【Ⅳ】2

 メインの子羊のローストはびっくりするくらい柔らかかったし、誕生日にフルーツがどっさり乗った豪華なケーキを食べるのは初めてだった。テーブルにはロマンチックなキャンドルが灯されていて、食事の後、紅茶を飲みながら、二人はそれぞれプレゼントをくれた。ラティファのは最近人気のあるブランドのジャケットで、トモのは僕のイニシャルが刻まれたシルバーのバングルだった。


「二人とも、ありがとう」


 その夜は、本当に穏やかで、人生で一番ハッピーだった。


 春から夏はあっという間に過ぎる。


 二〇一二年八月、オリンピックは勝手に始まり、勝手に終わった。


 国を挙げての狂騒は僕とは遠い場所で起こっていて、ドームは歩いて行ける距離なのに、酷く空々しいものに思えた。チケットはそもそも入手が困難で、ネットオークションに出されるものは値が高騰して、僕なんかにはとても手が届かなかった。オリンピックが開催されていた一ヶ月ほどの間、ただ、近所に観光客が増えて、ホテルや臨時民宿が埋まって、店が混んで、渋滞が起こって、僕の好きなリバー・リーの中洲までうじゃうじゃと余所者が歩くようになって、うるさくてイライラしただけだった。


 そんな空騒ぎが起こっていた一方で、


 八月のある日――


 ママが殺された。


 刑期を終えて出所したダリルがキッチンナイフで刺したんだ。


 詳しい状況は分からない。ママがダリルを待っていたことは知っていたし、刑務所にいるダリルにも時々は面会に行っていたんじゃないかと思っていた。二人がどんな話をしたのか知らない。知りたいとも思わない。


 逆恨みしてママのフラットに強盗のように押し入って、用意してきたナイフでママを刺した……ということだったなら救いがあるのだけれど、たぶん、違う。


 ママは、僕を虐待した挙句にレイプまでしようとした男を、うきうきと出迎えたんだろうと思う。実の息子の僕より、あのクズ野郎を選んだんだ。なんて酷い女……


 全身十か所以上を刺されたママは、顔面と両手から血を流し、腹にナイフが刺さったまま、近所の女の子が見ている前でポーチの短い階段を転げ落ちた。


 ママの凄まじい様子を目撃したその子は失神してしまい、駆け付けた彼女の祖父が通報してくれたらしい。すぐに警官が駆け付け、ダリルはその場で逮捕された。


 呆れたことに、ダリルは泥酔して、顔と手と服を血で汚したまま、リビングでぼんやりとテレビを見ていたそうだ。ローテーブルの上にはまだ温かいピザとフィッシュケーキが乗っていたと聞いた。要するに、ママはダリルの為に食事を用意してもてなしていたということだ。


 その知らせを受けた時、僕は最初、何も感じなかった。


 バカバカしくて涙も出ない。


 ママはとっくの昔に僕の中では死んでいたし、死んでほしいとも思っていたから、むしろ都合が良いとすら思ってしまった。


 ショックはあったと思う。けれど、うまく説明できない。ただ、ダリルがどうしてママを刺したのか分からなかった。ダリルが逮捕されるように仕向けて、くそったれの刑務所に三年ぶち込んでやったのは僕だ。僕を恨むなら分かる。いや、僕だって恨まれる筋合いは無い。ずっと暴力を振るわれ続けていたし、レイプされそうになったからやっつけただけだ。僕は虐待被害者だ。僕が恨まれる理由なんて無い。それに、あいつは僕だけでなく、もうひとり、別の少年をレイプしていた。あれだけの罪を犯しておきながら、ダリルは少しも反省しなかったのか。


 あいつは、自分が悪いなんて少しも思っちゃいない――


 そのことに思い至った時、全身に火が着いたような、猛烈な怒りが込み上げた。屈辱、恥辱、憎悪、殺意、そういった類のあらゆる負の感情が渦巻いた。


 どうして恥じ入るべき立場の奴が、謝罪もせずに人を恨めるんだ?


 最低最悪の恥知らず――


 ぐらぐらと腹が立って、胃の奥で石炭でも焚いているような気分になったけれど、なぜか、ママが死んだということに関しては、僕の心は空白地帯になった。


 普通の人がどう反応するかについては、さすがに僕にだって予想が出来る。ここは、因果関係を取り違えて、激しく後悔するシーンなのだろう。


「僕が余計なことをしなければママは殺されなかった。僕のせいだ」


 きっと、他の奴ならそう思う。そう思って後悔する。そうだろう、普通の人達?


