【Ⅱ】4

 悔しさで両手を握り締めていたら、トモが軽く肩を叩いて来た。


「座って。飲み直そう」


 気が立っていてそんな気分じゃなかったけど、関節がガクガクと震えていて、今店を出ても、ちょっとクールには歩けそうもなかった。別にビビッていたわけじゃない。興奮し過ぎると、怒りのピークを越えた後、そんな風になるだろう?


「ソフトなものが飲みたい」


「OK」


 トモはシャンディを注文してくれた。エールをレモネードで割った軽いカクテルだ。それを受け取る時、僕はバーテンダーに掃除の礼を言った。どういたしまして(No trouble at all)、と彼はにこりともせずに言った。


 頭が冷めていくうちに、少しずつ悲しくなってきた。


 ただ金髪の綺麗な女の子に話し掛けただけなのに、どうしてあそこまで侮辱されなければならなかったのか、わけが分からなかった。


 僕がカウンターに顔を伏せて押し黙っていると、「practical.」とトモが呟いた。


「僕が常に意識している言葉だよ」


 トモは穏やかな声で話し始めた。


「これはあくまでも僕の話だけどね。僕は弱くて、感情がいつもグチャグチャだから、大事な選択する時は絶対に感情に従わないようにしてる。常に現実的(practical)な選択をするよう心掛けてるんだ。でも、それだけだと心が渇くから、感情を起点にしている行動はその限りではないって分けて、それで自分を納得させてるんだよ。感情に従った時、僕は見苦しさが跳ね上がる。バカに見える自覚があるよ」


 何を言おうとしているのか分からなくて、まじまじとトモの顔を見詰めてしまった。


「トモが、取り乱すの?」


 いつもの落ち着き払って穏やかなトモからは、ちょっと想像出来ない。


「僕は取り乱してイギリスに来たんだよ。これは感情的(emotional)な選択だった。後先考えず、ただ来たかったら来た」


 トモは恥ずかしそうに笑って、視線を逸らす。日本人はみんなそうだ。目を合わせない。


 トモはどうして急に関係の無い事を話し始めたんだろう。


「僕がイギリスにきた理由、まだ君には話してなかったよね」


 僕は首を傾げる。ぜんぜん意図が分からない。


 これが日本人の慰め方なんだろうか?


「君の他にも会いたい人がいたからなんだ。僕の人生の師で、僕が希望を失っていた時に迷いから救ってくれた人で、高潔な優しい人で、つまり、その人はムスリムなんだ。だから君にイスラムを悪く思ってもらいたくない」


「どういうこと?」


「さっき、彼らは君を侮辱する為にサラームって言っただろ。あんな風に人を侮辱する為に口にする言葉じゃない。だから、嫌いにならないで欲しい」


「トモはムスリムなのか?」


「違う。けど、洗礼を受けるつもりだ。イマーム・カーディルに会ったら」


「イマーム・カーディル? それがトモの会いたい人?」


 うん、と頷いて、トモは遠くを見るような、いや、夢見るような目をした。


「彼は僕に道を示してくれた」


 トモはラフロイグという消毒薬みたいな臭いのスコッチをソーダ割りで注文した。


 僕は日本にいられなかった、とトモは続けた。


「僕は考え過ぎるタイプなんだ。嘘が嫌いで、どんな問題にもきちんと答えを出さなければ気が済まない。でも、日本人は曖昧が好きなんだ。イギリス人のアミンには分かり難いかもしれないけど、日本人はyes noをハッキリさせない。多少の不正や悪事には目を瞑って、表面的な平和を維持しようとする。問題を解決することよりも、何も起こらないことを良しとする。日本では、間違った事をしている奴を批難してはいけないんだ。誰かを批難したら、例えそれが正しくても、問題を指摘した人間が逆に批難される。余計な波風を起こして迷惑をかけるなって」


「そんな……おかしいよ。気持ち悪い」


「でも、そういう民族なんだよ。周りと違う事をすれば一斉に攻撃される。みんな同じでなきゃいけないんだ。同調圧力っていう説明し難い無言の強制力を持つ雰囲気がある」


「雰囲気? 日本人は雰囲気で物事の白黒を決めるの?」


「It forces you to go along with the neighborhood.」


 それは確かに嫌な感じだ。


「これはあくまでも例えだけどね。みんなが天動説を信じていたら、たとえ真実でも『地球が回っている』と言ってはいけない。それが日本だ。日本人のメンタリティは中世の迷妄をいまだに抜けていないんだよ」


