REPLY 《4》

 アミンが苦しんでいるのは分かっていた。


 だけど、それで僕に何が出来たというのか。アイデンティティの不安は本人が解決しなければならない問題だ。他人には何も出来ない。僕は、こっそり日本語でアミンに謝る癖がついていた。「申し訳ない」と言うと、アミンはいつも不思議そうに首を傾げた。


「君のママが死んだのは、僕がけしかけた事が原因だ」


 楽になりたくて僕は何度もそう言った。その度にアミンはNOと言った。違うと言われても、そうじゃない。僕が安易にアミンのママの愛人だったダリル・ラヴロックを罠に嵌めようなんて言わなければ、もしかしたら別の道があったかも知れない。アミンだけが家を出て逃げるという方法もあった。誰も死なずに済んだかも……


 アミンは、それは無い、と首を横に振った。


「他の道は無かった。やらなければ、僕はレイプされてたし、殺されてたかも」


「でも、でも、アミン……」


 僕はもどかしくて喉を押さえる。言葉が足りない。英語が下手で伝えられない。僕は自分の非力さと無能さを痛感した。いつだって、本当はもっと格好良くアミンを助けたかった。警官に不当な職務質問を受けた時だって、僕は情けなかった。


「逮捕の前に日本大使館に連絡してくれ。弁護士の手配を依頼する。当然、彼の弁護士も要求する。弁護士が来るまで彼に触れるな。さあ、さっさと日本大使館に連絡しろ。君たちが違法な捜査をしていないなら問題ないだろう?」


 それくらいの文句を流暢に並べられたら良かったのに……


 アミンに、カズオ・イシグロのことを訊ねられたこともある。「彼は日本人か?」と。人種の問題ではなく、文化的な帰属の問題をアミンは問うていたのだろうと思う。


 僕の見解ではカズオ・イシグロはイギリス人だ。


 彼に向けられた「英国人より英国人らしい」という言葉は本当の意味での賛辞ではないと僕は思う――彼が差別を受けているとは思わないが――イギリス生まれではないイギリス人を、イギリス社会が暗に拒絶しているのではないだろうか。


 生まれが日本で、もともとは日本国籍だったとしても、彼は物心付いた頃からイギリスで育った。イギリスの風土、文化、習慣、常識、誇りと精神、それらが彼の骨子になっているはずだ。両親が日本人だとしても、彼の魂はイギリスに根差している。何かで読んだのだけれど、彼は日本語をほとんど喋れないらしい。テイストとして日本文化が添加されていたとしても、彼はイギリス人だ。


 それと同様に、アミンも疑いの余地無くイギリス人だ。アルジェリアの血を引く移民三世であっても、外見は完全にアラブ系であったとしても、イギリス人なのだ。同時にアラブでもある。カズオ・イシグロが厳として日系人であるように。


 それを、アミンが自分で気付かなければならないと僕は思っていた。


 そもそも民族の定義は曖昧だ。場当たり的なんだよ。


 アラブとは、広義にはアラビア語を話す人々の事とされている。そしてアラブとイスラムは密接に結びついている。七世紀のイスラム勃興以来、アラビア語は周辺地域に急速に広がった。イスラムの経典アル・クルアーンはアラビア語で謳われるべきものであり、イスラムの帝国が中東から北アフリカの沿岸諸地域を制覇した時代があったからだ。イスラムはムハンマドの時代に早々と隆盛し、正統カリフ時代と呼ばれる四人のカリフの時代の終わりに、ムハンマドの娘婿アリーの暗殺を契機として、後にシーアとスンニと呼ばれるようになる二派に別れた。


 アラブとイスラムは、ほぼ同義だ。アラブ人だがキリスト教徒という人々もいるが少数派であり、ムスリムも様々な宗派に分派して、部族社会の伝統を踏襲しながら、沢山の民族部族がモザイク状に分布している。


