【Ⅳ】5

 トモが真っ青な顔で割って入ってくれた。健気に両手を広げて僕を背中に庇おうとしている。華奢だな、と場違いに、変なところに感心した。日本人は小柄だ。まるで子供みたいだ。子供みたいなトモに庇われて、僕は……


「なんだ、おまえは? こいつの仲間か? 所持品を見せろ」


 警官はトモに詰め寄り彼のシャツの襟元を掴んだ。


「糞野郎、汚い手でトモに触るな! トモを殴ったら殺してやるからな!」


 咄嗟に叫んだけれど、僕の言葉の後半はトモの叫びで掻き消された。


「Please call the Japanese Embassy!!」


 日本大使館に連絡してくれ、とトモは主張していた。


「なんだと? 公務執行妨害で逮捕されたいのか?」


「Call the Japanese Embassy!!」


「はあ? それがどうした?」


「Call the Japanese Embassy!!」


「貴様、思い上がるなよ」


「Please call the Japanese Embassy!!」


 トモは警官にではなく通行人に向けて叫んでいた。助けて――と。


「Call the Japanese Embassy!!」


「Call the Japanese Embassy!!」


「Call the Japanese Embassy!!」


「Call the Japanese Embassy!!」


「Call the Japanese Embassy!!」


 トモは子供のようにそのフレーズだけを繰り返した。


 いつの間にか周囲に人だかりが出来ていた。何が起きているのか、物見高い人々が群れをなす。僕達は珍妙な見世物のようになっていた。


 トモはひときわ悲痛な声を張り上げた。


「Please call the Japanese Embassy!!」


 人垣の最前列にいた観光客らしい東洋系の初老の男性――たぶん日本人だ――が、ボディバッグからスマートフォンを取り出し、少しの操作をしてから耳に当てた。


 それを見て、一歩下がってにやにやしていた警官が顔色を変える。


「もうよせ。面倒くさい奴に構うな」


「こいつらはテロリストかもしれないのにか?」


 僕を殴った警官は顔を真っ赤にして怒鳴ったが、その相棒は、日本大使館に連絡されるとマズイ、と分かりやすく慌てた。


「大使館には関わりたくない。ボスに説教されたきゃ一人でやれ」


 うっ、と糞野郎は言葉を詰まらせる。相棒に肩を叩かれ、もう行こうと宥められて、憤懣やるかたない態度で僕を突き飛ばした。


「もういい。とっとと失せろ」


 唾を吐いて、警官二人は去って行った。ピンチを切り抜けられた安堵と、それ以上の全身がバラバラになってしまうような猛烈な悔しさで、つんと鼻の奥が痛くなった。


「大丈夫か、アミン」


「くそ、あの豚野郎、力任せに突き飛ばしやがって。今度会ったら殺してやる」


「憎まれ口が叩けるなら……」


 トモは言いかけて一瞬息を止めた。僕が泣いていたから。


「アミン、どうした? 怪我でもしたのか?」


「してない。してないよ」


「本当に?」


 口の中を切っていたけど、それは黙っておいた。息が苦しくなって喉が詰まる。


「トモ、僕はこんなことで傷付きたくない」


「アミン……」


「こんなくだらないことで傷付きたくないんだ」


 腹が立つ――


 ことあるごとに階級社会の壁を僕に思い知らせてくる残酷なツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)。


 金髪は、格差と差別の象徴だった。


 ただ自由に自分らしく生きたいだけなのに、誰にも迷惑なんてかけていないのに、僕が金髪じゃないから、黒髪のアラブ系だから、侮辱され、攻撃される。


 ヘイトを肌で感じるのはキツかった。イーストエンドにはアジア系・アフリカ系の移民が多い。差別される者が大勢押し込められているから、僕は運良く仲間の中に紛れてしまっていてアングロサクソン系との摩擦に直接曝されなかっただけなのかもしれない。それとも、子供だったからか。公立スクールには貧しい家庭のアングロサクソン系の子供もいた。公営住宅カウンシルフラットに住んで、政府から生活手当てを貰って暮らしている、僕と似たりよったりの境遇の子供だ。彼らとは、酷い差異は感じなかったけれど、よくよく考えれば、アングロサクソン系の彼らのほうが良い公営住宅カウンシルフラットをあてがわれていた。同じ階層だと思っていたのに、やっぱり差があるってことか。


 同じイーストエンドの住民なのに?


 何が違う? 生まれと育ちか? 金と学位か?


