み、縋りつくようにして声を張り上げた。


「行くのはよそう、アミン。シリアは危険すぎる」


「今さら引き返せるわけないだろ?」


「市街地にサリンが撒かれたんだぞ」


「だから?」


 正直、トモが何をそんなに慌てているのか理解できなかった。戦争なんだ。人殺しの道具が使われるのは当たり前じゃないか。


「毒ガスの使用は化学兵器禁止条約で禁止されている。化学兵器を市民相手に使用するなんて真っ当な指揮官を持つ軍のすることじゃない」


「それがどうしたって言うのさ?」


「どうした……って、アミン、意味が分からないのか? 条約無視の卑劣な戦術がつかわれているんだぞ」


「そんなこと、とっくに分かっていたじゃないか。トモが信じなかっただけだ」


「信じられるわけないだろう。だって、毒ガスなんて無差別な殺戮兵器だ……」


 無差別でない殺戮兵器があるのか、と逆に問い質したくなった。やっぱり日本人の感性は理解できない。善良で、お気楽で、獣じみた残虐な暴力を、息をするように行使する人間がいるなんて思いもしないんだ。トモはいつもそうだった。最悪の事態は想定しない。


 僕は違う。分かってる。世界が無慈悲で不公正だってことを。鬱屈と欲望を吐き出すために人を踏みにじって滅茶苦茶に壊してしまうダリルのような奴がいる。自分の子供にさえ無関心で愛情の無いママのような人もいる。気に入らないというだけで僕達アラブを蔑み辱める警官だっている。ツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)は日常的に僕達を差別する。そんな世界で、いったい何を信じろっていうのさ――


「トモは人の善性を信じているのか?」


 ぼそりと口にした僕の言葉はトモの耳には届かなかった。


「シリアへ行くのはよそう、アミン。この戦争は異常だ。まともじゃない」


 ああ、まったく、なんて君はお気楽なんだ……


「トモ、何言ってるのさ。まともな戦争なんてあるわけないだろ?」


 諭すように言った僕に、トモは初めて会う人を見るような驚きの目を向ける。


「アミン……分からないのか?」


「分かってるよ。分かってる。ちゃんと全部分かってる」


 だったら、とトモは言い募る。


「引き返そう、アミン。お願いだから――」


「逃げるなら一人で逃げろ。僕は腰抜けじゃない」


 とん、と縋りつくトモを突き放した。力を入れたつもりはない。ただ、ほんの少し、軽く肩を押しただけだ。トモは女の子のようによろけた。弱いんだ。トモは弱い。僕より小さくて、心まで弱い。僕はもうトモの下にいたくない。


「偉そうにするな!」


 唐突に爆発が起こった。


「いつもいつも鬱陶しかったんだよ。あんたは僕の保護者か?」


 抑え込んでいた不満が、鬱屈が、劣等感が、欲望と絶望が、一気に弾けた。


「ずっと嫌だったんだ。上から目線で勝手に心配して、洗礼を受けてムスリムになったことだって隠してた。それじゃ売春しながら何も言ってくれなかったママと同じだ。僕はあんたの何だ? 何なんだ? 家族でもない、兄弟でもない、恋人でもない。対等に接してくれないなら、友達ですらないじゃないか!」


「アミン、どうして、急にそんなこと……?」


「急にじゃないよ。ずっと思ってた。トモは僕を見下してる。子供扱いして、あんたの人生から排除してる。大事なことは何も話してくれない。今回の件だって、シリアに行くって勝手に決めて、ラシードとハシムが話をするまで僕には何も言ってくれなかったじゃないか。僕を放り出して行くつもりだったんだろう? そんなの酷いじゃないか!」


 トモだけじゃない、世界のあらゆることへの不満が爆発して、僕はトモにそれをぶつけてしまっていた。ツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)への妬みまで……


「イマーム・カーディルがそんなに好きか? 僕とあいつはそんなに違うか? あいつはあんたの何なんだ? デキてるわけじゃないんだろう? なら、どうしてあんな男のために僕を捨ててシリアなんかに行こうと思ったんだよ? あんたはずっとそうだった。僕よりあいつがいいんだ。あいつはさぞや良い大学を出てるんだろうな。イスラムと世界情勢に造詣が深く軍事学も修めていて教養もあるだって? それがどうした? インテリ気取りの金髪軍人野郎があんたの好みか?」


 まるでDV男だ。僕は恋人の不貞をなじるようにトモをなじりつづけた。実際、僕は、僕意外の男に思いを寄せるトモに激しく嫉妬して、ずっと腹を立てていたんだ。もう抑えておけなかった。


「僕だって、マトモな家に生まれて、マトモに教育を受けていたら、もっとちゃんとしていたはずなんだ。トモの好きな理屈も理解できたはずだ。難しい話も理解できたはずだ。あんたと対等に話せたはずなんだよ! 僕はそんなにバカじゃない。ちゃんとした教育さえ受けられれば、あんな奴に負けてないはずだったんだよ。もう、いいかげん、僕をバカにするのはやめろっ!」


 ドロドロの思いを吐き切って、僕はやっと怒鳴るのをやめられた。興奮して、目に涙が滲んで、全力疾走した後みたいに息が上がっていた。耳が熱いし、心臓の鼓動がドクドクとうるさい。


「分かってるよ、アミン」


「トモは分かってない」


「アミン、帰ろうよ、ロンドンに……」


「嫌だ。僕はシリアへ行く」


 僕は激情の名残りに引きずられて意地を張った。


 ただトモに対抗するためだけに――


 だって、トモが悪い。今さらシリアへは行かないなんて。それじゃ、僕達は今日、何のために家を出てきたんだ? 無断欠勤をしてしまった。いや、そんなことはいい。どうでもいい些細なことだ。僕はあの抑圧された日常に戻りたくない。何者でもない自分に戻るのは嫌なんだ。ジハード戦士として敬意を持って接せられることで、僕はやっと人並みになれたと感じたんだ。みんなと対等だと思えたんだ。劣等感の地獄からやっと抜け出せたんだよ。もう、元の惨めなアミンには戻りたくない。


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