【Ⅳ】4
夜になって、ラティファがレモンパイとデザートワインを持ってトモと僕の様子を見に来た。ラシードとハシムはこの頃ずっと家を空けていたので、ラティファが訪ねて来ても大丈夫だろうと思い、僕が「来て」と頼んだのだ。
初めて見る僕達のフラットをラティファは物珍しそうに首を回して眺めやり、
「まあまあ綺麗ね」と苦り切った顔で両手を上げた。I don’t know のポーズで。
ラティファは、少し汚れたキッチンで、砂糖のたっぷり入った濃いイラク風の紅茶を淹れながら、酸味の強い純イギリス風のレモンパイもカットしてくれた。彼女の邪魔にならないように、僕はキッチンの端で、薄くスライスしたトーストに玉葱とドライソーセージを挟んで大皿に並べた。
三人でダイニングテーブルを囲んで
ワインは甘味の強い貴腐ワインで、コルクを開けたら強い香りが立ち昇った。とろりとした淡い黄色がグラスの中でゆらゆらと微睡むように揺れる。
トモの皿にサンドイッチを取ってやっていたら、頬杖をついていたラティファが複雑な表情で片眉を上げた。唐突に「男同士で厭らしいわね」と溜息をつかれる。
「あなたたちみたいにベッタリ仲良しの男友達をブロマンスって言うらしいわよ」
「ブロマンス?」
僕とトモは同時に素っ頓狂な声を上げていた。
「ホームズとワトソンみたいな?」
戸惑ったように言ったトモの脇腹を僕は軽く小突く。
「僕とトモならクランマーとラリーだろ?」
「え、ああ、まあ、うん……」
歯切れの悪いにトモに少し不満が湧いたけど、まあ、いいや。
「でも、ブロマンスって別に悪い意味の言葉じゃないよね。そうだろ、トモ?」
トモは困ったような愛想笑いを浮かべて曖昧に頷いた。それを見てラティファはまた呆れ顔で溜息をつく。
「ねえ、あなたたち、まさか寝てないわよね?」
にやりと意地悪に行ったラティファの対面で、なっ、と言葉にならない短い叫びをあげてトモはフリーズした。トモは二十四歳にもなってセックスジョークが苦手なんだ。真っ赤になって焦るトモの顔が可笑しくて、僕は腹を抱えて笑った。
「そんなに笑うことないだろ……」
「ごめん、ごめん」
それにしても――ラティファに言われて、なるほど、と僕は思った。確かにトモが女の子ならそうしたかったかもしれない。不満と劣等感と鬱屈を抱えながらも、なんだかんだでラティファとの間に軋轢が生じないのはセックスをしているからだ。トモとも寝てしまえば、微妙に混乱した感情が片付くような気もする。
でも、トモとはないな、と思った。
これはたぶん深刻な問題だ――
セックスしてしまえば片付く問題が世の中にはあるんだよ。ママがあの最低で糞みたいな豚野郎のダリルを許していたように、寝てしまえば人間は緩くなる。
緩くなれないから僕はトモにこだわる。トモがツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)の一員なのか微妙なところも僕のわだかまりの原因になっていた。対等なら家族だ。でも違ったら……
僕は、トモに見捨てられたくないと思う一方で、密かに対抗心を抱き、なんでも構わないからトモに勝ちたいと思っていた。トモがいなければママのフラットを出ることも出来なかっただろうし、今だって一人で部屋を借りたら生活が苦しくなる。トモに頼って生きながら、そんな情けない自分が不満で、保護者のようなトモを打ち負かして彼の上に立てれば、人間としての自信が持てるような錯覚を抱いていた。
僕に屈服するトモが見たい……
そんな暗い衝動が腹の底に揺蕩っていたんだ。
三週間ほどが過ぎて――