 いや、結局は、学位があってもアラブ系じゃダメなんだ。ラシードとハシムがいつも怨嗟を吐き出しているじゃないか。どんなに努力して最高の成績を取ったとしても企業や研究所に優先的に採用されるのはアングロサクソンだって。


 人種がすべてだ――


 ふと、いつかパブでナンパした金髪の女の子を思い出した。ほんの少しだけ言葉を交わして、僕が勝手に失望したリアーナ。彼女が僕をどう思っていたのか、迷惑だと思っていたのか、それとも少しくらいは好意を持ってくれていたのか、ただ憐れんでいただけなのか、あるいは通りすがりに見ただけの雑草程度の意識しかなかったのか、確かめる勇気は無かったし、その機会は金輪際訪れそうになかった。


 HELP! PIGLET(ME)


 IT’S ME PIGLET, HELP HELP.


 遭難しています。誰か助けて――僕は相変わらず救難信号を発し続けていた。ダリルをやっつけても、ママから逃げ出しても、トモが一緒にいてくれても、ラティファという恋人が出来ても、僕には安寧が無かった。安定が無かった。根無し草だったんだ。


「悔しい。虚しい。ツライよ、トモ……」


 トモは、分かるよ、と言って抱き締めてくれた。


 分かっていないよ、トモ。君は分かっていない。何も、何ひとつ、僕の苦しみを理解していない。


 雑踏は流れていく。ざわざわと、ざわざわと。


 揉め事は終わったのだ。警官も姿を消したし、通報しようとしてくれた親切な初老の紳士もさりげなく姿を消していた。高みの見物をしていた野次馬の群れは角砂糖が溶けるようにゆるゆると解けてあたりに散っていた。


 もう誰も僕を気に留めたりはしない。


 道端で東アジア人に縋りついて泣くアラブ人という珍しい組み合わせに、ほんのわずかに視線を動かしても、一秒にも満たない時間盗み見て、たちまち興味を失う。誰も僕を見ていなかった。道端に転がっている空っぽのジャンクフードのパッケージと同じだ。薄汚れていて、何の役にも立たなくて、一瞥の価値すら無い惨めなゴミ。


 見回せば、僕と似たような暗い顔をした奴らがあちこちにいた。僕と同じアラブ系の顔をしている。きっと僕と同じように貧しい家庭に生まれて、教育を受けられず、いや、もしかしたらラシードとハシムのように高い教育を受けているかもしれない。それでも希望が持てなくて、社会からあぶれて、鬱屈して、絶望した顔で下を向いている。


 アラブの血が漂流している。


 僕は漂流していた。ママが漂流していたからだ。移民であるということの根深さを、血の在り処を、祖国の文化を、教育を受けなかったママは知識としてすら知らず、そのママの子である僕は言葉も習慣も根っからのイギリス人になってしまっていた。


 僕らは奪われている。血の誇りを、文化を、伝える権利を奪われている。


 それなのに――


 イギリス人にされてしまったのに、イギリス人として認められない。本物のイギリス人になる機会を与えられないからだ。いつまでも貧しいからだ。貧しくて教育を受けられないからだ。貧困から抜け出せず、堂々巡りで、社会の最下層に押し込められている。移民ゲット―に押し込められている。


 どこにも根が無い。光が無い。出口が無い。どこにも行けない。


 僕らは、いつまで経っても移民のままだ。


 もう、ルーツを曖昧にしたままでは僕は自分を見失いそうだった。


 誇りが欲しい――アラブとか本当はどうでもいい。でも、アラブの血に誇りを持たなければ、縋らなければ、ダメになりそうな気がした。僕はただ誇りが欲しい。


 僕ら移民の係累は、このイギリス社会では、決して浮かばれない。貧困の底に取り置かれて、据え置かれて、放って置かれる。


 頭を抑え付けられて、一生、底辺で暮らすんだ。


 本当は、もっと立派な人間になりたかった。きちんとした教育を受けて。


 あんなママから生まれて、ダリルに潰されて、どうしようもないと分かっている。僕は子供で、どうにもできなかった。酷い目に遭いすぎて、殴られて、罵られて、挙句にレイプされそうになって、疲れていたんだ。努力する余裕なんかなかった。努力すべき時期にできなければ、もう無理だ。手遅れだ。今さら努力しようとしても、どうせ無理だ。


 ああ、だけど――


 どうせ無理だと投げてしまっても、それでも諦めきれない。


 じくじくと膿んだ傷のように、いつまでも腫れて、痛んで、僕を眠らせてくれない。


 眠れないんだ、トモ。僕は、もう、ずっと眠れていないんだ。


 夢を捨てて生きられるわけがないんだよ。


 自分を捨てて生きられるわけがないんだよ。


 誰かの娯楽になる為に生きてるわけじゃない。


 僕は、僕の為に生きているんだ。


 夢も望みも欲もある。夢を見るなと言われても、望みを持つなと言われても、何も求めるなと言われても、心は動いてしまう。


 何者かになりたい。


 名誉が欲しい。


 誇りを持ちたい。


 僕は、僕の望む何者かになりたかった――




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