【Ⅰ】6
やった。僕はやったんだ。正しいことをした――!
僕は敵をやっつけて有頂天になった。
だけど、そんな風にはしゃぐべきじゃなかった。
ダリルが逮捕された時、それから裁判で有罪が確定した時、ママは泣いた。しかも、あの人を警察に売るなんて、どうしてそんな酷いことをしたの、と僕を責めた。
「可哀想に。あの人があんたに何をしたって言うの?」
そう言われた瞬間、僕の中でママは決定的に裏切り者になった。
何をしたかって――?
何もかもだよ。
殴られて、蹴られて、怒鳴られて、罵られて、邪険にされて、バカにされて、侮辱されて、コケにされて、いつも、いつも、怯えさせられていて、顎でこき使われて、奴隷扱いされて、あげくに娼婦扱いまでされそうになった。
だけど、そんなこと、どうだっていい。
勉強させて貰えなかったこと。これが一番深刻なダメージだ。
奪われた時間は、もう戻ってこない。折れた心は簡単には元に戻らない。僕は今から奨学金を貰えるような秀才にはなれないし、遅れてしまった学力を取り戻すのも難しい。努力したところで、あとたった二年で、無料の公立学校は卒業させられてしまう。たった二年しかないんじゃ、奪われた六年を取り戻すには間に合わないよ。間に合うと言う人もいるだろう。だけど、そんなの、しょせんは被害を受けていない奴の綺麗事だ。寝言だ。理想論じゃ僕のトラウマは癒えない。心が折れてるんだよ、どうしようもなく。
僕は大学へは行けないし、立派な学位も取れない。
もう、どうにもならない。
貧困層に産まれたら良い教育は受けられない。これは厳然たる事実だ。
夢見る時期は終わったんだと理解した。
僕とママの関係は冷え切って、ほとんど口も利かなくなった。ママは僕を嘘つきの悪魔だと言った。他にも被害者がいたっていうのに、どうしても、ダリルがミドルティーンの男の子が大好きな変態ホモ野郎――いや、ママとも寝てたんだからバイセクシャルの変態豚野郎だな――だと理解できないみたいだった。ママは、決定的な判決が出てからも、ダリルの無罪を信じようとしていた。
どうしてあの人を売ったのよ、ぜんぶ嘘に決まってる、汚らわしい、厭らしい子、おまえは悪魔だ……そんな調子で散々罵られた。
ダリルが逮捕されてからママはメイクをしなくなり、ダリルの酒代を稼ぐ為のナイトクラブの仕事にも行かなくなった。売春もやめてくれたんだと思う。家族に死なれた老婆のように、塞ぎ込んで一日中ソファに座ってぼんやりとテレビを見ていた。うつ病になってしまったんじゃないかと心配して、病院へ行くよう勧めたけど、ママは僕のアドバイスは無視した。それでも、僕がTESCOで買って来た冷凍食品は食べたし、食料を買う為のお金は渡してくれた。本当はママだって理解していたんじゃないかな。ただ受け入れたくないから、現実を拒否していただけじゃないかな。まあ、分かるよ。自分の恋人だと思っていた男が、実は少年愛好者だったなんて、女性としてのプライドに傷が付くだろう。
人間は自分の信じたいことだけを信じる――と何かの本に書いてあった。
ママとはそんな感じでギスギスした状態だったけど、僕は毎日、意地でもマトモに過ごそうと決めていた。朝早く起きてジョギングをし、シャワーを浴びて、洗濯をして、学校へ行き、夕方には食事を用意して、週二回TESCOに冷凍食品やパンや生活雑貨を買いに行き、夜は読書とインターネットに耽り、トモにDMを書いた。
勉強はもう投げていた。努力しようなんて気は二度と起きそうもなく、試験は適当にやり過ごした。
ママは鬱々として暗かったけど、ダリルのいない日常は穏やかで静かだった。いつ殴られるかとびくびくしながら過ごさなくて済むのは良い。ただそれだけで良い。
The Piglet was sitting on the ground at the door of his house blowing happily at a dandelion, and wondering whether it would be this year, next year, sometime or never.
