【Ⅴ】3
トモは……僕とは違って恵まれた金持ちの日本人であるはずのトモは、どうしてテロリストに同情するんだろう?
「もしもヨーロッパのどこかで数十人がテロで死んだら、世界中がハチの巣をつついたような騒ぎになるだろう。でも、アラブの紛争地域で戦闘が起こって何千人もの人が犠牲になっても……現にそうなっているのに、もう報道もされない」
「トモ……?」
紛争が起こっているのはアラブだけじゃないけどね、と言って、トモはまた静かに動画の検索を始めた。
トモは世界情勢に深い関心があるんだな、とどこか他人事のように思って、不意に、よく知っているはずのトモが、見知らぬ人のように思えて寂しくなった。
トモはいつも教育を受けたツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)みたいな口を利く。トモの学位は僕と同程度だと聞いた。日本のハイスクールを中退して、遅れて卒業資格を取得したって……
でも、トモは僕とは違う。トモには教養がある。留学を可能にする金がある。勉強させてくれる親がいて、外国語を習得して人間関係を構築する能力がある。トモには、自分のしたい事を選ぶ自由がある。トモの将来には希望がある。
僕は、トモとは違う――
僕は、この時、なぜか教育というものにこだわった。それが世界の問題の本質であるように直感したからだ。
目眩がしてトモにしがみ付いた。
「アミン、どうかした?」
「僕達アラブの命が軽んじられているってこと?」
「アミン?」
「どうしてなんだよ、トモ? どうしてアラブは軽んじられる?」
「今はそういう時代で、そういう世界なんだよ。傲慢で、未成熟で、何も分かっていない奴が多過ぎる。だから不公平なんだ。生まれた場所、民族、人種、さらには貧富の差でも選別される。差別される側に生まれたら、一生差別され続けるんだ」
警官に職務質問された夜の事が思い出された。何も悪い事はしていないのに侮辱され、不当に暴力を振るわれた。トモが助けてくれなかったら、あいつらは僕を対テロ法で逮捕して収監するつもりだったはずだ。何もしていないのに、ただアラブ系だからというだけの理由で、あいつらは僕をテロリスト扱いだった。
「アラブ系移民は差別されている。僕は、それを思い知った」
僕がぼそりと吐き出したら、トモはなぜか少しだけ決まり悪そうに目を伏せた。
「僕は……日本では差別する側だった。イギリスに来て分かったよ。日本はほとんど難民や移民を受け入れていないし、外国籍の人々への差別はあからさまだ。その上、日本国籍を取得しても二世三世になってまで差別されている。日本人ほど他民族に対して狭量な民族はない」
「狭量……」
「そう、狭量だ」
トモは蒼褪めた顔で溜息をついた。
「差別には有効な反抗手段がほとんどない。テロに走るしかない彼らの気持ちがよく分かる」
「こんな人生は嫌だよ……」
差別されて、排斥されて、無視されて、もう閉塞感に耐えられない――
堪らなくなってトモの腕を強く握ってしまったら、あやすように背中を撫でられた。ささくれ立っていた僕の心は、優しくされて更に酷く痛んだ。こんなふうに優しくなだめられたくない。僕はトモにもムカついていた。
さっきまで自分のほうが動揺していたくせに、いきなり落ち着いて、大人ぶって僕を子供扱いだ。未成年ではあっても、僕はもう十七歳で一人前に仕事もしている。自立した一人の人間だ。
子供じゃない。
なのに、いつまで経ってもトモは僕を心配して子供扱いする。これすらも、恵まれない育ちのせいだ。お利口に振る舞う術を何ひとつ身に付けさせてもらえなかったから、たった一人の親友にすら対等に扱って貰えない。
いつまで僕はトモの下にいなきゃならない?
教育を受けられなかったハンデはいつ消える?
