【Ⅱ】5

 ああ、終わりだ。


 彼女との関係はもうどうにも発展しようがない。それから少し、当たり障りのない世間話をして、僕は出来る限り紳士的にリアーナにさようならを言った。


 そんな経緯で、僕の初恋はあっけなく過去になった。


 一連の出来事をフラットに帰ってからトモに話したら、トモは読みかけの本をテーブルに伏せて苦笑いをした。


「practicalだよ、アミン。男と違って、女はpracticalな選択しかしない。彼女の選択は正しい。自暴自棄になった君に付き合って身を落とすことを嫌ったんだろうね」


「厳しいね、トモ」


「僕が言ってやらなきゃ、他の誰が言ってくれるのさ?」


「抱き締めてもいい?」


「丁重にお断りする。手近な場所に慰めを求めるな。少し頭を冷やして、次は建設的な恋をしたまえ、若者よ」


 トモは爺さんのように言い、眼鏡の奥で優しく目を細めた。


「ちなみに、パウロ・コエーリョのアルケミストは、キリスト教徒の巡礼だけではなくアラブを知らなければ理解できないと言われているよ。僕は両方は知らないけどね」


「なるほど。僕も両方知らないや」


 僕達は肩の力を抜いて笑い合った。


「巡礼はともかく、マクトゥーブの意味なら教えられるけど、聞く?」


 トモは不意に真顔になってそう言った。


 マクトゥーブ――トモに言われて思い出した。アルケミストの作中にマクトゥーブという意味の分からない言葉が何度も出てきた。主人公のサンチャゴは、クリスタルを売る商人から、アラビア人にしか分からない神秘的な言葉だとしか教えられなかった。読んでいた時は意味が気になったけど、面倒臭くて調べなかった。


「うん、聞いてみようかな」


 まあ、正直に言えば、それほど興味は無かったんだけど、トモが話したそうだったからそう言ってみた。OKと言って、トモは冷蔵庫からステラの瓶を二本取って来る。長い話になるのかな、と少し後悔したけど、まあ、いいか。


 栓を開けて軽くお互いの瓶を打ち合わせる。クリアで心地好い音が響いた。


 トモは開いていたワークブックにフリクションで maktub と書き込んだ。青い文字が紙面の真ん中にぽつんと浮かび上がる。


「マクトゥーブは、たぶん、これは定められていた運命だ、と感じた時に発する言葉だと思う。良い悪いはともかく、そこにある流れとか、決められていた事とか、そんな……」


 アルケミストのストーリーを思い出そうとしたけど、ハッキリとは思い出せなかった。自分の意思に関わりなく、すべき事が現れた時に、登場人物達がマクトゥーブと呟いていたような気がするけど……記憶がぼんやりしている。


 トモは maktub の横に letter write wrote と書いた。


「直接の意味は手紙、語源は、書く、書かれた。経典の民アフルル・キターブらしい感性だと思わない? 神の啓示が日々の生活の中に『言葉=文章として』降りた歴史が無ければマクトゥーブは発現しない。モーゼの十戒や聖書も底にあるのは生活に基づいた部族法だし、コーランは特にその傾向が強い。教祖ムハンマドには創造主の言葉を伝える使徒、神の郵便配達人ラスゥール・ラーという呼称もある。ムハンマドが神の郵便配達人であることを信じる者がムスリムだともいえる。預言者の中の預言者アル・ナビーのほうが異教徒には有名だけどね。まあ、ようするに、マクトゥーブは神の啓示、あるいは運命、難しい言い方をすればヌミノーゼだよ」


「難し過ぎる……イスラムの歴史は分からないよ」


「ううむ、一神教を分かりやすく説明するならエジプトのアマルナ文化がなぜあの形になったのかから話さなければならないし、時間がかかるかも……」


「なるべく短く説明して」


 トモは唸りながら首を捻った。ああ、これは長くなるな、と覚悟する。案の定、トモの説明は回りくどくて難解だった。


「日本人は因果応報を信じる民だ。キリスト教徒も、少し感覚は違うけど、積み重ねた行いの結果、幸運あるいは不運が訪れると信じているのではないかな。だから、ブッティストとクリスチャンはある程度お互いの感覚を理解できる。運命は自分の行いで左右出来るというのが共通する感覚だと思うんだ。でも、アラブは違う。すべての出来事はひとつひとつその場その時にアラーが行わせる事で、そこに恩賞や懲罰の因果は無いんだ」


 よく分からない、と僕は正直に伝えた。僕はブッティストでもクリスチャンでもない。ママも無信仰者だし、僕も神は信じていない。トモは、そうかぁ、と困ったようにくしゃりと笑って、少し考えた後に、


