REPLY 《2》
アミンの鋭さには、時々驚かされた。それと同時に、彼の鈍さにも、よく驚かされていた。「人間は誰もが幸せになりたいと思っている、だから幸せになるべきだ」とアミンは考えていた。その考えは悪くない。善良だ。自然だ。
だけど、世界は一筋縄ではいかない。
幸せになりたいと思っていない人間もいるのだ。僕がイギリスで会わなければならないと熱望していた人の膝下に集っていた一派は、確実にそれだった。彼らは世界を壊すことだけを望んでいて、個人の些細で優しい幸せなんて鼻でせせら笑っていた。
イマーム・カーディルは暗い怨嗟の上に君臨していた。
彼はいつも不機嫌そうに腕を組んで、挑むように窓の外を睨み付けていた。元軍人だということで、戦地で負傷し足が少し不自由であるらしかった。立ち上がる時は松葉杖を突いていたし、たいていは陽当たりの良い窓辺のソファに静かに座っていた。その厳めかしい風貌は、宗教指導者イマームというよりは士官サーといわれたほうがしっくりいった。ロンドンはムスリムへの偏見が強い。テロリスト予備軍だと思われているフシがある。だから、彼は人目を引かないよう髭を剃り、髪も短いクルーカットだった。
僕は彼らがプロパガンダに使用する文書の翻訳を任された。英語を日本語や中国語に、あるいは日本語や中国語を英語に翻訳して、彼らが自分たちの主張をYouTubeやツイッターにアップするのを――イギリスでは違法行為だったが――助けた。他にも、イマーム・カーディルが仲間とのやり取りのために必要な資料をネット検索して集めたり、私的な買い物を代行したりして、約三年、報酬無しで彼の秘書のような役割を果たした。
正直、イマーム・カーディルに初めて会った時、僕はほんの少し拍子抜けした。彼の外見は少しもアラブらしくなかったし、その上、金髪で青い瞳をしていたからだ。生粋のアラブは地中海系のオリーブの肌に褐色の髪と鳶色の瞳をしていると思い込んでいた。彼はカフカス系のアラブだった。セルビア出身のムスリムは目の覚めるような金髪碧眼をしていることがある。古代ウクライナの流れを汲んでいるのだろう。ギリシャ神話で言うところの王女メディアの一族だ。青い瞳の因子は古代に黒海を越えて、あるいは陸伝いに山稜を越えてカフカスの裾野に広がった。バクー経由でロシアに入る麻薬の密輸ルートを逆巡りにすると、ちょうど青い瞳が伝わったルートになる。
彼の燃えるような青い瞳で見据えられると、体の奥に冷たい火が点ったようになり、奇妙に透き通った情動が疼いた。何かしなければ、正義のために行動を起こさなければ、立派な男にならなければ、そんな一種異様な性欲めいた英雄願望を掻き立てられ、抗い難い焦燥が背筋を這い上がって脳を灼いた。
僕達はイマーム・カーディルに魅入られていた。
古くて狭いフラットの一室に、まだ若い男たち――大抵はこちらが驚くような良い大学の出で、ケンブリッジやオックスフォードの院生まで混じっていた――が、ひしめくように集まって議論を戦わせていた。斬りつけるような言葉の応酬に、時折、重く静かな声でイマーム・カーディルが割って入る。
「よく考えて答えろ。それが本当におまえの正義を実行する方法か?」
そう言われてじっと目を見詰められれば、誰もが委縮して黙り込んだ。誰も正しい答えを知らず、ましてや自分の考えに自信なんて持っていなかった。
不満だけを抱えていた。
ピーピーと囀る雛のような若者の中で、イマーム・カーディルだけは特別だった。カリスマだった。穏やかだが、しかし厳しく冷えた声で僕達にイスラムの教えを語った。岩の亀裂に雪解け水が音も無く染み込むように、冷たく静かに彼の言葉は僕達に浸透した。
イブン・タイミーヤが提唱し、サイイド・クトゥブが先鋭化させたサラフィー・ジハード主義というものを僕はそこで実感した。
「友に倣ならい、聖戦を実行せよ」
母体であったムスリム同胞団からも異端視されるクトゥブ主義は、他の教条解釈を掲げる宗派を認めない狭量で攻撃的なタクフィリ主義でもあった。
日本でも有名になったウサマ・ビン・ラディンは、ムスリム同胞団のパレスチナ人アブドゥラー・アッザムからクトゥブ主義の薫陶を受けた。ちなみに、ムスリムにとって国籍はあまり意味をなさない。何国人かということよりも、ムスリムである事と、どの宗派のどんな教条を信奉しているかが重要になる。かつてサイイド・クトゥブを放逐したムスリム同胞団はエジプトに本拠を置くが、その教条に心服する者は各国に散らばっている。
それはともかく、「まず近くの敵を攻撃せよ、遠くの敵は待たせておけ」というのがサイイド・クトゥブのジハード観だったが、ビン・ラディンはジハード思想をさらに過激に生まれ変わらせ「遠くの敵への攻撃」にジハードの優先順位を転換させた。
ムスリム同胞団、あるいは十世紀の法学者イブン・タイミーヤに連なる二十世紀の思想家サイイド・クトゥブの教えでは、イジュティハード――コーランとムハンマド言行録ハディースの新たなる解釈の模索――の門はイスラム法学者ウラマーが聖典に拠って行う限り、限定的に閉ざされていない。彼らはワッハーブ派と呼ばれている。