種は芽吹くだろうか。それは今年か、来年か、それとも芽は出ないのか。
芽吹かない種は死んでいる。生きているふりで死んでいるんだ。
二年後――
二〇一一年三月、日本で大きな地震が起こり、現地にいるトモの身を心配したが、トモの住んでいる地域には大きな被害は無いようだった。しばらくはトモからのDMが不安定だったけど、やがてトモも落ち着きを取り戻していった。
一方、十六歳になった僕はセカンダリースクール卒業を控え、工場や事務所のオフィスから資源ごみを回収するだけの糞みたいな仕事に就くことが決まった。別に、仕事はなんでも良かった。夢を持つことはとっくの昔に諦めていたし、僕らのような貧困層の人間が正社員の職にありつけるのは、むしろ幸運だった。イギリスではみんな仕事が無いんだ。
卒業資格を得る試験にパスし、仕事の始まる日を待つばかりになった七月も終わりに近付いた頃、フラットをシェアしよう、とトモが唐突に言い出した。
その文面を読んだ瞬間、僕はとうとう気が狂ったのかと、自分自身を疑った。
ドロドロと暗く濁った憂鬱の沼に沈み続けていて鬱陶しいママと離れて、生まれた時から収監されていた、この古くて汚いフラットを出て自由になれる――?
そんな途方もない希望が、スーパーノヴァのように前触れもなく現れて、僕は眩し過ぎる光に目が眩んだ。本当に視界がチカチカ瞬いて、頭もクラクラして来て、まともに椅子に腰掛けていられなかった。ズルズルと床に崩れ落ちる。
平衡感覚が失調したようになった。
少し自分を落ち着かせる為に、ふらつく足でフロントドアへ向かい、一時間ほど外を歩き回った。夜気はひんやりとしていて上着が無いと肌寒かったけど、大きな満月が出ていた。お陰で辺りは明るく、気分も妙にクリアだった。
無意識に歩き慣れた道を選ぶ。お気に入りのリバー・リーの遊歩道へ下りて、ひとり静かに立ち尽くし、雑草の繁った緑の中洲をゆっくりと眺めた。
大きな柳の枝が風に吹かれて柔らかく揺れる。
ふわり、ふわり、とまるで呼吸するように波打つ。
僕の命に、喜びに、呼応しているみたいだった。
ああ、僕は解放される――解放されるんだ。
「やったぞ。ブラボー。トモ、愛してる!」
僕は雄叫びを上げた。通りかかったカップルが怪訝な顔で僕を見ていたけど、構うもんか。こんなハッピーな気分は生まれて初めてだ。
「Good heavens!」
Hurray! I'm in heaven! I'm in heaven! I'm in heaven!!
僕はたがの外れた犬のように、息が切れて倒れ込むまで遊歩道の草地を駆け回り、寝そべった姿勢で満月を眺め、何度も何度も溜息をついた。
そんなふうに、ひとりで醜態を晒し、やっと落ち着いてからフラットに戻り、もう一度ツイッターを確認したら、新しいDMが届いていた。
「都合はどう? フラットをシェアできなくても、僕はイギリスに行くよ」
トモはハッキリとそう宣言していた。
「本気?」
一時間も前のメッセージだったから期待していなかったけど、返信はすぐに来た。
「もちろん。ちょっと日本が嫌になってね。震災の疲れもあるし、海外に行って気分転換しようと思ってるんだ。君がママの家を出て誰かとフラットをシェアしなきゃならないなら、その相手が僕でもいいんじゃないかな、と思うんだけど、どう?」
僕は即答した。
「どうもこうもない。最高だよ。トモが一緒なら毎日が天国さ」
「そう言って貰えて良かった。じゃあ、手続きとか色々詰めていきたいんだけど」
トモはワーキングホリデー制度を利用すると言っていた。貯金があるのかどうかは分からなかったけど、たぶん、トモは金持ちなんだと思う。日本人だから。
僕は、嬉しくて、嬉しくて、浮かれていて、何も深く考えなかった。トモは地震で不安定になっていたし、それ以上にある事にのめり込んでいた。
僕はまだ色々な事を知らなかった。
世界は希望に満ちていると思い込んでいたんだ。
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