ママはコンパクトになった。もう二度と僕を煩わせない。ママの骨から作ったダイヤモンドは、黒っぽいブルーで、まあ、こんなもんだろう、と納得のいく色だった。嵐の前の暗い空のような冴えない青。ママに良く似合っている。小さい粒だったので、キーリング仕様のピルケースを買って中に入れた。リングをフラットの鍵に付けたら、ママはまったく気にならなくなった。もう意識することなく生きていける気がする。
「トモ、クラブに行こう」
マスードの十六歳の従妹から、ベスナルグリーンの近くでID無しで入れてくれるイベントが開催されると聞いて、どうしても行ってみたくなった。
ちなみに、イギリスでは十八歳未満はアルコールを提供するダンスクラブには入店出来ない。パブはOKなのにクラブはダメという線引きは滅茶苦茶だ。未成年者へのアルコールの販売は違法だが、保護者が飲ませるのは合法という奇妙な基準に依拠している。イギリスには屁理屈で通したようなルールが沢山ある。法律上は、先祖代々のイギリス人も移民から帰化したイギリス人も平等の権利を持つはずなのに、実際はそうではないというように……この国は、紳士の仮面を被った詐欺師のようだ。
僕の誘いにトモは、読みかけの本を置いて、保護者面で眉をひそめた。
「君、まだ十七歳じゃないか」
「大丈夫、うるさくない店もあるんだよ」
「ID無しで入れてくれるってこと? 大丈夫なのかい?」
「うん、ちゃんと調べてあるから、たぶんね」
どっちだよ、とトモは僕の肩を叩いて笑った。
目当ての店に行くには、少し歩いて、マイル・エンドからセントラルラインに乗り、ベスナルグリーン・ロンドンで降りる必要があった。地下鉄は混んでいて、オイスターカードで改札を通る辺りから人がひしめき始める。人の密集した階段を下りるうち、あっという間に汗が噴き出した。はぐれないようにすると自然とトモと密着することになる。列車に乗り込みドアの近くに並んで立った時、トモのつむじが見えて愉快な気分になった。
「なんで笑ってるのさ、アミン?」
「トモは小さいなと思って」
「余計なお世話だ」
トモはムッとしたように窓のほうを向いてしまったけど、二分も経たずに曖昧な微笑を浮かべて振り返り、僕の心臓の辺りを拳で軽く叩いた。
「アミンはデカくなったよな。初めて顔を合わせた時と比べて、かなり背が伸びた。子供っぽかったのに、最近は、なんか、可愛くなくなったよ」
「ええ、可愛くなくなったの?」
「可愛いわけないだろ。自分の図体を見てみろ」
トモに言われて地下鉄の窓に映る自分に視線を向けた。確かにもう可愛くない。あの頃とは違う。ダリルに毎日のように虐げられ、殴られ、蹴られて、レイプすらされそうになっていた弱くて小さな子供じゃない。
「そうか……もう子供じゃないんだ」
「え?」
「なに? 素っ頓狂な声上げて……」
「いやいや、君はまだ子供だよ」
「なんで?」
「十七歳は子供だ」
「でも、働いてるから、保護者は必要ないよ?」
「違うだろ。君にはまだ保護者は必要さ」
「もしもの時の身元引受人にはボスがなってくれるよ」
清掃員として雇ってくれているARGENTO RECOVERY WORKERSの社長デヴィッド・マクレガーが、今のところ、僕の後見人という事になるのだろう。特別な面倒を掛けるわけではないけれど、少し気は引ける。
トモは視線を落として考え込むような顔をした。
「うん、分かってる。けど、そういうことじゃないんだ。うまく言えないけど、君には無条件に頼って甘えられる人が、まだ必要だよ」
「それはトモとラティファじゃダメなの?」
え、とトモはまたも驚いたように目を見開いた。何に驚いたのか分からない。
「トモ?」
「え、ああ、いや……」
「トモに頼って甘えたらダメかな?」
ふっ、とトモは寂しげな笑みをこぼした。
「ダメじゃないよ」
日本人特有の曖昧な笑みで、トモは何か言いたそうだったくせに誤魔化した。