 いま、アラブ世界で最も深刻な混乱に陥っている国のひとつ、シリアの歴史も簡単に読み直してみた。


 遥か神話の時代にはフェニキアであり、ローマ帝国時代はシリア属州であり、パルミラ王国であり、各イスラム帝国の中心地であり、近代ではオスマン帝国の領土でもあった。


 オスマン帝国の解体時には、最初、英仏露三国間で悪名高いサイクスピコ協定が結ばれ、状況の破綻に合わせる形で一九二〇年にセーヴル条約、次いで一九二三年にローザンヌ条約が結ばれた。それぞれに幾分かの事情と形の差はあれど、イギリスとフランス、当時の覇権国家であった二国の都合で、複雑で繊細な民族の分布を無視して、横暴な国境の制定がなされたのだ。定規で引かれたような国境は血族を分断し、国内に民族の細密なモザイクを生み出し、さらにはクルド人に代表される国籍を持たない民族をも生み出した。それが今も騒乱の種になっている。


 シリアは古代から交易の十字路に当たる。現代では、カタールが天然ガスを欧州に輸出する際に敷設されるであろうパイプラインの有力な通過地候補だ。しかし、天然ガスの欧州市場はロシアの牙城だ。


 ――この意味が分かるか?


「ロシアにとっては経済的な理由で、ロシア寄りのアサド政権は倒されてはならないということなんだ」


 経済の問題だけじゃない、タルトゥスは地中海におけるロシアの唯一の軍港だ。たとえマハンを読まずとも分かるはずだ。ロシアがヨーロッパ・中東・アフリカ・インド・極東に影響力を行使する為には、地中海航路の確保は必須だ。クリミア同様、地政学上の要衝のひとつ。あらゆる意味で、ロシアはなんとしてもシリアを影響下に置いておかねばならない。ロシア寄りのアサド政権が倒れることはロシアが許さない。独裁政権はロシアと相性が良い。彼らは、エネルギー資源以外にろくな産業の無いロシアの唯一の産業と言ってもいい兵器を買う。戦艦、戦闘機、戦闘ヘリ、戦車、装甲車などの高額商品から、AKアサルトライフル、弾薬、C4、地対空ロケット砲などの消耗品まで幅広く。ソ連崩壊直後から続いた独裁政権の崩壊で、東欧の市場は弱くなった。インド市場が開拓されつつあるとはいえ、ソ連時代にべったりだった中国は、少し前から自前での生産に切り替えつつある。だから、中東は死守したい。いや、死守せねばならない。


 アミンは不思議そうに首をかしげた。


「どういう意味? シリアの国民同士が戦争してるんじゃないの?」


「もちろん、彼らは部族の利益のために戦っている。剣を銃に持ち替えただけで、内実は中世そのままの部族戦争だよ。でも、それだけじゃない。この騒乱は結局のところ代理戦争なんだ。アメリカとロシアが代理を立てて世界の覇権争いをしているのさ。シリアは各国のパワーポリティクスの犠牲になっているだけだ」


 アミンはやっぱり、「分からない」と言った。


 世界の警察を自負するアメリカのシリア政策に関わる思惑は比較的分かりやすい。だからロシアの事情を説明する。


 ロシアは欧米経済圏に対抗する為、中国・インドと緩やかな協調体制を取っている。盟主的な立場にあるロシアと中印二国は、利害が一致すれば握手をするが、背中に回した手には常にナイフを握っているような関係だ。


 ロシアは中国と協調しながらも中国を牽制する必要があり、その為にインドに投資している。中国とインドは、ロシアを介して時に協調姿勢を取りながらも、国境を接した陸上だけでなく海路争奪の場でも競い合っている。真珠の首飾りとダイヤモンドネックレスとう言い方を聞いたことは無いだろうか。中印両国の支配下にある、海路制覇に必要な宝石のように貴重な海港が、シンガポールからアラビア海に至るまで点々と、まるで首飾りの宝石のように連なっている様子を表した言葉だ。極東の海でも中国が欧州への海路を掌握する為の覇権争いは行われている。東シナ海や南沙諸島の問題も、結局のところパワーポリティクスなのだ。中国が台湾の独立を認められない理由と尖閣諸島を欲しがる理由は対米政策だ。自国を攻撃する際の不沈空母にさせない為と、アメリカ本土を攻撃可能な状態に置く為――とどのつまりは太平洋へ出る為だ。資源や歴史やプライドの問題ではない。純粋に、世界に行使する影響力を得るための争いなのだ。資源はおまけだ。


