【Ⅳ】Men willingly believe what they wish.

【Ⅳ】1

【Ⅳ】Men willingly believe what they wish./Julius Caesar


   人は喜んで自己の望むものを信じるものだ。




 二〇一二年、五月二十五日。


 シリア、ホムス市近郊のホウラ村で虐殺が行われた――


 一斉に事件を非難するツイートが流れ、ユーチューブには虐殺の行われた証拠を示す動画がアップされた。本物か偽物か分からないニュースが奔流となって押し寄せて来た。僕達はシリア情勢に釘付けになった。


 僕はリビングで、トモと一緒にウェブサイトにアップされていた画像を見た。


「なんだ、これ。血の跡? モップで拭いたのか? こんな雑に?」


「違うよ、アミン。この血の跡は、血塗れの遺体を引きずった跡だ」


 生々しい血の色だった。映画みたいに赤黒くない。鮮やかな朱色だ。だからこそ、その画像が本物か偽物か議論されていた。映画ファンは偽物だと言い、素性の分からない人物が簡潔に「本物だ(It's real)」と言った。


 シリアは混乱していた。まったく何も分からない状態だった。どこで何が起こっているのか、誰がなにをしているのか、誰と誰が対立しているのか、誰が何の為に戦っているのか、何も分からない。


 アサド大統領の政府軍と、それに反抗する反政府軍が戦っているのだと思っていたのだけど、そんな単純な図式ではなかった。アルカイダ系の組織がイラクやアフガニスタンから手を伸ばしているという情報もあった。


 目眩をこらえるように、トモは額に手を当ててダイニングチェアの背に崩れ落ちるように身を預けた。


「気分が悪い……」


 僕はミネラルウォーターのペットボトルを冷蔵庫から取ってきてトモに手渡した。


「飲んだほうがいい。顔が真っ蒼だ」


 ありがとう、と言ったきりトモはペットボトルに口を付けなかった。


 表で遊ぶ子供の声が聞こえる。


 今日は珍しくよく晴れていて、洗濯物を干しにベランダに出た時には爽やかな初夏の風が吹いていて心地よかった。楽しそうな歓声が不意に現実感を失って、透明な膜を通して響いているような、遠い、異質なものに変化した。


 人が殺されたのだ。意味もなく、残虐に、この上もなく野蛮に。みんな血の詰まった肉塊になっていた。断面には白い脂肪と骨が見えた。人の形を残していても、あちこちに黒い穴が開いていて、瞬間的にはグロテスクな水玉模様に見えるそれが、銃で撃たれた弾痕なのだと理解する頃には、よく出来た等身大の人形にしか思えなくなった。


 馴染めないものを、人間の脳は拒絶する。


 僕は、俯くトモを置き去りにして、憑りつかれたようにウェブに表示されるリンクをクリックしていった。


 アルカイダ、タリバン、ビン・ラディン、アイマン・ザワヒリ、ジハード団、ムスリム同胞団、アラウィ派、シャッビーハ、自由シリア軍、ヌスラ戦線、あるいは二〇〇六年十月にムジャヒディン評議会指導者アブー・オマル・バクダディによって樹立を宣言されたイスラム国など……様々な言葉が飛び交っていたけれど、全容は理解しづらい。複雑怪奇な中東の歴史が、モザイク状の民族分布が、事態を予想以上に混濁させていた。


「サイクスピコ協定の弊害が現代にまで残っているんだ」


 トモは沈痛な面持ちでそう言い、僕にアラブの歴史を説明してくれた。


 トモの言うことは難しかった。


「そもそも汎アラブ主義が台頭したのは、独裁政権への抵抗運動としてだった」


 西欧主義の独裁政権が何をしたのか、そして、抑圧された民衆がイスラムに回帰した経緯を、ムスリム同胞団の成立の歴史を、トモは熱心に語った。


 サラフィー・ジハード主義の提唱者サイイド・クトゥブの名前も、僕はこの時、初めて耳にした。僕は、なぜか反抗する人々に惹かれた。情勢は理解出来なかったけれど、反政府軍のほうに正義がある気がしたんだ。テロリストと呼ぶのはアメリカの勝手だ。


 一九九六年、ビン・ラディンが発したジハード宣言にこんな一節がある。


「抑圧と侮辱の壁は銃弾の雨でしか破壊できない」


 僕は、その言葉に胸を打たれた。


 真理だったからだ――


 戦わなければ、僕はツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)に一生見下され続ける。


 他にどうすればいいって言うんだ? 底辺から抜け出そうとしても、僕ら移民の係累には、金も、コネも、学位も、教育を受ける機会チャンスすらも無い。ろくな職に就けない。未来が無い。希望が無い。イギリス人になる機会チャンスが無いんだよ。ラティファが特例だって、僕は、もう知ってしまっている。もしも学位があったとしても、企業はアングロサクソンを採用するんだろう?