その表情が気になったけれど、何か問い掛けるより先に、列車は滑るようにベスナルグリーン・ロンドン駅に到着した。ドアが開き、降りる人の波に飲まれて押し出される。はぐれないようにトモの後ろに付いて歩き始める。会話はそのまま途切れてしまった。
しかも運の悪いことに、地下鉄の駅から地上へ向かう階段を上って外に出た途端、巡回中の警察官に呼び止められた。四十代半ばに見える中年太りのアングロサクソン二人組は、似たり寄ったりの尊大な顔をして、片方は金色の口髭を生やしていた。
「そこの二人、そこのアラブと
「ケツにキャンディ《違法薬物》を隠していないか?」
にやにやしながら、不躾に指を差されてムッとする。
「なんだよ、何もしてないよ」
実際、今日は何もしていない。ポケットにドラッグの類は入っていないし、幸い、一週間ほど
「身分証を見せろ」
「なんで? 僕に何か問題でも?」
「うるさい。反抗すると公務執行妨害でしょっぴくぞ」
警官は分かりやすく頭に血を上らせた。色素の薄い白い肌は、僕達と違ってたちまちみっともなく赤くなる。帽子から薄くなっていることが分かる金髪がはみ出していた。きっとこいつは禿げ頭だ。
「アミン、いいからIDを出すんだ。面倒は起こすな」
トモに腕を引かれて小声で忠告される。収監されたいのか、と。言われて、僕もハッとした。違法薬物の所持や使用じゃなくて、対テロ法で逮捕されたら厄介だ。
今のイギリスでアラブ系が警官と揉めるのはヤバイ。テロを計画した疑いで逮捕されれば、対テロ法で十四日間の拘留期間が認められている。証拠なんか必要無い。取り調べのふりをした嫌がらせで、あいつらは二週間も僕達を豚箱にぶち込めるってことだ。
僕を庇うように、まずトモが身分証を差し出す。
「日本人? そうか、日本人か……」
警官はトモのパスポートを確認して、彼が中国人じゃないことを不思議がるように首を傾げた。日本人は中国人ほどには嫌われていないけれど、イギリス庶民は特別に日本が好きというほどでもない。トモは乱暴に突き返されたパスポートを受け取り、ショルダーバックに仕舞った。君も、とトモに促され、僕は渋々とポケットからIDを取り出し、ムカつく警官に差し出した。奴はしげしげと僕のIDを眺め、チッと舌打ちをした。
「なんだ、不法移民じゃないのか」
「今、なんて言った?」
こいつ、不法移民じゃないのか、と言いやがった。残念そうにだ。この警官は、僕が不法移民だと決めつけていて、嫌がらせをする気満々だったというわけだ。どうしてそんな風にされなきゃいけない? イギリスで生まれて、イギリスで育ったのに、僕はイギリス人とは認められないのかよ!
思わずカッとなって怒鳴っていた。
「僕はイギリス人だ。見て分からないのかよ。バニラアイスの糞野郎、脳みそまで筋肉になってんじゃないのか?」
「アミン、バカ……」
トモは慌てて僕を止めようとしたけれど間に合わなかった。暴言はクリアに場に通り、糞野郎の警官は間抜け面でポカンと口を開けた。僕みたいなガキに口汚く反抗されるとは思っていなかったのだろう。呆気に取られて思考停止しているみたいだった。
次の瞬間、力任せに殴られた。
ボクサーには到底及ばないが、それなりに威力のある右フックが左頬に当たり、よろけて地面に尻をつく。奴の降り上げた拳は見えていたのに避けられなかった。
痛みは熱になって籠り、鉄さび臭い血の味が歯に沿って広がる。拳が頬肉越しに歯に当たって、口の粘膜が切れたらしい。
「痛ぇ……なにすんだよ!」
みっともなく尻もちをついたまま、頬を押さえて文句を言うと、豚野郎の警官は、今度は僕を蹴ろうとした。
「やめろ。彼に乱暴するな」
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