【Ⅴ】4

 六月のある日、深夜、日付も変わろうという頃、ラシードとハシムが騒々しい音を立てて帰ってきた。


 彼らは泥酔していた。


 トモは二人にペットボトルの水を差し出しながら平坦な声で言った。


「また飲んでるのか?」


 ムスリムのくせに、とは言わなかったけれど、トモが二人の過ぎる飲酒を不快に思っている事はよく分かった。僕も酔うほど飲む奴が嫌いだった。ダリルを思い出すから。


「アルコールは禁忌ハラムだろ?」


 トモが軽く咎めると、ラシードはトモを指差して暗く笑った。


「自分も飲むくせによく言うな。禁忌ハラムはお互いさまだろう?」


「僕は敬虔な信徒じゃないからね……」


 言い訳をするようにトモは肩を竦め、それで、僕はトモが洗礼を受けてムスリムになっていたのだと初めて知った。


 どうして言ってくれなかったんだ――


 なぜかは分からない。だけど、その瞬間、僕の中で何かが砕けた。


 僕はトモに信頼されていなかった。やっぱり、対等に相談が出来る相手としては認めて貰えていなかったんだ。


 ラシードは普段の厳めかしい態度が嘘のように、バタンと両手両足を放り出して、だらしなく床にひっくり返った。


「飲まなければ心が死にそうなんだ。だから、アラーは許して下さる」


 気難しい顰め面を崩したことのないハシムまでもラシードと同じように、みっともなく仰向けに倒れ込んだ。


「そうだ、そうだ。命の危機であれば禁忌ハラムを犯してもアラーは許して下さる」


 そうだね、と穏やかに言って、トモはムスリムの流儀で二人を慰めた。


「アラーが君達に断酒をさせて下さいますように」


 ラシードとハシムの酔いはなかなか醒めないようだった。それどころか、ワインとクリスプスをダイニングテーブルに広げて性懲りもなく飲み始めた。苛々して僕はジョイントを買いに行きたくなったのだけれど、トモはラシードとハシムと一緒にワインを飲み始めた。一人だけ輪を離れるのが嫌で、僕も渋々テーブルに着く。どうぞ(here)、とタンブラーに満たされたワインをトモから手渡される。


 興が乗ったのか、ラシードもハシムも常になく饒舌だった。最初は僕には分からないイスラムの教義について、あれこれ小難しい専門用語を交えながら語っていたが、次第に内容は危うい方向へ進んで行った。彼らは爆弾さえ手に入れば、自分達もロンドンでジハードを――自爆テロを行う勇気があるのだと声高に話し始めたのだ。


 偉業を為してみせる、と英雄気取りだった。


 ムッとして僕は言った。


「テロなんてよせよ。罪の無い人を巻き込んで、どうするんだよ?」


 ラシードとハシムは同時に目を眇めた。今にも爆発しそうな危険な表情だった。


「思想も持たないガキは黙っていろ」


「おまえなんかには分からない」


 怒鳴るようにそう言われて、僕は黙るしかなくなった。


 思想もない僕には分からないだって――?


 ああ、確かに分からないよ。


 僕はセカンダリースクールを卒業しただけの教養の無いゴミ収集業者だ。ケンブリッジだかオックスフォードだか知らないが、有名な大学を卒業して、それでも希望の職に就けなかったあんたたちの事情なんか分からない。分かるわけがないだろう。二流の職だっていいじゃないか。デスクワークができるだけ、僕よりずっと恵まれてる。それでも不満だとあんたたちは言うけどさ、じゃあ、僕はどうしたらいいんだよ。


 腹が立ったし、悔しくて鼻の奥がつんと痛くなった。


 ラシードとハシムは、本気でロンドン市街地を爆破するつもりだ。ただし、爆弾が手に入れば……爆弾なんか、手に入るわけない。どうせ出来ないくせに、思想だの何だの偉そうに言いやがって。


 不可能な空論を弄ぶのがジハードなのか?


 そんなの違うだろう?