 嫌いだけど、ラシードとハシムはオックスフォード出のエリートだ。そんな彼らでさえも、希望する職には就けなかった。そういうことなんだよ。イギリスには移民の係累が幸せになる道は無い。機会が無い。可能性が無い。希望が無い。


 僕達は、差別される、排斥される、無視される、アラブ人だ――


 そんなことを悶々と考えていて、気が付いたら、ラシードとハシムがいた。


 このタイミングで後ろに立たれるとギクリとする。


 ラシードは、トモと僕が見ていたウェブサイトを覗き込んで、No, holy fuck! と怒鳴った。ハシムもラシードの横からラップトップPCのディスプレイを覗き込み、What' a hell. No way! muh fuck! と下品なスラング混じりの罵声を発した。


「なんだ、これは? 何が起こっている?」


 痩せて背の高いラシードが獣のように呻き、


「神をも畏れぬ暴挙だ。冒涜だ」


 がっしりとした筋肉の塊のようなハシムは頭を抱え込んだ。


「虐殺だよ。シリアで、ついに虐殺が起こった」


 トモが硬い声音で説明する。二人は、まるでトモが悪行を働いたかのようにトモを睨み付けた。


「どうしてだ? なぜ、彼らは殺された?」


 至極真っ当な質問だった。だけど、誰にも答えられない質問だった。


「分からない(I don't know)……」


 トモは心底申し訳ないという態でそう言い、ラシードとハシムはトモのラップトップPCを勝手に使って関連ニュースを貪り始めた。


「コーヒーでも淹れようか」


 トモは疲れたような寂しげな微笑を浮かべ軽く肩を竦めた。


 まだ真っ蒼な顔をしていたくせに、人数分のコーヒーを淹れて、ラシードとハシムの手元に置き、トモは僕を手招きした。


「ソファに座ろう」


 うん、と頷いて僕はトモと並んでコーヒーカップを手にソファに体を沈めた。


 ラシードとハシムは、僕に説明をしてくれたトモとは違った。怒鳴り合うように意見を交わしていた。僕はただ呆気に取られるだけで、何も理解できていなかった。あまりにも複雑な全体像についていけなかった。トモは言った。


「誰が理解して行動しているものか。ただ即応的に出来る事をしているだけだ。全体に波及する影響を理解している人間はいない。ましてや結果なんて、誰にも予測できない」


 それを受けてラシードが挑戦的な視線で言い切る。


「だが、関連と影響を、パワーポリティクスを、どこまで読めるかで勝敗は決する」


 ハシムは宣誓のように胸に手を当てて、よく通る声で言った。


「アラブは誇りを取り戻す」


 彼らは、幾分かは事態を理解して話していた。意思を持って言葉を紡いでいた。何も分かっていなかった僕とは違って、彼らは事態に積極的に関わろうとしていた。


「行動しなければ」


 そう言って、ラシードとハシムは滅多にフラットに帰って来なくなった。遠いアラブ世界の紛争を薄っすらと肌で感じながら、僕はまだ何も知らなかった。


 六月七日は僕の誕生日だった――


 この日ばかりは、トモもイマーム・カーディルのところへは行かずに、ラティファが予約をしてくれたビストロで一緒にお祝いをしてくれた。


 初めて顔を合わせたトモとラティファは軽く自己紹介をしてから、同じ歳だと知ってお互いに驚いていた。「日本人て若く見えるのね」と言われ、トモは複雑な表情で「いまだにハイスクールの生徒と間違われるよ」と自虐的に頭を掻いた。


 まあ、ともかく、予約してあった席に着いて、給仕が注いでくれたシャンパンのグラスを掲げて乾杯をした。


「十七歳の誕生日おめでとう」


「おめでとう、アミン」


 前菜のカラフルなサラダが運ばれてきて、少し戸惑う。


「マナーが分からないよ」


 小声で打ち明けたら、ラティファは困ったように口角を上げて小首を傾げ、トモはゆったり鷹揚に微笑んだ。


「Don't care. 大丈夫だよ。僕も分からない」


「他の客に笑われない?」


「笑われたっていいじゃないか。美味しいってことが大事だよ。まあ、ここはドレスコードの無いカジュアルな店だし、誰も他のテーブルのことなんて気にしないよ」


 トモはわざと下手にフォークだけで前菜を食べて見せてくれた。ラティファは軽く眉をひそめ、僕は嬉しくて笑った。


「ありがとう、トモ」


「No mention. It's my way.」

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