「とにかく、アラブは『アラーの御心のままに(イン・シャー・アッラー)』だし『マクトゥーブ』なんだよ」


 と、分かるような、分からないようなことを言った。


「アラブを理解するには、沙漠の砂を知らなければならないと言われる。沙漠の砂は決して纏まらない。強く握っても、力を緩めればサラサラと崩れてしまう。砂は決して結合せず一粒一粒独立したままだ。それがアラブの感覚だ。アラブの運命は不連続。ひとつひとつの出来事は独立して存在するのさ。アラーの御意志で」


 同質性を強要し結合しまくる日本人とは真逆だ、とトモは珍しく暗い険のある口調で呟き、微かな溜息をついた。


 僕の知らないトモがそこにいた。初めて見るトモの苦悩。ここには無いトモの苦悩の原因を探して、僕は視線を彷徨わせる。何がトモを苦しませているのだろうか。


 パブでリアーナに出会った夜、金髪と赤毛に絡まれた後、トモが話してくれた事を思い出した。あの時、トモは日本が嫌いだと言った。


 ――これはあくまでも例えだけどね。みんなが天動説を信じていたら、たとえ真実でも『地球が回っている』と言ってはいけない。それが日本だ。日本人のメンタリティは中世の迷妄をいまだに抜けていないんだよ。


 It forces you to go along with the neighborhood.


 トモは、外からは見えない日本について、あの後、もう少し説明してくれていた。


 平和で優しい国に思えた日本も、あからさまな人種差別のあるイギリスとは別の意味で嫌な感じだった。日本人が一様に控え目な理由が分かって薄ら寒くすらなった。


 日本では「何も考えず、判断せず、自分を出さず、ただ周りに同調せよ」と無言で強要されるのだ。個人の感情がどうであろうとも、善悪がどうであろうとも、波風が立たないよう、個人の行動は抑圧される。


 何も起こらない事が最良だから――


 取り込まれるということは、排斥と真逆でありながらも、同質だ。個の存在は許されない。自由は無い。すべてが、全員が、溶けて歪に固まったガラスのように混然一体となって、身動き一つ出来ない。それが日本の社会だというなら、毎分、毎秒、精神的に殺され続けているようなものじゃないか。


 アラブは結合しない砂だとトモは言った。サラサラと一粒一粒が独立した、因果の無い不連続の運命。漠然とし過ぎていて、まだアラブの感覚はよく分からなかったけれど、トモがその概念に惹かれていることは理解出来た。


 トモはアラブになりたいのかもしれない。


「アルケミストを理解することは、マクトゥーブを理解すること。そして、マクトゥーブを理解することはアラブを理解することだと思う」


 とん、とステラの瓶を持った手で軽く胸を叩かれた。


「アラブは、アミン、君のルーツだ。根を知れば、君のプラスになるんじゃない?」


「そうかな?」


 たぶんね、とトモは下手なウインクをし、ステラを一口飲んだ。


「マクトゥーブか……」


 ダイニングテーブルの上には、水滴の輪が二つ並んでいる。トモがいなければ僕はここにはいなかっただろうし、この水滴の輪も、今、この場には無かったはずだ。


 ツイッターでトモが僕を見付けてくれなかったら、この光景は存在しなかった。


 どうしてトモは僕を見付けてくれたのだろう?


 HELP! PIGLET(ME)


 IT’S ME PIGLET, HELP HELP.


 遭難しています。誰か助けて――僕が発していた救難信号。あんなものを、トモのような僕にピッタリの人が見付けてくれるなんて、ただの偶然だなんて思えない。


 唐突に僕は畏敬の念に撃たれた。なにか偉大な意思が世界には存在しているような、そんな神聖な気分になったんだ。


「トモに出会った事はマクトゥーブだ」


 僕は大真面目に呟き、トモも頷いてくれた。


「僕も、君に出会ったことはマクトゥーブだと思う」


 運命が導いてくれるなら、と僕は思う。


「幸せになっていいはずだ。そうだろ、トモ?」


 僕達は、というつもりで言ったのだけど、トモはなぜか自分を除外した。


「もちろんだ。アミン、君は幸せにならなきゃいけない」


 幸せになっていいはずだ。


 幸せになっていいはずだ。


 僕は心の中で必死に唱え続けた。


 だって、そうでなければ僕達は何の為に生まれて来たのさ?


 不幸になる為に生まれてくる子供なんていない。


 幸せになっていいはずだ。


 幸せになっていいはずだ。


 幸せになりたいと願ってもいいはずだ。


 どうか、一人の例外も無く、そう言ってくれ――!


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