【Ⅰ】7
九月の終わり頃――
ついに、トモがイギリスにやって来た。本当は空港まで迎えに行きたかったけど、トモが気を遣ってくれて、建設中のオリンピック・パークの近くで待ち合わせをした。ストラトフォードの駅を出てすぐの場所だ。狭い広場にはねじれた時計があって、待ち合わせをする人が大勢いる。ロンドン名物の赤いデッカーバスの停留所もすぐ近くにある。そういえば、地下鉄にもバスにもあまり乗ったことがないと気付いた。友達がいなかったし、ママも遊びに連れて行ってくれることは少なかったから。
でもこれからは違う。トモがいる。十三歳の頃から三年も僕を支えてくれて、ダリルをハメる時も助けてくれた、誰よりも親身になってくれた恩人だ。トモは、ママと違ってすごく優しい。誰かと仲良く暮らすことを想像すると心が弾む。ストラトフォードセンターで服や雑貨も買えるから、まずはそれをトモに教えてやらなきゃ、と思った。TESCOの場所も教えて、フィッシェリーズにも案内したいし、トモと一緒ならパブにも行ける。二人でなら、きっと、どこへでも行けるだろう。
トモを待つ間そんなことを考えていたので、すごくドキドキした。
やがて、列車が到着したようで駅から沢山の人が出てきた。ビジネスマンや学生、どこかへ出かけた帰りの母子など。その流れる人混みの中から、薄手の黒いジャケットを着て銀色のトランクを引きずった人物が近付いてきた。待ち合わせの目印に僕が手にしていたWinnie-the-Poohのペーパーバックを見て、彼は自信なさげに片手を軽く上げる。
「ハイ、アミン?」
「トモ……?」
初めて顔を合わせたトモは、想像していたよりずっと小柄で、写真以上に童顔で、なんとなく頼りなく、僕と同じハイティーンのオタク少年にしか見えなかった。トモは今年二十三歳になったんじゃなかったか……
「本当に、君がトモなのか?」
黒い樹脂フレームの眼鏡を中指で押し上げて、トモは「どうも」と言った。日本語の意味が分からなくて、僕はもう一度「君はトモか(Are you Tomo)?」と訊いた。
「アア、イエス、イエス。アイアムトモ。ごめん、スピークは得意じゃないんだ(I'm not good at speaking English.)」
日本人は英語の読み書きは得意でも、聞き取り(ヒアリング)と話すの(スピーク)は苦手だって、トモから事前に聞いて知っていた。けど、本当に下手な英語だった。
僕がそう言って笑うと、トモは胸に沁みるような笑顔を浮かべた。
「よろしく、アミン」
こんな透き通った笑顔は初めて見た。ママやダリルのように暗く濁っていない。邪気の無い笑顔というのはこういうものだったのだ。
空は珍しく真っ青に澄み渡っていて、天国まで真っ直ぐに飛んで行けそうだった。
「トモ、イギリスへようこそ」
思い切りハグしたら、トモはぎこちなくハグを返してくれた。
フラットは日系不動産会社のエージェントが探してくれた。いくつか候補を出されたけど、僕の給料ではとても手が出なかった。結局、ママのフラットから歩いて五分ほどの距離にある古い3LDKのフラットを、先住の日本人留学生二人と、僕と、トモとで借りることになった。日系エージェントは渋い顔で、イーストエンドはお勧めしません、と言ったが、トモは曖昧に笑って、大丈夫です、と答えた。寝室は三つしかなかったけど、僕はトモと二人でひとつの寝室を使うことに異議は無かった。狭いけど、その代わり家賃の負担が軽くなる。月二百五十ポンドなら僕でも払えそうだ。
ロンドンの家賃は世界一高いらしい。日本の相場の倍以上だとトモが苦笑しながら教えてくれた。ちなみに、物価も日本より遥かに高いと言われた。日本は金持ちの国というイメージだったので、日本よりロンドンのほうが生活費が高くつくと聞いて驚いた。ロンドンは世界一暮らしにくい街なのだそうだ。そう言われると、色々、納得がいく。
確かに、ロンドンは重苦しい。イギリスは階級社会だとよく言われる。上流階級に生まれた者が富と教育と文化を独占し、底辺の貧困層に生まれた者は浮かび上がるチャンスにも恵まれず腐って行く。日銭を稼ぐ日々に追われ、ろくな教育も受けられず、一生貧困に喘いで暮らす。あるいは生活手当を受給して社会に寄生する無価値のクズとして死ぬまで生きる。対流は無い。階級は固定されていて、絶対的なカテゴリーになっている。僕は無料の公営住宅をあてがわれ生活手当を受給して暮らすシングルマザーの子供で、しかもろくな学位もないアラブ系移民の三世だ。貧困者の中でも最下層にいる。僕より下は不法滞在者かドラッグでイカれたジャンキーくらいだろう。
それでも、ロンドンが好きな外国人が大勢やって来るし、トモだって来た。ロンドンにも良い所はある。あるはずだ。
ところで、僕とトモ以外の二人のうち一人は、なんと女の子だった。エミ、日本語でスマイルという意味らしい。彼女はシャイで、キッチンやバスルームの前で顔を合わせると真っ赤になってお辞儀をした。変わっている。英語が苦手みたいで僕とは喋ってくれない。
もう一人はアジア人にしてはやけに背の高いガチムチ野郎だ。マコト、意味は日本語で真実だって。マコトはエミよりもっと風変わりだった。アジア版ジェイソン・ステイサムみたいなマッチョで、強面で、つるつるのスキンヘッド。分厚い胸板を自慢する為か、いつも、サムエとかいう胸元が開く民族衣装を着ていた。しかも、一日中「ナムナム」とおかしな呪文を唱えている。ニンジャなのかも知れない。
僕は日本人と住むフラットが気に入った。壁は淡いミントブルーのペンキで清潔に塗られていたし、窓には、ちゃんと真っ白なレースのカーテンと花柄の日除けカーテンが掛かっていた。
バスルームとリビングとキッチンは共有で、冷蔵庫も共有。家具は備え付けで、ダイニングテーブルもソファもテレビもあったし、寝室にはひとつずつベッドがあった。そうは言っても、トモと同じベッドで寝るのは無理だ。僕とトモは半額ずつ出し合って、IKEAで安いロフトベッドを買った。僕達はしばらく考えた末、元々あったベッドの上に向きを九十度ずらして重ねながら組み立てるというトリッキーな真似をした。一時はどうなる事かと思ったけど、成功してよかった。それで部屋は埋まってしまい、他の物はほとんど置けなくなったけど、僕達は満足していた。トモにスタンダードのベッドを譲り、僕は天井に手が届きそうなロフトベッドのほうを選んだ。シェア仲間はみんな荷物が少なくてスッキリしていた。
時々、日本人三人が作った料理を並べてホームパーティーもした。食器は各自TIGERで買ったんだ。エミの料理は塩が薄すぎて不味いけど、マコトの料理は美味しかった。トモの料理はノーコメント。
日本人は穏やかで優しい。誰も声を荒げなかったし、もちろん、誰も、一度も僕を殴らなかった。
テレビにはオリンピック関連のニュースに混じって、アラブの春やシリア騒乱のキナ臭いニュースが流れるようになっていたけど、僕個人に限って言えば、しばらくは平穏な日々が続いた。特に何も無い毎日というのは最高だ。幸せだ。
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