 二人が酔い潰れてそれぞれの部屋に引っ込んで眠りにつくと、途端に、怖いような静けさが訪れた。見上げると、壁掛け時計の針は深夜三時を指していた。明日も仕事だ。こんなことをしている場合じゃないのに、くだらないパーティーに付き合って時間を無駄にした後悔だけが残った。僕は舌打ちする。


「あいつら、本当に自爆テロなんて実行するつもりなのか?」


 閉まったドアを眺めながら、慈悲深い横顔でトモは二人に同情を示した。


「彼らはあんなことを言ってたけど、テロなんて起こさないよ。二人とも可哀想な奴なんだ。本当はすごく気の良い、優しい奴らなんだよ。でも、色々あって辛いんだろうね。とにかく、安心していいよ。彼らはテロなんて起こさない」


「本当に大丈夫なのか?」


「もちろん。彼らはテロリストじゃない」


 それに、と言葉を継ぐ。


「テロリストに生まれる人間はいない。外圧がテロリストにするんだ」


 トモは、世界のあるべき姿を、理想を、アラブに重ね、自分の身で体現したがっていたけれど、彼は弱過ぎて、思うようには行動出来ずに沈滞しているように見えた。


 トモはどこまで行っても日本人なのだ。優しく協調する穏やかな民族。荒々しい盗賊の顔も持つアラブとは違う。


 僕はと言えば、腹の底にどす黒い嫉妬や憤怒を抱えて育って、時々、カッと燃え上がる凶暴な激情があって、それは、簡単に理性の殻を突き破って、文明的な縛りを、統制された世界を、壊してしまいそうだった。破滅的な衝動が大きく膨らんでいて、溜まる鬱屈を定期的にドラッグで鎮めないと、どうにかなってしまいそうな怖さがあった。


 ダリルをハメて刑務所に送り込んでやったのも、言い出したのはトモだけど、やったのは僕だ。実行(Practising)したのは僕なんだ。


「そいつ、排除しよう(exclude him)」


 そう言われて、やると決めた。


 僕は、人を罠にハメられる人間だ。正義とか義務なんかじゃなく、ただ、相手が憎いから、邪魔だからやった。トモの言った通りに、排除(exclude)したんだ。


「Tomo, `cos wanna exclude them someday?」


 トモは一瞬、驚いたように目を見開き、それから、諦めたように寂しく笑った。


「そう出来たらいいね。差別をなくせたら……」


 違うよ、トモ。僕は、奴らを排除したいね、と言ったんだ。優しいトモ。君には僕の本当の気持ちは分からない。


 ぶっ殺してやりたいね、と言ったんだ――


 ラシードとハシムは翌朝早くどこかへ出掛けていき、しばらく帰って来なかった。また何か都合の良い仕事を見付けて、生活費を稼ぎにいったのだろう。二人がどういう仕事をして、どの程度の報酬を得て、どう暮らしを立てているのか、僕には皆目見当も付かなかった。もしかしたら、どこかの非合法組織から活動資金を貰っていたりして……と小説のようなことを考えもしたのだけれど、バカバカしくてそんな考えを巡らせるのはやめた。


 週末にラティファとデートした時、ラシードとハシムのことを相談したら、放っておきなさい、と言われた。


「その二人のような人は多いわ。移民に対する偏見や差別はどこにでも溢れているでしょう? みんな、苛立っているのよ。もちろん、富や機会の格差は是正されるべきだわ。でも、それはテロによって成されるべきではないと私は思うの。暴力は、どんな場合であっても、非人道的で恥ずべきものだわ。私たちは法を犯さない正当な訴えかけによって社会を変えていかなければならないのよ」


 まあね、と僕は煮え切らない返事をした。


 その日は、彼女が見たいと言ったので二人でロンドン塔を見に行った。観光客が大勢いて混雑していたので城壁の中に入るのは諦めて、ロンドン塔とテムズ川の間の堤防を散歩することにしたんだ。古めかしい石畳が敷かれていて、対岸を見晴らせるように木製のベンチが沢山並べられていた。街路樹のプラタナスは大きく枝を広げていて、厚く茂った緑の若葉は初夏の陽光を受けてキラキラ輝いていた。


 石壁を背に黒いスチールの欄干に凭れると、すぐ近くにタワーブリッジが見える。


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