「トモ、僕は強くなりたい。強くなって世界を変えたい」
分かるよ、とトモは言った。
「こんな差別だらけの世界、ぶっ壊したい」
もう一度、分かるよ、と言ってトモは僕の背中を撫で続けた。
理不尽だ――
僕は優しいトモに腹を立て続けた。トモを見返したい。トモの上に立って、トモより強い男なんだって事を、一人でなんでも出来るんだってところを見せつけたい。それは八つ当たりだったし、怒りの方向を僕は間違えていた。でも、その時の僕には、トモに対して怒る事が正論だったんだ。世界の責任をトモに転嫁していた。
アラブ系だから、移民だから、学位が無いから、そんな理由でみんなが差別を受けている。それを専門的な知識で掘り下げ、より鮮明に意識させ、惨めにさせ、しかも僕を対等な男として認めてくれないトモが……たぶん、許せない。
結局のところ、僕はトモを男としてライバル視して対抗心を燃やしていたんだ。疑似的な父子関係だったんだと思う。年齢が近かったから自覚出来ていなかった。トモのすることに張り合って、争って、勝って、本当の精神的自立のために、僕はトモを乗り越えなければならなかった。トモがもっと別の――例えばセックスの経験とか――つまらないことで僕と競って負けたと悔しがってくれていたなら、僕はトモにこだわらなかったんじゃないかと思う。ライバルとして認めて欲しかった。
ねえ、トモ、僕だって捨てたもんじゃないはずだろ――
欲求不満のストレスは溜まる。自然とジョイントを買う回数は増えた。
二〇一三年の前半は、ひたすらシリア情勢の推移を見守って過ぎていった。トモの話すことは難しくて理解するのが大変だったけれど、食事時の話題はたいていシリアの内乱のことだった。
三月六日、シリア難民が百万人に達したと国連難民高等弁務官事務所が発表した。
四月八日、ダマスカス中心部で自爆攻撃が行われた。誰かが爆弾を身に付けて、自分もろとも街の一部と、他の誰かを道連れに吹っ飛んだんだ。
インターネットでは、シリアのどこかで化学兵器が使用された、とニュースソースの明らかでない噂が飛び交うようになっていた。結局のところ、その噂は真実で、三月十九日アレッポ郊外のハーン・アサルという地区で使用され二十六人が犠牲になっていたのだけれど、トモは最初はデマだと判じて取り合わなかった。
「そんなバカな。化学兵器を使うなんて有り得ないよ。そんな指揮官、まともな神経じゃない。改革と国政の掌握を目指す勢力がそんな愚行を犯すはずがないんだ。国際社会から非難され孤立したら、政権を取ったところで列強の支援が得られず頓挫する。最低限の思考能力があれば化学兵器なんて使うわけがない」
トモはまともだった。だから想像もつかなかったのだろう。それを使用する人間がいるということと、使わざるを得ない精神状態になる人間がいるということを……
遠いアラブで何が起きていようとも、僕のつまらない日常は変わらない。毎朝七時に起きて、八時に出社し、ボスから一日のスケジュールを言い渡されて、マスードと二人で割り当てられたルートを回る。お綺麗なオフィスで、厭味な金髪野郎に見下されながら、あちこちのデスクの横や下にあるゴミ箱から中身を回収して、昼時になったらシティ・ミル川の川岸にマスードと並んで座り、ハラールのランチを食べる。午後の仕事を片付けて、たいてい夕方の五時にはフラットに帰れる。去年の夏にママが死んでからは、トモもイマーム・カーディルのところから早く帰ってくれるようになっていて、いつもリビングでラップトップPCと睨めっこをしている。ラシードとハシムは相変わらず留守がちだ。簡単な夕食をとった後は、トモと二人で過ごす。週末はラティファの部屋へ行く。
語るに値しない、平凡な、でも、ささやかながらも幸福な毎日だった。僕はツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)への嫉妬に目が眩んでいて、その幸福を理解できていなかった。
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