イジュティハードに対する各宗派の態度は様々だ。シーア派の十二イマーム派では、むしろイジュティハードの門は開かれている。制限はあるが、イスラム法学者ウラマーの義務のひとつとされており、イランではイスラム法学者ウラマーが法を司り国政を執っている。
スンニ派に話を戻すと――
イスラムの誕生した六世紀末から時を経、幾度もの宗派の分裂の果てに、十世紀には法解釈の乱立が起こり、おそらく更なる分裂と混乱を抑える目的で、ガザーリーは、新たな法解釈は認めず確立されたイスラム法シャリーアを守るよう説いた。以後、スンニ派ではイジュティハードの門は閉ざされている。そのため、イスラムは十世紀の社会常識を現代に押し付ける形になってしまう側面を持つ。女性の権利が時代に合わない歪んだ形で制限されていることも、そこに由来する。カリフによって再びイジュティハードの門が開かれれば、法解釈の改革も可能性としては有り得るが、伝統を好む信徒による感情的な反発がそれを阻むことも予想される。人の感情が絡むと問題は無駄に複雑化する。
ワッハーブ派は、スンニ派に属しながらも条件付けでイジュティハードを認めているが、その反面、厳格にイスラム法シャリーアを施行する過激な性格も持ち、ウズベキスタンなど一部地域ではテロリストの代名詞になっている情勢もある。その一方で、サウジアラビアでは国教になっている。サウジ出身のビン・ラディンもワッハーブ派を信仰していたと言われているが、政府はテロを正当化する説法ファトワーは厳しく取り締まっている。
国際社会では、一部の過激思想――ワッハーブ派は強硬な原理主義でもある。預言者時代のイスラムに立ち返ろうと言うのだから――にばかり焦点が当てられているが、角度さえ変えれば、預言者時代の法は人の営みのために良かれと説かれたものばかりだった。そもそもムハンマドの教えは人道的なのだ。イジュティハードの門を閉ざしていないということは、法解釈に余地を残していると考えるべきだと思う。つまり、ワッハーブ派はイジュティハードの門を閉ざした他のスンニ派各派よりは、移り変わる時代に合わせて法解釈を流動的かつ柔軟に改革し易いとも言えるはずではないだろうか。
だが、今は福音と成り得る可能性よりも、不運で醜悪な可能性のほうに傾いてしまっているように思える。とにかく、ビン・ラディンによるジハードの解釈の拡大、サラフィー・ジハード主義の先鋭化、過激化……それらは、彼らの教義では否定されない。
世界中で問題視されているイスラム復興運動、あるいはイスラム回帰主義は、アラブがオスマン帝国の支配と十字軍運動に晒されていた十六世紀に萌芽し、しばしば伏流となって流れ続け、直近のイスラム復興運動が勃興してから――つまり近代西欧主義の影響を受けた独裁者の支配に甘んじるようになってからすでに百年が経っている。
西欧的な独裁に対抗するためにイスラムを掲げているのだから、原理主義に傾倒していくのも、ある意味で自然な流れかもしれない。
戦いを是とするジハード思想は十三世紀に遡る。生涯に三百冊もの著作を残した偉大な思想家イブン・タイミーヤが、初めて、「イスラム法シャリーアに逆らう者は攻撃せよ」と提唱したのだ。右手にコーラン、左手に剣――そう言い表せられることもあるイスラムではあるけれど、それまではジハードとは「信仰を守る努力」という広い意味を持つ言葉だった。
「我々が行うのはテロではない。正当な戦いだ。戦争を仕掛けられたから応戦する。当然の権利だ。我々は恐怖政治など目指してはいない。現に世界に蔓延している差別と格差を是正する。それがイスラム回帰の主眼だ」
イマーム・カーディルは、そう静謐な姿勢で語った。
「我々が目指しているのは差別のない世界だ。預言者の時代へ回帰する。現代の西洋第一主義の世界は間違っている。一部の特権階級だけが富を独占する邪悪な世界だ。我々は世界を変える。まず貧しいせいで能力があるのに教育を受けられない若者を救う。学びたい者は学ぶ自由を得、仕事の機会も、富も、公平に分配される争いのない平和な世界ダール・サラーム。我々が勝利すれば、イスラムの下にそれが実現される。我々は、我々の尊厳と、自由と、平和のために命を賭けて戦うのだ」
ダール・サラーム――争いのない平和な世界。
僕は憧れた。
そんなものが実現すると言うなら、どうしてもこの目で見たくなった。
自業自得なんだ。青い瞳のイマームに煽られてその気になっていた僕は愚かだった。金髪のストリッパーに入れ込むのと同じだ。たとえ僕がどうなったとしても、それは当然の成り行きで、同情される余地なんて無かったと思う。
だけど――
アミンは幸せになるべき人間だったと、僕は今でも思っている。
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