【Ⅴ】6

「連れて行ってくれとは言っていない。僕は自分の意思で行くんだ」


 諦めたように、トモは溜息をつく。


「何年も帰国出来なくなるかも知れないよ」


「いいよ、帰って来られなくてもいい」


 どうでもいいんだ。


 I wish to grasp you. I want more, your words, and you. Be with me for ever.


「朱に交われば赤くなる、か……」


 トモは僕には分からない日本語で呟いた。


「どういう意味?」


 少し考え込んでから、トモは名案が浮かんだ、という顔でこう言った。


「Critias is more radical than Socrates.」


 それも分からないよ。トモ、僕には教養がないんだ。


 行くと決めたら、途端に事態が動き始めた。運命の歯車が音を立てて回り始めたと言ってもいい。それくらい急激に、僕の立場は変化していった。ラシードとハシムは僕を見直したらしく、感じ良く接してくれるようになった。彼らの人を評価する基準は「革命を成す気概があるか?」ただそれだけで、至ってシンプルだった。


 イマーム・カーディルにも会った。


 厳めかしい顔付きの四十代前半に見える男で、元軍人だと聞いて抱いていた先入観そのままの不愛想で取っ付きにくい人だった。


 厳しい口調であれこれと忠告され、ジハードについて様々な話を聞かされた後、基本的なイスラムの教えを説かれ、洗礼を受けた。


 僕は由緒正しいイスラムの名前を持っていたから、トモのように新しい名前は授けられなかった。アミン(誠実)に定冠詞を付けたアル・アミン(この者こそ誠実)は、イスラムの創始者ムハンマドの呼称のひとつなのだそうだ。最初の妻ハディージャと結婚する前、ムハンマドは誠実な人柄で人々の注目と尊敬を集めていたらしい。


 不思議なことに、そうして新しい環境に触れながら日々を過ごしているうち、次第に気分が落ち着いて行った。イマーム・カーディルのフラットに集っていた何人かの仲間達から、僕は一人前のジハード戦士として丁重に扱われた。


 誰かに認められている実感は、生まれて初めて、僕に自信と希望を与えた。


 この時期、僕は一度もジョイントを買いに行かなかった。


 ラティファには何も話さないことにした。彼女はきっと心配するし、僕が戦場へ行くなんて知らないほうがいいんだ。イマーム・カーディルに、従軍する期間は長くないと言われた。半年か、せいぜい一年。それくらいなら、ラティファも僕を待っていてくれるんじゃないかな。どうだろう、分からない。


 シリアに着いたら連絡しようと思う。きっと、ラティファは許してくれる。


 自分がトモに同じ扱いをされた時は怒り狂ったのに、僕はラティファに相談もせず、彼女に黙って、着々と出発の準備を進めた。旅券を申請し、フラットの賃貸契約を解除しようとしたけれど、それにはトモが反対した。


「半年後に帰れたとして、また部屋を借りるのは面倒じゃないか。留守にする間の家賃は僕が払うから借りっぱなしにしておこうよ。それに、四人揃って出て行くとどこへ行くのか怪しまれるかもしれないだろ?」


 ラシードとハシムは警察に目をつけられているんだ、と言われれば納得するしかなかった。それに、ARGENTO RECOVERY WORKERSを退職することも止められた。


「仕事を辞めてどこへ行くのか詮索されたらマズイ」


 そう強固に言われては拒否もできなかった。ボスとマスードに迷惑を掛けるのは気が引けたけど、無断で辞めさせてもらうことにした。


「君がいつでもロンドンへ帰れるようにしておきたいんだ」


 トモは性懲りもなくそんなことを呟いたけれど、僕は聞こえないふりをした。日常の会話は普段通り交わしていたけれど、深い話はお互いに避けていた。


 二〇一三年、八月二十一日――


 ついに僕達がシリアへ向けて出発する日がやってきた。


 男四人、大型のローラーバッグ(スーツケース)を転がして歩く姿はそれなりに人目を引いた。バカンスに出掛けるには華が無い。地下鉄を乗り継いでセント・パンクラス駅へ向かい、そこで高速料金を上乗せしたチケットを買い、ナショナル・レイルの高速列車ハイスピードに乗り込む。ユーロスターも同じ線路を走ると聞いて、そっちに乗りたかったな、と少し贅沢なことを思った。