 でも僕は、やらなければ良かったと後悔する気持ちなんて無かった。


「やって良かった」


 ママが殺されても、その気持ちは揺らがなかった。


 だって、やっていなかったら、僕がもっと惨めな目に遭わされていただろうと理解していたからだ。僕は自分の身を守っただけだ。僕は悪くない。そもそも、ダリルが豚野郎なのが悪いんじゃないか。逆恨みしたあいつが悪いだけだし、あいつが出所してきたらヤバイと思わなかったママも悪い。


 責任があるのは、ダリルとママだけだ。僕には関係無い。


 それでも、嫌な気持ちはぐるぐる回る。


 自覚は無かったけれど、僕は呆然としているように見えたらしい。見かねたトモが連絡し、ラティファが慌てて飛んで来て、二人でずっと僕に付き添ってくれた。


 警察の死体安置所で、蒼褪めて蝋のような肌色のママを見た時は、全身の血がざわりと騒いだ。砂のようになった血が肌の内側を撫でて、ありとあらゆる命の感触が、潮が引くようにどこかへ失せていく感じがした。高い崖から飛び降りたのに、なかなか地面に着かない、永遠に落ち続けているような、急降下の錯覚。それは次第に浮遊感になって、僕を現実から放り出した。


 結局、ママは、どんな人だったんだろう?


 分からない。


 いつまで経っても、涙は出なかった。


「ダリルを殺しておけば良かった」


 そう言葉に出して言ってみた。


「僕が手緩かったんだ。あいつをぶっ殺しておけば、ママは殺されなかった」


 空々しかった。心底からそう思っていない事を自分自身で理解していた。ママが死んでくれて、しかも被害者として死んでくれて、僕は、ホッとしていた。


 薄汚れた死体安置所を出て、何も考えず近くの公園に向かった。ロンドンにしては珍しく暑い日で、真っ青に透き通った空が目に染みた。公園の正面ゲートをくぐると、イングリッシュオークの木立が広がる。煉瓦の敷かれた散歩コースには、アーケードの天蓋のように瑞々しい樹々の枝葉が茂っていて、キラキラと硝子の欠片のような木漏れ日が地面に落ちていた。ぼんやりと揺れる光の粒を眺めているうちに、「ああ、夏なんだな」と脈絡もなく呟いていた。そんな自分がおかしくてクスクスと笑ってしまった。


 勘違いしたラティファが悲鳴のような声で、「アミンを私の部屋へ運んで」とトモに命令した。運べと言ったって、頭半分小さいトモが僕を抱き上げられるわけもなし、僕は自分の足で歩くしかなかった。


 自分で歩くさ。もう子供じゃない。生きるって、そういうことだよ。


 人混みを掻き分けてラティファのスタジオへ向かう。足元がふわふわして、まるでジョイントでもやっているみたいだった。


 部屋に入るなり無理やりベッドに座らされ、ラティファは犬か猫でも看るナースのように僕の顔を不躾に覗き込んできた。両頬に手を当てて、今にも「舌を見せて」と言い出しかねない調子で言う。


「アミン、ねえ、本当に大丈夫なの? ねえ、シッカリして。顔色が真っ蒼よ」


「何か食べ物を買って来ようか?」


 トモが横から離れていこうとして、僕は思わずトモに縋り付いた。ベッドに掛けたまま立っているトモに抱き着いたから、トモの肉の薄い腹に顔を埋める格好になる。


「行かないで、トモ」


 今、トモに置いて行かれたらおかしくなる――咄嗟にそう思っていた。別に、ママが死んだからってどうということはない。どうでもいい。何も感じてない。でも、今はトモと離れたくない。


 トモとラティファは困ったように顔を見合わせる。


「じゃあ、私が……」


「ダメだ。ラティファもここにいて。誰もいなくならないで」


 僕は二人に、両親のように両側から僕を抱いて慰めて、と強請ったんだ。バカバカしい話だ。もう子供じゃないと言いながら、幼い子供のように振る舞った。


「いいよ」


 トモは微かな声で囁いて僕の横に座った。ラティファも反対側に座る。


「アミンの気が済むまでこうしていよう」


 言って、トモは僕を抱えたまま、ラティファに手招きした。二人に両側から抱き締められて、やっと、少しだけ僕は涙を流した。目の端に滲む程度だったけど、僕にとってはそれで十分だった。ママは僕にその程度のことしかしてくれなかったのだから。


 トモとラティファに抱き締めて貰って、なんだか無性にスッキリした。二人とも、僕のものだ。僕を愛してくれている。僕には二人がいる。僕は、「もういい」とママのことを考えるのをやめた。何度も見放してきたママを、今度こそ本当に捨てたのだ。


 あんな女がいなくても、僕にはトモとラティファがいる。


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