 なんて言っていいのか分からず、僕は黙っているしかなかった。


「僕は、自分が自分でいられない日本が嫌いだ」


 それは理解できる。僕も、自分が自分でいられないイギリスが嫌いだ。


 トモは唇に指を当て、それから指の腹を噛んで、溜息をついた。トモの声のトーンが変わる。言い難い事に言及するように。


「アミン、ひとつだけ謝りたい」


「なに? トモは何も悪いことなんてしてないだろ?」


「そうかな? 僕は、君をけしかけてしまって、ずっと気にしてた」


 絞り出すように言って、トモは上目遣いで縋るように僕を見た。ああ、ダリルをハメて逮捕させた件だな、とすぐに気付く。どうして気に病んでいたのか、なんとなく察しは付いた。日本人って変だ。わざわざ責任を背負いたがる。けど、トモが話したがっているから、「どうしてトモが気にするのさ?」と続きを促した。


「あの事のせいで、君はママとうまくいかなくなってしまっただろう。イギリスに来た理由の半分は、君を放っておけなかったからだ。君の力になりたかった」


 まったく、トモは本当にバカな奴だ。


「Thank you. I'm awfully pleased with your kindly behavior.」


「なんだよ、厭味か?」


「違うよ。本当に感謝してる」


「なら、いいんだけど」


 結局のところ、トモは慰めてくれていたらしい。I love you, I’m your brother.と日本人なりに遠回しに言っているのだ。


「まあ、手荒い洗礼に乾杯しよう。大人の世界へようこそ」


 トモはいたずらっぽく笑ってグラスを掲げる。無駄に芝居がかった言い方が癪に障ったけど、この話はもうおしまいだよ、とその仕草が語っていた。


 二日後――


 いつも通りに出勤したら、ボスから、おまえに苦情が来ていると言われた。心当たりはあるかと訊かれて、あの金髪と赤毛だろうなと察しが付いた。僕が清掃員だと知っていたわけで、つまり、僕が担当していたオフィスのどれかが奴らの職場だってことだ。自分に非は無いと思っていたので、不貞腐れた態度でパブでの顛末を話した。


「そうか。それは不運だったな」


 予想に反してボスは静かに頷き僕の担当ルートを替えてくれた。ダリルみたいに理不尽に怒鳴り出すだろうと思っていたのに、普通に事情を汲んで貰って僕は拍子抜けした。


「Thank you, Sir.」


「気にするな(Don't mention it)」


 デヴィッドがボスとして慕われている理由が分かった気がした。その事は少し嬉しかったけど、でも、やっぱり悔しかった。たかがパブで揉めただけで、くだらない嫌がらせをされて、それが通ってしまうことが。


 数日後の夕方、ボウ・ロード沿いのカフェでリアーナを見かけた。テラス席でラテを飲みながら、パウロ・コエーリョのアルケミストを読んでいた。


 ハイ、と声を掛けたら、ハイ、と応えてくれた。


「その本、僕も読んだよ」


 僕はなにも考えずにそう言った。セカンダリースクールの卒業する間際に暇に飽かせて読んだ本だ。近所の古本市でたまたま見かけて買った、お気に入りの一冊だ。羊飼いの少年が、謎めいた宝物を求めて、迷い悩みながらも、結局は一途にアラビア世界を旅する物語はロマンチックだった。僕も地中海の向こうの世界へ行ってみたいと思ったほどだ。


 リアーナは本から目を離し、僕に輝くような笑顔を向けてくれた。彼女は純粋に本と物語が好きなんだろう。けど……


「あなたにも、この本の哲学的な意味が分かるのね」


 そう言われて一気に冷めた。


 その言葉には、大学で教育を受けている自分の教養の高さを鼻にかけていることと、僕を無学で哀れな移民の子と見下していることが、嫌になるくらい滲んでいたからだ。


 学位の低い僕が本を読んでいることが、そんなに意外かい?


 教育をうけていない奴は本も読めないと思ってた?


 リアーナは自分が失言をしたことに気付いていなかった。そのことにも腹が立った。


 たかが本を読むだけのことなのに、哲学的な意味だって? 何を哲学しろっていうんだ? 物語の文化的な背景を理解する為に歴史でも勉強しろってのか? で、どういう解釈をしろって? お偉い学者先生の講釈でも読めってか?


 くそメンドクサイ。


 リアーナの魅力が急激に色褪せて、どうでもよくなった。


 ――セックスさせてくれないなら、もういいや。


 それが正直な僕の気持だった。


「ねえ、リアーナ。暇なら僕のフラットに来ない?」


 女の子とデートした事も無いのに、僕は慣れたふりで意地悪なことを言った。お手軽なセックスフレンドのように扱われたと理解したリアーナは、驚いて目を見開き、それから傷付いたような表情を浮かべた。


「ごめんなさい。今忙しいの」


 リアーナは本を閉じて、硬い声で言った。


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