 ドーバーへ向かう列車の中で、ラシードとハシムはしきりに僕を褒めてくれた。


「まさか、おまえが一緒に来るとは思っていなかったよ」


「見直したぞ。まだ若いが、気骨のある戦士だったんだな」


 トモは僕の隣でずっと黙っていた。


 窓の外の景色が移り変わっていく。息苦しいロンドンが遠ざかって行く。ごちゃごちゃと古い建物がひしめく都市部を抜けて、郊外に出ると緑色のカーペットを敷いたような田園風景が広がっていた。こんなに穏やかで綺麗なイギリスは生まれて初めて見た。僕はこれまで一度もロンドンを出たことが無かったのだ。


 列車は一時間ほどでドーバー・プライオリー駅に到着した。途中、海に近付くにつれて白い壁が見え始めた。素晴らしく真っ白な切り立った崖で、今までこんな不思議な光景は一度も見たことが無い。ホワイトクリフ――アルビオンの崖だ。高台には古い石造りのドーバー城が見える。風には初めて嗅ぐ潮の香りが混じっていた。


 駅からフェリー乗り場までは直通のバスに乗り、やっとカレ行きフェリーの切符売り場に到着した。フェリーターミナルまで、また専用バスに乗るらしい。


 海鳴りが聞こえる。


 空は晴れ渡っていて、遥か対岸のフランスが霞のようにぼんやりと見えていた。


 これから生まれた国を出て行くとなると、胸に染みる景色だった。


「すごい景色だ……」


 フェリーの出航まで、まだ一時間ほどの余裕があり、時間を潰すためにラシードとハシムは港のカフェコーナーでコーヒーを飲むと言い出した。僕はあまり喉が渇いていなかったから、トモを誘って近くを散歩することにした。まあ……僕もシリアに行く、と言ってからなんとなくぎくしゃくしていたトモとの関係を、イギリスを出る前に元通りの屈託のない雰囲気に戻しておきたいという下心もあった。


 押し黙ったままのトモと二人、強い海風を受けながら岩だらけの草地を歩いた。なだらかな丘が広がっている。不意に、トモは丘の向こうを指差してぽつりと言った。


「あの向こうは白い崖になっていて、その下には船を着けられる狭い砂地がある。そこにカエサルが上陸したんだよ」


 うんちくを述べたトモは、また静かに黙り込んだ。


 頭半分小さいトモが不機嫌そうに僕の前を歩いて行く。東洋人特有の真っ直ぐでサラサラの髪が風に吹かれて乱れている。肩は細いし、背中の肉も薄く、少しだけ猫背だ。全然パッとしない、でも、優しくて、穏やかで、愛しい背中だ。


 たった一人の僕の親友――この人が、ママとダリルが君臨する牢獄のような家から僕を救い出してくれたんだ。


 そう思ったら、なんだかたまらない気分になった。


「I'm more in love with you.」


 思わず、独り言が口を突いて出た。


「Pardon? I couldn't really hear it well.」


「いいんだ、聞こえなかったなら」


「そう?」


「うん。なんでもないよ」


 せっかく二人で歩いているのに、気詰まりで困った。今日はいつもと逆だ。もの言いたげなトモと、それを無視する僕――僕も一緒にシリアへ行くと決めてから、ずっとそうだった。今は、話し合いたい僕を、トモが無視している。


 トモ、君と出会ったことはマクトゥーブ(僕の運命)だよ――そう言いたかったけれど、どうしても声が出なかった。


 手持無沙汰になったのかトモはスマートフォンを弄り始めた。真っ青な空に一羽、真っ白な鳥が飛んで行く。あの鳥はどこへ行くんだろう、僕達のようにフランスに渡るんだろうかと目で追っていたら、突然、トモが悲鳴のような声を上げた。


「ニュースだ、アミン――」


 トモの額はまるで空を映したように透き通るほど蒼褪めていた。


「落ち着いて、トモ。何をそんなに驚いているのさ?」


「化学兵器が使われた」


「What do you mean?」


「シリアで化学兵器が使われていたんだよ!」


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