 ちなみに、海路が何故それほどに重要かと言えば、世界の富の九割はいまだ欧米にあるからだ。対米通商も重要だが、それと共に、スエズ運河と地中海を越えて資産のほとんどが集積している欧州と繋がらなければ、各国、命運は無い。


 そして、新興の中国とインドを抑える為に、ロシアは海軍力を手離せず、黒海から地中海を経てインド洋へ繋がる航路はなおさら手離せない。NATOの海軍基地を利用できる仇敵アメリカに対抗する為だけでなく、中国とインドに対抗する為にも、ロシアはシリアを手離せないのだ。ロシアとアメリカは冷戦時代のイメージを引きずり、お互いを仮想敵国と思い込んで、いまだに世界の覇権争いをしている。朝鮮半島で懲りず、ベトナムで懲りず、イラクで懲りず、アフガニスタンで懲りず、今度はシリアだ。


 北朝鮮が放置されているのも、リデルハートが言うところの緩衝地帯を作る政策だ。不干渉であるには不干渉であるなりの理由がある。


 そもそも、最後の独裁政権の聖地と呼ばれたアラブが揺れたのは、ソ連崩壊の余波だ。


 アメリカは弱っている。ロシアも弱っている。二国は、ソ連崩壊後、もつれ合って疲弊していっている。ロシアはかつての影響力を取り戻そうと汲々としているし、一方アメリカは、ソ連が倒れた穴――力の空白地帯を埋める為に、ベトナム戦争時以上の戦力を海外各国に派遣し、軍事費で疲弊している。そんな困窮した状況にありながら、それでもアメリカは、ロシアに限らず他国の力は削ぎたい。


 それらの問題が、今、たまたま集約したのがシリアなのだ。


 ウクライナも揺れる――とこの時、僕は思った。元々NATO加盟の問題でロシアとの間に軋轢があったのだから、そう考えるのは当然のことだった。予想通り、後でクリミア問題が持ち上がる。ウクライナとシリアの騒乱はロシアの都合で連なって動いて行く。


 大国の都合で、シリアの騒乱は長引かされている。


 それにしても――


 ホウラの虐殺は、僕にとってあまりにもショッキングな事件だった。


 後に、二〇一三年一月、BBCは生々しい記事をウェブニュースに載せる。


 A team visited the village of Haswiya, on the edge of the central city of Homs, and saw charred bodies still lying inside one of the houses.


 彼らが現地に取材に入った時、黒焦げの遺体がまだ民家の中に放置されていたというのに、誰がやったのか判明せず、事件の首謀者は謎のままになってしまったのだ。


 政府軍――アサド大統領の秘密警察的な組織シャッビーハが虐殺を行ったという記事を書くジャーナリストがいる一方で、ドイツの新聞フランクフルタ・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙は反政府組織の自由シリア軍配下の一軍が犯人だと伝えていた。


 これほどの事件なのに、誰がやったのか定かではないなんて、この現代社会で、そんな事があり得るのか?


 内乱によって、ヤフーが提供する世界地図のシリアは次第に真っ白になっていく。異様な画面だ。国境を隔ててトルコは詳細な情報が書き込まれているのに、シリアと、以前から混乱が停滞しているイラクは、ぽつぽつと浮かぶ都市の名前以外、真っ白だ。


 ふと考えてゾッとした。トルコは持ち堪えられるのだろうか? もしもアラブの騒乱がトルコに波及したら、ヨーロッパはどうなる? 世界の富のほとんどを所有するヨーロッパが混乱すれば、それは……




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